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英祖王はミントンに来たアマミキヨ

どれだけ古い墓なんだろう。古木が立岩に絡み付き、一体化している。
高さ3m以上。どこか妖艶。血が通っているかのような生々しさが迫る。
一種の崖葬墓。昨秋、初めて参ったときは背筋がゾクッとした。

南城市の琉球ゴルフ倶楽部内にあるこれは、英祖王統三代・英慈王の墓。
歴史書にも教科書にも載らない、地元でもほとんど忘れられた王墓である。
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忘れるなと言っているような。命は繫がっていると。そんな気配があった。
やはり、この墓の存在は重要。
「てだこ」(太陽の子)こと中山王・英祖が、実は本島南部玉城の出身で、
恵祖世主とは養子縁組みしたのでは? との口伝を支える、いわば傍証。

英慈王(1309〜13年)は在位5年。初代・英祖王と同じく本島の西海岸を
見下ろす浦添城を居城としたが、永遠の眠りについたのは、この東方だった。

さて、こちらの王陵に眠るのは、英慈王が最初ではないと、語り部は言う。
玉城にある古い墓の特徴は、イリク(新旧の混合墓)。だから元々の主がいた。
その祖先とは明東(ミントン)天孫氏。

逆を辿れば、天孫氏(=アマミキヨ)の墓に入った英慈王もアマミキヨ。
当然その祖父・英祖王はミントングスクに定住したアマミキヨの末裔。
今来のミントン・アマミキヨである(といっても700年以上前だが)。

↓明治初期に流通した「長浜系図」(琉球三山王各世流系旧案録)を見てみる。
祖神・阿摩弥姑(アマミキヨ)と志仁礼久(シネリキヨ)の二世四世が天帝子、
その次代に、明東(ミントン)天孫氏(=玉城天孫氏)の名がある。

左ページ赤線(筆者による)部分には、具体的な伝承が記されていた。
明東(ミントン)天孫氏の在所は玉城・上江州口(いーじゅぐち)の南にある
竹山の中の石厨子の入った墓であると。つまり、英慈王の墓(↑)だ。

そして墓を守っているのは、玉城の上之畠(いーのあたい)であるとも。
屋号・上の畠は「上の当(いーのあたい)」と同音同義。
語り部が出会った神女のウメおばあ(こちらを参照)の家である。
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英祖王が築いたという浦添ようどれ(=王墓、ようどれとは夕凪の意味)の西室。
二代目・大成王の墓は玉城城に。五代目までの墓がすべて玉城にあるのが不思議。 
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ゴルフ場内の英慈王墓への道。 上江州口(いーじゅぐち)は戦前まで竹林で、
ウメおばあたちはこの墓を「竹山(だきやま)のアジシー(古墓)」と呼んでいた。
一般には「天孫氏ウッカー」。この名前でなら、ツアーガイド本で見たことがある。
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by utoutou | 2015-08-26 14:18 | 天孫氏 | Trackback | Comments(0)

天武の墓〈6〉ミントン古伝の英祖王

『如件』の著者で、いまは亡き窪田道全さんが、
語り部の前に現れたことがあった。
地元の男たちが、浜川御嶽からヤハラヅカサの海に
降りるための石段を整備したときの話…

御嶽で祈願しようとする語り部の前に
姿を見せた道全さんらしき老人が、
工事人の住所氏名を宣ったという。
工事人とは石積みの名匠・窪田繁雄さん。
道全さんの息子である。  
繁雄さんはいまも不思議そうに振り返るが、
父の願いはアマミキヨの御嶽を後世に伝えることだった。

『如件』で、阿摩美姑(古伝では「天御子、皇室の御子」)の
系譜を著すくだりに、その思い入れが伺える。以下要約。

・阿摩美姑に2男3女が生まれた。
・長男は国王、首里天孫子となった。
・2男は玉城城を構え按司となり玉城天孫子となった。
・3男は農業の指導者になった。
・長女は聞得大君として天地神祇を祀り、次女はヌルになった。
・阿摩美姑は女の神様で、夫はソネ彦といった。
・天孫氏25代の王は、逆臣・利勇に滅ぼされた。
・舜天王統3代のとき飢饉がうり義本王が行方不明に、
 玉城天孫子30代の湧川按司が王位を継ぎ、英祖王となった。
(※英祖王の在位は、1260年 - 1299年)
・英祖王と大成王は天次(※玉城城)に空葬された。


