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ミントンの娘とイザイホー〈5〉

久高島の始祖と伝わるミントンの娘・ファガナシーと、従兄弟のシラタル。
若夫婦が始めた神祭りは、第二尚氏王朝3代の尚真王時代に、
王権儀礼イザイホーとして整えられ、1978年まで続いた。

久高島通いのなか、私は次第に、ふたりは勘当されたのではなく、
司祭という使命を背負って島に渡ったのだと考えるようになった。
あるいは再興したという説話のために伝説は作られたか。

いずれにしても、ふたりはアマミキヨの末裔。
つまり、イザイホーの祭式には祖先アマミキヨの習俗が投影されている。
アマミキヨには「今来のアマミキヨ」と「古渡りのアマミキヨ」がいる。
イザイホーの謎を紐解けば「古渡りのアマミキヨ」像に近づくことができる。

手がかりのひとつが、アカララキ。
この浜からは「久高第二貝塚」が発見されたことで、
5000年前の縄文時代前期(沖縄では貝塚時代)に人が住んでいたことが知れる。
アカララキは、そんな縄文の人々によって祀られてきた神様だったと思う。
祀られているのは、縄文の女神・アラハバキか。

語り部は言う。
「そうですね。アカララキはアラハバキと考えられます。
神女のおばあたちは、この御嶽を“アラの御嶽”と呼びまました。
伊是名島にも同名の御嶽がありますが、やはり“アラの御嶽”と呼ばれていた。
中部の北谷には“アラハビーチ”がある。
古代の女神・アラハバキの痕跡は沖縄にも残っているのです」

王朝時代、国王一行が久高島への第一歩を印した浜にアカララキはある。
「アカラ」の意味は他に、明るい、暁、夜が明ける、始まり、世が明ける。
「ラキ」は御嶽、この森全体は「アカラムイ」(ムイ=森)とも呼ばれる。


御嶽の内部、直径10mほどの広場にアカララキの神はひっそりと祀られている。
御神体の石は卵型に磨かれ、手を合わせると慈愛に満ちた力強さが感じられた。
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王府は、アカララキを神の島の「門番の神」として位置づけた。
イザイホー(1978年)の際には、神女たちが籠る七ツ屋の横に「出張」して、
下のように設えられた。
写真は神戸女子大学古典芸能研究センター「沖縄史データベース」からの借用。
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比嘉康雄氏は『神々の古層 主婦が神になる刻』で、次のように記している。

なお、久高側の棟横にある小棟は、アカララキの象徴であるという。
アカララキはウプティシジ(※祖先の霊力)の居所の御嶽のひとつであり、
昔の港であったユラウマヌ浜入口にあった。
そこのウプティシジは気象が激しく、たとえば仁王様のようなもので、
島の入口の門番的神であるという。(中略)それでこのアカララキだけは
ナンチュ(注・神女のこと)が入らないので小さくしてあるが、アカララキの
ウプティシジが七ツ屋の門番として入っていると考えられているのである。
この小棟を「ヒジムナー」小屋といっている人がいるがそれは間違いである。

1978年に行われたイザイホー、久高殿における祭場図。
「七ツ屋」「アカララキ」の赤丸は筆者による。
下の写真・中央の蒲葵で葺かれた祭屋が「七ツ屋」。
左奥にアカララキがうっすらと写っている。比嘉康雄氏著の同書より。
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昨日までの沖縄旅で再会した語り部は「門番」の由来についてこう語った。
「門番とは“門の番”(じょうのばん)。決して港の門番ではない。
沖縄では、たとえば門中墓に誰かを埋葬する場合、入口近くの左に安置しますが、
その新仏様を、昔は他界との境界を守る“門の番”と呼んだ。
“門の番”とは、生命を握る神のこと。新生・再生・転生を司る大元の女神。
でも、その意味を知る人はいなくなりました」

アカララキは魂を再生させる女神。新生・転生を司る女神。
その失われた女神を再び立たせることが、
ファガナシーのミッションだったかもしれない。すると、夫のシラタルは……。
イザイホー祭場でアカララキと向き合うイラブーの薫製小屋に祀られる男神。
つまり、蛇神を再び立たせるミッションを担っていたのか。
by utoutou | 2013-08-31 01:48 | イザイホー | Trackback | Comments(0)

ミントンの娘とイザイホー〈4〉

久高島には「百名おとーしばん」の石碑があるが、
「ばん」とは何?
うちなーんちゅ(沖縄の人)から言葉は聞いていたが、意味不明。
神事について話を聞くときに、頻発するのが「ばん」なのだが。

