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CIAが封印した垣花の御嶽〈1〉

1ヶ月前のことになるが「ヤファシの御嶽」(記事はこちら)と、「垣花の御嶽(かきはなのうたき)」へ行った。

ヤファシの御嶽は、神女(かみんちゅ)のおばあたちが「琉球最古」と言い遺した聖地。
いっぽう垣花の御嶽も、同じように古い祭場らしき御嶽で、戦後はCIAによって封印されていた。
現在は琉球ゴルフ倶楽部となっている地域にあり、玉城城から見渡すことができる。


玉城城一の郭からの眺め。空に稜線を描く山は、玉城王の墓があるタカラグスク。
その右下あたりに、聖なる垣花の御嶽はある。ゴルフコースでいえば8番ホールの南方向。
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さて、玉城は、いわば南部戦跡の一角。
地上戦の悲惨さを今に伝える戦跡・糸数のアブチラガマ(洞窟)も同じ玉城にある。

戦時下、この玉城城には日本軍が基地を置き、また付近の民家にも駐留。
玉城や百名の集落から見渡せる海は、米海軍の艦隊で埋め尽くされたという。

終戦直後、米軍は玉城城の琉球石灰岩を、建材用にとトラック何百台分も運び出した。
二の郭と三の郭は破壊されたのだろうか、ほとんど跡形はない。
奇跡的に残ったのが、この一の郭。太陽の穴(てぃだがあな)だった。


琉球石灰岩をくり抜いた玉城城一の郭を、石段下(ゴルフ場側)から見上げる(10月末の午後3時半ごろ)。
夏至の朝日は、王城内の威部(いび、テンツヅアマツヅの御嶽)を照らす。
逆に冬至の夕陽は、この写真の位置より低く長く伸びてきて、タカラグスクを射抜く?
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現在、琉球ゴルフ倶楽部のある場所には、沖縄本土返還前、キャンプ知念という基地があった。
基地に関しては『調査報告 沖縄米軍基地』(日本共産党国会議員団編、'72年、新日本出版刊)に、
また大城将保氏の著『沖縄戦の真実と歪曲』(2007年、高文研)に詳しいが、
その基地とは米軍基地ではなく、実はCSG(Composite Service Group、混成サービスグループ)。
アメリカ中央情報局CIA、つまり政府機関の基地だった。

軍人がいなかったためか、周辺に歓楽街の跡はない。
CSGは、基地関係者が外出しなくても普通に生活できる「都市」だった。
基地内に住居、学校、食堂、スーパー、遊興施設など生活に必要な設備がすべて整い、
海外へも直接渡航できる機能を有していたという。

とはいえ、基地は基地。米政府管轄の一大拠点として、
兵器、爆薬、衣類、医薬品など、あらゆる物資の調達、貯蔵、補給が行われた。
物資を発送するには、幌付きのトラックでまず嘉手納空軍基地まで運ばれ、
そこから東南アジアの戦場に向けて空輸されていたようだ。

東南アジアから拉致してきたスパイ要員のための強制収容所もあった。
その場所とは「Zエリア」。垣花の御嶽。神名は「あふいはなてるつかさのおいべ」。

基地内の御嶽へは、基本的にメインゲートで「祖先への拝み」と告げれば通されたが、
この垣花の御嶽だけは、誰であっても、何時でも、許可されることはなかったという。

メインゲートの位置は、現在のゴルフ場正門とほとんど変わらない。つまりもっとも奥地に「Zエリア」はあった。
玉城城は地図上にはないが、左下の位置。
玉城城と「Zエリア」つまり垣花の御嶽の間には、古くは玉城城の城下町だったと思われる集落があった。


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     『調査報告 沖縄米軍基地』(日本共産党国会議員団編、'72年、新日本出版刊)より引用。


     玉城城をゴルフ場側から遠望。標高180m。中央に見える白く小さな穴が、一の郭。
     夏至の朝日があたる設計で称賛される玉城城だが、この角度からは違う意味で偉容を感じ取れる。
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by utoutou | 2013-11-29 07:27 | 御嶽 | Trackback | Comments(0)