玉城城の一の郭にある「大成王の墓」。
英祖王も空葬されていたとは『如件』にのみ伝わる秘史だ。
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これまでも書いてきたが、『中山世鑑』や『中山世普』では、
英祖の出自を、母親が太陽を飲み込む夢を見て孕んだ
「てだこ(太陽の子)」と、なぜ曖昧化したのか。

それは、天孫氏王朝の初代王こと天武大主が、
窪田道全氏が記したように「大和から渡来した天御子」
だったからと考えれば合点がいく。

『中山世鑑』を現した羽地朝秀は
日琉同祖論者だったというが、
琉球王朝は天孫氏王朝の歴史
を空白にすることで削除した。

ただ『如件』だけは、
天孫氏王朝の終焉について示唆していた。

〜最後の別れ(※天孫氏25代の王)は
大里村西原城に祀られ、西原按司の子孫が崇めている〜

南城市大里西原の拝所「ウフユー」。
「天孫氏二十五代」の位牌は秘かに祀られてきた。


久高島の「地割(じーわい)」制度を始めたのは英祖王と言われる。
大化の改新で制度化した日本の「租庸調」を取り入れたというが、
その伝統は現代にも継がれ、いまも畑地はすべて島人の共有制。
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東海岸から地割の方向を見る。防風林の向こうに地割の畑地が並ぶ。
9月末撮影。大きな台風一過。樹々の葉はすっかり落ちていた。
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by utoutou | 2014-11-18 09:26 | 天孫氏 | Trackback | Comments(0)

天武の墓〈5〉ミントン古伝の葺不合(フキアエズ)

天武大主の墓になぜ「稲作の祖」と彫られているのか
について考えようとしていたが、
その前に…ミントン古伝が記す
「日本から来たアマミコが教えた葺不合(フキアエズ)」
などの風習や言葉について、メモしておこう。


「大和から来たアマミコが教えたこと」その1. 
妊婦がいるときは葺不合(フキアエズ)の印を見せる。

この風習の源を記紀神話に求めるのは、
私だけではないだろうと思う。
豊玉姫は山幸彦との間にできた子を
鵜(う)の羽で葺いた産屋で産もうとしたが、産屋が
完成しないうちに産気づき生まれてしまったので、
鵜葺草不合命(ウガヤフキアエズノミコト)と命名した。
「フキアエズの印」とは、途中まで葺いた屋根のことである。

「アマミコが教えたこと」その2.
子どもが生まれたら「川降り(かーうり)」をする。

『如件』には上記以上の詳細は記されていないが、
「川降り」とは、生まれた赤子を初浴(うぶあみ)させ
その後に、着物を被せ、小蟹を数匹這わせること。
今でもこの儀式を行う地方が、離島にはあると聞く。

大和朝廷の宮中祭祀を司る職にあった忌部氏による
『古語拾遺』(807年)に、沖縄の風習と同じく、赤子に
蟹を這わせる行事が見えると『古琉球』で指摘したのは、
伊波普猷氏(1876〜1947年)。そのうえで次のように記した。
〜琉球の風習と日本の伝説の間には何らかの関係があるに違いない〜


↓本文とは関係ないが、参考に拝借。
『野津唯市写真集 懐かしい未来』('12年、球陽出版)の
「貧しくとも豊かだった頃」に描かれた、昔の「屋根の葺替え」。
半端に葺くのが「葺不合(フキアエズ=安産祈願)の印」。
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ところで、『古語拾遺』('85年、岩波文庫版)には、
(ここでは葺不合命は、ヒコナギサノミコトという)
赤ん坊に這う蟹を箒で掃(はら)う「蟹守(かにもり)」として、
「掃守蓮(かにもりのむらじ)遠祖天忍人命」の名が見える。

では、生後まもない葺不合命には、なぜ蟹が群がったのか。
これは間違いなく、人も蟹も満月の夜に子を生む(産卵する)
という親和性の証しではないかと思うが、どうだろうか。

また蟹が脱皮する生態は
古代の人々にとって、蛇と同じように
「生と死の復活」「永遠の転生」の象徴だったに違いない。
語り部の話では、現代でも沖縄では、お墓のお供えに、
蟹や海老といった甲殻類を贈る習慣が残っているという。