那覇市に住む女性は「うちのおばあはノロだったけど
“世界ばん”を持たされて大変だった」と言った。
「ばん、て何?」と聞いても、彼女にも「分からない」。
ミントンの先代ご当主は「うちは寅のばん」と言っていたという。

ところが今回ようやく、「ばん」とは「方角」だと分かった。
「百名おとーしばん」とは「百名」を「遥拝」する「方角」。

それを確かめるために、百名・久高島の御嶽をよく知る、
語り部の宮里聡さんに那覇市内で会った。

「“ばん”とは何ですか?」
「盤ですよ」
「方角?」
「昔の人は、カラダで覚えた天体感覚で、すべてを見ていたのでは」
「干支、十二支とか?」
「はい、方位とは、生活の羅針盤だったと思います」
「だから“盤”」
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十二支は、年・月・時間であり方角。
すると、先の「世界ばん」は「世界全方位の平和を祈る役割」、
「寅のばん」は「寅の刻(午前4時=暁のとき)」となる。
十二支の象意で紐解けば、神事の意味がスラスラ分かる。

語り部は何でも知っている。
15歳で(現在40歳代後半)神託によって玉城と久高島に辿り着き、
戦前から御嶽守りをする神女おばあたちの伝承を受け継いだ。

この日、私は久高島にある「スベーラの御嶽」の由来を訊ねた。
別名・スベーラキ。
「百名のおとーしばんと、スベーラの御嶽との関係は?」

すると、語り部は思いもよらないことを言った。
「戦前はスベーラに百名におとーし(遥拝)する香炉があったそうです」
あっと、思う。そこには島人のお供で参ったことがあった。

威部(イビ=至聖所)の香炉は、確かに百名の方角を背にしていた。
「スベーラ→百名(ミントングスク)は、一直線上にある?」
「はい。でもおばあたちもスベーラの由来は知らなかった。途絶えてましたね」
「もしや、超古代からあった御嶽」
「そうです」
「スベーラキを守るために、ファガナシーとシラタルは島に渡ったと?」
「それもあります」
「では、他にも守るべき御嶽が? アカララキですか?」
私は身を乗り出して聞いた。
「そうです」

アカララキ。2ヶ月前に訪れた久高島で、ようやく辿り着いた御嶽。
現在の漁港である別名・ユウウラヌ浜、そして、
王府時代には「君之泊」(ちみんとぅまい)と呼ばれた港の正面(左)にある。
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久高島の古い島地図には、必ず印されているアカララキ。
私は東京から用意してきた質問を口にした。恐る恐る。
「アカララキとは、アラハバキのことですか?」
「そうですよ」
語り部は涼しい顔で言った。

アカララキの小祠。ご神体は石。
イザイホーでは神女たちが籠る七つ屋の横に「出張」して建てられた。
「門番として」と記録にはあるが、その意味はなんと……。
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by utoutou | 2013-08-29 07:50 | イザイホー | Trackback | Comments(0)

ミントンの娘とイザイホー〈3〉

「百名おとーしばん」(百名遥拝所)は、久高島南端・ミナーラ川の上。
川というより水脈だが。私も、ここで百名を遥拝してみた。
つまり、百名を通して神に祈りを通すのだ。

が、暑さで倒れ込みそうになり3分ともたない。そして思う。
若い夫婦はいったいなぜ、親元を離れ無人の島へと渡ったか。
サバイバルの保証もない古琉球の時代に。

百名の伝承では「従兄弟同士の結婚だったため勘当された」とか
「村の喧嘩に巻き込まれシラタルが村八分になった」というが、
それならばなぜ、何百年間も、久高島神人による「百名祭礼」
(里帰りしてのミントングスク参拝)は絶えることなく続いたのか。

ちなみに「百名祭礼」とは、久高島の元家の神人神女が、
年に数回、玉城に渡った神事。いわゆる里帰りで「玉城参り」とも。

久高島神人(かみんちゅ)たちはミントングスクで、
イザイホーの催行日時に関する神託も受けていた。
いわゆる「時取り」。その帰りに、ミントンからは、
イザイホー最後の演目「アリクヤーの綱引き」に使う稲藁が託された。

稲藁はミントンが管理する三穂田(みーふーだ)(琉球の稲が発祥した神田)
で穫れた稲から出来たものを使った。
『沖縄県久高島資料』「ミントングスクの根人知念幸徳さん聞書抄」
(1979年、古典と民俗学の会)より。

