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伊雑宮と猿田彦〈3〉道祖神になったサルタヒコ

猿田彦の森を登る、一歩ごとに、
天の岩戸の源流に近づく実感があった。
そして、いくつかの疑問が解けていく。

まず、
日本書紀の垂仁天皇のくだりを思った。
「五十鈴川の川上」が出てくる。

こんな話だ…。
倭姫が巡行の果てに伊勢国に入ったとき、
天照大神は宣った。
「神風が吹き、常世の波が寄せる国、傍国の美し国。
私はここにいようと思う」。
そこで倭姫は、その祠を伊勢に定め、
斎宮を五十鈴川の川上に興した。
そして、これを磯宮と名づけた…。


傍国(かたくに)=片方が海、片方が陸の国。
そして美しい国。それは、伊勢ではなく
この志摩の磯部のことではないか。
だからこそ、磯宮と名付けたのではないか。


真下から見上げた「片枝の杉」
樹齢500年は経っている?
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もうひとつの疑問は、内宮に
祀られている興玉神(猿田彦)のこと。

以前にも書いた
猿田彦と瀬織津姫という一対神は、
アマテラス鎮座の前から伊勢の祖神だった。

ゆえに内宮の中には「興玉神拝所石壇」があり、
それは太陽の昇る東を向いているという。

森を登りつつ、東とは、この猿田彦神社の方向
でもあったのだと、しきりと納得した。


地図左上に加筆した赤の矢印が、伊勢・内宮の方向。
右手の赤丸が天の岩戸。上の逢坂峠との間に、
江戸時代まで猿田彦神社があった。
天の岩戸の下流につけた青丸が伊雑宮。
地図は郷土史より拝借。
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さて、
片枝の杉を見上げた後、足元に目を転じると、
そこには小さな祠があった。
道祖神のように、ひっそりと。東を向いている。
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祠の中に、神名を彫った御札が祀られていた。
容易には見えず、指で詰まった枯葉などを除く。
すると、カタッと小さな音がして、
あろうことか、御札が倒れてきた。


神様が倒れた…
合掌する前に、実はそういう「事件」があった。
動揺して、あたりを見回すが誰もいない。
海の方向から太陽が見つめていた。
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神名は、⚪️⚪️⚪️⚪️⚪️大神。難しい字だ。
しばらくしゃがんだまま、手にした石札を見つめた。

とにかく戻さねばと、祠を覗き込んだとき、
さらに違う神様も祀られていることに気がついた…。



by utoutou | 2014-11-30 23:18 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

伊雑宮と猿田彦〈2〉猿田彦のひもろぎ「片枝の杉」

伊雑宮の元々宮がある? 猿田彦の森。
太古の息吹が感じられる。
天の岩戸(水穴)から300m登ると「風穴」がある。
その岐路から先、高所にあるはずの猿田彦神社を探す。


赤い布を巻いた小杉の左に登り口を見つけた。
これで行こう。
隠された御嶽(聖地)への道程は、何らかのかたちで示される。
誰かがつけた印があったり、植えられた木がモノを言ったり。
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道らしからぬ道は、崖状の尾根の数mほど右にあった。
斎場御嶽の奥宮ナーワンダーグスクへの道と、地形が似ている。
斜度はこちらのほうが急だが、灼熱のジャングルを
掻き分けて登ったのに比べれば、何倍かラク。


↓『伊勢参宮名所図会』にある猿田彦の森。
大杉の前に鳥居。旅姿の男たちが参詣する図。
これも前日、志摩市郷土資料館で改めて見たばかり。
景色はほとんど変わらないが、にぎわっている。
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図会の解説ページにはこうあった。 〜猿田彦森 
合坂より下る所に有 杉のこらず片枝に生えり 故ある事と云〜 

合坂とは逢坂峠のこと。
伊勢(神宮)と志摩(伊雑宮)の境界。
そして、伊勢神宮の五十鈴川、伊雑宮の神路川(旧名)
両方の川へと注ぐ分水嶺でもあった。


それにしてもいったい…
「どんな故」あって、杉が「片枝に」なったのか? 
考えつつ、神籬となった杉を探しながら登る。
地形と時間からみて、太陽を背にしていれば方向は誤らない。