興味の尽きない、日本と沖縄の風習の類似だが、
なかでも興味深いのが「玉依姫の里はどこか」という点。
臨月の玉依姫は山幸彦に「里の風習で生みたい」言ったのだ。
その風習とは、波打ち際で出産することだった。

「玉依姫と豊玉姫の里は琉球だと思う」と、語り部は言う。
だとすれば「葺不合」の風習は、
琉球に逆輸入されたことになる。


ミントングスク内にある「古代に大和へ行った人の墓」
一説には「彦火火出見命(山幸彦)の墓」とも伝わる。
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by utoutou | 2014-11-14 21:25 | 天孫氏 | Trackback | Comments(0)

天武の墓〈4〉ミントン古伝の皇子

琉球一の旧家・ミントン家の秘伝は
「阿摩美姑(アマミコ)は日本から渡来した」
と、古人大兄皇子の存在を暗示している。

『如件(くだんのごとし)』(1963年刊)。
アマミキヨの居住地とされるミントングスク(南城市玉城仲村渠)
に接するミントン家の門中だった窪田道全氏が
著した私家版の書(ガリ版刷り、20ページ)である。

窪田氏は仲村渠に生まれ、農業を営む傍ら、終生を郷土史の
研究に捧げた「物知り翁」だったというが、90歳で他界する
10年前「私の時代に古老から聞きおぼえた伝説」(序)を遺した。

冒頭の「免武登能阿摩美姑神渡来開闢」の項に関連するくだりがある。
アテ字は明治時代のもので、ミントン・アマミコ神・渡来・開闢と読む。

以下引用
〜免武登能阿摩美姑神と申しましたら、
たいていの人は沖縄開闢神なることはおわかり
だと思いますが、どんな開闢なされたか、
その系図を知る方は少ないと思いますので、
私は阿摩美姑の渡来なされた事、
又、開闢の糸口 免武登能御嶽の御案内を書きまして、
後に阿摩美姑について述べたいと思います。
阿摩美姑は、支那唐の時代に日本から渡来なされたようであります。
百名の南海岸 八原司(ヤハラジカサ)に船を着けられ、此処から
御上陸なされ、浜川の泉の清水で遠い旅の疲れを直してから、
今の免武登能に住居を求められたようであります。〜

沖縄の人は中国のことを、時代によらず「唐」と呼ぶ。
カチャーシー(三線の早弾き)の定番曲「唐船ドーイ」がいい例で、
唐船(とうしん)とは、「中国船」のことである。
そんな先入観から、つい読み流してしまっていた。

が、「唐の時代」を西暦で表せば、618〜690年。
古人大兄皇子が出家して吉野に隠遁したのは、645年。
琉球に逃れたとするなら、まさに同時代のことだった…。


ミントングスク。御嶽の石香炉は「アマミキヨ約三十代に対する拝所
で、人骨のある御墓は英祖王から後の御方である」と『如件』に。
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『如件』に伝わる「アマミコ神」伝説を、まとめてみる。

・2、3ヶ月を経て島を巡り、アマミコは多くの裸人に会った。
「あなた方には夫婦はいるか」と問うと「いない」と答え、
「子はいるか」と問うと「女は子を産むからいる、男にはいない」
と答えたので、アマミコは「種は男にある。女の袋を借りて子を作る
ので子は男のものである」と、血筋(ナーシジシジ)について教えた。

・アマミコは恥をクバの葉で隠させ、夫婦を結ばせ、貞操を守らせ、
和を教え、一定の場所に定住し、家を造ることを教えた。

・子が産まれたら物負けしないよう「川降り(カーウリ)」や
名付けの行事を、また家に孕んだ女がいるときは「葺不合」
(フキアエズ)の印を見せるなどの行事や習慣を教えた。

・日本風の火葬を教えた。「香座(かざ)する間柄」という昔の言葉
は、火葬した匂いを共有する親戚の仲という意味である。

これらの言い伝えと、沖縄特有の「天帝氏」という言葉から、窪田翁は、
「アマミコは日本から渡来した天御子(アマミコ)である」
「天御子と天帝氏は皇室の皇子に違いない」と記している。