ふわりと風が吹いた。
後ろを振り向くと10mほど先の正面に「スベーラキ」が見える。

島では「スベーラの御嶽」と呼ぶが、その由来伝承は途絶えている。
道を右に下るとイラブーガマ。イラブー漁は500年も続いて今に至る。
自転車は徳仁港で私が借りたもの(2時間600円)。
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ふたりは、途絶えた古代の祭りを再興するために久高島に渡ったのか。
そう思った。語り部に聞いてみなくては。
玉城・久高島の伝承を知る宮里聡さん。神人(かみんちゅ)である。


今回訪れた御嶽を地図に書き入れてみた。
左下の地域のミナーラ川、イラブーガマ、スベーラキ。
(黒字は筆者)同じく黒字のアカララキ、ユーウラヌ浜についてはまた。
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ミナーラ川とスベーラキ周辺を出て漁港方面を見る。
右手がグラウンドとキャンプ場。キャンプする人を発見。
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by utoutou | 2013-08-28 09:39 | イザイホー | Trackback | Comments(0)

ミントンの娘とイザイホー〈2〉

沖縄に来ている。昨日8月26日(火)は久高島へ。
ファガナシーとシラタルの足跡を辿ってみた。

今夏、東京の酷暑に慣れていたはずだったが光線が違う。
暑い、そして眩しい。自転車で1周した午後3時〜5時。
さすがに日陰のない道を往く島人はいない。すれ違った旅人は4名。

まず歩いたのは徳仁港の西、灯台下の辺り。親元ミントンを離れ、
玉城の水堅浜(みでぃきんぬはま)から小舟で出発した若夫婦は、
島に着いた後、このあたりで住まいを点々としたことが
「7つヤードゥイ」(屋取り=移住した場所)として、祭りで再現されている。
ちなみに「7」の聖数を多用するのが、ファガナシーとシラタル伝説の特徴。

徳仁港の近く、イラブーガマ(海蛇が産卵にやって来る洞泉)から、
ふたりの故郷・玉城を遠望する。その距離10数㎞。今度正確に計ってみよう。

堤防のはるか先、左右に広がる本島の左端が喜屋武岬。
その右方向、稜線が高くなった辺りが玉城。ミントングスクはその下に位置する。
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イラブーガマの隣り、ミナーラ川から見る本島。首里・浦添の方向が見える。
ミナーラ川でもイラブーが獲れる。階段が、左のガマ(洞穴)まで続く。
下まで降りて岩間の海を覗いた。透明度はとても高いが、海底は見えない。
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ミナーラ川の近くで、ささやかな発見。
これまで、まったく気がつかなかった。
道の傍らをふと見ると「百名のおとーしばん」と刻印された石碑がある。

高さ30㎝、幅20㎝ほど。「おとーし」とは遥拝の意味だが、
では「ばん」とは「板」か「盤」のことか。
「百名」は、ミントングスクのある玉城仲村渠(なかんだかり)の旧名。
故郷の百名、実家のミントン、琉球すべての地に、
弥勒世(みるくゆー、五穀が豊穣する豊かな世)が訪れるよう、
ファガナシーは故郷に祈ったのだろうか。

「神の島の島立ての祖神」と呼ばれるファガナシーは、アマミキヨの末裔。
そして、おそらく稀代の霊能力を生まれ持ったシャーマン。

ファガナシーの故郷・百名を遥拝する百名おとーしばん、下に徳仁港が見える。
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ファガナシーとシラタルの故郷・百名。
そこにはアマミキヨが長い旅の終着地としたヤハラヅカサがあり、
アマミキヨの居住地跡であったミントングスクがある。
玉城と久高島は一対になっていることが、ここでは感じられる。

次に集落の北にある久高島資料館に行き、改めて「島立ての祖」、
そして「イザイホーの祖」でもあるファガナシーとシラタルの
物語を確かめる。次のような解説パネルが掲げられている。

【イザイホーの意義】
久高島では島に永住した最初の祖先はシラタルとファガナシーだった
と伝えられている。この二人が結ばれて1男3女が生まれ、
長男マニウシは外間根人、長女ウトゥダルは外間ノロ、
3女タルガナーは久高ノロの祖だと言われている。
ノロをはじめ島で生まれた30歳以上70歳までの女性は
ミコ〈巫女〉としてナンチュ(30歳〜41歳)、
ヤジク(42歳〜53歳)、ウンサク(54歳〜60歳)、
タムト(61歳〜70歳)の4段階に組織されるが、一般の女性から
ミコとして神女にタマガエー(魂替え)する儀礼がイザイホウである。
ミコのことをタマガエーとも呼んでおり
神を畏れ敬う念は今もシマンチュ(島人)の生活に根づいている。
イザイホウは、
午年の旧11月15日から18日までの4日間を中心に行われるが、
実際は旧10月の壬(みずのえ)のお願立てから旧11月20日の
ウプグイの行事に至るまで実に1ヶ月余の長期にわたる行事である。
それには、島で生まれた30歳から70歳までの女性が関わるが特に、
初めて参加するナンチュは旧11月15日までにお願立てに
ウタキマーイ(お嶽参り)を7回繰り返しカミナ(神名)を受け、
イザイホウによってタマガエーしナンチュとして神女になるのである。