あった。森のど真ん中に巨大な「片枝の杉」。
これが猿田彦の神木か。
まるで引き裂かれたように、片枝。
目に見えるほど強烈な神気が放たれる。
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もしかすると、怒りで片枝になったのか。
記紀神話では、アマテラス大神を迎えたのが猿田彦。
出会いの地は、五十鈴川の川上だった。つまり…
この猿田彦の森(逢阪峠)を指しているとも考えられる。
それなら、猿田彦の怒りはもっともなことだ。


巨杉の根本に、石の小祠があった。
天の岩戸でペットボトルに汲んだ水を供え、utoutou(合掌)。
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思えば、きょう11月28日の夜、伊雑宮で遷御の儀がある。
天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)。
最初の遷宮は持統4(690)年、倭から大和へと国号も変わった時代。
遷宮とは、倭の神々を鎮めるためだったという説を思い出した。

by utoutou | 2014-11-28 13:45 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

伊雑宮と猿田彦〈1〉埋もれた旧道



11/23の午前、伊勢市から
紅葉の山を越え、2ヶ所のトンネルを通り、40分。
志摩市磯部の恵利原にある水穴へ。
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通称「天の岩戸」でお祭りがある。「ご案内」は次の通り。

--------------------------------------
天の岩戸 例大祭 のご案内 
恒例であります、天の岩戸「例大祭」を実施いたします。
皆様、お誘い合わせの上、ご参拝していただけますよう
お待ちいたしております。

日時 平成26年11月23日(日)午前中
午前10時30分 〜 祭典
(中略)
天岩戸メモ
○祭神 天照大神
※他に祭られている神 泣沢女神(なきさわめのかみ)
           美都波女神(みずはのめがみ)
             猿田彦神(さるたひこのかみ)  
-------------------------------------------

主催は恵利原老人クラブ。
名だたる名所・天の岩戸だが、産土神様のお祭りの趣き。
泣沢女神と美都波女神は同名異神の「瀧の女神」、
伊勢内宮正宮の奥に祭られる荒祭宮の祭神・瀬織津姫である。
また猿田彦神は、明治以降、
伊雑宮の所管社・佐美長神社の祭神となった大歳神。

推察するに、沖縄を経由して
伊勢の地主神となった遠来の太陽神・猿田彦と、
太古からこの地に坐していた瀧の女神・瀬織津姫。
伊雑宮の祭神の座を、皇祖・天照大神に明け渡した、  
一対の産土神を、地元ではこのようにして祀ってきたのか。


天の岩戸(鳥居の水穴)=滝祭窟。拝殿が右の石段の上にある。
緋の垂れ幕などが施され、お祭りらしい華やぎが感じられた。
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石段を登り合掌。ふと前回は察知できなかった何かが、訴えてくる。
お宮の向きだ。こうして合掌する先は、どっちを指すのかと。
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「猿田彦の森」「猿田彦森の神社」という昔の地名を、
前日、郷土資料館にあった郷土史で垣間見たばかりだった。
〜岩戸さんに詣って急な坂道を伊勢道路に向うと、猿田彦の森〜
伊勢道路とは、いまは山に埋もれた伊勢旧道のこと。


「この上は猿田彦の森ですか?」と古老に聞くと「ああ」と仰った。
「では猿田彦の神社は?」「いまはない」と、山の上を仰ぎ見た。
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「いまはない」なら猿田彦神社の跡地へ行こう。

ぐるり眺めると観光名所の風穴へ向う入口がある。
この鳥居が消えた神社への道標だったかもしれない。

伊勢志摩でも御嶽登り…と苦笑しつつ、
お祭りの賑わいに背を向けた。 
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by utoutou | 2014-11-26 21:00 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

遷宮前の伊雑宮へ〜の前に内宮早朝参り

連休のなか1泊2日で伊勢志摩へ。
内宮には参拝したいが、
車で40分かかる伊雑宮や天の岩戸へも…
というわけで、内宮至近の宿に泊まり、
2日目はまず早朝参拝を試みた。