那覇市壷屋の陶器店に陳列されている厨子(骨壷)。
風葬や土葬の場合の洗骨後に使う骨壷が並ぶ。
すべて日本風でなく琉球風のもの。
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また『如件』は受水走水での稲作についても述べている。
「ここで稲作がどうして始まったかの由来を知る人は少ない」と。
少し長くなるので、次回につづく…。

↓写真右方に古代米(地米)のカラウカハ、左方向に受水走水がある。
「これこそ天武大主の時代の稲作の始まり田んぼ」だと語り部も言う。
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by utoutou | 2014-11-12 23:20 | 天孫氏 | Trackback | Comments(0)

天武の墓〈3〉琉球の和邇氏

天武大主(古人大兄皇子)が身を寄せた先と、
私が考えるのは、和名垣花(わなかきのはな)。

現在の南城市玉城垣花である。
全国名水百選の垣花樋川(かきはなひーじゃー)の崖上。
垣花樋川は昔、「和名川」(わながー)と呼ばれた。


↓玉城仲村渠(なかんだかり)から垣花樋川への散歩道。
付き当たり左上が垣花樋川、その上が垣花集落。
右下が海。垣花は典型的な高地性集落だ。

いっぽう、この道の右、かつての
わいとい(切り通し)道を降りると「天武の墓」に出る。
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和邇氏が日本最古の渡来族であること、
和名の始祖がアマミキヨとも考えられることは
既に書いたが、沖縄でもう一ヶ所、
北中城村に和仁屋(わにや)という土地がある。

本島中部の東海岸。
現在は埋め立てられて古代を偲ぶべくもないが、
国道329号に和仁屋という名の交差点があり、
近くに荻堂貝塚がある。

荻堂貝塚は 国指定有形民俗文化財。
今から約3500年前の貝塚である。
(ちなみに玉城の和名も、3500年前の遺跡)

1919(大正8)年の発掘調査では、土器、石器、骨器、貝器や、
猪・ジュゴン・犬の骨が出土。生活の痕跡が確認された。

貝製の腕輪、魚骨製の耳飾り、石製の垂れ飾りなど
の装飾品も発堀されており、高貴な文化が伺える。
語り部によれば「和仁屋は、和名の同族が移動した」。

その「和仁」と同じ神名のつく神社が、遠く離れた
(わににますあかさかひこ、天理市)にある。
※「神奈備へようこそ」HPを拝借

神社名ともなった赤阪比古は、別名「和仁古」。
『新選姓氏抄録』に、大和国神別とある。
大国主六世孫・阿田賀田須(アタカタス)命の後裔とも。

アタカタスの名は『新撰姓氏録』に
「宗形君、大国主命六世孫、
吾田片隅(アタカタス)命之後也」ともあるので、
宗像氏と和邇氏は同族と知れる。
どちらも海人族。そう言えば、宗像(福岡県)と琉球
の間には、上古から貝の交易ルートがあった。

宗像大社にはご存知、奥津宮、中津宮、辺津宮があるが、
和名の大森(うふんり)の御嶽は奥津座(おくつくら)、
中森(なかむい)の御嶽は中津座(なかつくら)と呼ばれた。
沖縄県内では珍しく、大和言葉の御嶽名がついていた。


話はまた奈良に飛び…和爾坐赤阪比古神社から車で30分。
大神神社摂社・若宮社に参拝したことがあった。
大直禰子=大田田根子は、和邇氏と同族である三輪氏の祖。
↓文中「大物主の孫」は、和邇氏が三輪山の主だったことを示す。
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いっぽう、ホツマツタエや竹内文書は、
6代大物主として「鰐彦」の名を伝え、
それは三輪明神、櫛甕玉のことだとする。
とすれば、鰐彦こそ疑いなく和邇の始祖だろう。

海をまたぐ古代倭のネッワーク。

和爾の始祖=古代琉球王朝の流れを汲む村が
7世紀にもあったなら、
海人系の皇子の逃亡先として、これ以上の最適地はない。


垣花樋川から見る太平洋の海。
外洋から複数の明澪(水路)が陸に繫がる。
その地形が古代船をこの地に導いた。
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by utoutou | 2014-11-09 21:45 | 天孫氏 | Trackback | Comments(4)

