カテゴリ:イザイホー( 16 )

久高島で蛇神を祀る〈1〉

神の島の君泊(ちみんとぅまい)にあるアカララキ。
アカララキ神の名を、なぜアラハバキ神の転訛だと考えるか
については、また改めて……。

さて、アカララキの神は、イザイホーにおいてはナンチュ(神女)
が籠る七つ屋の横に“出張”した。
「門番として」との説明は、外間ノロのウメーギ(補佐役)西銘シズさん
の話を比嘉康雄氏が記録したものだが、小川克己・川上幸子氏の著
『神の島 久高島』(1993年、汐文社)にも、以下の記述がある。


久高島のヤルイ(小屋)の西側にある小さなヤルイは「アカラムイ」
(アカララキの森)。力は強いが、気性の激しい神様なので、
この神を受けるナンチュはいません。そのためか、
ナナツヤーの中でも特別な扱いです。


アカララキ=門番。
語り部に聞いていみると、違う伝承があった。
「門の番」は「じょうのばん」と読むそうで、
魂の新生・転生・再生を司る創生神という意味だという。
そうならばと、思い当る話があった。

久高島に住むあるおじいは言った。
子どもの頃、おばあさんに連れられアカララキでお祈りをしたと。
おじい(祖父)が死にそうになった時のこと、
浜で広げた両手をおばあと繋ぎ、アカララキに向って立ち、
「おじいを助けて」「マブイ(魂)を抜かないで」と拝んだ。
すると、おじいは奇跡的に元気になったと。
逆に、アカララキに拝んでも治らない場合は諦めるしかないという。
「生命はアカララキが握っている」のだと。

イザイホーはアカララキの神なくしては成り立たなかった。
イザイホーとは神女たちが祖先霊を受け継ぐ「魂のリレー」。
祖霊を降ろし、身の内に再生して初めて「神女就任」となる。

「神女就任」の祝いが「朱リィキー」という儀式。
根神(にーがん,男性神役)から、頬に朱の刻印が押される。
そして、厳かに喜びの円舞が始まる。

朱リィキーの円舞(比嘉康雄氏著の前掲書より)。
こうした写真や、ビデオ映像で見る限り、
真円というより渦のような円になって舞っているのが分かる。 
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円舞は蛇がトグロを巻く様子の再現であると指摘したのは、
最後のイザイホーを取材した民俗学者の吉野裕子氏だ。以下引用。

祭りの中にいく度も二重の輪が形成されるのは
トグロを巻く蛇のゆるやかな動きの擬きであろう。
(『蒲葵と蛇と北斗七星と』1979年2月、沖縄タイムス、新聞連載)

日本の古代信仰について著書『蛇』(1970年、学生社)を残した
吉野氏ならではのイザイホー考察。その祭祀場である
久高殿にバイカンヤー(イラブーの薫製小屋)が在る意味は大きい。

イザイホーの祭場だった久高殿・御殿庭(うどぅんみゃー)。
左から、イラブーの薫製場であるバイカンヤー、神アシャギ、シラタル宮。
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神女たちはバイカンヤーの前で、いわば蛇神に見守られて円舞した。
吉野氏はこうも述べた(同紙)。「イザイホーは島の成女が、
人間の身でありながら蛇に昇格する儀式として見ることも可能である」

現在も、獲られたイラブーは、
バイカンヤーの裏にある長型の箱で薫製される時を待つ。
イラブーは1ヶ月以上も生きるという。王府時代、国王に献上された。
中を覗かせてもらったことがある。何百匹もの蛇が隙間なく絡み合い、
しかし休まずにうごめく様に、まさに不死の生命力を見る思い。

古くは、バイカンヤーにはシラタルの火の神が祀られていた。
戦後、「神様を薫製小屋で祀るわけにはいかない」とシラタル宮を建て、
移したが、そのことは逆に古代より蛇神と太陽神が同一視されていた証し。
久高島の始祖・シラタルは、その神霊を継ぐために島に渡ったのだ。


日没前、ミナーラ川を覗く。イラブーガマの近く。
ここにもイラブーは産卵のため現われる。
イラブー漁は旧暦6月末から10月頃、深夜から朝にかけて行われる。
昔は、冬の間も漁が続いたという。
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by utoutou | 2013-09-02 08:06 | イザイホー | Trackback | Comments(0)