イザイホーの祭祀場だった久高殿。
1978年、最後のイザイホーには約千人のマスコミと見学客が訪れたという。
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by utoutou | 2013-08-27 08:23 | イザイホー | Trackback | Comments(0)

ミントンの娘とイザイホー〈1〉

それは、ガラスのショーケースに厳重に保管されていた。
久高島宿泊交流館にある久高島資料館。
古代の祭りイザイホーで使用された神女のレガリア(象徴物)。
水彩のレプリカではあったが……。

誕生した神女たちが胸に抱き、捧げ持って祈った聖なる大扇。
島に通い始めて半年ほどの秋、それをショーケースで見た。

そして、大扇に描かれた絵柄の意味をあれこれ考える。
表に太陽と鳳凰、裏に月と牡丹。
琉球の国家安寧や五穀豊穣や子孫繁栄を祈る神女となる就任式がイザイホー。
扇には、このような富貴の表現がふさわしい。
12年ごとの午年の子月に催行された祭りだという。では干支の象意とは?

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「グゥキマーイ」を大扇で舞う神女たち。(比嘉康雄氏著
『神々の古層 主婦が神になる刻 イザイホー[久高島]』より)

ファガナシーはミントングスクの主・ミントン按司の一人娘だった。
夫は従兄弟のシラタル。いまから600〜700年前、英祖王統時代の話。

玉城の水堅浜(みでぃきんぬはま)から久高島に渡ったふたりは、
東海岸の伊敷浜に海の幸を求めるも叶わなず、それならばと、
西海岸のヤグルガーで禊ぎをすると、五穀の種が入った壷を手にすることができた。
その種をハタスという畑に埋めると、五穀は豊穣。
久高島はやがて五穀発祥の聖地として、崇められるようになった。

そして、美しく育った孫娘は紆余曲折を経て玉城王の正室となり、
西威王を産んだ。英祖王統五代目にして最後の王である。
西威王が久高島から父を探して王城に登るくだりは
『黄金の瓜実(うりざね)』という伝説として残っている。

いっぽう、ファガナシーの物語は王府時代の『久高島由来記』として残り、
イザイホーなどの祭りでは『ファガナシーのティルル(神歌)』が謡われる。
ファガナシーは神の島・久高島の島建ての祖神。
それにしてもなぜ、ファガナシーはミントンの娘だったのか……。

聞得大君が東拝み(あがりうまーい)でミントングスクへ登る「ノロの籠道」。
シラタルとファガナシーも、ここを水堅浜(みでぃきんぬはま)へと下った。
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ファガナシーが船出した水堅浜は、ヤハラヅカサの横にある。
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そしてふたりはこの久高島の南端、徳仁港あたりに着いた。
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by utoutou | 2013-08-26 13:33 | イザイホー | Trackback | Comments(0)

ミントングスクは太陽の神殿

畏れ多くもミントングスク神域の上に立ち、久高島を遠望遥拝して、私は初めてあることに気がついた。
振り向いたその先には、おおよその方角ではあるけれども、玉城城が鎮座していたのである。
考えてみれば当然のことだった。
玉城城の一の郭に開いた穴に、久高島から昇った夏至の朝日が射すのだ。
その玉城城はアマミキヨが造った。ミントングスクは住居跡とされる。
このふたつが、久高島に昇った「太陽の道」と無関係であるはずがなかった。


ミントングスクは、下の日の出入り図で言えば青線の上に位置する。
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実はミントングスクの神域内にも香炉が4つある。
階段を上がった登り口の右にある久高島への遥拝所(おとーし)にひとつ。
そこから真っ直ぐに進むと突き当たりガジュマルの木の下にある火の神(太陽霊)にふたつ目。
左の崖際にある遥拝所に3つ目。そしてアマミチュー・シルミチューの墓所の拝所に4つ目。
これら4つの香炉に囲まれる祭祀空間が、ミントングスク神域中の神域である。
現在でも、この4つの香炉で拝礼する(四方拝)のが、正しい参拝の仕方だという。

