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伊雑宮へ〈13〉持統が建てた不開門(あかずのもん)

伊雑宮から北へ徒歩5分、
磯部の千田寺(ちだじ)跡にできた「倭姫旧蹟地」。
真新しく整備されていて史蹟との印象薄く、撮った画像は2枚。


うち1枚がこちら、公園の隅にあった「庚申堂」。
「伊佐波登美命」と真新しい立て看板が立っていた。
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このあたり(千田寺跡)に、古来3つの鳥居が立っていた。
『郷土史・天の岩戸いそべ史話』('84年)によれば、祭神は…
中央の鳥居に大己貴(おおなむち)大神、右の鳥居に少彦名大神、
左の鳥居には、國貴社・久延彦大神が祀られていた。


江戸時代刊行の『先代旧事大成経』に載った
↓「二社三宮図」にも、実は「二社」の記述がある。
(下のイラストは後年の作画)
二社とは伊雑宮を間に、磯部大歳社(佐美長神社)と杵築大社(千田寺)。
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千田寺は、古くは、なんと杵築大社と呼ばれた。
正式名は「杵築宮御光大神宮」。
皇大神宮別宮・伊雑宮にゆかり深い
「倭姫旧蹟地」に「出雲」とは、驚くばかり。
明治に入るまで出雲大社は
杵築大社と呼ばれたが、この伊勢にも同名の社が…。


さて、昨年来行われた、千田寺跡=杵築大社跡の整備。
ならば、出雲の痕跡か遺物がザクザクと出土したかと思いきや、
そもそも遺物発掘計画はなく、一気に重機を入れての着工だったと聞く。
「鏡楠」旧跡も大正12年以来90年ぶりの発掘もできたろうに重機で地ならし。
これは新たな弾圧ともいうべき「事件」かと思うのは、私だけではないだろう。

ところで…。
杵築大社の祭神・大己貴=大国主大神。
出雲大社の奥宮・素鷲社(そがのやしろ)の祭神は、
その父である素鷲鳴尊(スサノオ)。

ということは、この旧蹟地のどこかにスサノオが祀られている?
資料を探すと
『磯部村上之郷古蹟取調書』(大正13年)に、その名があった。

(筆者の現代語訳)
〜この地は古来、倭姫旧蹟地と称せられる旧蹟で、
続く(西の方上)地陣を「神森」と呼び、
素戔男尊を祀る宮地がある。
明治改正の際、当時の村役人が前後の考えもなく
全部伐採、現在は畑地に変更してしまった。〜

スサノオの痕跡も失われていたとは…。

ついでに、調べると、
千田寺にはすこぶるビッグな由来がある。
曰く、寺に聖徳太子も来たと。
『志摩磯部 千田寺勅賜門再建勧進帳』(文政3年)。
要約すると…。

1)倭姫が、真鶴が稲穂を落とした故事に基づき
五穀成就の御神楽を奏じた。

2)用明天皇の皇子・聖徳太子が来て、
神池に感歎し、殿堂を数多く建立した。
  この山全体を無量山と号し、
寺を千田寺と名づけ、倭姫の古事を残し、
  太子自ら三歳の御姿を彫刻して、
別殿に納めた。

3)持統天皇がこの話を聞いて、この地に行幸※
数日にわたり御輿を止め、新たに勅賜門を建立した。
その跡は現存している。
  毎年元朝より7日まではこの門が開くので、
多くの庶民は参詣して神池の
  霊水を戴いて太子を拝する。
(※持統天皇6年の伊勢行幸を指す)


持統天皇から下賜された豪壮な勅使門。
大正時代の撮影。
6本の柱があったが写真に門扉は写っておらず、
門自体もやがて焼失した。
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豪壮な勅賜門に、村人たちがつけた別称は
「不開門(あかずのもん)」という。
このブログを読み、
磯部在住の方(匿名)が送ってくれた手紙に
そう書いてある。
「正月7日しか門が開かないので、
磯部では不開門(あかずのもん)と呼ぶ」と。

持統天皇による千田寺封印。
磯部に建てた開かずの門は、
持統天皇による出雲潰しだったと、私は思う。

by utoutou | 2014-10-24 23:07 | 伊勢 | Trackback | Comments(2)

