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久高島・男祭りの扇、そしてムカデ旗

「太陽神の祭り」テーラーガーミの扇。
儀式を済ませてテーラーガーミとなった男たちが手にする、まさしく太陽神の依り代である。
赤丸は太陽を表すというが、これはおそらく近年のもので、古くは蒲葵扇(クバオージ)だったのではないだろうか。
沖縄では、神世の時代から蒲葵が神の依り代だったと言われる。


実物を見たくて、知り合いのおじいを訪ねた。
70 歳で大主(ウプシュ)を退役して十数年は経つはずだが、手を伸ばせば開けられる引き出しから、
サッと出して見せてくれた。
見ると、ティルル(神歌)の歌詞が書き込まれてある。
「自分で書いたの?」と聞くと、「1年に1回の祭りだからねえ」と言い、上目遣いで少し笑った。
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そういう訳で、今年の大主の方々も、お祓いの行進を前に扇で歌詞を確認しているようだった。
テーラーガーミの第一祭場・集落の中央にあるハンチャアタイ(神の畑)の横道にて整列中。
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ところで、テーラーガーミまで一連の行事が続いた八月祭り。
その間、ハンチャアタイに隣接する久高ノロ家には旗が掲げられていた。
写真ではよく分からないが、上が黄色地に赤丸の三角旗(太陽を表す)。下が紅白の二色旗(太陽と月を表す)。
この二色旗は、実はごく最近まで「ンカデ旗」と呼ばれる、ムカデをかたどったものだったという。
百足の百にかけてか、ムカデ旗の意味は「子孫繁栄」だと、島のおばあたちは言った。
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ムカデ旗……どこかで見たようなと、調べてみたら、コレ↓
19 世紀中葉の那覇港を描いた『琉球貿易図屏風』(滋賀大学経済学部附属史料館蔵)にその旗はあった。

左が琉球国の進貢船。中央のマスト上に黄色地に赤丸の三角旗。その下に吹き流しのようなムカデ旗が。
漢字で書かれた旗は進貢船を表す旗(行きは「進貢」、帰りは「奉旨帰国」)だという。


「進貢」旗以外の旗は、航海安全に関わる呪術的な意味が込められた装飾物であり、
当時における海洋信仰を知る素材となるものである。
(豊見山和行氏著「「琉球貿易図屏風」を読む」2004年 『沖縄タイムス』より参照)

琉球王朝の海人は、黄色旗やムカデ旗を掲げて航海の無事を太陽神に祈った。
そして、ここ神の島・久高島からの祈りは、時代が変わり、人が減り、祭りが半減しても、
なお基本を変えることなく、古儀に新儀を融合させることで維持されてきたのだと思う。
もしかすると琉球王朝より、かなり以前の古代海洋王国の時代から。

右の写真は同じ屏風に描かれた薩摩藩の船。船旗は島津家家紋の「丸に十字」。
私たちが知っている日章旗はまだ使われていない。
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実は八月祭りのなかに、もうひとつ男の祭りがある。
『ナーリキー』(命名の儀式)。島の青年たちが自分の名前を神様に報告する神事だ。
これは、イザイホーと同じ12年ごとの午年に行われるもので、15歳から26歳の男性が神前に自分の姓を申し出る。
これをもって男子は正人(しょうにん、一人前の社会人)となり、一地(チュジー、約360坪)の耕地が与えられた。
または海人として唐船(トーシン、中国往復船)や楷船(テージン、薩摩往復船)に乗り込んだ。
そして神の島の祭りを経済面で支えた。

久高島では今なお、伝統の土地共有制を貫く。それは英祖王の時代から始まったという。
英祖王とは、こちらにも書いたように「今来のアマミキヨ」と目される人物である。
琉球王朝よりも古いその王統は「玉城天孫氏(たまぐすくてんそんし)」と呼ばれる。
わが語り部である宮里聡さんが出会った玉城のウメおばあとは、玉城天孫氏を祀る神女だった。
ウメおばあについては、こちら。
by utoutou | 2013-09-26 07:01 | 久高島 | Trackback | Comments(0)

玉城に呼ばれた男〜1977〈2〉忘れられた御嶽

9月16日(旧暦8月12日)、久高島にいた。
八月祭りの最終日。
テーラーガーミ(太陽神の祭り、50歳から70歳の男性が参加)
は15時からの予定だったので、朝の船で本島に出た。
午前中いっぱい御嶽廻りをしても、テーラーガーミには十分間に合う。
さて、どこを回ろうか?