ミントンの娘とイザイホー〈5〉

久高島の始祖と伝わるミントンの娘・ファガナシーと、従兄弟のシラタル。
若夫婦が始めた神祭りは、第二尚氏王朝3代の尚真王時代に、
王権儀礼イザイホーとして整えられ、1978年まで続いた。

久高島通いのなか、私は次第に、ふたりは勘当されたのではなく、
司祭という使命を背負って島に渡ったのだと考えるようになった。
あるいは再興したという説話のために伝説は作られたか。

いずれにしても、ふたりはアマミキヨの末裔。
つまり、イザイホーの祭式には祖先アマミキヨの習俗が投影されている。
アマミキヨには「今来のアマミキヨ」と「古渡りのアマミキヨ」がいる。
イザイホーの謎を紐解けば「古渡りのアマミキヨ」像に近づくことができる。

手がかりのひとつが、アカララキ。
この浜からは「久高第二貝塚」が発見されたことで、
5000年前の縄文時代前期(沖縄では貝塚時代)に人が住んでいたことが知れる。
アカララキは、そんな縄文の人々によって祀られてきた神様だったと思う。
祀られているのは、縄文の女神・アラハバキか。

語り部は言う。
「そうですね。アカララキはアラハバキと考えられます。
神女のおばあたちは、この御嶽を“アラの御嶽”と呼びまました。
伊是名島にも同名の御嶽がありますが、やはり“アラの御嶽”と呼ばれていた。
中部の北谷には“アラハビーチ”がある。
古代の女神・アラハバキの痕跡は沖縄にも残っているのです」

王朝時代、国王一行が久高島への第一歩を印した浜にアカララキはある。
「アカラ」の意味は他に、明るい、暁、夜が明ける、始まり、世が明ける。
「ラキ」は御嶽、この森全体は「アカラムイ」(ムイ=森)とも呼ばれる。


御嶽の内部、直径10mほどの広場にアカララキの神はひっそりと祀られている。
御神体の石は卵型に磨かれ、手を合わせると慈愛に満ちた力強さが感じられた。
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王府は、アカララキを神の島の「門番の神」として位置づけた。
イザイホー(1978年)の際には、神女たちが籠る七ツ屋の横に「出張」して、
下のように設えられた。
写真は神戸女子大学古典芸能研究センター「沖縄史データベース」からの借用。
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比嘉康雄氏は『神々の古層 主婦が神になる刻』で、次のように記している。

なお、久高側の棟横にある小棟は、アカララキの象徴であるという。
アカララキはウプティシジ(※祖先の霊力)の居所の御嶽のひとつであり、
昔の港であったユラウマヌ浜入口にあった。
そこのウプティシジは気象が激しく、たとえば仁王様のようなもので、
島の入口の門番的神であるという。(中略)それでこのアカララキだけは
ナンチュ(注・神女のこと)が入らないので小さくしてあるが、アカララキの
ウプティシジが七ツ屋の門番として入っていると考えられているのである。
この小棟を「ヒジムナー」小屋といっている人がいるがそれは間違いである。

1978年に行われたイザイホー、久高殿における祭場図。
「七ツ屋」「アカララキ」の赤丸は筆者による。
下の写真・中央の蒲葵で葺かれた祭屋が「七ツ屋」。
左奥にアカララキがうっすらと写っている。比嘉康雄氏著の同書より。
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昨日までの沖縄旅で再会した語り部は「門番」の由来についてこう語った。
「門番とは“門の番”(じょうのばん)。決して港の門番ではない。
沖縄では、たとえば門中墓に誰かを埋葬する場合、入口近くの左に安置しますが、
その新仏様を、昔は他界との境界を守る“門の番”と呼んだ。
“門の番”とは、生命を握る神のこと。新生・再生・転生を司る大元の女神。
でも、その意味を知る人はいなくなりました」

アカララキは魂を再生させる女神。新生・転生を司る女神。
その失われた女神を再び立たせることが、
ファガナシーのミッションだったかもしれない。すると、夫のシラタルは……。
イザイホー祭場でアカララキと向き合うイラブーの薫製小屋に祀られる男神。
つまり、蛇神を再び立たせるミッションを担っていたのか。
by utoutou | 2013-08-31 01:48 | イザイホー | Trackback | Comments(0)