以下ざざざっと「早朝伊勢内宮参り」メモ。
※時刻はスマホ画像の記録のまま。


【6:47 宇治橋】 宿で予約してあった自転車で急ぐ。
日の出はとうに過ぎたが清々しい鳥居。
集合中?の数十名の参詣団の皆さんを背に。
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【6:48 五十鈴川】朝の参拝客は足はや。ひとり橋から身を乗り出し川面を。
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【6:50  紅葉その1】宇治橋を渡り右折して、紅葉の園に心が和む。
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【6:52 紅葉その2】勝手に霊石と名づけているスポット。五十鈴川沿い。
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【6:55 紅葉その3】正殿参拝には時間が足りず引き返す目にも紅葉の山。
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【7:00 おはらい横町】賑わう日中なら1時間の道のりを、
自転車5分で駆け抜ける。早朝開店も何店か。
モーニングサービス、次回は是非に…。
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【7:20 浦田町バス停】宿を出てバス(三重交通)を待つ。
非常にココロ洗われた朝を満喫したので、
神宮参拝はやはり朝に限ると感じつつ、
天の岩戸への足(レンタカー)を求め、伊勢市駅前へ。
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by utoutou | 2014-11-25 03:30 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)

天武の墓〈6〉ミントン古伝の英祖王

『如件』の著者で、いまは亡き窪田道全さんが、
語り部の前に現れたことがあった。
地元の男たちが、浜川御嶽からヤハラヅカサの海に
降りるための石段を整備したときの話…

御嶽で祈願しようとする語り部の前に
姿を見せた道全さんらしき老人が、
工事人の住所氏名を宣ったという。
工事人とは石積みの名匠・窪田繁雄さん。
道全さんの息子である。  
繁雄さんはいまも不思議そうに振り返るが、
父の願いはアマミキヨの御嶽を後世に伝えることだった。

『如件』で、阿摩美姑(古伝では「天御子、皇室の御子」)の
系譜を著すくだりに、その思い入れが伺える。以下要約。

・阿摩美姑に2男3女が生まれた。
・長男は国王、首里天孫子となった。
・2男は玉城城を構え按司となり玉城天孫子となった。
・3男は農業の指導者になった。
・長女は聞得大君として天地神祇を祀り、次女はヌルになった。
・阿摩美姑は女の神様で、夫はソネ彦といった。
・天孫氏25代の王は、逆臣・利勇に滅ぼされた。
・舜天王統3代のとき飢饉がうり義本王が行方不明に、
 玉城天孫子30代の湧川按司が王位を継ぎ、英祖王となった。
(※英祖王の在位は、1260年 - 1299年)
・英祖王と大成王は天次(※玉城城)に空葬された。


玉城城の一の郭にある「大成王の墓」。
英祖王も空葬されていたとは『如件』にのみ伝わる秘史だ。
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これまでも書いてきたが、『中山世鑑』や『中山世普』では、
英祖の出自を、母親が太陽を飲み込む夢を見て孕んだ
「てだこ(太陽の子)」と、なぜ曖昧化したのか。

それは、天孫氏王朝の初代王こと天武大主が、
窪田道全氏が記したように「大和から渡来した天御子」
だったからと考えれば合点がいく。

『中山世鑑』を現した羽地朝秀は
日琉同祖論者だったというが、
琉球王朝は天孫氏王朝の歴史
を空白にすることで削除した。

ただ『如件』だけは、
天孫氏王朝の終焉について示唆していた。

〜最後の別れ(※天孫氏25代の王)は
大里村西原城に祀られ、西原按司の子孫が崇めている〜

南城市大里西原の拝所「ウフユー」。
「天孫氏二十五代」の位牌は秘かに祀られてきた。


久高島の「地割(じーわい)」制度を始めたのは英祖王と言われる。
大化の改新で制度化した日本の「租庸調」を取り入れたというが、
その伝統は現代にも継がれ、いまも畑地はすべて島人の共有制。
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東海岸から地割の方向を見る。防風林の向こうに地割の畑地が並ぶ。
9月末撮影。大きな台風一過。樹々の葉はすっかり落ちていた。
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by utoutou | 2014-11-18 09:26 | 天孫氏 | Trackback | Comments(0)

天武の墓〈5〉ミントン古伝の葺不合(フキアエズ)

天武大主の墓になぜ「稲作の祖」と彫られているのか
について考えようとしていたが、
その前に…ミントン古伝が記す
「日本から来たアマミコが教えた葺不合(フキアエズ)」
などの風習や言葉について、メモしておこう。