安座真港に停めたレンタカーに乗った途端、行き先は決まった。
国道331号線を南下して薮薩の御嶽(やぶさつのうたき)へ。
琉球王府の正史によれば、琉球七御嶽のひとつ。
神女のウメおばあによれば、琉球最古の御嶽。
14歳のサトシ少年が、最初に案内されたのがこの御嶽だった。


薮薩の御嶽。うちなー口では「やふぁさちのうたき」。
御嶽の先は崖。手前の広場はカフェ「やぶさち」の駐車場。
車が隙間なく並ぶランチタイムには間がある。カフェはサトシ少年が
初めて来た当時にはなく、背丈以上ある草木を掻き分けて歩いたという。
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朝9時前、御嶽に入った。
木漏れ日が可愛く揺れる、誰もいない聖なる森。のはずが、
先客がいた。聞けば我那覇麗愛(がなは・れな)さんという。
「3ヶ月前から御嶽廻りを。きょうは初めてここに」と。
聖地に呼ばれた人。彼女もスピリチュアルな道に進むらしい。
「これからの人生、御嶽で神々を鎮めて歩きたい。今とても幸せ」
と、ピュアな笑顔。

36年前のその日、サトシ少年も幸せを噛みしめていたに違いない。
彼女と意味は違っても。何年も自分を苦しめた夢。
その謎が解明されるときは、刻々と近づいていた。
「声」が語りかけていた。次はヤファサチノウタキへ、と。

「おばあ、ヤファサチノウタキというのはどこ? そこに行けって」
驚いたのはウメおばあ。サトシ少年の手を引くと黙々と歩き始めた。

百名のバス停を海方向へ曲がり、細いワイトイ道(切り通し道)を下る。
現在ある団地の建物はなく、道なき道を、鎌で草木を切り倒しながら。
そして、薮薩の御嶽(やぶさつのうたき)に。
ウメおばあが香炉に向って拝むと、サトシ少年もその所作にならった。

「このヤファサチは、とても肝心なところだよ」と、ウメおばあ。
「声」がまた、サトシ少年に語りかけたという。
「ここは、百名の古島(ふるしま)。ウサチミントン」

「おばあ、古島とか、ウサチミントンとも言うんだって」
「そうだよ。最初にできた集落のことだねえ。
あいえなー、うすりいっちょーいびん(たいへん畏れ多いことです)」
 ウメおばあは、かしこまって一礼した。
「ウサチって、何?」
サトシ少年は神託の意味を問うた。
「ウサチとは、御先と書く。何千年も前ってことさ」
「へえ、そんなに古い場所なんだね」

薮薩の御嶽の左手眼下には、久高島の始祖ファガナシーとシラタル夫婦
が船出した水堅浜(みでぃきんぬはま)が見える。
陸続きの島(手前)はアージ島。水平線に浮く久高島が遠望できる。
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ウメおばあは、サトシ少年を諭すように言った。
「薮薩の御嶽と斎場御嶽は一対だよ。でも最初に拝むのはここ。
斎場御嶽だけ拝んでも弥勒世(みるくゆー、平和な世)は開かない」
渡来したアマミキヨを鎮めるための参拝には順序があるのだと。
「そして、ほら、そこの海に立っているのが、ヤハラヅカサだよ」
「知ってる。海に立っている石でしょ」サトシ少年は歓喜した。

薮薩の御嶽からヤハラヅカサの海を見る。環状の列石はストーンサークル
だと、与那国海底遺跡の調査で知られる木村政昭琉大教授は言った。
古代、ヤハラヅカサはその真ん中に? 現在は右端にある(尖った石)。
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翌日、那覇で会った宮里さんは言った。
「当時は、薮薩の御嶽からヤハラヅカサへと下る道もあったんです。
薮薩の御嶽から歩いてヤハラヅカサが見えたとき、私は叫んでました。
この海だ、この海だ、自分が見たのは絶対にここである(笑)。
天も地も自分のものかと思うほど嬉しかった」