伊雑宮へ〈12〉倭姫の石棺

話は2年前の冬にさかのぼるが、
よみうりランド(東京都稲城市)の中にある聖地公園に行った。

ここには、釈迦の聖髪を納めるという釈迦如来殿やら、
高野山本願寺の本尊・十一面観音像を祀る多宝塔やら、
元読売新聞社主・正力松太郎氏の蒐集による超ド級のお宝が並ぶ。


お目当ては妙見堂。ちょうど月次祭で妙見菩薩像が開帳されていた。
京王線よみうりランド駅からゴンドラに乗ると、八角の妙見堂が見えてくる。
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数ある妙見菩薩で重要文化財はこちらだけ。鎌倉時代後期の作。
伊勢の外宮神官だった度会氏の菩提寺・常明寺に祀られていたが、
明治時代の廃仏毀釈で廃寺となり、やがてよみうりランドに安置された。
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その常明寺門前町が、現在の伊勢市倭町。 
宮内省が「倭姫命御陵墓参考地」と指定した前方後円墳がある。
渡会氏(旧磯部氏)、妙見菩薩(天御中主命、北辰信仰)、倭姫。
3つの点を結ぶ線上に、渡来豪族・秦氏が存在すると感じられた。
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さて、倭姫の陵墓に近い伊勢市楠部町に、皇大神宮別宮
の倭姫宮が創立されたのは割と最近で、大正12年のこと。


その大正12年、伊雑宮から200m北の千田寺跡から、
三種の神器が入った石棺が発掘された。
豊川稲荷から楠の提供依頼を受け、根元を掘り返した結果という。


その地が、昨年来の三重県観光キャンペーン
の一環として整備された「倭姫命の旧跡地」である。
天照大神の御杖代・倭姫がここで稲穂をくわえた真鶴を見て、
苗代をつくったという「千田のみ池」があったが、このたび
天井石と鏡楠の表示板が立ち、四阿も庚申堂もある公園になった。
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石棺には勾玉、矛、2面の鏡が入っていた。
村ではそう語り継がれてきたと、
今回の旅でお世話になった御師の家の森さんは言う。
当時「これは倭姫の遺跡か」と大騒ぎになったが、
すぐさま官憲がやって来て持ち去ったと。

白銅鏡だけは、
志摩市歴史民族資料館に保管されたが、
倭姫伝承とは時代を異にする「室町時代」のものとされ、
矛と勾玉は行方知れずに。それら神器を
納めたのが石棺状だったことを知る村人も、もはやいない。


「しかし」と、町役場に長く勤めたという森さんは言った。
底石は役場に長く保管され、
平成2年、御神田(おみた)広場の記念碑として甦ったと。
「重要無形民俗文化材 磯部の御神田」と刻されている。
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底石は秘かに表出したが、
石棺が発掘されたのは、倭姫宮が創立した翌年の
大正13年だと『磯部町史』('97年、磯部町史編纂委員会刊)は記す。
発掘の事実を1年ずらす操作がなされたのか。
だとすれば、そこにはどんな理由があったのか。

そう考えると、渡会氏の妙見菩薩がしきりと思い出された。

by utoutou | 2014-10-20 17:33 | 伊勢 | Trackback | Comments(3)

伊雑宮へ〈11〉弾圧の果てに

伊雑宮の神庫には、いまだに秘伝の書が隠されているらしい。
そこには「伊雑宮は伊勢神宮の本宮」「伊勢神宮は日月星を祀る」
という「三宮信仰」が記されていると、水面下で脈々と伝わる。

沖縄ナーワンダーグスクで「三宮信仰」に気づいてから2ヶ月。
この伊勢でようやく「日月星を祀る神社」にたどり着いた思い。

伊雑宮から車で5分。
磯部町下之郷に、御師(神職)中村兵大夫の墓がある。
江戸時代に「伊勢三宮」説を唱えた「神訴事件」の首謀者とされ、  
1682(天和2)年に、密命を帯びた何者かに毒殺されたという。

江戸の書店から、『神代皇代大成経』(潮音著)
が刊行されたのは、兵大夫が憤死する3年前のこと。
72巻からなるという長大な書だが、ポイントはズバリ「伊勢三宮」説。
〜倭姫命は猿田彦神の神示で、天照大神の神霊を伊雑宮に遷した。
伊雑宮は日神アマテラスを、外宮は月神ツキヨミを、内宮は星神ニニギを祀る〜