天武の墓〈2〉琉球の高天原

玉城百名にある天武大主(てんむうふすー)の墓。
この人物が古人大兄皇子であるという
推理が、もしドンピシャで正しいとしても、
天武大主は、初めて琉球に渡来した大和皇族ではない。

この御嶽の周辺を、玉城の神女たちがなぜ、
「高天原」「高千穂の峰」と呼び続けてきたのだろう
と考えるとき、「この地は日本神話の故郷」という
口伝が近年まで残っていたことを認めないわけにはいかない。

つまり、玉城には皇子を迎え入れる態勢が整っていた。
そんな縁故ある土地だからこそ古人大兄皇子は、
逃亡先に琉球を選んだと考えるのが自然だ。

乙巳の変(645年)で、蘇我入鹿の暗殺を目撃した
古人大兄皇子が、出家して吉野に入ったことは、
皇極天皇からの皇位継承権を辞退したことを意味する。

そこまで身の危険を感じていた古人大兄皇子が
頼った先、琉球には、
歴史からは消された古代王朝があったと、私は思う。

琉球王府の最初の正史『中山正鑑』(1650年)は、
「天孫氏王朝は、25代1万7千802年間も続いた」と記したが、
こんなことは史書の体裁を整えるための粉飾だと言われてきた。
「17802年÷25代=712歳」になることを思えば、不思議はない。
王一代が712年も生きた王朝…神話としても無理がある。

ところが、仮に…天孫氏王朝が
前後2期あったとすれば、ガ然、辻褄が合ってくる。

前期が、1万7千802年前からあった「古代天孫氏王朝」。
続く後期が、25代の王がいた「天孫氏王朝」。

『中山正鑑』によれば、この25代王が逆臣・利勇(りゆう)に
滅ぼされて治安が悪化、王朝は崩壊したという。
(※最後の王名と、崩壊した年は不明)
そこに現れた若武者が、利勇を討って王に推挙された
浦添按司・尊敦(そんとん)。1187年のことだった。

ここまで続いた25代の天孫氏王朝の初代王が、
古人大兄皇子とすれば、1187年頃−645年頃=542年。
542年÷25代=21.68年 。
これが王一代の在位年数となれば、疑問は解消する。



アマミキヨ渡来伝説の百名海岸に立つ「ヤハラヅカサ」。
琉球の始祖とは、ヤマトから逃げた皇子だったのか?
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「天武大主」のルビは、画像を拡大すると「てんぷうふぬし」と見える。
方言の読みでは「うふすー」なので「ヤマトの人が建てた」説もある。
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石段の右手に墓がある。
墓と呼ばれるが、亀甲墓のように納骨仕様ではないようだ。
祖神の依り代として、秘かに崇められてきた御嶽の刻銘か。
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by utoutou | 2014-11-07 22:18 | 天孫氏 | Trackback | Comments(2)

天武の墓〈1〉琉球に逃げた?古人大兄皇子

沖縄稲作の発祥の地・受水走水(ウキンジュハインジュ)。
その上の磐座(タカマシカマノ御嶽)に立つ、不思議な墓がある。
「稲作の祖 天武大主の墓」。
読みは一般的に「てんむうふすー」だが、
「てんむうふぬし」と、ルビが刻まれている。
数年前、受水走水から百名の集落へと登る石階段の横で見つけた。
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教科書や史書に載っているわけではないので、当初は、
ごくローカルな伝承上の人物だろうと思っていた。

が、玉城百名といえば沖縄の祖アマミキヨの渡来地。
近くに世界遺産・斎場御嶽がある沖縄随一の聖地である。
琉球民族が崇める東方の首長だったというのである。
次第に謎めいた存在に思えてきて、身震いがした。

その由来を知りたくて、百名の古老に聞くと、
「この地一帯を拓いて御嶽を守られたご先祖だ」という。
ただ「どこの門中(男系神族)のご先祖か」と訊くと、
「それは分からない」と言って、口を閉ざしてしまった。
どうやら、墓について知るのはごく限られた人のようだった。

もしや、大和の皇室に関係のある人物なのか?
そう感じたのは、受水走水にある三穂田(みーふーだ)で行われた
田植え神事「親田御願(うぇーだぬうがん)」を見学したときのことだ。