36年の歳月が流れたが、宮里さんへの「声」は止まない。
先日も「薮薩の御嶽」と聞こえ、この地を訪れた宮里さんは新発見をした。

「薮薩の御嶽の中に空洞を見つけたんです。下り口でした。
少し下ると、大きなガマ(洞穴)の遺跡があるのが分かった。
「アマミキヨが住んでいた古島ということですか?」
私の胸は、高鳴った。

何千年かの歳月を経て、今は忘れられた御嶽。
アマミキヨが仮住まいした所は、歴史書にある浜川御嶽だけではない。
アマミキヨ(族)は分散して住んだ? 次回の旅では、そこへ行こう。


国道331号にかかる下田高架橋。橋がなかった時代は、
集落から海へ、また集落へと道を「縦移動」したが、今は車で「横移動」。
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by utoutou | 2013-09-19 20:59 | 語り部 | Trackback | Comments(0)

玉城に呼ばれた男〜1977〈1〉

宮里聡さんは、どのような経緯で玉城に呼ばれたのか。

1977(昭和52)年。宮里さんが14歳、中学2年生だった夏のこと。
干支でいえば三巡り前の巳の年。今から36年前、
サトシ少年はアマミキヨにゆかりの聖地・玉城に辿り着いた。

聖地が人を呼ぶのか? と、私は正直最初は思った。
しかし、イザイホーでも永遠の魂の再生(魂替え=タマガエー)
を祭祀の中心としていたように、神々が今なお御嶽に滞留している
というのが沖縄の、いや、古代日本人の神観念だった。
そして大地、海、風、星々が神だったことを思えば、不思議な話ではない。

さて、生まれつき霊能力の強かったサトシ少年にとって、
玉城の百名は約束の地。夜な夜な夢で集落の風景を見せられ、
「ここへ行け」との神からの託宣は繰り返されたという。

しかし、その集落が沖縄のどこにあるのかが、分からなかった。
位置を知らされないまま「早くそこへ行け」との神託は続いた。

神様はこうして人を試すものなのか、サトシ少年は夢にうなされ続けた。
その孤独で長く続いた神との戦いについては、後に記すとして、
サトシ少年を脅かした神託は、やがて決着のときを迎える。

衰弱して入院していた中2のとき、メッセージが下ったという。
「新原海岸に近い百名に、屋号・新門(みーじょう)を継いだ
上之当(いいのあたい)という屋号の家がある。
カミナームイ(神の森)と、カミナーグムイ(神の池)があるのが目印。
そこにウメという亥年のおばあさんがいるから、訪ねなさい」
「でも、その家をどうやって探すの?」
サトシ少年が聞くと、夢の声は告げた。
「病院で会うフミというおばさんに教えてもらいなさい」と。

サトシ少年が辿り着いた百名のバス停(現在)。
那覇から来たサトシ少年は、ここで降り、ウメおばあと出会った。
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百名に着くと、畑の中の一本道に建つ家の前におばあが立っていた。
クバ傘を被り、タオルを首にかけ、カマを持っている。
サトシ少年は、泣きながら突進したという。
「このおばあである、このおばあである……」
驚いたウメおばあは言った。
「あんた、どこの子ども? なんでこんなして歩いている?」
それがふたりの出会いだった。サトシ少年は確かめるように聞く。
「おばあさんのところは、上之当(いいのあたい)というの?」
「やんどー(そうだよ)」
「新門(みーじょう)ってなんのこと?」
「新門というのは玉城天孫氏を祀ってある家のことだよ。
玉城の大きい根所(にーどぅくる)のひとつ。とにかく入りなさい。
あんたは生まれ(徳の高い生まれ)を持っている子だ」

ウメおばあは「玉城天孫氏」の祖先を祀る神女(かみんちゅ)だった。
それは英祖王を初代とする王統。そしてアマミキヨの末裔。
神壇に挨拶を済ますと、サトシ少年はウメおばあに聞いた。
「薮薩の御嶽って、近くにあるの? そこへ行けって言われたよ」

新原海岸。
ヤハラヅカサのある百名海岸からここまで約2㎞、白砂の浜辺が続く。
当時から海水浴場として人気。
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久高島の秘祭イザイホーが途絶えたのは、翌78年。
その年、玉城にあった米軍基地の跡地に琉球ゴルフ倶楽部がオープンした。
沖縄本土復帰から6年。車の左側通行が右側に変更になったのもその年。
新時代に逆行するように、サトシ少年の御嶽廻り(たきまーい)は始まった。