聖徳太子と蘇我馬子の編纂という話題性もあってか、
江戸の町では、知識人を巻き込んでの大論争が勃発。
結果、幕府の裁定により「偽書」「禁書」との烙印が押された。

版元の責任者は追放、編著した永野采女と潮音は流罪に。
朝廷は「伊雑宮は内宮の別宮。祭神は伊射波富美命」と裁決したが、
それでもなお、鳥羽藩による兵大夫への制裁の追手は止まなかった。


兵大夫を追善供養する観音石像。下之郷にある中村家の墓地に建つ。
目を閉じて憂いを含んだ表情に、無念の思いがにじんでいるようだ。
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「三宮」説をめぐる一連の動きは、江戸時代に始まったものではない。
源平から戦国時代にかけての戦乱の末、
伊雑宮の社領地が志摩の水軍・九鬼氏に奪われたのが、1531年。
伊雑宮は経済的基盤を失って凋落。兵大夫毒殺事件に至るまで、
150年の長きにわたる、伊雑宮崇敬者たちによる復古運動があった。

江戸時代になってからも事件は続いた(『磯部町史』等から抜粋)。


 1625年 伊雑宮の神人・役人が幕府に直訴して、数10人が流罪に。
 1646年 神人(御師)らが「伊勢三宮」を主張。朝廷や鳥羽藩への請願活動が続く。
 1658年 「伊雑は内宮の本宮である」と、さらに主張。
 1663年 将軍家綱に直訴。40人が国外追放に。
 1679年  江戸の版元が『神代皇代大成経』を出版。
 1681年 幕府は『大成経』を「偽書」として禁書処分に。
      版元の戸嶋惣兵衛は追放、企画者の永野采女と潮音道海は流罪に。
      朝廷は「伊雑宮は内宮の別宮。祭神は伊射波富美命」と裁決。
 1682年 中村兵太夫が毒殺される。


中村兵大夫を悼む観音石像は、近隣に他に2ヶ所もあるが、
中村家の墓にある観音様の左手は、毒饅頭を持っている(↓中央右)。
伊雑宮の本宮説を口伝で守る磯部の人々の、筋の通った弔い方を感じる。
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お墓にお参りしたのは、1ヶ月前のちょうどお彼岸の日。
墓地の中央にそのお墓はあり、花が手向けられていた。
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11月末の遷宮を待つ伊雑宮の新宮。『伊雑宮旧記』曰く、伊雑宮は
もともと竜宮で、的矢湾の海底に石の鳥居があると信じられていたと。
様々な古伝が潜む伊雑宮に、実は今年、新たな事件が勃発した。つづく…。
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by utoutou | 2014-10-18 14:39 | 伊勢 | Trackback | Comments(6)

伊雑宮へ〈10〉ダビデの神面

伊勢神宮で神嘗祭が始まったようだ。

ということは、興玉神祭は……いまでしょ!! と、
ようやく昨日になって、気がついた。

伊勢神宮では、三節(6月、12月の月次祭と10月の神嘗祭)
の前日、神職が内宮の興玉神(おきたまのかみ、猿田彦神)
を祀る興玉神祭をするのだと、
一昨日、このブログに書いたばかりだった。

神嘗祭(かんなめさい)とは、その年の新穀を大御神に奉り、
ご神徳に報謝申し上げ、皇室の弥栄を祈るもっとも由緒深いお祭り。
(伊勢神宮のwebサイトの説明)

興玉神祭と、御卜 (みうら)についても、
神宮のお祭りと行事の項に記されている。

10月15日 興玉神祭
月次祭奉仕にあたり、内宮御垣内西北隅にご鎮座の地主の神、興玉神をお祭りする。
10月15日 御卜
奉仕する神職が、奉仕直前に神の御心にかなうかどうかを、おうかがいする儀式。


こちら内宮の月次祭・由貴大御饌(ゆきのおおみけ)。
正装した神職による厳粛なる参進の様子。伊勢神宮webサイトから拝借。
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神嘗祭、興玉神祭に思いを馳せていると、
御卜(みうら)のことがしきりと気になった。
「お祭りの前に、神職がそのお許しを得る」…?
どこかで聞いたことのある儀式だなと考えてみると…。