↓この'09年の初午の日も、例年通りミントングスクの当主が司祭した。
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無事に田植え神事も終わり、近くで直会を始める直前だった。
参列したミントングスクそして仲村渠区の人たちが、
一斉に整列すると「四方拝、三十三拝」をしたのである。
四方拝といえば、天皇陛下が元旦に行う儀式。
それをなぜ、この玉城で?
そう訊いても「さあ」と、また誰もが口をつぐんだ。

私の直感が正しいかもしれないと思い始めたのは、
語り部の宮里聡さんの話を聞いてからのことだ。

「沖縄一見える人」でもある語り部の一言は大きかった。
「昔、天武大主の墓から“私は逃げて来た”と声がした」。

神女のおばあたちから、
「ここは昔、高天原と呼ばれた」
「高千穂の峰とも呼ばれていた」
と、教わったという語り部は、
「逃げて来たのは皇室関係の人に違いない」と言った。


受水走水(河口)。左の拝所が受水、右が走水。
天武の墓はこの磐上あたりにある。
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さて、前回書いた「藤原vs.蘇我」。
中大兄皇子(後の天智天皇)が中臣鎌足(藤原鎌足)と、
宮中で蘇我入鹿を暗殺した「 乙巳の変」(645年)は、
三韓から進貢した使者をもてなす宮中儀式で起こった。

そのとき皇極天皇の側にいたのが、
古人大兄皇子(ふるひとおおえのおうじ)である。

母が蘇我の娘・法提郎女(ほほてのいらつめ)。
蘇我入鹿が次期の天皇にと期待をかけていた皇子。
中大兄皇子、大海人皇子(後の天武)とは異母
の長兄で、皇位継承権第1位にあった。

弟の中大兄皇子による
蘇我入鹿暗を目撃した古人大兄皇子は
私宮へ逃げ帰り「韓人が入鹿を殺した。私は心が痛い」
(「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」)と言った。

蘇我家が滅び孤立した古人大兄皇子は、出家して吉野に隠遁。
ところが、謀反を企んでいるとの密告があり、
中大兄は兵を率いた臣下に古人大兄一家を「討たせた」。
(『日本書紀』宇治谷孟訳、孝徳天皇の項「古人大兄の死」)

ただし、古人大兄皇子の生死は不明である。

この皇子を沖縄玉城に眠る「天武大主」と考えるに至った
私の仮説(推理)について、しばらくの間、書こうと思う。

by utoutou | 2014-11-06 12:04 | 天孫氏 | Trackback | Comments(2)

甦る古代琉球〈番外編〉龍蛇族も来た

ここ2ヶ月、どうも解けない謎があった。
古代から続く拝所や、アマミキヨの神紋がある大里西原(南城市)。この集落の
産川(うぶがー=聖泉)であるチチンガーに、古来、神鰻が棲んでいたというのだ。
「なんじょう文化財通信」('10年)で知った、今に受け継がれる伝承である。

鰻を崇める神社は、大山祇神社(愛媛)や三嶋神社(京都)などヤマトにもある。
また、天然鰻の産地だとしても、信仰上、食べない人々がいる地方があるとも聞く。
蛇と同様に、鰻も海人族にとっての龍神なのだ。

しかし、私は西原集落は、古代ワニ族の集落跡ではないかと考えていた。
ワニ族は紀元前からワニ舟(丸木舟)を操った漁労採集の民。鰐鮫を祖霊と敬った。  
大陸から海に漕ぎ出したのだから海人族に違いないし、鰐鮫も龍蛇の一種だろうが、
蛇や、南海に棲息する海蛇をトーテムとする海人族=龍蛇族は、南方から北上したはずだ。

百歩譲って、ワ二族と龍蛇族がバッタリ遭遇したと考えてみる。
しかし、遥かなる大陸の北と南から渡来した古代民族同士が、この小集落に、
痕跡の片鱗を残すとはあまりにも偶然。まさか…と、そこで思考停止に陥っていた。

チチンガーの拝所。8m下の井戸(カー)を御願する。立体的な構造の珍しい祭祀空間。
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外観もまた立派。左手の小道から回り込んで階段を降りる。西原では正月の若水をこの井戸で汲んだ。
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そんなこんなの昨日、『謎の出雲帝国』(吉田大洋氏著)で、龍蛇族の渡来経路を見た。
この図(57Pから拝借)によれば、大陸に発した龍蛇族は南回りで東進。琉球列島沿いに北上した。