「大和から来たアマミコが教えたこと」その1. 
妊婦がいるときは葺不合(フキアエズ)の印を見せる。

この風習の源を記紀神話に求めるのは、
私だけではないだろうと思う。
豊玉姫は山幸彦との間にできた子を
鵜(う)の羽で葺いた産屋で産もうとしたが、産屋が
完成しないうちに産気づき生まれてしまったので、
鵜葺草不合命(ウガヤフキアエズノミコト)と命名した。
「フキアエズの印」とは、途中まで葺いた屋根のことである。

「アマミコが教えたこと」その2.
子どもが生まれたら「川降り(かーうり)」をする。

『如件』には上記以上の詳細は記されていないが、
「川降り」とは、生まれた赤子を初浴(うぶあみ)させ
その後に、着物を被せ、小蟹を数匹這わせること。
今でもこの儀式を行う地方が、離島にはあると聞く。

大和朝廷の宮中祭祀を司る職にあった忌部氏による
『古語拾遺』(807年)に、沖縄の風習と同じく、赤子に
蟹を這わせる行事が見えると『古琉球』で指摘したのは、
伊波普猷氏(1876〜1947年)。そのうえで次のように記した。
〜琉球の風習と日本の伝説の間には何らかの関係があるに違いない〜


↓本文とは関係ないが、参考に拝借。
『野津唯市写真集 懐かしい未来』('12年、球陽出版)の
「貧しくとも豊かだった頃」に描かれた、昔の「屋根の葺替え」。
半端に葺くのが「葺不合(フキアエズ=安産祈願)の印」。
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ところで、『古語拾遺』('85年、岩波文庫版)には、
(ここでは葺不合命は、ヒコナギサノミコトという)
赤ん坊に這う蟹を箒で掃(はら)う「蟹守(かにもり)」として、
「掃守蓮(かにもりのむらじ)遠祖天忍人命」の名が見える。

では、生後まもない葺不合命には、なぜ蟹が群がったのか。
これは間違いなく、人も蟹も満月の夜に子を生む(産卵する)
という親和性の証しではないかと思うが、どうだろうか。

また蟹が脱皮する生態は
古代の人々にとって、蛇と同じように
「生と死の復活」「永遠の転生」の象徴だったに違いない。
語り部の話では、現代でも沖縄では、お墓のお供えに、
蟹や海老といった甲殻類を贈る習慣が残っているという。


興味の尽きない、日本と沖縄の風習の類似だが、
なかでも興味深いのが「玉依姫の里はどこか」という点。
臨月の玉依姫は山幸彦に「里の風習で生みたい」言ったのだ。
その風習とは、波打ち際で出産することだった。

「玉依姫と豊玉姫の里は琉球だと思う」と、語り部は言う。
だとすれば「葺不合」の風習は、
琉球に逆輸入されたことになる。


ミントングスク内にある「古代に大和へ行った人の墓」
一説には「彦火火出見命(山幸彦)の墓」とも伝わる。
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by utoutou | 2014-11-14 21:25 | 天孫氏 | Trackback | Comments(0)

天武の墓〈4〉ミントン古伝の皇子

琉球一の旧家・ミントン家の秘伝は
「阿摩美姑(アマミコ)は日本から渡来した」
と、古人大兄皇子の存在を暗示している。

『如件(くだんのごとし)』(1963年刊)。
アマミキヨの居住地とされるミントングスク(南城市玉城仲村渠)
に接するミントン家の門中だった窪田道全氏が
著した私家版の書(ガリ版刷り、20ページ)である。

窪田氏は仲村渠に生まれ、農業を営む傍ら、終生を郷土史の
研究に捧げた「物知り翁」だったというが、90歳で他界する
10年前「私の時代に古老から聞きおぼえた伝説」(序)を遺した。

冒頭の「免武登能阿摩美姑神渡来開闢」の項に関連するくだりがある。
アテ字は明治時代のもので、ミントン・アマミコ神・渡来・開闢と読む。

以下引用
〜免武登能阿摩美姑神と申しましたら、
たいていの人は沖縄開闢神なることはおわかり
だと思いますが、どんな開闢なされたか、
その系図を知る方は少ないと思いますので、
私は阿摩美姑の渡来なされた事、
又、開闢の糸口 免武登能御嶽の御案内を書きまして、
後に阿摩美姑について述べたいと思います。
阿摩美姑は、支那唐の時代に日本から渡来なされたようであります。
百名の南海岸 八原司(ヤハラジカサ)に船を着けられ、此処から
御上陸なされ、浜川の泉の清水で遠い旅の疲れを直してから、
今の免武登能に住居を求められたようであります。〜