語り部・宮里聡さん(現在)と筆者(右)。玉城『天空の茶屋』にて。
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by utoutou | 2013-09-15 10:26 | 語り部 | Trackback | Comments(4)

玉城に呼ばれた男〜2009

噂話は玉城(たまぐすく)でも知念(ちねん)でも聞いていた。
ある人は宮里聡さんについて「沖縄一、見える人」と言った。
凡人には見えないものが見え、聞こえないものが聞こえる、本物の神人(かみんちゅ)だと。

たとえば、知念に住む男性Kさんの話。
薬草の研究者であるKさんが、日本にはない薬草を求めて海外に飛んだときのこと。
初めての国で右往左往するばかり、なかなか目指す薬草の自生する場所は見つからなかった。
するとKさんの携帯電話が鳴った。沖縄にいる宮里さんからだったという。
宮里さんが言った。
「そこでいいですよ。振り返ってみてください、薬草が生えてます」
ズバッと指摘されたその場所で、Kさんは目的を果たすことができたのだという。
「宮里さんは、時空や次元を飛び越えた存在とコンタクトしている。
だからいつも、悩みのある人たちに追いかけられて忙しい」と、Kさん。

その忙しい宮里さんと会ったのは2009年。以前にも書いた「玉城を語る会」でのことだった。
学者や実業家や出版関係者やアーチストなど、20人以上はいたと思う。
あれこれと歓談するなか、話が「琉球七御嶽」に及んだとき、宮里さんは言った。

「戦前生まれの玉城のおばあたちは言っていたんです。沖縄でいちばん古い御嶽は、薮薩の御嶽(ヤブサツノウタキ)。
ここを拝まなけれぱ世は開かない、斎場御嶽はその後だよと」
御嶽廻りに順番があるとは知らないことだった。
玉城の御嶽を廻り、国造りの神々を鎮めていた玉城のおばあたちがいたことも。
これは古(いにしえ)のアマミキヨ像に近づくためのチャンスかもしれない。
私は追いかけずにいられない「語り部」として、宮里さんを見るようになった。


ヤハラヅカサ。
この百名海岸を見渡すことのできる高台の別荘に、玉城を愛する人々が集った。
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ヤハラヅカサから浜に上がると、眼前にそそり立つこの「薮薩の浦原」一帯と向き合うことになる。
“七御嶽”のひとつ。写真の右手を行くと、地元の人たちが整備した浜川御嶽へと登る石づくりの階段こちらがある。
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『南城市史総合版(通史)』(2010年、南城市教育委員会)より借用。
図のタイトルは「国土造成神話七御嶽(『中山世鑑』をもとに作成)」。
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「琉球開闢の地」そして「神話のふるさと」だけあって、『中山世鑑』(1650年)の国造り神話に出て来る七御嶽のうち、五つの御嶽(知念森城(ちねんむいぐすく)、斎場御嶽(せーふぁうたき)、薮薩の浦原(やぶさつのうらばる)、玉城アマツヅ(筆者注・玉城城にあるイビ))、久高コバウ森(注・9ボー御嶽のこと))が、ここ玉城と知念(どちらも現・南城市)に集中している。

その『中山世鑑』には、アマミキヨが造った「七御嶽」は次の順番で記されている。
「まず第一番に」(国頭)辺土の安須森→今鬼神(なきじん)ノカナヒャブ→知念森→斎場嶽→薮薩の浦原→次に玉城アマツヅ→久高コバウ森→首里森・真玉森→「次に島々国々の嶽々森々を造り……」

沖縄本島の北端から始まる国造り物語は、玉城の口伝とは違っていたのだろうか。

琉球王府が編んだ正史への違和感。それは玉城に生きたおばあたちだけの話だけではないようだ。
玉城仲村渠で編集発行された書『ミントン』(1990年、玉城村字仲村渠祭祀委員会)からも、そのことを伺い知ることができる。


