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CIAが封印した垣花の御嶽〈5〉ミルクの墓

CSG基地の駐留時代は二重の金網に囲まれて、基地内で唯一、参拝の許可が下りなかった垣花の御嶽。
前回、それは垣花城跡から遥拝された威部だと書いたが、語り部の宮里聡さんが言った。
「仲村渠(なかんだかり)や百名の集落でも、垣花の御嶽は大切にされていましたよ」

仲村渠とは、ミントングスクのある集落名で、王府時代までは上百名といった。
なるほど、垣花の御嶽は、周辺のすべての集落から崇められていた御嶽だった。

「ミントンの娘・ファガナシーも当然、ここで拝みをした?」
「もちろん、そうなりますね」
「では、垣花の御嶽で行われた古代祭祀を、ファガナシーは久高島へ伝えたと?」
「久高島にも“みるくの御嶽”がありますからね」
「あ〜、ミルク繫がりですか!?」
久高島のミルクの御嶽は、ファガナシーとシラタルが住んだとされる「アグル嶽(らき)」にある。

垣花の御嶽のもっとも奥まった場所に「ミルクの墓」はある。なぜ墓というのかは分からない。
ミルク=弥勒。古くは6世紀より、弥勒信仰は中央・東南アジアから中国大陸まで広く浸透した。
沖縄では五穀豊穣をもちらす「ミロク神」として、八重山や首里の祭りに出現するが、
ミルクの名がつく御嶽は、沖縄本島南部では、ここ玉城と久高島の2ヶ所にしかないという。
この「ミルク」も、五穀豊穣をもたらす御嶽だった。築造時期は不明。積まれた切り石が美しい。
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ファガナシーが久高島で興した古代祭祀はイザイホーの原型だったと以前書いたが(記事はこちら)、
さらにさかのぼれ、古祭イザイホーの発祥地は、このミルクの墓を含む垣花の御嶽ということになる。

こちらは、垣花の御嶽の近くにある「中森の御嶽」(なかむいのうたき)。
またの名は「夜明けの御嶽」、「根御嶽(にーうたき)」、「くしの御嶽」(家の後ろという意味)。
垣花の御嶽と同じく、アマミキヨを崇める御嶽である。拝所の屋根にゴルフボールが並ぶ。
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ミエおばあ家の隣、ウメおばあ家(上之当大城(いーのあたいのうふぐすく))の屋敷跡を示す石碑。
ゴルフ場の中、中森の御嶽の入口近くにあり、ここが古代からの集落だったことが窺われる。
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御嶽一帯は往古のままの面影。ボールを打つ音、遠くから「ナイスショット」の掛け声、
琉球アオバトの鳴く声が耳に届く。時代が折り重なって、いまに凝縮しているかのよう。
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by utoutou | 2013-12-22 09:52 | 御嶽 | Trackback | Comments(0)

CIAが封印した垣花の御嶽〈4〉

垣花の御嶽に初めて行ったときから、しばらく解けない謎があった。
古来この御嶽は玉城にあったのに、なぜ垣花という名がついたのか。
  
実は垣花という集落は、垣花の御嶽から約1㎞離れた北に現在もある。
こちらも古い土地で垣花城跡はじめ、遺跡、製鉄所遺跡、ミントン門中墓などが集中している。
ならばなおさらのこと、なぜ、垣花の御嶽だけ、ポツンと垣花から離れているのか。

位置関係を、駐留当時のCSG(混成サービスグループ)基地の写真で眺めてみる。
基地北西にあったゲート(現在のゴルフ場正門)近辺からの風景だが、
正面奥の右手、麦わら帽子型の山が玉城城、写真のほぼ中央の小高い山が、垣花の御嶽の一帯、
そのすぐ右に旧玉城一区という集落が、戦前まであった。
垣花城跡はそこから目を左に転じ、写真の左端から外れてしまうあたりにある。
※写真下のキャプションは『玉城村誌』に掲載のもの。(『玉城村誌』(1977年、玉城村役場編より)
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さて、写真の左方向にある垣花城跡は、一説に600年以上前の築城。
垣花城跡の案内板(昭和36年建立)の説明によれば……。