それは、琉球の始祖アマミキヨが祀られるミントングスク(南城市)
の当主・知念幸徳氏が、久高島の古祭・イザイホーを語ったくだり(要約)。

〜イザイホーの時も、ヌルさん以下、久高島の人々は
秘かにやって来られ「イザイホーをしますから」と拝み、アマミキヨの
神様からの許可を得られた場合だけできるということになっていた。
極秘扱いにされていましたが、米や藁をこちらから持ち帰って、
秘かにイザイホーをやっていたものです〜
(『沖縄県 久高島資料』('79年、「古典と民俗学の会」編著、白帝社刊)

アマミキヨ神と興玉神は、どうも共通点が多いようだ。
上古の時代、大陸から東方をめざして来訪したと伝わる渡来神。
稲作を担う太陽神でもあり、神祭りの許可を与える地主神。
そして…その形相は、天狗にそっくり。



ミントン家に伝わっていたアマミキヨの神面。
鎌倉芳太郎氏のスケッチを元に、仮面研究家ら有志が復元した。
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伊雑宮・猿田彦神社の神楽で使われていたという天狗面。
『伊雑宮の御師たち』('02年、志摩市磯部郷土資料館刊)より拝借。
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面影が洋風で「ダビデの神面」と似ているのも共通。
秦河勝が弓月国から持ってきたという兵庫県赤穂市の大避神社に保存される舞楽面。
『みのもんたの日本ミステリー! 』(テレビ東京)で、オンエアされた('07年)
とき、神職は「1300年前の面、ユダヤの神様です」とコメントしていた。
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秦氏。
『日本書紀』に、応神の時代に百済より渡来して帰化したと記される。
倭姫命が伊勢国に入ったとき、案内をした大若子命の別名は、大幡主命。
「大幡」は「八幡」などと同じく秦氏の名。外宮の神官・渡会氏の祖も秦氏である。  

久高島にも秦氏が渡来したと思われる痕跡がいくつかある。
ひょっとすると…猿田彦はアマミキヨなのか。

by utoutou | 2014-10-16 21:15 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

伊雑宮へ〈9〉伊勢に沈む古代

皇大神宮の内宮に鎮座する「興玉神(おきたまのかみ)」。
またの名を猿田彦大神。現在、その姿は玉垣の中にあって窺い知れないが…。

場所は、北西の奥。
参拝順路でいえば、内宮を出て、玉垣の外周を荒祭宮に向うときに出会う
↓御稲御倉(みしねのみくら)の、小径を挟んで向かい側といったところ。
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興玉神を「非常に大切な神様」と著したのは、上山春平氏。
(『上山春平著作集 第五巻 神と国家』'94年、法蔵館刊)

〜外の垣を一つ入った裏手の西北の隅に非常に大事な神様が祀られています。
(中略)三節といって、年に三回、大事なお祭りがあります。
こうした大事なお祭りのときには、最初にお供物を捧げます。
お祭りの前夜に興玉神に神饌を捧げるという儀式があるのです。〜


興玉神は、江戸時代には玉垣の外に坐していた。  
『伊勢参宮名所図会』に載る「内宮宮中図」を見ると一目瞭然。
その大切な神様に手に届くような、大らかな参拝風景も見える。
赤い囲み(筆者による)の右が正殿、真ん中が「興玉神」。左が「御稲御倉」。
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(国会図書館デジタルアーカイブ「伊勢参宮名所図会 5巻」より拝借)


図会の次ページは、内宮の北門を出てから荒祭宮までの周辺が描かれているが、
こちら昨年の遷宮を経て東側に鎮座した荒祭宮と、駆け足で撮影した古殿地。
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荒祭宮を参拝後、振り返ると、正面に正宮の玉垣(黄金色)が見える。
つまり、興玉神(猿田彦大神)と荒祭宮(瀬織津姫)は向き合っている。
石段の数は、正宮の玉垣からこっちへ56段下りて、15段上がる。
差し引き40段下ったところに荒祭宮がある。
現在は枯れているが中間に川の跡が横たわる。
水神・滝神・龍神であり、日巫女であった瀬織津姫。
その神祀りを確信させる祭祀空間である。
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猿田彦と瀬織津姫という向き合う一対神が、
皇祖アマテラスが鎮座する以前から、ここ伊勢の祖神。