【琉球の「正史」とミントン】
ミントンは沖縄の開闢の地とされながら琉球王府の正史などにはまったま触れられていない。羽地朝秀の『中山世鑑』という琉球最古の歴史の本には琉球の国は天の神、すなわち天帝から遣わされた神アマミキヨによって造られたとされている。
これとは別に「長浜系図」という民間に流布していたものがある。その抄録がわずかに残っているが、それには明東天帝氏が琉球開闢の祖アマミコ、シニリクの直系となっている。・・・・中略
一つ考えられることは、『中山世鑑』が王府の正史であるという立場上、王権を権威づけるため国王の支配するこの地を神聖視させる必要があったことと、その神を海のかなたから来た人間臭い神アマミキヨではなく、最も権威のある天の神に結びつける必要があったことと思われる。
ヤハラヅカサ、浜川、ミントン、人間的アマミキヨなど、リアルなイメージでは為政者の権威づけとしては不都合であったのだろうか。


私は語り部にお願いして、翌日東京に帰る前に会う約束をとりつけた。
語り部が玉城の地にやって来たのは、1977(昭和52年)。最後のイザイホーが行われる前年のことだった。
by utoutou | 2013-09-12 15:59 | 語り部 | Trackback | Comments(0)

玉城(たまぐすく)に呼ばれた男

「来年は午年でしょ。私もイザイホーを見に行きたい」
ブログを始めてから、そんなメッセージが友人から届いたが、
残念ながら1978(昭和53)年で、イザイホーは途絶えた。

もし復活するなら私だって見てみたいが、それは無理な話。
戦後初のイザイホーが1954(昭和29)年に行われたとき、
神女(ナンチュ。島で生まれた30歳から41歳の女性)
として祭りに参加した女性は100人いたという。
が、1966(昭和41)年には半減、最後のイザイホーでは8人に。
現在、島に住む有資格者はわずか1名である。

「イザイホーとは、つまり何?」という質問もいただいた。
私が考える「竜蛇の祭り」説はさておき、
神女の就任式、祭祀組織への加入式、王権儀礼と、
その意義はいろいろあるが、イザイホーの本質を説いた学者はいない。
そんななか「イザイホーとは“探し求める火”」と語ったのは、
ミントングスク先代当主の知念幸徳氏(『沖縄県久高島資料』66年、白帝社)。

「火」とは「女」であり「霊」、神女たちが祖霊を求め、
出会い、そして祀るという意味だろう。
神女は祖神霊のサポートを得て家を守り、クニ(島)を守り、
王朝時代にはその繁栄を霊的に支えた。
彼女たちは主婦でありながら、現人神となり、巫女となり、祭司となったのだ。

イザイホーの話をしていると、宿主が勧めてくれた。
「神様と出会いたいなら、自分の好きな場所でお祈りしたら」
そんなわけでよく行くのはウパーマ浜。島の北端・カベール岬近く。
で、神様と出会えたか? その話はいずれ…ということで。
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ウパーマ浜で、アイデアならひょっこり舞い降りてきた。
そして書いた本が『奇跡のカフェ 沖縄「浜辺の茶屋」物語』
(2008年、河出書房新社)だった。

店はオーナーの完全なる手作り。
開け放たれた窓から、海と向き合う醍醐味が口コミで広がり、
沖縄南部のロケーションカフェ・ブームの先駆けとなった「浜辺の茶屋」。
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その本が、語り部との出会いを取り持ってくれる結果になり、
何年間もこうしてアマミキヨを追っているのだから、それこそ神の采配?

オーナーの稲福信吉さんが「相談したい神人(かみんちゅ)がいる」
と紹介されたのが宮里聡さんだった。私が御嶽についても書いたため
「これは神事だから出版の吉凶を宮里さんに観てもらおう」と。

稲福さんは言った。
「自分は神事に興味はないが、宮里さんの“見える能力”は別。
眼の前で確認してしまったからには、信じないわけにはいかん」

稲福さんが宮里さんの超能力を間近で見たのは、10年ほど前、
浜川御嶽でのことだったという。アマミキヨが仮住まいをした聖地。
が、海から登る坂道には壊れた手作りプールがあり、足場が不安定だった。
 ↓ きれいに整備された現在の石段。
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稲福さんらが整備を思い立ち、白羽の矢を立てたのが窪田繁雄さん。
石積みにかけては右に出る者なしという実力派の庭師である。
地鎮祭は、皆から神人と呼ばれる宮里さんに頼んでいた。

その日、海に一礼した宮里さんは、のたまった。
「石積みをするのはクボタシゲオ。住所は南城市…本籍は…」。
驚いたのは当の窪田さん。隣にいる稲福さんに囁いたという。
「なんで、あんたは俺の住所本籍まで人に教えるか」
今度驚いたのは稲福さんで、目を丸くして否定した。
「俺じゃないよ。だいたい俺は、あんたの本籍を知らない」