この城跡は、一の郭と二の郭からなり、垂直に近い野面積みの城壁を有している。場内の最も高い所
に経つと、太平洋を眼下に、南の低地に百名、仲村渠の各集落、北に垣花を眺望することが出来る。
城の歴史については記録や伝承がなく不明である。ふたつの郭には、それぞれ小面積の平場が確認
され、現在ではアワダン、クロヨナ、ツゲモドキ等の熱帯樹が繁茂している。一の郭の奥には御嶽
があり『琉球国由来記』によると神名は「アフイハナテルツカサノ御イベ」と記されている。


しかし、神名が手がかりとなって分かったことは、この案内板が間違っている?ということだった。
琉球王府が編纂した地誌『琉球国由来記』(1713年)と『琉球国旧記』(1731年)いずれにも
「垣花之嶽 アフイハナテルツカサノ御イベ」が「玉城村」にあると記され、垣花村の項にはない。
また、同じ玉城村の項に併記される御嶽は、垣花の御嶽の近くにある中森の御嶽。
ふたつの地誌は、玉城にあるこれらの御嶽が王府時代以前から存在したことを示している。

神名のアフイハナテルツカサとは、
(最高神を迎えるための)日傘(あふり)をさす神女」のこと。
いっぽう、中森の御嶽の神名は「国之根ウラウシナダルワノ御イベ」。
こちらは「浦を保護する首長の神霊」の意味で、いかにも至高の御嶽を思わせる神名。
ちなみにウラウシは浦襲(うらおそい)と同義で、浦添(うらそえ)の語源という。


垣花城跡本丸。
こうした琉球石灰岩を野面積みにした城壁が各所に残る。その右が一の郭。
城内にある御嶽は『由来記』『旧記』によれば、照城之嶽と照城小嶽。
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日本名水百選・垣花樋川(ひーじゃー)。かつての生活用水を得る場はいま、癒しの場として人気。
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垣花樋川脇の坂道を行くと、弥生時代後期のゴホウラの貝輪が出土した垣花遺跡がある。
沖縄以南の南島でしか獲れないゴホウラ貝だが、この貝輪は『魏志倭人伝』で不弥国
に比定される飯塚市の遺跡から出た立岩型貝輪と同型の、半加工品と判明している。
それは制作途中だったのか、誰かが運び込んだのか、落として行ったのか。

いずれにしても、邪馬台国の時代から、ここ垣花と北九州の間になんらかの交易があった
という歴史を示している。そんな垣花集落の人々が崇める聖地が、垣花の御嶽だったか。
一説には三山分立前に垣花城を築城したというミントン按司もまた、垣花の御嶽を遥拝したか。

ところで、そもそも「垣花」の意味とは? 
CIAによる封印が作為的だったか地理的な要因によったかを解く鍵は、その言霊に隠されていると思う。
by utoutou | 2013-12-15 15:05 | 御嶽 | Trackback | Comments(0)

CIAが封印した垣花の御嶽〈3〉

CIA基地の「Zエリア」だった垣花の御嶽のことは、
戦前、玉城に生まれたふたりの神女(かみんちゅ)の言い伝えを抜きにして語ることはできない。
が、その前に、垣花の御嶽の現状をレポート。
ゴルフ場の休業日にのみ許可される御嶽参拝。私は今回、玉城に住む知人に同行させていただいた。


垣花の御嶽、正面の威部(いび、至聖所)。
鳥居のように伸びた木の枝をくぐると、その先に見上げても全体が分からないほど巨大な磐座がある。
威部の前には香炉が置かれ、学校の講堂ほどの広さの空間は、木々が伐採され綺麗に整備されていた。
神女たちの秘伝では、1万年以上前に渡来した古代天孫氏の住まいであり、祭祀場であり、王族の墓。
まさかそんなに古い文明の歴史があるとは……。
玉城にかすかに残る伝承を、無理なく理解するようになるまで、思えば数年の歳月を要した。
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威部の前でふと足下を見ると、不思議な石があった。太い鉄管に貫かれている。
前回、ここに入ったときには気がつかなかったが、CIA基地の名残りか。
「川泉から水を引いていた跡か何かなんでしょうね」と、知人はあっさりと言った。
知人が基地の返還直後にここに来たときには、スパイ収容所の建物を壊したところだったらしく、
おびただしい数のバイプ建材や鉄線が、山積みになっていたのを目の当たりにしたという。
基地の撤去が急きょ決まり、慌ただしく去って行った状態を、如実に物語るエピソードだ。
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さて、語り部の宮里聡さんが神事についての教えを受けた、ふたりの神女について。
ひとりは、語り部が「ウフグスクのおばあ」と呼んだ大城ウメさん(のことはこちらにも)。
もうひとりは、語り部が「ナーカのおばあ」と呼んだ仲村ミエさん(のことはこちらにも)。
ふたりは平成の時代に入って相次いで亡くなったが、
琉球発祥の地の神女として、80歳を過ぎても御嶽廻りを欠かさない信念の女たちだったという。