下の写真は火の神だが、ひとり瞑目していたとき、ふとまた気がついた。
久高島への遥拝所が東に向いていることは当然として、この火の神は対極の西に配置されている。
つまり、アマミキヨが初めて整えた住居であり祭祀場であったミントングスクも、
まぎれもなく東西軸に貫かれた「太陽の神殿」なのだった。
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玉城城の一の郭に沈む冬至の夕陽
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久高島。本島を望む西海岸にある、島で最高位の御嶽・フボー御嶽。
立入り禁止のため参拝者は御嶽の入口で拝礼するが、傍らに立てられた御嶽内マップを見ると、
入ってすぐ左にふたつの拝所が並んでいる。
ひとつは首里への遥拝をするワカリカサ、もうひとつは玉城への遥拝をするティリリカサ。
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首里城と玉城城への遥拝は、つまり「夏至の日の入り」と「冬至の日の入り」への遥拝を意味したと思う。
首里城に「西のアザナ」(物見台)があり王が日没を拝したように、
ここは神の島の「西(夕陽)の遥拝所」だったのではないか。

「古代日本の太陽信仰は朝日・夕日信仰」だったと著したのは、歴史家の大和岩雄氏だ。


「古代日本人の太陽信仰・日神祭祀の太陽神・日神といえば、天照大神」だが、
それは「王権によって作られた日神像」で「そのまま引用して、太陽・日神信仰を論じても、
古代日本人の心意も信仰も見えてこない。
高天原 → 葦原中国 という垂直思考は、『記』『紀』を作った支配者の統治思想であって、
われわれの祖先、権力者でない人々は、太陽の賛美は天上に輝く太陽でなく、
朝日さす 夕日かがやく 朝日・夕日であった」(『神と人の古代学』2012年、大和書房)

古儀の太陽信仰が東(あがり)と西(いり)を崇めることだったのは、
琉球第二尚氏王朝三代・尚真王の時代に始まったとされる久高島の祭り・イザイホー
(島の30歳から41歳までの女性たちが神女になる就任儀礼)が物語っている。
イザイホーの祭祀場・御殿庭(うどぅんみゃー)の祭屋は東西軸に並ぶ。
中央、イザイホーでは蒲葵(クバ)で覆われたという神殿(神アシャギ)を駆け抜けた女性たちが
3日3晩籠る「七ツ屋」(仮屋)は、北斗七星に例えられていたと思う。

4日目、神女となって厳かに円舞に臨む女たちが抱く大扇には、太陽と月が描かれていた。
儀式がすべて終わると神女たちは整列し、大扇を両手で捧げ持って4回拝礼する。
その隊列は東に向いていた。(『神々の古層5 主婦が神になる刻[イザイホー・久高島]』参照)
by utoutou | 2013-08-21 22:07 | ミントングスク | Trackback | Comments(0)

ミントングスクは世のはじまり

ミントングスクに山東から渡来した祖先が祀られていることは、
「昔、神の世に牛、馬、豚、羊等の獣を唐のサントンの国より持ち帰られたり」
との伝承からも伺えるが、この祖先が「明東」なのかは分からない

はたしてアマミキヨ・シロミキヨは、
紀元前にヤハラヅカサに漂着した徐福一団のことだったのか。沖縄の歴史、
その核心に迫る発見となるか。木村教授のさらなる調査研究を心待ちにしたい。

さて、現在、ミントングスクの神壇には4つの香炉が安置されている。
文字通り「明東」の存在の大きさが際立つ。
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a0300530_14344589.jpgミントングスクのある仲村渠に住む古老の話では、
神壇の香炉には、左からシロミキヨ、アマミキヨ、(中央がアマミキヨ神の位牌)、天孫氏、ミントンの銘(神事を司る神人)がある。

久高島の祭祀を記録した写真家・比嘉康雄氏も『神々の原郷 久高島(下巻』)(1993年、第一書房)では、右のように図示。
ミントン家当主の知念幸徳氏曰く「左からシロミキヨ、アマミキヨ、天孫氏、ミントン」。
中央「トゥトゥメー」とは位牌のこと。
  
しかし、大正15年にミントングスクを調査した鎌倉芳太郎氏によれば、
神壇には「香炉9個ヲ安置セリ」と。
鎌倉芳太郎氏(1898~1983年)は香川県出身。高校の美術教師として沖縄に就き、
後に型絵染作家として人間国宝に。戦前の沖縄の文化を調査記録し、
首里城の再建にも尽力。「沖縄文化の父」とも呼ばれる。