そして、興玉神とは、太陽神そのものだった。
『内宮宮中図』の目録は「興玉神」を次のように表している。
「興玉拝所石壇」……太陽神を拝して捉える神壇。

その石檀は太陽の昇る東を向いているという。
伊勢の古代祭祀は、古代琉球と同じで、ことごとく東方を重視する。
まるで同じ神々が沈んでいるように思えるほどだ。

伊雑宮の鳥居は、東に向いている。
御田植祭をする御田(おみた)の鳥居と忌柱も、東に向き、
現在の佐美長神社にあった猿田彦神社も、東向きである。
また猿田彦神社には、明治時代以前、熊野神社への遥拝所があった。
東西軸である。

現在の佐美長神社。江戸時代までここにあった猿田彦神社も東向き。
スマホには、画像の撮影時刻が9月23日14:00と。
日は西方向の空から射していた。
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by utoutou | 2014-10-14 23:21 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

伊雑宮へ〈8〉消えた猿田彦神

猿田彦(天照大神)と罔象女大神(みずはのめ、瀬織津姫)は、
伊勢志摩で崇められていた一対神だった…と書いたのは一昨日のこと。

そう言えば、今回、瀬織津姫の祀られる神宮内宮の荒祭宮
にも駆け足で参ったのだったと、今朝、画像を探した。


内宮では、まず正殿にお参りしてから、北側に位置する荒祭宮へと
移動しつつ、なぜかいつもこの場所でカメラを構える。
警備員の方が左へと誘導する隙に、内宮方向を撮影した。
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内宮の奥にあたるこの北門(写真右)から見える建物は何だろう?
天岩戸に祀られる一対神が猿田彦大神と罔象女大神(瀬織津姫)ならば、
ひょっとすると、このあたりに猿田彦神が合祀されていても
不思議ではない。というわけで、帰ってから調べてみた。


伊勢神宮HPに掲載されている ↓ 伊勢(皇大)神宮・内宮配置図
図の上部に位置するのが、写真に写る北門。建物は北宿衛屋だった。

荒祭宮はさらに北にある石段を下りて、また上がる。
神宮の正殿の玉垣内がどのような配置なのか、
こうして調べるのは初めてだが、猿田彦神にまつわる殿はない。
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ところが、だ。
下手な考え休むに似たり…と自戒したのも束の間、驚くべき発見。
ある本で「興玉神」の神名を見つけた(赤の囲みは著者)のだった。
『アマテラスの誕生』(筑紫申真氏著、'02年、講談社学術文庫刊)。
(※昨年の遷宮を経て、現在の正殿は、図の左の古殿地に祀られている)
北門の内側に、まるで荒祭宮と向き合うように「興玉神」の名が見える。
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興玉神こそは、ご来光で有名な二見興玉神社の祭神・猿田彦大神である。
伊勢参りの前には二見興玉神社に参るのがよいとされるが、内宮にも!?

さすが「みちひらき」の大神様。猿田彦神にヒラメキをいただいたのか。

現在、伊勢神宮近く(宇治浦田)にある猿田彦神社は、
これも調べてみると、社殿を造営したのは明治11年。それまでは、
宇治土公家の地主神として、延宝5(1677)年から祀られていた。


そして、これまた驚くことに、猿田彦神社は伊雑宮にあったのである。
『伊勢参宮名所図会』(1797年刊行)。「伊雑宮 其 二」のページ。
現在の佐美長神社の境内に堂々と鎮座していた。

右の社殿が「猿田彦神社」(赤い囲み)。左に大歳社とある。
まさか。猿田彦大神は伊雑宮からいつ消えたのだろうか…。つづく。
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          (画像は三重県のwebサイト「テーマでみる三重」から拝借)
by utoutou | 2014-10-12 21:35 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

伊雑宮へ〈7〉天岩戸と猿田彦

伊雑宮のある磯部は、古来、半農半漁の海人族の居住地だった。
この風土が沖縄開闢の地に似ていて、大いに興味をそそられる。

琉球の海人族は塩田もつくった。
沖縄南部の玉城には、マース(=塩)御嶽があるが、
伊雑ノ浦の飯浜(いいはま、いばま)にも製塩遺跡があり、
塩を平城京に納めていたことが、発掘された木簡から分かるという。

「飯浜」の由来は、倭姫一行に昼食を饗したという倭姫伝説による。
倭姫は巡行の最終地である磯部へ、海路を使って移動したらしい。

そんな磯部の産土(うぶすな)の神は、竜蛇だったに違いない。
倭姫一行を「奉迎して」伊雑宮を創建したとされるのは、
先住族の首長・伊佐波登美命(いざわとみのみこと)。
登美とは富族のこと。富族が崇めたのは龍蛇神である。