ミエさんは、英祖王統4代・玉城王(1226〜36年)の末裔である
屋号、仲加(なーか)・根所(にーどぅくる)に嫁いだ。
ウメさんは、英祖王統5代・西威王(1328〜49年)の末裔である
屋号、新門(みーじょー)・上之当大城(いーのあたいのうふぐすく)に嫁いだ。
そして、仲加家(なーか)と新門家(みーじょー)の屋敷は、戦前まで玉城城のお膝元にあった。


玉城城一の郭から、改めて神女たちの屋敷跡を見てみる。 
眼下に走る道路が現在のグスクロード。グリーンの中、こんもりした森の手前に、
戦前まで玉城一区という集落があり、仲加家と新門家の両家は、その集落の中央で隣接していた。
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こんもりとした森を「中森の御嶽」(なかむいのうたき)という。またの名は「夜明けの御嶽」、
「根御嶽(にーうたき)」、あるいは「くし(後ろ)の御嶽」(家の後ろという意味)ともいう。
垣花の御嶽は、この中森の御嶽の後ろ側にあった。
さらに後ろの山は、玉城王と西威王父子の眠る宝城(タカラグスク)。
このタカラグスクを、おばあたちは「御先(うさち)ゆーどぅり(墓)」、また垣花の御嶽を「御先(うさち)垣花」とも呼んだ。
上古代からあった御嶽であるという伝承そのままに。
つまり、玉城台地の天頂に位置するこの一帯は、沖縄最古の文明の発祥地だった可能性がある。
CIAが置いた収容所の建物は数棟あったという説もあることから、
「Zエリア」とは、垣花の御嶽だけでなく、この聖域一帯を指していたのかもしれない。 

間違ってはいけないのは、英祖王統は、時を越えて再来した古代天孫氏の末裔らしいということ。
垣花の御嶽、タカラグスク、中森の御嶽は、沖縄の古い方言で「イリク」(新旧入り混じったお墓)。
古代王族の墓陵に、今来の王族が追いかけるようにして収まり、眠っている。
ウメおばあ、そしてミエおばあは、
うさち(古代)から連綿と続いた天孫氏=アマミキヨすべての御霊を祀った「最後の神女」だった。


グスクロードの始発地点である糸数に立つ案内板。
グスクロード沿いには、アマミキヨが築いたという糸数、玉城、垣花という3つの城跡がある。
道路沿いではないが、垣花城跡から徒歩数分の場所に、ミントングスクもある。
琉球発祥の地にあるこの道を車で走るとき、私はいつもザワついた気持ちに襲われる。
グスク群は海を見下ろす崖上に立っているが、それが要塞なら、いったい何を守ろうとしたのか。
もしや、うさち天孫氏の王墓を、外敵から守ることを目的として造られたか。
そしてCIAは、この一帯が最古の地であることを知っていたからこそ封印したのではないかと。
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by utoutou | 2013-12-03 23:02 | 御嶽 | Trackback | Comments(2)

CIAが封印した垣花の御嶽〈2〉

玉城(たまぐすく、沖縄県南城市)にあったCIA基地について「知らなかった!」という声を聞いたので、
該当部分をもう少し見てみようと思う。特に「Zエリア」=垣花の御嶽について。