祖先神「ミントン」は「アマミキヨ・シロミキヨ」とは別神か?
先の古老は言った。
「ミントン神屋の香炉は、左から時代が古い順に並んでいる」
つまり、ミントン(明東)の渡来に先立った時代に始祖神がいたと。
であれば、アマミキヨとシロミキヨは、夫婦神ではない。
アマミキヨ族、シロミキヨ族と称される渡来の一族がいたということになる。

鎌倉芳太郎氏がスケッチした「ミントングスク神域見取図」。
図中の左上に、鎌倉氏が当時のミントン当主の知念伊郎氏から聞き書きした「開闢伝説」。
鎌倉芳太郎氏著『沖縄文化の遺宝』(岩波書店)より。

(開闢伝説)
世の初まりは(シルミチュー、アマミチュー)の御神(オテダ、オチチ)のあがり口にて
生まれ給いぬ、七日七夜の後に上り来られたり、これまでは天と地分かたず
夜と昼なし、即ち神は「二ライカナイ」に居られたり、
然して神がこの「ミントングスク」に降らせられたる時に初めて天と地と分かれ、
夜と昼の分け生じたり。
『ミントン』(1990年、玉城村仲村渠発行)P.52
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『沖縄文化の遺宝』に鎌倉氏が記した「開闢伝説」への解釈は次の通り。

昔始まりは、「アマミチュ」「シルミチュ」の御神、
「おてだ」「おちち」の上り口にて生まれ給い、「二ライ」「カナイ」に居らせられ、
七日七夜の後に「ミントングシク」に降臨せられ、
初めて天と地と分かれ、夜と昼の分れ目が出来たという。
これは日月星辰に対する信仰であり、
明らかに沖縄の古代民族の太陽崇拝の思想から生れた神話である。
そしてこの神話によって、『琉球国由来記』(年中祭祀)に記されている
首里御城中の「御日御月御前」及び聞得大君御殿の日月崇拝の意味が分かってくると思う。

「おてだ=太陽」と「おちち=月」は「上り口=水平線」で生まれ、ミントングスクに降臨した。
「ミントングスクは世のはじまり」。ミントングスクには壮大な神話がある。

現在のミントン当主・知念幸正氏にグスクの上方に案内してもらった。
凪いだ海に、アドキ島、タマタ島、コマカ島、そして久高島が、一直線に遠望できた。
あっと思った。後ろを振り向くと、真正面にあの城(ぐすく)がそびえていた。
by utoutou | 2013-08-21 17:58 | ミントングスク | Trackback | Comments(0)

秦の始皇帝の使者・徐福とミントングスク

「ミントン」は「明東」?
その伝承を知り、私は徐福を連想した。紀元前220年、
秦の始皇帝の命を受け、不老長寿の薬を探して数千人の男女を伴い日本に渡来したという伝説の人。

実は久高島にアマミキヨが五穀の種子を埋めたという「ハタス」という名の拝所がある。
「ハタス原」(ばる)ともいう。実は、調べると熊野(三重県)にも「波田須」という町に徐福の墓があるという。
こちらの「はたす」は、かつて「秦栖」や「秦住」と表記されていた。
熊野と久高島にあるこの地名の一致は、秦から来た人(徐福)を意味するのだろうか? 
神話では、アマミキヨはまず久高島に五穀の種子を蒔き、水量の多い玉城に移住して稲を育てた。


ミントングスク神域、珊瑚礁岩の墓所に祀られるアマミキヨ神・シネリキヨ神。
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ミントングスクの上から久高島を遠望。この場所から夏至の朝日が久高島から昇る。
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しかし、アマミキヨは女神だった。徐福は日本各地に立つ銅像を見ても偉丈夫な男性。
イメージが違いすぎる……と考えていた4年前の玉城滞在中あるパーティーで、
琉球大学の木村政昭名誉教授と偶然お会いした。
あの与那国海底遺跡の調査で高名な海洋地質学者だ。 

会のテーマが「琉球発祥の地・玉城を語りあう」ということだったので、私は教授に訊ねた。
「アマミキヨは本当に女性なんでしょうか?」
すると、ちょっと嬉しそうな顔になり教授は言った。
「それは、いい質問ですね」
「ということは、男性なのですか?」
「私はアマミキヨ・シネリキヨは集団だと考えているのです」