ミントンの娘とイザイホー〈4〉

久高島には「百名おとーしばん」の石碑があるが、
「ばん」とは何?
うちなーんちゅ(沖縄の人)から言葉は聞いていたが、意味不明。
神事について話を聞くときに、頻発するのが「ばん」なのだが。

那覇市に住む女性は「うちのおばあはノロだったけど
“世界ばん”を持たされて大変だった」と言った。
「ばん、て何?」と聞いても、彼女にも「分からない」。
ミントンの先代ご当主は「うちは寅のばん」と言っていたという。

ところが今回ようやく、「ばん」とは「方角」だと分かった。
「百名おとーしばん」とは「百名」を「遥拝」する「方角」。

それを確かめるために、百名・久高島の御嶽をよく知る、
語り部の宮里聡さんに那覇市内で会った。

「“ばん”とは何ですか?」
「盤ですよ」
「方角?」
「昔の人は、カラダで覚えた天体感覚で、すべてを見ていたのでは」
「干支、十二支とか?」
「はい、方位とは、生活の羅針盤だったと思います」
「だから“盤”」
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十二支は、年・月・時間であり方角。
すると、先の「世界ばん」は「世界全方位の平和を祈る役割」、
「寅のばん」は「寅の刻(午前4時=暁のとき)」となる。
十二支の象意で紐解けば、神事の意味がスラスラ分かる。

語り部は何でも知っている。
15歳で(現在40歳代後半)神託によって玉城と久高島に辿り着き、
戦前から御嶽守りをする神女おばあたちの伝承を受け継いだ。

この日、私は久高島にある「スベーラの御嶽」の由来を訊ねた。
別名・スベーラキ。
「百名のおとーしばんと、スベーラの御嶽との関係は?」

すると、語り部は思いもよらないことを言った。
「戦前はスベーラに百名におとーし(遥拝)する香炉があったそうです」
あっと、思う。そこには島人のお供で参ったことがあった。

威部(イビ=至聖所)の香炉は、確かに百名の方角を背にしていた。
「スベーラ→百名(ミントングスク)は、一直線上にある?」
「はい。でもおばあたちもスベーラの由来は知らなかった。途絶えてましたね」
「もしや、超古代からあった御嶽」
「そうです」
「スベーラキを守るために、ファガナシーとシラタルは島に渡ったと?」
「それもあります」
「では、他にも守るべき御嶽が? アカララキですか?」
私は身を乗り出して聞いた。
「そうです」

アカララキ。2ヶ月前に訪れた久高島で、ようやく辿り着いた御嶽。
現在の漁港である別名・ユウウラヌ浜、そして、
王府時代には「君之泊」(ちみんとぅまい)と呼ばれた港の正面(左)にある。
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久高島の古い島地図には、必ず印されているアカララキ。
私は東京から用意してきた質問を口にした。恐る恐る。
「アカララキとは、アラハバキのことですか?」
「そうですよ」
語り部は涼しい顔で言った。

アカララキの小祠。ご神体は石。
イザイホーでは神女たちが籠る七つ屋の横に「出張」して建てられた。
「門番として」と記録にはあるが、その意味はなんと……。
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by utoutou | 2013-08-29 07:50 | イザイホー | Trackback | Comments(0)

ミントンの娘とイザイホー〈3〉

「百名おとーしばん」(百名遥拝所)は、久高島南端・ミナーラ川の上。
川というより水脈だが。私も、ここで百名を遥拝してみた。
つまり、百名を通して神に祈りを通すのだ。

が、暑さで倒れ込みそうになり3分ともたない。そして思う。
若い夫婦はいったいなぜ、親元を離れ無人の島へと渡ったか。
サバイバルの保証もない古琉球の時代に。

百名の伝承では「従兄弟同士の結婚だったため勘当された」とか
「村の喧嘩に巻き込まれシラタルが村八分になった」というが、
それならばなぜ、何百年間も、久高島神人による「百名祭礼」
(里帰りしてのミントングスク参拝)は絶えることなく続いたのか。

ちなみに「百名祭礼」とは、久高島の元家の神人神女が、
年に数回、玉城に渡った神事。いわゆる里帰りで「玉城参り」とも。

久高島神人(かみんちゅ)たちはミントングスクで、
イザイホーの催行日時に関する神託も受けていた。
いわゆる「時取り」。その帰りに、ミントンからは、
イザイホー最後の演目「アリクヤーの綱引き」に使う稲藁が託された。