後で宮里さんは言った。
「眼の前にお爺さんがふたり現れて、若いほうのお爺さんが住所と本籍を教えた。
窪田さんのお父さんでした。私はそれを言っただけですよ」

その父こと故窪田道全氏は、玉城の歴史伝承を綴った書『如件』
(くだんのごとし)を遺した人物。生前よく言っていたという。
「ミントングスク、ヤハラヅカサ、浜川御嶽は、大切に守れ」と。

神霊と交信する男・宮里聡さん。
彼はこの沖縄発祥の地・玉城に呼ばれた男でもあった。
by utoutou | 2013-09-10 15:27 | 語り部 | Trackback | Comments(2)

イザイホーと天皇の祭り

「蛇」と蛇の神事がつなぐ沖縄と出雲。

イザイホーに秘められた古儀をたどると、
縄文に生きた人々の動径が見えてくるようだ。
出雲の神在祭(かみありさい)は、神官たちが浜でウミヘビを出迎え、
神前奉納してから始まる。イザイホーの「イラブー小屋」も、
御殿庭(うどぅんみゃー)に神殿として在った。

出雲の竜蛇信仰は、海人の信仰を抜きにしては考えられないと、
谷川健一氏は記した。

倭の水人たちは、毎日水に住んでは(潜っては)
アワビやサザエを採り、魚を突いた。
そのとき出会うセグロウミヘビを竜蛇神としてあがめ、祀った。
その名残りが今日、出雲大社や佐太神社をはじめとする
出雲に見られる竜蛇信仰ではなかったかと思われる。
ただしセグロウミヘビは熱帯の海域にしか産しないから、
それを竜蛇神として祀ったというのは、倭の水人の原郷が南方に
あったことの記憶が残存していたことを示唆している。
(谷川健一著『古代海人の世界』1995年、小学館)

安曇(あずみ)とは、後に朝廷の水軍となる海部(あまべ)
を統率した古代豪族。多くの学者がまさしくその「海部、安曇が
アマミキヨである」と言っていたことを思い出す。
アマミキヨが沖縄に定住して開拓したのであると。


久高島のイラブーガマと徳仁港。古来よりその右方向に
フシマ(小島=湖礁)があり、龍神が棲んでいたと伝わる。
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では「アマミキヨは出雲の神である」のかというと、
伝承はそう一直線にはつながらない。「蒲葵」(クバ)。
クバつながりで言えば「アマミキヨは大和(族)である」のだ。

蒲葵。沖縄以外の地方では蒲葵(ビロウ)とも呼ばれる。
蛇に似た幹肌と、高木であること、常緑樹であることから
生命の根源である男根の擬きとして、古代から神であり聖木とされた。
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その蒲葵でイザイホーの祭屋はことごとく葺かれたが、
古来、天皇の即位礼「践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)」で
「御禊(みそぎ)」が行われる百子帳(ひゃくしちょう、仮屋)も、
蒲葵の葉(あるいは檳榔)で覆われた。
(吉野裕子氏著『蛇 日本の蛇信仰』(1999年、講談社)。

これが、百子帳(吉野裕子著『扇』1970年、学生社』より)。
『大嘗会御禊記』(1301年)に残る記録からの想像図。
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天皇の祭りで、東方は常に尊重された。
陰陽五行にのっとり、その南北軸を尊重した
のが、イザイホーに見る新儀の部分だと吉野氏は述べた。


イザイホウは十二年回りの午年の子月に行われる。
そこでこの祭りは子月卯日(ねつきうのひ)に始まり、
午日(うのまのひ)に終わる日本の大嘗祭と同じく、
子午線(しごせん)上の祭りとして捉えられる。
子月は冬至を含む旧十一月、その象意は北、水、女である。
それに対して午月(うのまつき)は夏至を含む旧五月、
その象意は南、火、男とする。(中略)
蛇と太陽信仰は密な関係を持つが、イザイホウの中には、
太陽の運行にもとづく東西軸と、陰陽五行による子午線、
つまり南北軸が交差している。
東西軸は古い祭式、南北軸は改革後の新しい祭りの形式を示す
ものであって、一つの祭りの中における二つの軸の交差は
前述のように大嘗祭におけるそれとまったく等質なのである。
(『蒲葵と蛇と北斗七星と』沖縄タイムス、1979年)