“Zエリア”という名の秘密工作員強制訓練所
“Zエリア”とよばれる秘密工作員強制訓練所が、CSG内の山のくぼ地にあり、外界から完全に隔離された二重の金網のなかで、拉致されてきたベトナム人などアジア人、たまにはアメリカ人までが、CIAの秘密工作員になることを強要されている。目かくしをされて連れ込まれることもある。約十五年間もここに閉じ込められていた中国人もある。“Zエリア”は約1〇〇〇平方メートルあり、三棟の平屋の収容施設があるが、この収容施設内のすべての会話は、ここをおとずれた米人保安部員らと収容者との会話も含めて、ずっと離れたCSGの本部ビルで聴取されるしくみになっている。ここには、Z記号のついた特別のパスをもった者以外は、いっさい立ち入ることができない。“Zエリア”とよばれる秘密工作員強制訓練所のことは、共産党調査団が明らかにするまでは、存在自体が秘密のベールにかくされたままであった。
 約五五万坪という広大な面積を占めるCSGのなかには、沖縄中の多くの人びとが信仰の対象としている拝所が数ヵ所ある。アメリカ当局は、それらの人びとが拝礼のためにそこをおとずれるさいには、きびしい警備態勢をとりながらも一応許可しているが、垣の花御嶽とよばれる拝所だけはこれまでただの一度も許可されたことがない。垣間の花御嶽は、問題の“Zエリア”の内にあるものとみられている。
(『調査報告 沖縄米軍基地』('72年、日本共産党国会議員団篇)より)

CIA基地の撤去が決まったのは、'71年10月、国会で共産党議員が質問したその当日のことだった
という経緯もこの本には記されており、「キャンプ知念」が秘密基地とされた背景には日米の密約
があったのでは?と思わせて、秘密保護法案でヤキモキする今、改めて読み返すとなおさら興味深い。


琉球ゴルフ倶楽部の正門。琉球の赤瓦が美しく、名門コースらしいただすまい。
場内には英祖王統の王墓が3ヶ所ある。王墓や御嶽はこのゴルフ場に守られてきたとも言える。
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ところで、垣花の御嶽とは、どのような場所なのか。
玉城の伝承を継いだ神女おばあは「ヤファシの御嶽と同じくらい古い御嶽」と言った。
御嶽であるからには墓地でもあるはずで、それならば誰が埋葬されているのか。
何しろ古代のこと、はっきりしたことは分かっていない。が、とにかく「アマミキヨ」ではある。

そこで、CIA基地もあった場所の地形を概観しながら考えた。
これは、玉城のちょっと古い地図(大正8年、参謀本部・陸地測量部)。赤と青の印は筆者による。
中央の青い星印が「垣花の御嶽」。その右下の青丸がミントングスク。海沿いの青丸が薮薩の御嶽。
逆に、アマミキヨの渡来した薮薩の御嶽から一直線に登るとミントングスク、そして、垣花の御嶽。
赤丸は、左から糸数城跡、玉城城跡、垣花城城跡。
3点をつなぐと、現在、観光客にも人気のグスクロード。大正時代からこの道があったのが分かる。
右上の青丸は、斎場御嶽のある南城市知念久手堅(くでけん)。
そのあたりから左の赤丸の南城市玉城糸数まで、鳥が羽根を広げたように見える白い部分は、
琉球石灰岩でできた玉城台地(私の勝手な命名)の、いわば屋根の部分。
長さ約10km。一説にはギネス級の1枚岩である。
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地図を見ると等高線との関係から、グスクはいずれも玉城台地の海の見える突端にあるのが分かる。
グスクとはアマミキヨが造った要塞なのか? あるいはもっと古代の高地性集落の聖域だったのか?

「垣花の御嶽」は玉城の随一の水源地かと思ったのは、1枚のスケッチを見ていたときだ。
鎌倉芳太郎氏の著『沖縄文化の遺産』(大正15年)に、
玉城を調査して描いた3㎝四方ほどの自筆イラストがあった。
図中、上に描かれているのは玉城台地(の一部、ミントングスクあたり)の断面図。
鎌倉氏はこの著書で、ミントングスクは丘陵の出っ張りで「太陽の神殿」だと記していたのだった。
図の下は、稲作の発祥地・受水走水と、三穂田(みーふーだ)の平面図。  
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そして2年前、初めて垣花の御嶽に参ったとき、その一帯に確かに川泉(カー)の跡があるのを見た。
稲作渡来民であったアマミキヨは、川をさかのぼる民でもあったか……。
by utoutou | 2013-12-01 17:58 | 御嶽 | Trackback | Comments(0)