出雲の龍蛇神に会いに行く〈4〉佐太神社

そろそろ出雲の神在祭も終わり。
昨夜は佐太神社で神等去祭(からさでさい)があり、
今夜26日の万九千神社(まんくせんじんじゃ)での神等去祭が済むと、
八百万の神々は、国々へとお還りになるという。

私が佐太神社に参拝したのは、出雲大社の神在祭が始まったところ。
こちらの境内は閑散としていた。

社務所で禰宜さんに聞いた話では、
「20日から25日の神在祭には、例年5万から7万の人が集る」
ということだったが、さて今年は? すると、禰宜さん快心の笑み。
「龍蛇神は、年に1回この5日間にし拝観できませんからね」。

そこで、しばし「龍蛇さん」談義をさせていただいた。どちらから
ともなく話が「古代、龍蛇神は男性器の象徴」と相成り、意見が一致。
ただ最近の龍蛇神は、トグロは巻いても鎌首は立っていないそうだ。
理由は、剥製師が不足してしまったことによる。

社務所に並んだセグロウミヘビに、ちょっと親しみが湧く。
私が買い求めたため、一区画空いた。熨斗付きの箱に入れていただいた。
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談義は続き、沖縄の蒲葵(クバ)が、
木肌や立ち姿の相似から龍蛇に例えられることを伝えると、こう仰る。
「出雲と沖縄は時代の古層では近いと思いますよ。
潮によっては、この出雲の海まで3日で辿り着きます」

美保神社にある糸満サバニの話もされて。セグロとイラブー、
種類は違えど海蛇が結ぶ御縁ゆえか、出雲の人々は沖縄シンパらしい。

そういえば、谷川健一氏は『蛇〜不死と再生の民俗』(2012年)で、
佐太神社の古い木版に印された龍蛇神はセグロウミヘビというより、
沖縄のイラブーウミヘビに酷似していたという目撃談を紹介していた。

現在、出雲地方で龍蛇神が祀られるのは、佐太神社、
出雲大社、日御崎神社だが、かつては、他の多くの神社へも奉納され、
龍蛇信仰はかなり広域に渡っていたという。

さて1泊2日出雲弾丸ひとり旅の最後は、松江市の八重垣神社へ。

アッと息を呑み、足が止まったのは、境内末社・山神神社。
狛犬ならぬ木彫りの男根が屹立。巨大。成人女性の平均身長ぐらいある。
神社に詳しい人には旧知の話らしいが、私は知らなかったわ。
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この山神神社、祭神は大山祇命、石長姫命。
看板には、おおむね次のような説明があった。

古来、金武の旧街道沿いに祀られ「山の神さん」と親しまれていたが、
明治の頃にここ八重垣神社の境内に遷された。
授児・子宝・下半身の病いに霊験あらたかとして、
地元はもちろん遠方より祈願や御礼に参拝され、
手作りの男根などを供える風習が現在も続いている。


写真には収まらなかったが、
社の右手にも石製の男根が立ち、左右対称をなしている。

また軒下には奉納されたらしい木製の男根がタライに山盛り、というか林立。
龍蛇神信仰のバリエーションを見る思い。
子孫繁栄を龍蛇神に託した縄文的信仰は、弥生時代以降、擬きを脱却。
五穀豊穣を約束する「種」へと、そして「生命の源」へと、祈りの対象を変えたか。
境内には、木根の股を祠に、木製や石製の男根を奉納する拝所が何ヶ所も。

八重垣神社の「夫婦椿」ならぬ、美保神社の近くには「夫婦岩」が。
こちらは男根の岩(右)と、女陰の岩(左、裏側が洞穴)の一対。
中央に遠く見えるのは鳥取県の大山。
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出雲大社の神楽殿。左縒り=逆さ飾りの注連縄は、長さ13m、重さ5t。
出雲は神社も何もかもが大きく謎の遺跡も多い。秘せられた歴史もまた?
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by utoutou | 2013-11-26 15:47 | 出雲 | Trackback | Comments(4)