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そして、あっと思う。
チチンガーの近くにも「島根富威部(しまねとみのおいべ)」なる御嶽があれば、
仮説の上の仮説としても、龍蛇族である富(とみ)一族が渡来した可能性は高まる。

改めて『琉球国由来記』の「巻十三 大里間切」を開く。
あった…。「西原村」にある「大森御威部」のうち、ひとつが「神名 島根富御威部」。
龍蛇を崇める富一族のうち、北上する集団がいるいっぽう、定着した集団もいたか。

黒潮の本流は、ご存じ南方からフィリピンの東北部を通り、台湾と与那国島の間を通り、
東シナ海へと流れ込み、さらに対島海流に乗って北上することは、セグロウミヘビや沖縄の
イラブー(海蛇)が出雲に漂着することで知られているが、太平洋戦争中にフィリピンで戦死
した日本兵が海へ投げたヤシの実が、31年目に出雲の海に漂着した例もあると、最近知った。

出雲の稲佐の浜(昨年11月)。この季節、出雲の海へ北上した海蛇=龍神様は、
北東から吹く季節風に押されて沿岸に打ち上げられるという。
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くだんの『謎の出雲帝国』によれば、出雲神族(富族)の始祖はクナトノ大神。
続いてオオクニヌシノ命、コトシロヌシ、ホアカリノ命らの名が並んでいる。
また何代か後の裔には、トミノナガスネヒコ、妹のトミヤ姫、トミノ宿禰らがいる。
諏訪神・タテミナカタの正式名はタテミナカタトミノ命。「富」がつくのが神名の特徴だ。

思えば、富里、富祖崎、屋富祖、富着など、沖縄には富のつく地名が多い。
by utoutou | 2014-06-16 08:58 | 天孫氏 | Trackback | Comments(0)

甦る古代琉球〈完〉ナーワンダーの封印

ナーワンダーグスクの巨岩登頂を断念して始まった、古代琉球への時間旅行。
ナーワンダーグスクとは何だったかを、いま一度考えて、それを終えることにしたい。

スサノオこと天王ガナシーを始祖とする、琉球最古の天孫氏王朝。
知念玉城台地の東端、つまり太陽の登る久高島と、西端・大里を結ぶ東西軸上に、
斎場御嶽、そしてその奥宮としてのナーワンダーグスクはあった。

そうつくづくと感じさせるのが、いまに残る地形だ。
5月の沖縄旅では豪雨で撮影できなかったが、こちら ↓ 久高島の西海岸から見た斎場御嶽。
その奥宮に座す巨岩は、「ナーワンダー=なでるわ=守護霊」の名に
ふさわしく、天王ガナシーと天妃ガナシーという男女一対の神を思わせる。
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反対側、大里から望む知念半島。ここからも斜めの稜線に一対の巨岩が。久高島は隠れて見えない。
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ナーワンダーグスクはその名の通り、沖縄本島各地に有力按司が割拠した
グスク時代(12世紀〜)の遺跡だが、一対の巨岩は神代から動かなかったと思う。

実は4月の沖縄旅の最後の最後、私はナーワンダーグスク近くには足を踏み入れていた。
肝心の巨岩には登れず、皇室の人が持ち帰ったと伝わる「ヒミコの鏡」のレプリカを拝むこと
はできなかったが、イナグ(女)ナーワンダーの麓までは登ることができた。
久手堅集落から、ジャングルのような山中の樹々を掻き分けて急勾配の獣道を進む。
それが緩やかになったところで、イナグナーワンダーを示す「女神」の石碑を見た。
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ナーワンダー“地域”まで案内してくれた久手堅(くでけん)の“仙人”は、
巨岩に登ったことはないと言い、麓一帯の楽園のような景色をこよなく愛していた。
樹々を透かして見下ろす谷間には、巨大な蝶の群れが乱舞し、川の流れる音がした。
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イナグナーワンダーの横に、斎場御嶽の寄満(ゆいんち)への↓降り口がある。
「貢物が寄り満る台所」と言われる寄満だが、その本態は縄文の女神=天妃ガナシー
の神魂を祀るナーワンダーグスクの真下にある聖所だったことを、ここでは確信できる。
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語り部は、玉城の神女おばあたちから、ある伝承を受け継いだという。
「聞得大君の“お新下り(就任式)”の本来の祭祀場は寄満だった。
寄満だけは、男性が絶対に入ることはできなかったという伝えがあるよ」と。
琉球王府の歴史によれば、それは斎場御嶽の御門口に近い「御仮屋」だったはずだが。
尚真王の時代(1465年〜1527年)まで、聞得大君による安全航海祈願も寄満で行われた。