そのときの話は拙著『おきなわルーツ紀行』に「アマミキヨ族のランドマーク」という題で、
以下の文を書かせていただいた。


琉球の開闢神アマミク(アマミキヨ)・シネリク(シネリキヨ)のうち、シネリクこそが徐福のことであると、
その著書『新説 ムー大陸沈没』(実業之日本社)で著したのは与那国島の海底遺跡調査で知られる木村政昭教授。
木村氏は沖縄県南城市の百名海岸に、巨大ドルメン(人工構造物)群を発見したが、
これらは徐福のモニュメント、あるいは権威の象徴だという。
 また、百名海岸のある玉城から海岸線に沿って20㎞ほど南下した糸満市・喜屋武岬の荒崎浜にも
典型的なドルメン状の巨大モニュメントが一対ある。
 台風で打ち上げられた津波石という説もあるが、周囲には遺溝があることから、
木村教授はこれを「王と妃の墓」と見て「炭素14年代測定法」により分析、2000年前のものと判断した。
 日本ではこうした巨大ドルメンは、他に類を見ないといい、唯一、
沖縄で最高の聖地である斎場御嶽の三庫理(さんぐーい)が似た構造を持つ。
荒崎浜のモニュメントは「カサカンジャー」と呼ばれる拝所となっているところから、
木村教授はこれも墓であろうと言う。
「百名、糸満、どちらも遺跡のスケールからいって、
万里の長城や海底遺跡を造った始皇帝の関係者が作ったのではないかと思われます」と。

 
百名海岸、ヤハラヅカサのすぐ傍にある巨大なドルメン群。「そのヤハラヅカサも、ストーンサークルだと思いますね」と、
パーティー参加者らを百名海岸に案内してくれた木村教授は言った。
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徐福の一団がアマミキヨ。そして、ミントンの由来は「明東」という仮説に立てば、
久高島で聞いた「ミントンは殿(トゥン、祭祀場)のはじまり」という話も大いに頷ける。
秦の始皇帝の即位式をした祭祀場は「明堂」(ミンドゥン)という。

はたして徐福は、あるいは徐福の一団は、沖縄に渡来し、
沖縄の始祖として国土を拓き繁栄してきたのだろうか。
時代下って三山時代には「明東按司」や「明東若按司」と称される英傑もいたと伝わり、
知念玉城地域には「明東按司の直裔」を名乗る門中がある。
by utoutou | 2013-08-18 11:15 | 玉城 | Trackback | Comments(2)

アマミキヨは山東省から渡来した?

百名海岸のヤハラヅカサに船を着けた琉球の始祖アマミキヨは、ゆえに海から来た渡来人である。
琉球王府が出した『中山世鑑』には「昔開闢の神アマミキヨはじめて五穀の種子を天より請い来りて、
これを久高島及び知念玉城に始めた」とあるが、古代史では「天」(あま)を「海」(あま)と解するのが一般的。
つまりアマミキヨは、五穀の種子を携えて渡来した渡来人である。


ヤハラヅカサから50mほど入ったところに浜川御嶽がある。
伝承では、アマミキヨはここで仮住まいした後、急斜面を登って標高110mのミントングスクまで移動した。
そして途中、裸人を見たとも。「裸世」(はだかゆー、裸人が歩いていた時代)だったのだ。
現在でも豊富な水量があり、傍の河口からじゃんじゃん水が流れている。
300m西には、稲作発祥の地・受水走水(うきんじゅ・はいんじゅ)がある。
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沖縄学の父・伊波普猷(1876〜1847年)氏は、
「今日の沖縄人は紀元前に九州の一部から南島に殖民した者の子孫である」と記した。
地元・知念(村)で村長や校長の要職にあった郷土史家・新垣孫一氏も、
その著『琉球発祥史』(1955年)で伊波普猷説を、次のように紹介している。


〜琉球史の発掘者と推称すべき伊波普猷氏は、
難解なるオモロの琉球開闢神話が初めて日本の開闢神話と符合せることを発表し、
かつ伝説による「アマミキヨ」と云う種族は、大島海見嶽に天降りせる人々にて、
暫次南下せしこと、また奄美の地名は九州東海岸にある海人部の地名と同一であると唱えた。
(中略)最初の琉球人は口碑の如く久高島に到着し、
これより知念玉城に居を定めたのであろうと論じている〜


アマミキヨの定住地域はやがて知念半島全体へと広がり、点在する居住地跡が、
琉球王府時代に国王と聞得大君が参詣した「東廻り」(あがりうまーい)のコースとなった。
つまり、アマミキヨは一族あるいは集団だったのか。