出雲の龍蛇神に会いに行く〈3〉美保神社

出雲大社の次は、島根半島の東端・美保神社へ。
実は美保神社を思わせる伝承が、南城市玉城に残っている。

沖縄最古8千年前の土器が確認されたニュースで湧く南城市。
琉球の稲作発祥の地・受水走水(うきんじゅはいんじゅ)
のある「薮薩の浦原(やぶさつのうらばる)」。
その高台にあるイリハンタというところに、戦前まで
「美保の松原」に例えられる、松並木があったという。

その名もズバリ、琉球の「ミホの松原」。
百名の海を一望し、「ミホの御嶽」もあったと伝わる。
現在は南城市老人福祉センターのある静かな場所だ。

語り部の宮里聡さんが、神女おばあたちに聞いた話では、
薮薩の浦原には米地(めーじ)という古代米発祥地があり、
神女たちは春になると、そこに重箱を供えて祈願した。
米地の別名は、「うさち(上古の)三穂田(みーふーだ)」。

語り部と親交も深かった故仲村ミエさん(玉城王殿内を司祭した神女)
は、雨が降っても、風が吹いても、ここでの拝みを欠かさなかった。
その日とは、旧暦の3月3日。
沖縄では、女性たちが海で禊ぎをする年中行事・浜下りの日。
そして古来、美保神社で事代主にまつわる国譲りの故事を再現する、
「青柴垣(あおふしがき)」神事の行われた日であった。
(現在は4月7日に変更されている)

「青柴垣神事」を描いた絵馬。
えびす様こと事代主は大国主の長男。神話では、国譲りのとき、
父に命じられて神意を伺い、その託宣で出雲支配権の譲渡を決意。
呪術を使い自らの船を踏み傾けて青柴垣に変え、そこに隠れ去った。
船上の白天幕の四隅に飾り付けた、榊の青い枝葉の束を青柴垣という。
二艘の神船は神社前から沖合へと往来した後、神前に参拝する。
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事代主の母である三穂津姫命は、
高天原から稲穂を持ち降りた農業と子孫繁栄の守り神。
稲作にまつわる神話といい、三穂田の名称といい、
3月3日という祭りの日取りといい、出雲と沖縄をつなぐ「ミホ」は、
潮流に乗り海を渡った古代海人族をリアルに感じさせる。
出雲族は古代アマミキヨ族だったのか?

ミエおばあはまた、次のように言い遺した。
「昔、うさち三穂田に男の子とと女の子の兄妹がいた。
親は3月3日に子どもたちを残して船で出て行った。
どこへ行ったのかは分からない。
玉城は、この兄妹から始まったという伝えがあるんだよ」
 
そして、またしても蛇=蒲葵、である。
青柴垣神事で、當屋の二人が手にする祭具は「蝶形の扇」。
これが沖縄の蒲葵扇と形がそっくり。
かつて蛇研究の民俗学者・吉野裕子氏は「蝶形の扇の襞は48本。
蒲葵の葉脈もほぼ48 本」と喝破した。
「蝶形の扇」についてはHP「神々のいるまち美保関」(こちら)に詳しい。

出雲から東京へ帰り、電話で話すと語り部は言った。
「蝶形の扇。久高島の北端にあるカベール岬を、
島では“はびゃーん”と言いますよね。その意味とは、蝶蝶。
これも面白い一致ですね」

久高島の北端・カベール岬(神谷原岬)。方言で「はびゃーん(蝶蝶)」。
2012年の夏に撮影。雲が、龍の落とし子のかたちで浮かんでいた。
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ところで、美保神社の船倉には、
沖縄県糸満市のサバニ(刳り舟)が保存されている。神話や伝説ではなく、
そのサバニは、昭和41年に島根県の有形民俗文化財に指定されている。
戦前、日本海側の海で追い込み漁をしていた糸満海人集団が、
糸満に引き上げるときに置いていった1艘が、奉納されたのだという。 