イザイホーと践祚大嘗祭は、ともに十二支における陰陽を踏まえ、
旧歴11月、子月の中卯日に始まり、午の日に終わる四日間の秘祭。

現在でも、島でイザイホーを口にすることはタブーだ。
私がそれとなく聞くと、あるおばあは眉をひそめて言った。
「止めておきなさいね、そんなこと聞くと倒されるよ」
「倒されるの!?」
おばあは首を横に振るだけだったが、
口にしてはいけない、罰が当たるよ、という意味だったか。

そんな時期、私が「語り部」と呼ぶ現代の神人・宮里聡さんに出会った。
by utoutou | 2013-09-07 10:36 | イザイホー | Trackback | Comments(0)

久高島で蛇神を祀る〈2〉

古代の祭り・イザイホーには「新儀と古儀の要素が交錯している」
という新解釈を示したのは吉野裕子氏。
古儀とは「古代、蛇は神だった」という蛇信仰、新儀とは陰陽五行思想。
では、イザイホーの何をもって新儀・古儀とするのか。それは
『蒲葵と蛇と北斗七星と』(沖縄タイムスに寄稿、1979年)に詳しい。
以下にまとめてみる。

吉野氏が見た古儀=蛇(巳)神の祭り。

・第1日目「夕神遊び」で、神女たちは1列縦隊で祭場の辰巳口
(東南)から走って神アシャギに入るのも、
七つ橋を7度も前進後退するのも、蛇の脱皮の擬き(もどき)。

・第2日目「頭垂れ遊び」で、 神女たちが三重の輪をなして
円舞をするのはトグロを巻く蛇の擬き。

・第3日目 「花さし遊び」 で、神女たちが髪にイザイ花を差し、
顔に「神女承認」の朱印を受けるとき、置いた酒(樽)は蛇の好物。

・第4日目 「アリクヤーの綱引き」で、神女たちが東方拝礼した後、
神アシャギの前で綱を東西に伸ばし、
皆で綱を上下に激しくうねらせるのは神蛇の動きの擬き。

終了後、神女たちが並び、綱に敬虔な拝礼をするのも「神送り」。
縄は斎場の東の林中に放置されるが、これは本土の荒神祭りの後、
蛇縄が裏山の神木に解かれ、1年間放置されるのと同じ。

神様の使い・イラブー海蛇(乾燥)
(NPO法人・久高島振興会 http://www.kudakajima.jp から借用)。
食堂「とくじん」では、イラブー汁御膳(2000円)が観光客に人気。
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久高島では、イザイホーの後に蛇神様の「神送り」をする。
吉野氏の説に立ってみると、ある神事との一致に気づかされる。
出雲である。出雲大社では、イザイホーと同じ日(子月卯日)に始まる
神在祭(かみありさい)で、蛇神様の「神迎え」をするのである。
『出雲大社』(千家尊統著、1968年、学生社)は、次のように記す。


この神在祭の祭事の期間中は、毎年風はげしく波も高い日が多いが、
このときに海蛇が波に乗って稲佐の浜辺に浮び寄りくることが多い。
世間ではこれを「竜蛇さま」と呼び、八百万の神たちが大社に参集
されるについて、竜蛇さまが大国主すなわちダイコクさまの使者として
大社まで来ているのだといって、その日、神人はあらかじめの潔斎をして
海辺に出て、その泳いでくる竜蛇さまを玉藻のうえに承ける。
こうして迎えた竜蛇さまを曲げ物に載せて注連縄をはり、
大社の神殿に納めるのが例となっている。(中略)
神社ではこれをお祀りし、豊作、豊漁あるいは火難よけ、家門繁栄
のしるしとして、信徒の人々はその御神縁をうけて帰る。

イラブーウナギを獲る魚夫(『南島雑話』より)。
久高島の海人(うみんちゅ)は奄美大島までイラブーウナギ漁に出た。
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古代の人々にとって、ウミヘビ=竜蛇神=太陽神。
イラブー小屋に祀られていたシラタルの存在は、そのことを物語る。

久高島のフボー御嶽(立ち入り禁止ゆえ入口の香炉で合掌)。
木肌が蛇に見立てられるフバ(蒲葵)は聖木、天皇の祭りでも重用される。
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by utoutou | 2013-09-03 21:41 | イザイホー | Trackback | Comments(0)