稲藁はミントンが管理する三穂田(みーふーだ)(琉球の稲が発祥した神田)
で穫れた稲から出来たものを使った。
『沖縄県久高島資料』「ミントングスクの根人知念幸徳さん聞書抄」
(1979年、古典と民俗学の会)より。

ふわりと風が吹いた。
後ろを振り向くと10mほど先の正面に「スベーラキ」が見える。

島では「スベーラの御嶽」と呼ぶが、その由来伝承は途絶えている。
道を右に下るとイラブーガマ。イラブー漁は500年も続いて今に至る。
自転車は徳仁港で私が借りたもの(2時間600円)。
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ふたりは、途絶えた古代の祭りを再興するために久高島に渡ったのか。
そう思った。語り部に聞いてみなくては。
玉城・久高島の伝承を知る宮里聡さん。神人(かみんちゅ)である。


今回訪れた御嶽を地図に書き入れてみた。
左下の地域のミナーラ川、イラブーガマ、スベーラキ。
(黒字は筆者)同じく黒字のアカララキ、ユーウラヌ浜についてはまた。
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ミナーラ川とスベーラキ周辺を出て漁港方面を見る。
右手がグラウンドとキャンプ場。キャンプする人を発見。
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by utoutou | 2013-08-28 09:39 | イザイホー | Trackback | Comments(0)

ミントンの娘とイザイホー〈2〉

沖縄に来ている。昨日8月26日(火)は久高島へ。
ファガナシーとシラタルの足跡を辿ってみた。

今夏、東京の酷暑に慣れていたはずだったが光線が違う。
暑い、そして眩しい。自転車で1周した午後3時〜5時。
さすがに日陰のない道を往く島人はいない。すれ違った旅人は4名。

まず歩いたのは徳仁港の西、灯台下の辺り。親元ミントンを離れ、
玉城の水堅浜(みでぃきんぬはま)から小舟で出発した若夫婦は、
島に着いた後、このあたりで住まいを点々としたことが
「7つヤードゥイ」(屋取り=移住した場所)として、祭りで再現されている。
ちなみに「7」の聖数を多用するのが、ファガナシーとシラタル伝説の特徴。

徳仁港の近く、イラブーガマ(海蛇が産卵にやって来る洞泉)から、
ふたりの故郷・玉城を遠望する。その距離10数㎞。今度正確に計ってみよう。

堤防のはるか先、左右に広がる本島の左端が喜屋武岬。
その右方向、稜線が高くなった辺りが玉城。ミントングスクはその下に位置する。
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イラブーガマの隣り、ミナーラ川から見る本島。首里・浦添の方向が見える。
ミナーラ川でもイラブーが獲れる。階段が、左のガマ(洞穴)まで続く。
下まで降りて岩間の海を覗いた。透明度はとても高いが、海底は見えない。
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ミナーラ川の近くで、ささやかな発見。
これまで、まったく気がつかなかった。
道の傍らをふと見ると「百名のおとーしばん」と刻印された石碑がある。

高さ30㎝、幅20㎝ほど。「おとーし」とは遥拝の意味だが、
では「ばん」とは「板」か「盤」のことか。
「百名」は、ミントングスクのある玉城仲村渠(なかんだかり)の旧名。
故郷の百名、実家のミントン、琉球すべての地に、
弥勒世(みるくゆー、五穀が豊穣する豊かな世)が訪れるよう、
ファガナシーは故郷に祈ったのだろうか。

「神の島の島立ての祖神」と呼ばれるファガナシーは、アマミキヨの末裔。
そして、おそらく稀代の霊能力を生まれ持ったシャーマン。

ファガナシーの故郷・百名を遥拝する百名おとーしばん、下に徳仁港が見える。
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ファガナシーとシラタルの故郷・百名。
そこにはアマミキヨが長い旅の終着地としたヤハラヅカサがあり、
アマミキヨの居住地跡であったミントングスクがある。
玉城と久高島は一対になっていることが、ここでは感じられる。