なんと、そのサバニに運よく遭遇。
美保神社は現在大造営中で、展示館や宝物館(収蔵庫)は閉鎖している。
ところが、参拝の後、そこを通ると人の気配がする。
諸手船(もろたぶね)神事を間近に控えて、船の手入れが行われていた。
覗くと「見ますか?」と大工さんが言う。
「サバニもありますか?」と聞くと「ほらそこに」と。

船倉には、諸手船(右)とサバニ(左)が仲良く並んでいた。
諸手船は古来より原型のまま、樅の木製。墨で塗り椿油でコーティング。
手彫りした神紋は、白を胡粉(貝顔料)で、赤をベンガラで彩色する。
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青柴垣神事と対を成す「諸手船(もろたぶね)神事」は12月3日に
新嘗祭と共に、古くは旧暦11月中の午の日に行われていた。
これもまた記紀に伝える国譲りの故事にちなむ。
絵馬を見て、沖縄で5月に行われる春の風物詩・糸満ハーリーを思い出した。
ハーリーも、海人が海の彼方から神を迎える儀礼が起源と言われる。
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by utoutou | 2013-11-25 10:30 | 出雲 | Trackback | Comments(1)

出雲の龍蛇神に会いに行く〈2〉出雲井社

出雲市駅から始発のバスに乗って詣でた出雲大社。
それはそれは清冽な空気に包まれていた。
朝日が射す境内を、グルッと駆け足で一巡して参拝。
玉砂利を踏む音、鳥の声、4回響く柏手、カメラのシャッター音。
日中のようなざわめきは聞こえない。
参詣客は、思い思いに神々との縁結びを楽しんでいるようだ。


神在祭2日目、朝の拝殿。背後の亀山には雲がたなびいていた。
中央左、白テントが龍蛇神の奉拝所。
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朝7時。八足門で、神座を背に古代本殿の宇豆柱跡を撮影。
図らずもシャッターを切ったのは、神主さんが神拝の一礼をされた瞬間。
巨大宇豆柱は、直径1mの杉×3本をまとめた直径3m。2000年に発掘された。
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八足門。境内を清める竹箒の音が響き、巫女さんや禰宜さんが行き交う。
門の両サイドに配された社紋「二重亀甲に剣花菱」が朝日に輝いている。
亀甲紋は、龍蛇神セグロウミヘビの尾に浮かぶ亀甲模様が原型という。
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さて、境外のそのまた東方にあるはずの聖域へと急ぐ。
前夜のホテルで調べはついていた。
「真名井の清水」の先にあるのは境外摂社の「出雲井社」。

徒歩15分。その社は宇伽山の麓、朝日射す竹薮の西に佇んでいた。
祭神は岐神。クナトの神。背後に回ると巨大な磐座がある。

クナトの神とは、『日本書紀』では、黄泉津平坂(よもつひらさか)
で、イザナミから逃げ去るイザナギが、投げた杖から出た神。
また『古事記』では、イザナギの禊の場面に登場する。
こちらも杖から衝立船戸神(つきたつふなとのかみ)として化生した。
つまり記紀神話においては、イザナギ・イザナミ大神の長男であられる。

出雲井社。説明板にある「由緒」は以下の通り。

 勇武にして地理に明るく、
 大国主神が“国譲り”の際、
 大神の命により経津主神(ふつぬしのかみ)に
 付き添い諸国を平定し
 国土を統一せられた巧神です。
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いっぽう出雲に発つ前、偶然バッグに入れた書『謎の出雲帝国』(吉田大洋氏著、
1980年、徳間書店刊)には、記紀神話とは違う、衝撃の伝承が綴られている。
吉田氏は、古代出雲王朝の末裔という故・富當雄(とみまさお)氏
(当時67歳、サンケイ新聞編集局次長)にインタビューしてこの書を著した。
副題は『天孫一族に抹殺された出雲神族の怒り』。