沖縄の人は中国のことを、時代によらず「唐」と呼ぶ。
カチャーシー(三線の早弾き)の定番曲「唐船ドーイ」がいい例で、
唐船(とうしん)とは、「中国船」のことである。
そんな先入観から、つい読み流してしまっていた。

が、「唐の時代」を西暦で表せば、618〜690年。
古人大兄皇子が出家して吉野に隠遁したのは、645年。
琉球に逃れたとするなら、まさに同時代のことだった…。


ミントングスク。御嶽の石香炉は「アマミキヨ約三十代に対する拝所
で、人骨のある御墓は英祖王から後の御方である」と『如件』に。
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『如件』に伝わる「アマミコ神」伝説を、まとめてみる。

・2、3ヶ月を経て島を巡り、アマミコは多くの裸人に会った。
「あなた方には夫婦はいるか」と問うと「いない」と答え、
「子はいるか」と問うと「女は子を産むからいる、男にはいない」
と答えたので、アマミコは「種は男にある。女の袋を借りて子を作る
ので子は男のものである」と、血筋(ナーシジシジ)について教えた。

・アマミコは恥をクバの葉で隠させ、夫婦を結ばせ、貞操を守らせ、
和を教え、一定の場所に定住し、家を造ることを教えた。

・子が産まれたら物負けしないよう「川降り(カーウリ)」や
名付けの行事を、また家に孕んだ女がいるときは「葺不合」
(フキアエズ)の印を見せるなどの行事や習慣を教えた。

・日本風の火葬を教えた。「香座(かざ)する間柄」という昔の言葉
は、火葬した匂いを共有する親戚の仲という意味である。

これらの言い伝えと、沖縄特有の「天帝氏」という言葉から、窪田翁は、
「アマミコは日本から渡来した天御子(アマミコ)である」
「天御子と天帝氏は皇室の皇子に違いない」と記している。


那覇市壷屋の陶器店に陳列されている厨子(骨壷)。
風葬や土葬の場合の洗骨後に使う骨壷が並ぶ。
すべて日本風でなく琉球風のもの。
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また『如件』は受水走水での稲作についても述べている。
「ここで稲作がどうして始まったかの由来を知る人は少ない」と。
少し長くなるので、次回につづく…。

↓写真右方に古代米(地米)のカラウカハ、左方向に受水走水がある。
「これこそ天武大主の時代の稲作の始まり田んぼ」だと語り部も言う。
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by utoutou | 2014-11-12 23:20 | 天孫氏 | Trackback | Comments(0)

天武の墓〈3〉琉球の和邇氏

天武大主(古人大兄皇子)が身を寄せた先と、
私が考えるのは、和名垣花(わなかきのはな)。

現在の南城市玉城垣花である。
全国名水百選の垣花樋川(かきはなひーじゃー)の崖上。
垣花樋川は昔、「和名川」(わながー)と呼ばれた。


↓玉城仲村渠(なかんだかり)から垣花樋川への散歩道。
付き当たり左上が垣花樋川、その上が垣花集落。
右下が海。垣花は典型的な高地性集落だ。

いっぽう、この道の右、かつての
わいとい(切り通し)道を降りると「天武の墓」に出る。
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和邇氏が日本最古の渡来族であること、
和名の始祖がアマミキヨとも考えられることは
既に書いたが、沖縄でもう一ヶ所、
北中城村に和仁屋(わにや)という土地がある。

本島中部の東海岸。
現在は埋め立てられて古代を偲ぶべくもないが、
国道329号に和仁屋という名の交差点があり、
近くに荻堂貝塚がある。

荻堂貝塚は 国指定有形民俗文化財。
今から約3500年前の貝塚である。
(ちなみに玉城の和名も、3500年前の遺跡)