CIAが封印した垣花の御嶽〈1〉

1ヶ月前のことになるが「ヤファシの御嶽」(記事はこちら)と、「垣花の御嶽(かきはなのうたき)」へ行った。

ヤファシの御嶽は、神女(かみんちゅ)のおばあたちが「琉球最古」と言い遺した聖地。
いっぽう垣花の御嶽も、同じように古い祭場らしき御嶽で、戦後はCIAによって封印されていた。
現在は琉球ゴルフ倶楽部となっている地域にあり、玉城城から見渡すことができる。


玉城城一の郭からの眺め。空に稜線を描く山は、玉城王の墓があるタカラグスク。
その右下あたりに、聖なる垣花の御嶽はある。ゴルフコースでいえば8番ホールの南方向。
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さて、玉城は、いわば南部戦跡の一角。
地上戦の悲惨さを今に伝える戦跡・糸数のアブチラガマ(洞窟)も同じ玉城にある。

戦時下、この玉城城には日本軍が基地を置き、また付近の民家にも駐留。
玉城や百名の集落から見渡せる海は、米海軍の艦隊で埋め尽くされたという。

終戦直後、米軍は玉城城の琉球石灰岩を、建材用にとトラック何百台分も運び出した。
二の郭と三の郭は破壊されたのだろうか、ほとんど跡形はない。
奇跡的に残ったのが、この一の郭。太陽の穴(てぃだがあな)だった。


琉球石灰岩をくり抜いた玉城城一の郭を、石段下(ゴルフ場側)から見上げる(10月末の午後3時半ごろ)。
夏至の朝日は、王城内の威部(いび、テンツヅアマツヅの御嶽)を照らす。
逆に冬至の夕陽は、この写真の位置より低く長く伸びてきて、タカラグスクを射抜く?
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現在、琉球ゴルフ倶楽部のある場所には、沖縄本土返還前、キャンプ知念という基地があった。
基地に関しては『調査報告 沖縄米軍基地』(日本共産党国会議員団編、'72年、新日本出版刊)に、
また大城将保氏の著『沖縄戦の真実と歪曲』(2007年、高文研)に詳しいが、
その基地とは米軍基地ではなく、実はCSG(Composite Service Group、混成サービスグループ)。
アメリカ中央情報局CIA、つまり政府機関の基地だった。

軍人がいなかったためか、周辺に歓楽街の跡はない。
CSGは、基地関係者が外出しなくても普通に生活できる「都市」だった。
基地内に住居、学校、食堂、スーパー、遊興施設など生活に必要な設備がすべて整い、
海外へも直接渡航できる機能を有していたという。

とはいえ、基地は基地。米政府管轄の一大拠点として、
兵器、爆薬、衣類、医薬品など、あらゆる物資の調達、貯蔵、補給が行われた。
物資を発送するには、幌付きのトラックでまず嘉手納空軍基地まで運ばれ、
そこから東南アジアの戦場に向けて空輸されていたようだ。

東南アジアから拉致してきたスパイ要員のための強制収容所もあった。
その場所とは「Zエリア」。垣花の御嶽。神名は「あふいはなてるつかさのおいべ」。

基地内の御嶽へは、基本的にメインゲートで「祖先への拝み」と告げれば通されたが、
この垣花の御嶽だけは、誰であっても、何時でも、許可されることはなかったという。

メインゲートの位置は、現在のゴルフ場正門とほとんど変わらない。つまりもっとも奥地に「Zエリア」はあった。
玉城城は地図上にはないが、左下の位置。
玉城城と「Zエリア」つまり垣花の御嶽の間には、古くは玉城城の城下町だったと思われる集落があった。


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     『調査報告 沖縄米軍基地』(日本共産党国会議員団編、'72年、新日本出版刊)より引用。


     玉城城をゴルフ場側から遠望。標高180m。中央に見える白く小さな穴が、一の郭。
     夏至の朝日があたる設計で称賛される玉城城だが、この角度からは違う意味で偉容を感じ取れる。
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by utoutou | 2013-11-29 07:27 | 御嶽 | Trackback | Comments(0)