この本に綴られた富家の伝承をまとめると……。
・富家はこの出雲井社で、代々の口承を語り継いだ。
・クナトの神は出雲王朝の始祖、真の大国主である。
・クナトの大神は五十七代にわたって存在した。
・出雲神族は、紀元前2500年頃(後期縄文時代)シュメールから渡来した。
・出雲神族は、天孫族と長い闘争の末、帝位を奪われ滅亡した。
・“国譲り”物語とは2千年前、天孫族の使者・武甕槌命(たけみかずちのみこと)が
 稲佐の浜で矛を突き立て「否、然(いなさ)」と迫った事件。大国主は降伏し抗議の自殺をした。
・勾玉を王者の証とした出雲神族は、古墳を造らなかった。
・龍蛇神族は、龍神をトーテムとする龍蛇族である。
・出雲神族の紋章「亀甲」は、バビロンの龍蛇神マルドゥクのシンボルと同じ。
・スサノオ率いるスサ族(牛族)は、紀元前2000年にメソポタミアから朝鮮経由で渡来した。
・ヤマタノ大蛇退治は、牛族対龍蛇族の宗教(トーテム)戦争だった。
・元来、出雲神族の紋章は「亀甲に並び矛」。花菱(菊花)は牛族の紋章。
・出雲族は毎年10月、各地の首長(カミ)が出雲に集まり、その年の収穫物の分配について話し合っ
 た。そして祖国を偲び、龍蛇(セグロウミヘビ)を祀るのが習わしだった。

吉田氏の別著『謎の弁才天女』によれば、
富さんが亡くなる数日前に遺した言葉があるという。曰く、
「我々の大祖先はクナトの大首長(おおかみ)、そして女首長はアラハバキ。
体制側によって祖先が抹殺されようとしたとき、
クナトは地蔵に、アラハバキは弁才天に変身した」

弁才天、稲佐浜の弁天島に祀られていた女神だ。
杵築大社(出雲大社)は霊亀2(716)年の建立。
日本書記の完成は養老4(720)年。大和という国の国家、
そして祭祀が大きく変更されていったこの頃、
稲佐の浜に弁才天=アラハバキを祀ったのは、
滅亡を余儀なくされた出雲族の末裔か。
龍宮と呼ばれた沖縄の久高島でも、
古港に面した御嶽にアカララキ(アラハバキ)が祀られている。

出雲大社まで戻ると、本殿が龍蛇の横顔に見えた。
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by utoutou | 2013-11-21 12:43 | 出雲 | Trackback | Comments(10)

出雲の龍蛇神に会いに行く〈1〉出雲大社

きょう11月19日は、出雲大社の神等去出祭(からさでさい)、
神在祭に集った八百万の神々が、佐太神社での神在祭へとお発ちに。
1週間経つというのに、出雲旅の余韻は薄れない。

出雲詣りを敢行した目的は、神在祭に会えるという龍蛇神。
沖縄久高島のイラブー海蛇と出雲の龍蛇神について書いてから(記事はこちら
というもの、一度は龍蛇神にご挨拶をと思っていた。
そこで直前予約。飛行機も宿も「残数1」に滑り込んでの1泊2日。

神迎祭の翌日13日、
朝いちばんで東京を発ち、出雲大社に着いたのが10時半。
長蛇の列だった祓戸社は諦め、拝殿、本殿、素鷲社、神楽殿と巡拝。

そして下の写真。千木が八雲山に突き刺さるかのような、
勇壮な本殿の大社造りに惚れ惚れする。御神体山の八雲山(標高90m)は、
古くは「蛇山」と呼ばれたという。目線はあくまでも「蛇」狙い。
まずひとつ、古代出雲・龍蛇族の痕跡を見る思いだ。
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1時間待ってようやくお詣りできた龍蛇神・セグロウミヘビ。
体調1m程度。昔は2mのものも稲佐の浜に打ち上げられたという。
南方から黒潮に乗って北上、晩秋の北西風に押されて出雲の浜に漂着する。
海を照らして依り来る姿から「神様の使い」と考えられた。
神迎祭に集った神々の先導から、一夜明けての神々しい立像である。
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龍蛇神の奉拝所(仮テント)は、拝殿の横に設えられていた。
長い列に並び、拝殿の屋根に止まった鳩と日の丸などを撮影しつつ、
古代の高層神殿に思いを馳せる。
古代の本殿は、ちょうどこの拝殿のあたりに建っていたらしい。
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出雲国造第八十三代・出雲大社宮司の故千家尊統氏の著
『出雲大社』を読んで以来、その巨大本殿に南島の匂いを感じていた。
抜粋すると、以下のようなくだり……。