1919(大正8)年の発掘調査では、土器、石器、骨器、貝器や、
猪・ジュゴン・犬の骨が出土。生活の痕跡が確認された。

貝製の腕輪、魚骨製の耳飾り、石製の垂れ飾りなど
の装飾品も発堀されており、高貴な文化が伺える。
語り部によれば「和仁屋は、和名の同族が移動した」。

その「和仁」と同じ神名のつく神社が、遠く離れた
(わににますあかさかひこ、天理市)にある。
※「神奈備へようこそ」HPを拝借

神社名ともなった赤阪比古は、別名「和仁古」。
『新選姓氏抄録』に、大和国神別とある。
大国主六世孫・阿田賀田須(アタカタス)命の後裔とも。

アタカタスの名は『新撰姓氏録』に
「宗形君、大国主命六世孫、
吾田片隅(アタカタス)命之後也」ともあるので、
宗像氏と和邇氏は同族と知れる。
どちらも海人族。そう言えば、宗像(福岡県)と琉球
の間には、上古から貝の交易ルートがあった。

宗像大社にはご存知、奥津宮、中津宮、辺津宮があるが、
和名の大森(うふんり)の御嶽は奥津座(おくつくら)、
中森(なかむい)の御嶽は中津座(なかつくら)と呼ばれた。
沖縄県内では珍しく、大和言葉の御嶽名がついていた。


話はまた奈良に飛び…和爾坐赤阪比古神社から車で30分。
大神神社摂社・若宮社に参拝したことがあった。
大直禰子=大田田根子は、和邇氏と同族である三輪氏の祖。
↓文中「大物主の孫」は、和邇氏が三輪山の主だったことを示す。
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いっぽう、ホツマツタエや竹内文書は、
6代大物主として「鰐彦」の名を伝え、
それは三輪明神、櫛甕玉のことだとする。
とすれば、鰐彦こそ疑いなく和邇の始祖だろう。

海をまたぐ古代倭のネッワーク。

和爾の始祖=古代琉球王朝の流れを汲む村が
7世紀にもあったなら、
海人系の皇子の逃亡先として、これ以上の最適地はない。


垣花樋川から見る太平洋の海。
外洋から複数の明澪(水路)が陸に繫がる。
その地形が古代船をこの地に導いた。
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by utoutou | 2014-11-09 21:45 | 天孫氏 | Trackback | Comments(4)

天武の墓〈2〉琉球の高天原

玉城百名にある天武大主(てんむうふすー)の墓。
この人物が古人大兄皇子であるという
推理が、もしドンピシャで正しいとしても、
天武大主は、初めて琉球に渡来した大和皇族ではない。

この御嶽の周辺を、玉城の神女たちがなぜ、
「高天原」「高千穂の峰」と呼び続けてきたのだろう
と考えるとき、「この地は日本神話の故郷」という
口伝が近年まで残っていたことを認めないわけにはいかない。

つまり、玉城には皇子を迎え入れる態勢が整っていた。
そんな縁故ある土地だからこそ古人大兄皇子は、
逃亡先に琉球を選んだと考えるのが自然だ。

乙巳の変(645年)で、蘇我入鹿の暗殺を目撃した
古人大兄皇子が、出家して吉野に入ったことは、
皇極天皇からの皇位継承権を辞退したことを意味する。

そこまで身の危険を感じていた古人大兄皇子が
頼った先、琉球には、
歴史からは消された古代王朝があったと、私は思う。

琉球王府の最初の正史『中山正鑑』(1650年)は、
「天孫氏王朝は、25代1万7千802年間も続いた」と記したが、
こんなことは史書の体裁を整えるための粉飾だと言われてきた。
「17802年÷25代=712歳」になることを思えば、不思議はない。
王一代が712年も生きた王朝…神話としても無理がある。

ところが、仮に…天孫氏王朝が
前後2期あったとすれば、ガ然、辻褄が合ってくる。

前期が、1万7千802年前からあった「古代天孫氏王朝」。
続く後期が、25代の王がいた「天孫氏王朝」。

『中山正鑑』によれば、この25代王が逆臣・利勇(りゆう)に
滅ぼされて治安が悪化、王朝は崩壊したという。
(※最後の王名と、崩壊した年は不明)
そこに現れた若武者が、利勇を討って王に推挙された
浦添按司・尊敦(そんとん)。1187年のことだった。

ここまで続いた25代の天孫氏王朝の初代王が、
古人大兄皇子とすれば、1187年頃−645年頃=542年。
542年÷25代=21.68年 。
これが王一代の在位年数となれば、疑問は解消する。