東廻りコース(『沖縄大百科事典』より)。
図中「4」の馬天(ばてん)以南の地域を「東四間切り」(あがりゆまじり)と言った。
佐敷、知念、玉城、大里、現在の南城市である。
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琉球石灰岩からなるミントングスク。
『ミントングスク調査覚書』(1979年、沖縄県文化財保護委員会)によれば、
「原始時代の遺跡であることがわかる。
遺跡内からは当時の生活用具である石斧や土器類等が採集される。
採集される遺物を見ると沖縄の貝塚時代とグスク時代を含む複合遺跡であることが分かる」という。
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この調査で発掘されたのは、石斧、すり石、フェンサ上層式土器(グスク時代)、
薄手硬質土器(後期縄文時代)、ゴホウラの貝殻など。
そして私は調査資料の中の「聖地」の項目に、気になる箇所を発見した。

〜大正3年11月26日付で島尻郡長・斉藤用之助から県内務部長に提出された
『県史編纂資料』(東恩納文庫蔵)に次の記述がある。
免登武能之霊場ハ字仲村渠ニアル俗ニ明東城トモ云フ(中略)
一説に曰く阿摩美好ノ神ノ後ナル天帝子其天帝子ノ出所ハ支那山東省ノ明東府大東島也ト〜

ミントンは「明東城」。アマミキヨは山東省の明東府から渡来した……と?
by utoutou | 2013-08-16 21:54 | 玉城 | Trackback | Comments(0)

浦添城の英祖王はアマミキヨ

冬至日に久高島の朝日を望む場所に、
浦添城を築城したのは英祖王(在位1260〜1299年)だった。

築城者については、英祖王統初代の王であるこの英祖とする説、
次の察度王統時代に築かれたという説などがあり、
実証は困難だと長く言われてきたが、
城跡と周辺遺跡を浦添市が発掘調査(96〜04年)した結果、
英祖王による築城が確実となった。
遺跡・遺構の年代測定や文献資料を総合すると、
浦添ようどれの造営は1273年と特定できたという。
(前掲の安里進著『琉球の王権とグスク』より)

琉球王統略系譜
『浦添の歴史を探る』
(NPO法人うらおそい歴史ガイド友の会編集制作)より引用。
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では、英祖王とはどのような人物か?
歴史は義本王から王位を譲られ英祖王統を開いた王と伝えるが、
その出自は謎めいており、
ジンギスカンや豊臣秀吉伝説にも似た「日輪伝説」がある。

曰く伊祖城主だった父・恵祖世主(えそのよのぬし)には子がなく、
母が「日輪が懐に入る夢を見て身ごもり、英祖が生まれた」
(『中山正譜』)。そのため「天日之子」(太陽の子、てだこ)
や「英祖日子」(えそのてだこ)と呼ばれた。

また『おもろさうし』(琉球王府時代の歌謡集)には、
英祖の父・伊祖按司歴代の居城だった伊祖城について、
興味深い表現がある。
   
〜えぞえぞのいしぐすく あまみきよが 
たくだる(作った)ぐすく(第15-15)〜   

「えぞ」は「伊祖」の意味。
伊祖按司は琉球の始祖アマミキヨの末裔であるという。
ならば、その子である英祖王もまたアマミキヨの末裔。
神の島・久高島を拝していたのもうなづける。
久高島は陽の昇る東方(あがりかた)に位置し、
琉球の始祖アマミキヨが天降りして種をまいた五穀発祥の聖地。
(『中山世鑑』『琉球国由来記』『琉球国旧記』)

英祖王にとって、
また東西軸を重視した城(ぐすく)を築城した按司たちにとって、
久高島はいわば故地。民俗学者の谷川健一氏は
「アマミキヨには二通りある」のだと記している。

鉄器をもたらしたアマミキョは「今来」(いまき)のアマミキョで、
それ以前、日本本土から南島に渡来したアマミキョは「古渡り」
(こわたり)のアマミキョであった。
(1995年発刊、小学館『古代海人の世界』より)


谷川氏はまた「浦添の伊祖の石の城は、
アマミキョが工匠として造った城である」とも記した。
鍛冶技術や鉄器と共に渡来した人々が今来、
つまり最近のアマミキヨ。
そして五穀をもたらした古渡り、
つまり古代に渡来したアマミキヨもいたのだと。
谷川説は、いずれも出発地は日本本土としている。

そして、私は「三通り目」と考えられる、
「鍛冶技術と五穀を携え、外地から渡来したアマミキヨ」
の説話に出会うことになる。

ここヤハラヅカサ(南城市玉城百名)の海岸に渡来した
アマミキヨは稲をもたらした。
海中に立つ尖った石がアマミキヨが最初の上陸地点。
満潮になると海に没する。
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by utoutou | 2013-08-15 23:35 | 城(ぐすく) | Trackback | Comments(2)