アマミキヨの造った御嶽

アマミキヨ渡来の地、南城市玉城百名。
琉球石灰岩の断崖絶壁を、海に向って降りて行く。
海から見れば、ほとんど垂直にそびえ立つ丘陵。
その頂上一帯が「薮薩の御嶽(やぶさつのうたき)」で、
海側に、木々に埋もれた小さな穴がある。

少し前、語り部の宮里聡さんは、その穴にハシゴを見た(透視した)。
気になって少し下りてみると、御嶽へと続く降り口だった。
途中えぐれたような急斜面には、誰の手によるものか、実際に
ステンレス製のハシゴが、木の根に電気コードで結わえ付けられていた。
そこで、さらに下りると、探し続けた「幻の御嶽」に辿り着いたという。
(ブログ記事「忘れられた御嶽」はこちら

歴史本にもガイドブックにも載っていない
「ヤワシ御嶽(ヤファシうたき)」。
今は亡き神女のウメおばあが伝えた御嶽。
なぜ「ヤファシ」というのかは分からない。

ウメさんはまた、この一帯を「古島」とも「ウサチ・ミントン」とも呼んだ。
ウサチ=御先(おさき)=上古代。
アマミキヨの住居跡「ミントングスク」よりも古い住居跡。
数千年の歴史があるミントングスクより古い、アマミキヨが造った御嶽。

語り部の案内で、先日、私も「ヤファシ御嶽」への道に挑んだ。
約10分。私の御嶽参拝史上、最難関の急斜面だった。
写真の左端に写る紐状のものは岩に絡み付いた木の根。
むやみに掴むと折れてしまう。何十倍も太い木の根もあるが、
基本的に直感を頼りに下らなければならない。
語り部は「こっちですよ、気をつけてくださいね」と、眼下に姿を消した。
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この斜面一帯は「ヤファシバンタ」「クルク山バンタ」とも呼ばれた。
「クルク」とは風葬の地、「バンタ」とは崖。ミントン家の古墓もある。
ここはアマミキヨの崖葬古墓群。アマミキヨとは個人ではなく集団だった。

『琉球国由来記』が記す薮薩の御嶽。
神名は「タマガイクマガイの御威部(いべ)」。タマガイ=魂上がり。
古墓群から発したリンが燃え、闇夜に怪しくゆらめく様子を畏怖して、
人々がそう呼んでいたと伝わる。

「ヤファシ御嶽」に到着。
崖の中腹に造られた、まさしく空中御嶽。足下の平場が直径2m程度。
背後の海側は崖である。御嶽全体の高さは3mほどだが、
狭所ゆえ全体像がカメラに収まらなかったので、写真を縦につなげてみた。
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御嶽を覗き込んでいると、語り部が言った。
「この御嶽の真っ直ぐ先に、斎場御嶽が位置していると思います」

そうだったのか。
「薮薩が沖縄でいちばん古い御嶽。ここを拝まなければ、ミロクの世は開かない」
ウメさんが言っていたというその意味が、今なら理解できる。
アマミキヨが渡来、上陸した足跡を正しく悟らなければ、
祖霊を祀ることにはならないとウメさんは言ったのだ。


ヤハラヅカサの立つ海側から見た「薮薩の御嶽」。
左手斜面に「ヤファシ御嶽」がある。
そしてまた右手斜面の中腹にも御嶽があると、この日初めて知らされた。
「ヤファシ御嶽」の後、我々はまた崖を登り、改めて右手の崖を下った。
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もうひとつの空中御嶽「久高ガマ」。
足場があまりにも狭く、御嶽を見上げて写真を撮ることは無理。
振り向くと、視線の先遠くに、海に平たく浮かぶ久高島が見えた。
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そして……。
目を真下に転じれば、そこは水堅浜(みでぃきんぬはま)。
久高島の始祖・ミントンの娘ファガナシーと、従兄弟のシラタルが、
船を漕ぎ出した浜だ。シラタルとファガナシーは、
なぜ親元を離れ久高島に渡ったのか(ブログ記事はこちら)。
その理由をずっと考えていたが、ウメさんの口伝をもとに推理すれば、
ふたりはアマミキヨの足跡を逆に辿って船出した。ミロクの世を迎えるために。
by utoutou | 2013-11-08 10:50 | 御嶽 | Trackback | Comments(0)