アマミキヨ渡来伝説の百名海岸に立つ「ヤハラヅカサ」。
琉球の始祖とは、ヤマトから逃げた皇子だったのか?
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「天武大主」のルビは、画像を拡大すると「てんぷうふぬし」と見える。
方言の読みでは「うふすー」なので「ヤマトの人が建てた」説もある。
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石段の右手に墓がある。
墓と呼ばれるが、亀甲墓のように納骨仕様ではないようだ。
祖神の依り代として、秘かに崇められてきた御嶽の刻銘か。
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by utoutou | 2014-11-07 22:18 | 天孫氏 | Trackback | Comments(2)

天武の墓〈1〉琉球に逃げた?古人大兄皇子

沖縄稲作の発祥の地・受水走水(ウキンジュハインジュ)。
その上の磐座(タカマシカマノ御嶽)に立つ、不思議な墓がある。
「稲作の祖 天武大主の墓」。
読みは一般的に「てんむうふすー」だが、
「てんむうふぬし」と、ルビが刻まれている。
数年前、受水走水から百名の集落へと登る石階段の横で見つけた。
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教科書や史書に載っているわけではないので、当初は、
ごくローカルな伝承上の人物だろうと思っていた。

が、玉城百名といえば沖縄の祖アマミキヨの渡来地。
近くに世界遺産・斎場御嶽がある沖縄随一の聖地である。
琉球民族が崇める東方の首長だったというのである。
次第に謎めいた存在に思えてきて、身震いがした。

その由来を知りたくて、百名の古老に聞くと、
「この地一帯を拓いて御嶽を守られたご先祖だ」という。
ただ「どこの門中(男系神族)のご先祖か」と訊くと、
「それは分からない」と言って、口を閉ざしてしまった。
どうやら、墓について知るのはごく限られた人のようだった。

もしや、大和の皇室に関係のある人物なのか?
そう感じたのは、受水走水にある三穂田(みーふーだ)で行われた
田植え神事「親田御願(うぇーだぬうがん)」を見学したときのことだ。


↓この'09年の初午の日も、例年通りミントングスクの当主が司祭した。
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無事に田植え神事も終わり、近くで直会を始める直前だった。
参列したミントングスクそして仲村渠区の人たちが、
一斉に整列すると「四方拝、三十三拝」をしたのである。
四方拝といえば、天皇陛下が元旦に行う儀式。
それをなぜ、この玉城で?
そう訊いても「さあ」と、また誰もが口をつぐんだ。

私の直感が正しいかもしれないと思い始めたのは、
語り部の宮里聡さんの話を聞いてからのことだ。

「沖縄一見える人」でもある語り部の一言は大きかった。
「昔、天武大主の墓から“私は逃げて来た”と声がした」。

神女のおばあたちから、
「ここは昔、高天原と呼ばれた」
「高千穂の峰とも呼ばれていた」
と、教わったという語り部は、
「逃げて来たのは皇室関係の人に違いない」と言った。


受水走水(河口)。左の拝所が受水、右が走水。
天武の墓はこの磐上あたりにある。
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さて、前回書いた「藤原vs.蘇我」。
中大兄皇子(後の天智天皇)が中臣鎌足(藤原鎌足)と、
宮中で蘇我入鹿を暗殺した「 乙巳の変」(645年)は、
三韓から進貢した使者をもてなす宮中儀式で起こった。

そのとき皇極天皇の側にいたのが、
古人大兄皇子(ふるひとおおえのおうじ)である。

母が蘇我の娘・法提郎女(ほほてのいらつめ)。
蘇我入鹿が次期の天皇にと期待をかけていた皇子。
中大兄皇子、大海人皇子(後の天武)とは異母
の長兄で、皇位継承権第1位にあった。

弟の中大兄皇子による
蘇我入鹿暗を目撃した古人大兄皇子は
私宮へ逃げ帰り「韓人が入鹿を殺した。私は心が痛い」
(「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」)と言った。

蘇我家が滅び孤立した古人大兄皇子は、出家して吉野に隠遁。
ところが、謀反を企んでいるとの密告があり、
中大兄は兵を率いた臣下に古人大兄一家を「討たせた」。
(『日本書紀』宇治谷孟訳、孝徳天皇の項「古人大兄の死」)

ただし、古人大兄皇子の生死は不明である。

この皇子を沖縄玉城に眠る「天武大主」と考えるに至った
私の仮説(推理)について、しばらくの間、書こうと思う。

by utoutou | 2014-11-06 12:04 | 天孫氏 | Trackback | Comments(2)