先祖代々祀る龍蛇神を放逐し、新たな神を歓迎するわけはない。
奉迎というより、朝廷に帰順して土地を明け渡したのが真実かもしれない。


さて、かつては伊雑の森まで流れていた神路川の源流に天岩戸がある。
天岩戸は、沖縄のクマヤー洞窟がそう呼ばれたように各地にあるが、
天岩戸とは水神信仰、龍神信仰の霊場である。

神路川の源流の天岩戸には、滝祭窟があり「水神さん」がいた。
伊勢志摩に先住した民が崇めた龍神、「滝祭大神」である。
また、泣沢女神・美都波女神・猿田彦神の三神が祀られていたとも。
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天岩戸は、現在の伊勢道路から山道を2㎞ほど歩くが、その分岐点に、
「罔象女大神(美都波女神)水神」と彫られた石の道標があったという。
みずはのめ。泣沢女神と同神である。
つまり天岩戸(鳥居の奥)は、瀬織津姫の坐す水穴だった。
「滝祭大神」の石柱は天岩戸の右に立っている。
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その女神が伊雑宮の元神であることは、御師・西岡家に残る文書にも。
(以下、菊池典明氏著『エミシの国の女神』'00年、風琳堂刊より引用)

〜(西岡家文書には)伊雑宮の祭神として登場していた
「玉柱屋姫命」は瀬織津姫と同神であることが記されている。
その一対神である「大歳神」は猿田彦と同神であり、つまりは、
男神の太陽神=天照大神との二神が、伊雑宮の元々の神であった。〜
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瀬織津姫は、伊勢神宮内宮の後ろに坐す荒祭宮であるとも言われる。
つまり、伊勢神宮のある宇治山田の産土神も、天照大神と瀬織津姫だった。
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ところで、天岩戸は伊勢神宮から伊雑宮への参詣道にあった。
全長約16㎞。険しい山道で車でも40分かかる。  

伊勢志摩の境界にある逢阪峠付近には「家立の茶屋跡」があり、
猿田彦大神が家を建てたと伝説はいう。
「猿田彦の森」「高天原」という地名も残っている。

また逢阪峠は神路川(東)と、神宮の五十鈴川に合流する島路川(西)の分水嶺。
地形からも猿田彦(=天照大神)と罔象女大神(瀬織津姫)は、
伊勢志摩一円で崇められた一対神だったと分かる。

by utoutou | 2014-10-10 18:25 | 伊勢 | Trackback | Comments(2)

伊雑宮へ〈6〉倭姫と鮫

♪ 磯部伊雑宮は龍宮様よ 八重の汐路を鮫が来る〜
伊雑宮で行われる、お田植祭の唄の一節。
八重の汐路とは、志摩のリアス式海岸を流れる水路。
そこから的矢湾に入り、7匹の鮫が白波を立て遡って来ると。

駅に至近の現在の位置からは想像もつかないが、
創祀されたと「しおり」にある2000年の昔、
伊雑宮は、鮫が遡る河口に建てられた。

そのことは、伊雑宮御鎮座の由来でも確認できる。

倭姫命が天照大神の鎮座地を求めて巡行していると、神託があった。
「明朝、7本の鮫が沖を通る。その後について行けばよい場所がある」
その通り、鮫たちの後をついて入江の奥まで行き、
天照大御神をお祀りしたのが、伊雑宮だという。

さて、伊雑宮の南800mに佐美長(さみなが)神社がある。
交差点の歩道脇に立つ鳥居から石段を上がると、もう境内。
参道もないシンプルな立地だが(鮫が遡る)川沿いだったなら頷ける。


佐美長神社は伊雑宮の所管社。その授与品も伊雑宮の社務所で扱う。
ディスプレイの色彩に、なぜか御杖代だった倭姫の旅を思った。
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佐美長神社は、旧名「大歳社」「穂落社(ほおとしやしろ)」。
「伊雑宮のしおり」によると、倭姫命が志摩国巡業の際、
鳥の鳴く声が聞こえるので、見に行かせると、
葦原に一株の稲が生え、穂が千穂に分かれて茂っていた。
一羽の真名鶴がその穂をくわえて飛びながら鳴くので、
この鶴を大歳神(五穀の神)と崇めて、この地にお祀りした。