寄満〜イナグナーワンダーのラインは、封印された。ともあれ、
古代天孫氏王朝にまつわる痕跡は、琉球王朝三代・尚真王時代までは残っていた。

尚真王。神号は「おぎやかもい」。かもい=カムイ。アイヌ語で「神の子」。
大陸渡来の東大神族(しうから)には、古代琉球民族とアイヌ族が含まれていたと思う。

by utoutou | 2014-06-06 19:19 | 天孫氏 | Trackback | Comments(2)

甦る古代琉球〈10〉スサノオ降臨と天磐船

「天王加那志(てんおうがなしー)はスサノオ」と聞いて胸が騒いだ。
天地大神様(あめつちのおおかみさま)という神名も、ただならぬ気配。
ただし、初めて聞く神名ではなかった。語り部に訊く。
「天王ガナシーは、あのヤハラヅカサで崇められていたという神様ですか?」
「そうです」
「では、その天王ガナシーのお妃にあたる女神は?」
「天妃ガナシーです。天妃大阿母加那志(てんぴうふあむがなしー)。
 天美大阿母加那志(あまみうふあむがなしー)とも呼ばれます」

アマミキヨの渡来地として知られるヤハラヅカサ(南城市)。
この浜は、天王ガナシー・天妃ガナシーの二神にゆかりの地でもあった。
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そして、いつの時代からか、その司祭を久高島の大里家が担うようになった。
いま一度、久高島の宗家・大里家の神壇画像で神名を見る。
右に天美大阿母加那志とある。またの名を天妃ガナシーという女神だ。
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沖縄で秘かに語り継がれてきた「スサノオ」は、記紀に登場する「スサノオノミコト」
とも、シュメールから渡来した民族が祀ったという「スサの王」とも、様相が異なる。
『契丹古伝』にいう東大神国(しうから)の統治者(スサダミコともいう)であり、
高天使鶏(こまかけ)という空船で世界を飛び回ったという天祖。
スサノオこと天王ガナシーは、古代琉球王朝の始祖神にして「天界の王」だった。
そのことは、比嘉康雄氏の著書『神々の原郷 久高島』でも、窺い知ることができる。

〜天王ガナシー この神の香炉は大里家にある。神名からすると天界の王という
ことになるが、久高島では天に対する意識は希薄であり、この神も神観念に
そぐわない神である。神職者不在〜
          
「天王ガナシーの降臨はどの時代のことですか?」
「神代の時代ですね。少なくとも1万年前に終わったヴュルム氷河期より前」
「神代の船でヤハラヅカサに渡来したと?」
「天磐船(あまのいわふね)で。神女のおばあたちもそう言ってました」
「つまり、星から飛んで来た?」
「はい、ヤハラヅカサは神代の昔からUFOが飛来するメッカだったのでしょう」
「……」
あまりに壮大なスケールで絶句するしかないが、確かに今でもUFO目撃談は多い。

さて、『古事記』『日本書紀』にも、天孫饒速日尊(にぎはやひのみこと)が、
天照大御神の命により天磐船で河内国河上哮ヶ峰(たけるがみね)に降臨した
という神話が出てくるが、語り部によれば、その元型は琉球神話にある。
「スサノオの霊をお継ぎになったのが、饒速日尊(にぎはやひのみこと)です」

大里城跡のある大里、うぷんでぃ(大里)山と大里家のある久高島、そして玉城周辺。
その3点を西・東・南の端とする知念玉城台地一帯が、御先天孫氏王朝が栄えた地。
そして、中心となる祭祀場が、斎場御嶽の奥宮・ナーワンダーグスクだったか。

スサノオが天磐船で降臨したのなら、与那国海底遺跡調査で知られる木村政昭教授
による「ヤハラヅカサのストーンサークル説」も、俄然リアリティーが高まる。
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by utoutou | 2014-06-03 10:42 | 天孫氏 | Trackback | Comments(0)