次に集落の北にある久高島資料館に行き、改めて「島立ての祖」、
そして「イザイホーの祖」でもあるファガナシーとシラタルの
物語を確かめる。次のような解説パネルが掲げられている。

【イザイホーの意義】
久高島では島に永住した最初の祖先はシラタルとファガナシーだった
と伝えられている。この二人が結ばれて1男3女が生まれ、
長男マニウシは外間根人、長女ウトゥダルは外間ノロ、
3女タルガナーは久高ノロの祖だと言われている。
ノロをはじめ島で生まれた30歳以上70歳までの女性は
ミコ〈巫女〉としてナンチュ(30歳〜41歳)、
ヤジク(42歳〜53歳)、ウンサク(54歳〜60歳)、
タムト(61歳〜70歳)の4段階に組織されるが、一般の女性から
ミコとして神女にタマガエー(魂替え)する儀礼がイザイホウである。
ミコのことをタマガエーとも呼んでおり
神を畏れ敬う念は今もシマンチュ(島人)の生活に根づいている。
イザイホウは、
午年の旧11月15日から18日までの4日間を中心に行われるが、
実際は旧10月の壬(みずのえ)のお願立てから旧11月20日の
ウプグイの行事に至るまで実に1ヶ月余の長期にわたる行事である。
それには、島で生まれた30歳から70歳までの女性が関わるが特に、
初めて参加するナンチュは旧11月15日までにお願立てに
ウタキマーイ(お嶽参り)を7回繰り返しカミナ(神名)を受け、
イザイホウによってタマガエーしナンチュとして神女になるのである。

イザイホーの祭祀場だった久高殿。
1978年、最後のイザイホーには約千人のマスコミと見学客が訪れたという。
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by utoutou | 2013-08-27 08:23 | イザイホー | Trackback | Comments(0)

ミントンの娘とイザイホー〈1〉

それは、ガラスのショーケースに厳重に保管されていた。
久高島宿泊交流館にある久高島資料館。
古代の祭りイザイホーで使用された神女のレガリア(象徴物)。
水彩のレプリカではあったが……。

誕生した神女たちが胸に抱き、捧げ持って祈った聖なる大扇。
島に通い始めて半年ほどの秋、それをショーケースで見た。

そして、大扇に描かれた絵柄の意味をあれこれ考える。
表に太陽と鳳凰、裏に月と牡丹。
琉球の国家安寧や五穀豊穣や子孫繁栄を祈る神女となる就任式がイザイホー。
扇には、このような富貴の表現がふさわしい。
12年ごとの午年の子月に催行された祭りだという。では干支の象意とは?

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「グゥキマーイ」を大扇で舞う神女たち。(比嘉康雄氏著
『神々の古層 主婦が神になる刻 イザイホー[久高島]』より)

ファガナシーはミントングスクの主・ミントン按司の一人娘だった。
夫は従兄弟のシラタル。いまから600〜700年前、英祖王統時代の話。

玉城の水堅浜(みでぃきんぬはま)から久高島に渡ったふたりは、
東海岸の伊敷浜に海の幸を求めるも叶わなず、それならばと、
西海岸のヤグルガーで禊ぎをすると、五穀の種が入った壷を手にすることができた。
その種をハタスという畑に埋めると、五穀は豊穣。
久高島はやがて五穀発祥の聖地として、崇められるようになった。

そして、美しく育った孫娘は紆余曲折を経て玉城王の正室となり、
西威王を産んだ。英祖王統五代目にして最後の王である。
西威王が久高島から父を探して王城に登るくだりは
『黄金の瓜実(うりざね)』という伝説として残っている。

いっぽう、ファガナシーの物語は王府時代の『久高島由来記』として残り、
イザイホーなどの祭りでは『ファガナシーのティルル(神歌)』が謡われる。
ファガナシーは神の島・久高島の島建ての祖神。
それにしてもなぜ、ファガナシーはミントンの娘だったのか……。

聞得大君が東拝み(あがりうまーい)でミントングスクへ登る「ノロの籠道」。
シラタルとファガナシーも、ここを水堅浜(みでぃきんぬはま)へと下った。
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ファガナシーが船出した水堅浜は、ヤハラヅカサの横にある。
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そしてふたりはこの久高島の南端、徳仁港あたりに着いた。
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by utoutou | 2013-08-26 13:33 | イザイホー | Trackback | Comments(0)