大歳社は、明治時代に入ってから佐美長神社と名が変わった。
鳥居に、これはまた神技か…墨絵で描いたような一羽の鶴がいた。
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「稲穂をくわえた鶴」の伝説は各地にあるが、沖縄もしかり。
稲作発祥の地・受水走水(うきんじゅはいんじゅ)に似た伝承がある。
そして、受水走水もまた、古代は葦の茂る湿地帯だった。

いずれも稲を携えた海人族が渡来して、葦原を拓いたことを示している。
沖縄の稲作の祖は「アマスのアマミツ」。アマスを天祖とも書く。
天祖は言い換えれば「五穀の神」。沖縄版の大歳神である。


ここ佐美長神社もまた、訪れた9月22日、遷宮の準備中だった。
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佐美長神社の境内には、知る人ぞ知る可愛らしいお宮が並ぶ。
佐美長御前神社四社。こちらも伊雑宮の所管社。

四社が佐美長神社に移されたのは、これも明治時代になってからという。
大規模な治水工事があるまでは、四社は川添いに点々と祀られていた。

神の使者である鮫たちが伊雑宮へと遡った川を、神路川といった。
伊雑宮の森の裾野を流れる、別名「御裳濯川(みもすそかわ)」。
人々は祓戸の社に参り、見守られ、伊雑宮参りの禊ぎをした。
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高台の名所・おうむ岩から磯部の町(※位置的には東)を望む。
真ん中のこんもりとした森が、伊雑宮。
その先に伊雑ノ浦、的矢湾が横たわって見える。

写真からちょうど外れた右方に、佐美長神社がある。
明治の治水工事以前は、おうむ岩(カメラ地点)から赤い矢印に添って
神路川が流れ、佐美長神社の前から、伊雑ノ浦〜的矢湾に注がれていた。

現在の神路川は磯部川と名を変え、写真右の道路に添って流れる。
川の流れは変わっても、倭姫と鮫の伝説だけは唄に残った…。
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by utoutou | 2014-10-08 20:50 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

伊雑宮へ〈5〉六芒星の行方

伊雑宮には、六芒星(ダビデの星)の付いた灯籠がある。
よって同じく六芒星を裏社紋とする籠神社とは、
阿吽の関係だ…と、言われて久しいが、
聖書と似た風習の多い沖縄の古代を追いかけるには重要な鍵。

ということで探してみると…あった。
ただし、境内ではなく、鳥居の斜向いの建物に。
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神武参剣道場(じんむさんけんどうじょう)という。
神武とはこれまた意味深。昭和36年の設立。
門に立つ石灯籠に、十六菊と六芒星がくっきりと刻印されている。
石柱の下部には「伊勢参宮奉賛献燈会」と、鮮やかに、左右に。
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道場主は、小泉太子命(こいずみたいしめい)氏という剣の達人だった。
御師の家の森さんによると、小泉氏は平成元年に他界されたが、
生前、多くの政治家や財界人が訪れていたという。

「伊雑宮の神紋は花菱と六芒星である」が持論で、
惟神(かんながら)思想の平和主義者。
そして、際立った霊能者だった。また…
神宮の内宮と外宮をつなぐ御幸道路(みゆきどうろ、5.5㎞)に、
隙間なく六芒星の灯籠を設置するため、寄付者探しに尽力。
自らの道場にも立てたのが、「伊雑宮に六芒星あり」の真相だった。


こちら御幸道路に立っている石灯籠。
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六芒星は、伊勢三宮奉賛献燈会のシンボルだった。
伊雑宮、内宮、外宮を「太陽、星、月」と崇めるのが、
「三宮」と付けた団体名の由来…
と、知ったところで、思わずのけぞった。
「日月星」信仰は、沖縄ナーワンダーグスクに見る古代祭祀のかたち。

伊勢三宮を六芒星でつないだ伊勢三宮奉賛献燈会は、
神宮が古代ユダヤかシュメール由来であることを暗示していた

財団法人であったその献燈会は既に
解散しているが、設立当時('53年)の総裁には、
北白川宮能久(よしひさ)親王家に所縁の方が就かれたと聞く。

実はなんと、北白川宮能久親王は
沖縄開闢の地・
知念玉城をご訪問になったことがある。
まさか御嶽の視察ではないだろうが、気になる一致だ。

『玉城村史』('77年)に「北白川宮能久親王御台臨」の記事が見える。

〜明治26年の夏、北白川宮第六師団長殿下は島尻郡を御視察になり、
正午、玉城村に御立寄りになり、御昼食を召し上がられました。〜
また(知念)佐敷村役場にも、当時の記録が残っている。
〜北白川宮能久親王殿下御馬にて村東入口より御来村遊ばされ、
村民学童村入口にて御迎え申候〜
佐敷では村役場に1泊され、翌日、佐敷小学校で歓迎運動会をご覧になった。