久高島で蛇神を祀る〈1〉

神の島の君泊(ちみんとぅまい)にあるアカララキ。
アカララキ神の名を、なぜアラハバキ神の転訛だと考えるか
については、また改めて……。

さて、アカララキの神は、イザイホーにおいてはナンチュ(神女)
が籠る七つ屋の横に“出張”した。
「門番として」との説明は、外間ノロのウメーギ(補佐役)西銘シズさん
の話を比嘉康雄氏が記録したものだが、小川克己・川上幸子氏の著
『神の島 久高島』(1993年、汐文社)にも、以下の記述がある。


久高島のヤルイ(小屋)の西側にある小さなヤルイは「アカラムイ」
(アカララキの森)。力は強いが、気性の激しい神様なので、
この神を受けるナンチュはいません。そのためか、
ナナツヤーの中でも特別な扱いです。


アカララキ=門番。
語り部に聞いていみると、違う伝承があった。
「門の番」は「じょうのばん」と読むそうで、
魂の新生・転生・再生を司る創生神という意味だという。
そうならばと、思い当る話があった。

久高島に住むあるおじいは言った。
子どもの頃、おばあさんに連れられアカララキでお祈りをしたと。
おじい(祖父)が死にそうになった時のこと、
浜で広げた両手をおばあと繋ぎ、アカララキに向って立ち、
「おじいを助けて」「マブイ(魂)を抜かないで」と拝んだ。
すると、おじいは奇跡的に元気になったと。
逆に、アカララキに拝んでも治らない場合は諦めるしかないという。
「生命はアカララキが握っている」のだと。

イザイホーはアカララキの神なくしては成り立たなかった。
イザイホーとは神女たちが祖先霊を受け継ぐ「魂のリレー」。
祖霊を降ろし、身の内に再生して初めて「神女就任」となる。

「神女就任」の祝いが「朱リィキー」という儀式。
根神(にーがん,男性神役)から、頬に朱の刻印が押される。
そして、厳かに喜びの円舞が始まる。

朱リィキーの円舞(比嘉康雄氏著の前掲書より)。
こうした写真や、ビデオ映像で見る限り、
真円というより渦のような円になって舞っているのが分かる。 
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円舞は蛇がトグロを巻く様子の再現であると指摘したのは、
最後のイザイホーを取材した民俗学者の吉野裕子氏だ。以下引用。

祭りの中にいく度も二重の輪が形成されるのは
トグロを巻く蛇のゆるやかな動きの擬きであろう。
(『蒲葵と蛇と北斗七星と』1979年2月、沖縄タイムス、新聞連載)

日本の古代信仰について著書『蛇』(1970年、学生社)を残した
吉野氏ならではのイザイホー考察。その祭祀場である
久高殿にバイカンヤー(イラブーの薫製小屋)が在る意味は大きい。

イザイホーの祭場だった久高殿・御殿庭(うどぅんみゃー)。
左から、イラブーの薫製場であるバイカンヤー、神アシャギ、シラタル宮。
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神女たちはバイカンヤーの前で、いわば蛇神に見守られて円舞した。
吉野氏はこうも述べた(同紙)。「イザイホーは島の成女が、
人間の身でありながら蛇に昇格する儀式として見ることも可能である」

現在も、獲られたイラブーは、
バイカンヤーの裏にある長型の箱で薫製される時を待つ。
イラブーは1ヶ月以上も生きるという。王府時代、国王に献上された。
中を覗かせてもらったことがある。何百匹もの蛇が隙間なく絡み合い、
しかし休まずにうごめく様に、まさに不死の生命力を見る思い。

古くは、バイカンヤーにはシラタルの火の神が祀られていた。
戦後、「神様を薫製小屋で祀るわけにはいかない」とシラタル宮を建て、
移したが、そのことは逆に古代より蛇神と太陽神が同一視されていた証し。
久高島の始祖・シラタルは、その神霊を継ぐために島に渡ったのだ。


日没前、ミナーラ川を覗く。イラブーガマの近く。
ここにもイラブーは産卵のため現われる。
イラブー漁は旧暦6月末から10月頃、深夜から朝にかけて行われる。
昔は、冬の間も漁が続いたという。
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by utoutou | 2013-09-02 08:06 | イザイホー | Trackback | Comments(0)