御本殿の構えは水上住居の名称を示すものではなかろうかとも思っている。
元来、出雲民族は海洋系の民族であるから、このことは十分に考えられる。
地勢上から見ても背には八雲山、左右に鶴山、亀山をひかえ、
全面には今は埋まってしまったが海に面した地点で、きわめて住居に適した地である。
言い伝えによれば、ご本殿の位置は昔はもっと前方で、只今の拝殿のあたりであったといい、
実際に数年前に今の拝殿を新築したとき、地下から堀立柱が出土し、
その下が海であった事が立証された。床が非常に高いこともこの想像をうなずかせる。
おそらく今の島根半島が島であった当時、外洋を通航する船は、
日の御崎から杵築の方に入って内海を通ったことであろう。
その入口に、大国主神が住居を構えておられたものと想像される。

a0300530_60882.png夕方訪れた吉兆館でオンエアしていた古代巨大神殿CGより借用。古代本殿は高さ十六丈(48m)あり、西(稲佐の浜)向きに建っていた。急坂状の桟橋の長さは約110m。手前の赤丸部分は私が並んでいた龍蛇神テント付近、海に描いた赤丸は約900m離れた弁天島。

参拝の順番を待つ間、
右手、海と反対側には北島国造館の門(四脚門)が見えた。
紅葉も美しい日本庭園の趣き。
門の一本右から境外に出ると、その先に「社家通り」が伸びている。
そのとき、ふと思った。
稲佐の浜と古代本殿を結ぶ東西軸、社家通り、その先の東方には何がある?
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龍蛇神にめでたく参詣、お神酒をいただいた後、
社家通りを200mほど歩くと命主社(いのちぬしのやしろ)があった。
祭神は神皇産霊神(かみむすびのかみ)。

下の写真は、その後ろにある真名井遺跡。
出雲大社より400年古い時代の遺跡、江戸時代に銅戈(どうか)
と硬玉ヒスイの勾玉が出土した古代の祭祀場。木に縄が巻いてある。

聞けば、毎年11月初旬に地元・真名井地区の人々が稲藁を巻き直すという。
どおりで真新しい稲藁のその巻き方は「蛇巻き(じゃまき)という」そうだ。
出雲では藁を蛇に例えるそうで、これはただならぬ沖縄の習俗との一致。
久高島の古祭イザイホーでも、祭りが終わると、
稲藁で編んだ綱引き神事の綱を「蛇状に巻き」東の山に置いた。
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というところで、1日目は時間切れ。
快晴から一転、雨模様の空の下、日没前の弁天島へと急いだ。
高天原の使者が浜に剣を付き立て大国主大神と国譲りの談判をした、
出雲族にとって屈辱の浜。弁天島の頂上に社がある。
祭神は豊玉姫、古くは弁財天を祀っていたという。
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出雲大社境内と周辺マップ。青い線は筆者。
古代本殿(中央青丸)から西へ行くと稲佐の浜。
東(右)へ行くと命主社、真名井の清水。
もしや、その先にあるのは古代本殿より古い磐座?
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地図上(12)が拝殿(13)本殿(14)楼門(15)八足門(16)十九社(17)
素鷲社(18)神楽殿(19)四脚殿
(『出雲大社周辺まちあるきマップ』より拝借)
by utoutou | 2013-11-19 09:23 | 出雲 | Trackback(1) | Comments(0)

ゆるキャラ・なんじぃとアマミキヨ

先月末、ヤファシ御嶽(記事はこちら)に行った日、同じ南城市玉城の親慶原(おやけばる)にあるコンビニで
発売されて間もない「なんじぃカレーパン」を発見。ちょっと感動した。
実は、なんじぃを秘かに応援していたので。