その3ヶ月後、親王殿下は大日本帝国陸軍第四師団長
として台湾出兵。2年後、マラリアのため薨去された。

ともあれ、御幸道路(県道、市道)に立つ石灯籠(700基余り)は
老朽化して危険なものから撤去となることが決まっている。
三重県では、昨年の遷宮前に425基のうち9基を撤去した


伊雑宮から車で20分ほど。
海沿いの町・相差(おうさつ、鳥羽市)では、
海女さんが「五芒星(セーマン)九字(ドーマン)」の魔除けを磯着に付ける。
そのお守りを授ける神明神社近くの海産物販売所には、こんな張り紙も。
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くだんの籠神社の海部宮司が、この相差で
海女さんが五芒星の魔除けを付ける風習に
関心を寄せておられたのを思い出す。

by utoutou | 2014-10-07 11:49 | 伊勢 | Trackback | Comments(2)

伊雑宮へ〈4〉さらに元宮


伊雑宮(いざわのみや)を地元では「いぞうぐう」と呼ぶ。
三重県志摩市磯部町上之郷。
町名の由来は、古来この地に居住した磯部氏による。

磯部氏とは、「日本書紀」応神天皇の条に
「諸国に令して海人(あま)及び山守部を定む」や
「古事記」に「海部、山守部、伊勢部を定め」とある、
伊勢部(磯部)という職能集団として組織された海洋民(海人)をいう。


近鉄志摩線で鳥羽駅から23分、上之郷駅下車。
航海安全祈願の霊峰・青峰山までは車で30分。
標識を見上げて伊勢・鳥羽のリアス式海岸を思う。車で約1時間。
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志摩の国には一之宮が二社ある。
理由は諸説あるが、ともあれ二社とは伊雑宮と、伊射波神社。
鳥羽市安楽島町字加布良古という地名から「かぶらこさん」と呼ばれる。
今回は足を伸ばせなかったが、鳥居は風光明媚な浜に建つ。
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※画像はFBページ「志摩一宮伊射波神社」から拝借。


黒潮が流れ込むこの浜に着岸し、
神社を創建したのはどこから渡来した海人か。

それが黒潮の源流たる南の島々であることは
誰もが認めるところだと思う。そのなかに、
沖縄があると考えるのはごく自然なことだと。
この海を見て改めて。


さて、『磯部町史』は、
その地名と神社についての概略をこう記す。
〜粟島神戸と伊雑神戸は『輪庸帳』(※729)に
大神宮神戸、粟島神戸、伊雑神戸とあり、
粟島神戸の方が伊雑神戸より上位の神となっている。〜

つまり、粟島(現在の安楽島)の伊射波神社は
伊雑宮の元宮であると。
『皇田太神宮儀式帳』(804年)には
「粟島坐伊射波神社」と、社名が見える。


「伊雑宮のしおり」の周辺MAP(赤線は筆者による)
伊射波神社のある加布良古岬は右上に、また、
「伊勢神宮のもうひとつの元宮」朝熊神社のある朝熊ヶ岳はその左に。
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伊雑宮・御師の家の森さんの話では、
伊射波神社に近い贄浜(にえはま)は複合遺跡。
弥生式土器、和同開珎、そして金の帯金具が出土した。
「聖徳太子のような貴人が使う装身具だったそうです。
持統天皇の密貿易港だったとも言われています」

また昭和40年代から60年代の発掘調査では、
製塩土器、祭祀用具など縄文の遺物も発掘された。

伊射波神社の社殿は、遺跡を見下ろす岩山の頂上にある。
祭神は「神名帳」に記された二座のうちの一座、伊佐波登美命。


登美…。竜蛇神を崇める、出雲の先住神族・富族。
伊雑宮は「出雲」だったのか。
朝日が昇るこの伊雑宮・鳥居の反対側、800m西に佐美長神社がある。
古来、大歳社と呼ばれた。大歳神とは、男神としての天照大神だろう。
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by utoutou | 2014-10-05 20:56 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)