このおじぃさんは南城市のハートフル・ブログジェトから誕生したキャラクターで、
顔半分を占める逆さハートは、南城市の地形を表している。(市のブログはこちら

人気に比例して、ここのところ、なんじぃキャラ商品化の勢いがすごい。カレーパンばかりか、
地元南城市の菓子店では、なんじぃロールケーキ、クッキー、サブレなどを、ご当地スイーツとして発売。
これらなんじぃ商品のプロモーションには、市長自らも力を入れるという、まさにハートフルな展開。


この夏は公募によりガールフレンドができ、先月は、Yahoo!のゆるキャラ選手権で1位に輝いたなんじぃ。
勢いに乗って今年度の「ゆるキャラグランプリ」(現在集計中)では、10位以内の入賞を狙っている。
(写真は「ゆるキャラグランプリ2013」HPから拝借)
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南城市は平成18年に、知念村、玉城村、佐敷町、大里村が合併して誕生。
すると市の地形がハート型になった。
この「ハート型」、古くは「東四間切り(あがりゆまじり)」と呼ばれた。
この地に点在した嶽々を廻る神行事が「東廻り(あがりうまーい)」で、今も続いている。
なんじぃのハートは、琉球国王や聞得大君が巡礼した「アマミキヨの足跡を辿るコース」というわけなのだ。



東廻りの解説MAPは数あれど、これは惚れ惚れするようなハート型。
手書きにつき少々デフォルメされてはいるが。
地元知念の郷土史家・故新垣孫一氏著の私家本『琉球発祥史』(1955年)より。
「琉球国王聞得大君の東り御巡禮コース」。南城市による「東廻り」のHPは(こちら)。
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さて、本ブログの大命題である「アマミキヨとは誰か」。
それを考えるのに「東廻り」は手かがりになるかもしれない。

「東廻り」の由来には二つの説がある。ひとつは歴史が語るもの、もうひとつは伝承が語るもの。
曰く、歴史では、
「創造神・アマミキヨが二ライカナイから渡来して住みついたと伝えられる霊地を巡拝する行事」。
いっぽう口伝では「どこか遠い土地から渡来したアマミキヨが住みついたと伝えられる……(以下同文)」。
沖縄の人々が東廻りを欠かさないのは、もちろん後者の「アマミキヨ祖先説」によると、私は思う。

伝承では「アマミキヨは“あっちから来た人”の総称」。よって、アマミキヨ族は、何代もいた。
となると、ニライカナイとは、一般に言われるアマミキヨ神の住む「理想郷」「常世」の他に、
アマミキヨがやって来た具体的な「故郷」とか「始原の地」といった解釈もあり得ることになる。


そして、その故地はおそらく様々で。
ただし、航海を終えた地点はというと、ほぼ一様に「ヤハラヅカサ」である。
そのことは、なんじぃのハートならぬ地形が物語っている。
ヤハラヅカサのあたりには、陸地と珊瑚礁の間にある礁湖、いわゆる明澪(あちぬー、水路のこと)がある。
「写真」バージョンにして見ると、それがはっきりと分かる。




手前、緑の濃く見える筋の部分が、明澪(あきみお、あちぬー)。
王府時代の『おもろそうし』には「薮薩の泊」「浦原の泊」と詠われた。この水路を港として、
歴代のアマミキヨ族は碇を降ろした。明澪の水深は深いところで50mあるという。
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なんじぃのハートは、アマミキヨゆかりの聖地ライン。
なんじぃの心臓あたりが、アマミキヨが渡来した聖なる関門=明澪。
なんじぃのハートを見るたび、アマミキヨの神々が喜ぶ顔が見える……気がする。
がんばれ、なんじぃ! アマミキヨ神がついてるぞ!
by utoutou | 2013-11-10 16:20 | 玉城 | Trackback | Comments(0)

アマミキヨの造った御嶽

アマミキヨ渡来の地、南城市玉城百名。
琉球石灰岩の断崖絶壁を、海に向って降りて行く。
海から見れば、ほとんど垂直にそびえ立つ丘陵。
その頂上一帯が「薮薩の御嶽(やぶさつのうたき)」で、
海側に、木々に埋もれた小さな穴がある。

少し前、語り部の宮里聡さんは、その穴にハシゴを見た(透視した)。
気になって少し下りてみると、御嶽へと続く降り口だった。
途中えぐれたような急斜面には、誰の手によるものか、実際に
ステンレス製のハシゴが、木の根に電気コードで結わえ付けられていた。
そこで、さらに下りると、探し続けた「幻の御嶽」に辿り着いたという。
(ブログ記事「忘れられた御嶽」はこちら

歴史本にもガイドブックにも載っていない
「ヤワシ御嶽(ヤファシうたき)」。
今は亡き神女のウメおばあが伝えた御嶽。
なぜ「ヤファシ」というのかは分からない。

ウメさんはまた、この一帯を「古島」とも「ウサチ・ミントン」とも呼んだ。
ウサチ=御先(おさき)=上古代。
アマミキヨの住居跡「ミントングスク」よりも古い住居跡。
数千年の歴史があるミントングスクより古い、アマミキヨが造った御嶽。

語り部の案内で、先日、私も「ヤファシ御嶽」への道に挑んだ。
約10分。私の御嶽参拝史上、最難関の急斜面だった。
写真の左端に写る紐状のものは岩に絡み付いた木の根。
むやみに掴むと折れてしまう。何十倍も太い木の根もあるが、
基本的に直感を頼りに下らなければならない。
語り部は「こっちですよ、気をつけてくださいね」と、眼下に姿を消した。
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この斜面一帯は「ヤファシバンタ」「クルク山バンタ」とも呼ばれた。
「クルク」とは風葬の地、「バンタ」とは崖。ミントン家の古墓もある。
ここはアマミキヨの崖葬古墓群。アマミキヨとは個人ではなく集団だった。

『琉球国由来記』が記す薮薩の御嶽。
神名は「タマガイクマガイの御威部(いべ)」。タマガイ=魂上がり。
古墓群から発したリンが燃え、闇夜に怪しくゆらめく様子を畏怖して、
人々がそう呼んでいたと伝わる。

「ヤファシ御嶽」に到着。
崖の中腹に造られた、まさしく空中御嶽。足下の平場が直径2m程度。
背後の海側は崖である。御嶽全体の高さは3mほどだが、
狭所ゆえ全体像がカメラに収まらなかったので、写真を縦につなげてみた。
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御嶽を覗き込んでいると、語り部が言った。
「この御嶽の真っ直ぐ先に、斎場御嶽が位置していると思います」

そうだったのか。
「薮薩が沖縄でいちばん古い御嶽。ここを拝まなければ、ミロクの世は開かない」
ウメさんが言っていたというその意味が、今なら理解できる。
アマミキヨが渡来、上陸した足跡を正しく悟らなければ、
祖霊を祀ることにはならないとウメさんは言ったのだ。


ヤハラヅカサの立つ海側から見た「薮薩の御嶽」。
左手斜面に「ヤファシ御嶽」がある。
そしてまた右手斜面の中腹にも御嶽があると、この日初めて知らされた。
「ヤファシ御嶽」の後、我々はまた崖を登り、改めて右手の崖を下った。
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もうひとつの空中御嶽「久高ガマ」。
足場があまりにも狭く、御嶽を見上げて写真を撮ることは無理。
振り向くと、視線の先遠くに、海に平たく浮かぶ久高島が見えた。
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そして……。
目を真下に転じれば、そこは水堅浜(みでぃきんぬはま)。
久高島の始祖・ミントンの娘ファガナシーと、従兄弟のシラタルが、
船を漕ぎ出した浜だ。シラタルとファガナシーは、
なぜ親元を離れ久高島に渡ったのか(ブログ記事はこちら)。
その理由をずっと考えていたが、ウメさんの口伝をもとに推理すれば、
ふたりはアマミキヨの足跡を逆に辿って船出した。ミロクの世を迎えるために。
by utoutou | 2013-11-08 10:50 | 御嶽 | Trackback | Comments(0)