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7つの首の蛇 8⃣ 南方熊楠が描いた蛇

久高島七川(なながー)巡りを終え、
本島に戻って港から車を走らせた先が、
大前の殿(うふめーのとぅん)こと
南城市玉城にある五穀豊穣の宮だった。


そして、
いつもは何げなく見ていた稲穂の絵に、
どうしてだか目が釘付けになった。
誰が描いたのかも知らなかったが、ふと思う。
これは特別な意図をもって祀られたのではと。
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語り部の言っていた「7つの首の蛇」
と同じ意味なのかもしれない。そして、
あの絵とも同じ意味なのかもしれない。
南方熊楠が描いた(南方熊楠顕彰館蔵)
↓「玉(フジツボ)を抱く竜(ウガ)」と。
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私が熊楠のスケッチを知ったのは、3年前。
出雲出身の知人が「面白いよ」とコピーをくれた
新聞記事(朝日新聞デジタル、'12年1月11日)
「海洋生物・ながぐつ日誌 熊楠の「ウガ」」
(海洋生物研究家・倉谷うらら氏による連載)
に、この絵が掲載されていた。


倉田氏はフジツボの研究家で、
『フジツボ 魅惑の足まねき』(岩波書店、
'09年)という“魅惑の”専門書の著者だが、
博物学者の南方熊楠が、昭和4年、昭和天皇に
ご進講した際に冒頭で解説したのが
「玉を(フジツボ)を抱く竜(ウガ)」
についてだったと、連載の前編にある。


(以下引用)
〜天子(天皇・皇帝など)の顔を表す言葉に
「龍顔(りょうがん」がある。(中略)
ご進講の日、熊楠の竜=「ウガ」を真っ先に
見せたのは天皇への敬意を込めた挨拶
でもあったと思う。〜

フジツボは蔓のような脚
(蔓脚、まんきゃく)を動かして
プランクトンを食べる付着生物だそうで、
倉田氏は、熊楠が天覧に供した
海蛇の尾に付着したフジツボを
「勾玉のような形をした生物」と表現したが、
私には、勾玉というより稲穂に見えたものだ。


こちらも熊楠によるスケッチ(記事より拝借)。
ご進講後、熊楠は「ウガ」の写真を撮り、何枚も
焼増しし「天覧・ウガ」と自ら書き入れして、
知人たちに送ったと、倉田氏は記している。
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そんなこんなで「大前の殿」で思った。
もしかすると「7つの首の蛇」とは、
この地に渡来した7つの龍蛇族のことでは?
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by utoutou | 2015-04-25 19:30 | 龍蛇神 | Trackback | Comments(0)

7つの首の蛇 7⃣ ヤグルガー

久高島の七川(なながー)巡りをしたのは、
3月21日(土)春分の日のこと。
日の出は6時47分、新月・大潮。

6時に宿を出るときの気温は、19度。
七川を巡りを開始した8時半で、23度。
1ヶ月遅れて、きょう4月23日、東京も
日中はようやくその陽気に追いついた。


3月21日の6時50分、日の出直後の伊敷浜。
太陽は雲に阻まれていたが、春の曙を十分に堪能。
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そして、
ヤグルガーに参ってみようかと思った。
七川のうち最北に位置する川泉である。

ヤグルガーと伊敷浜を、一対の聖地
として語るのは王府時代の説話集
の『遺老説伝』や『久高島由来記』。

玉城から渡島した
シラタルとファガナシー夫婦は、
伊敷浜に流れ着いた白い壷を拾えなかったが、
ファガナシーがヤグルガーで沐浴すると、
壷は袂に懸かり、中に七穀の種が入っていた。


ヤグルガー(屋久留川)入口。ひらがなでは
違和感があるのは、この看板に慣れ親しんだせい?
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ところで、
「久高島穀物伝説」には続きがある。
白い壷にあった種を植えて五穀豊穣に恵まれた
夫婦は、一男二女をもうけた(これには諸説あり)。
長男は外間神人に、長女は祝女(のろ)になった。

巫女となった次女・思樽(おみたる)は、
王の寵愛を受け玉城王夫人となるも、
側室の妬みを受け、失意のまま
久高島に戻り、ひとり男子を生んだ。
英祖王統最後の王となる西威である。
その産屋は現在も外間殿に残っている。


ヤグルガーは
久高島に限った聖地では終わらなかった。
後に王府から「コバウノ森(フボー御嶽)
四御前」のひとつとして、奉斎を受けた。
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崖下の川泉までの距離は長いが、
下りてみると湧水口は土砂で埋まっていた。
どうも昨年秋の台風でやられたらしい。
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西の聖泉・ヤグルガーと、
東にあるニライカナイ遥拝の聖地・伊敷浜。
それは、たとえばヤマトにおける
西の出雲と東の伊勢を彷彿とさせる。


↓ イザイホーの主祭場・久高殿の東西軸。
左が北、正面(東)方向に外間殿、伊敷浜。
手前は「西方川(かー)群方向」と呼ばれ、
「川神遊び(はーかみあしび)」のとき、
神女たちの登場口となったという。
川神とは龍蛇神のことだろうと、ここに
イラブー(海蛇)の燻製場を置いた
祭場の構図に思う。
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by utoutou | 2015-04-23 18:45 | 龍蛇神 | Trackback | Comments(0)

7つの首の蛇 6⃣ グスク跡

久高島七川巡り、
6川目は「みーがー(新川)」。
イザイガーに、ほとんど隣接している。
5川目まで、川と川の間隔は70〜100歩
だったが、ここではその半分あるかないか。
ひとつのユニットといった印象がある。

比嘉康雄氏(『神々の原郷 久高島』)によれば
みーがーは集落の最上位(北)に位置することから、
現集落の発生とともにできたと考えられるという。

そのため、この川は産川(うぶがー)とされ、
赤ちゃんの産湯は、こちらの水を使ったという。


みーがーの入口。
島の北へ進むに従い、川へと降りる斜面も急峻になる。
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みーがーには、比較的新しい看板が立っていた。
階段の補修もされており、安心して降りられる。
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石段の途中から見上げると、岩を削って道が造られた
のが分かる。それほど真水の水源は貴重なものだった。
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ところで、みーがー(新川)は、
男性神役の禊ぎの川として使われた。
名称の意味は「新しくできた川」ではなく、
「(人が)新しく生まれ変わる川」だという。
イザイガー(禊ぎの意味)で考えたように、
「禊ぎ」と「脱皮」は同義と考えられていた。

また、神人がここで禊ぎをするのは「みずのえ」
の日だったそうで、ならば「み」は「巳」の可能性も?


みーがーの川泉。拝所らしく、
川泉の上部には、石香炉の設えがあった。
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みーがーを出て舗道に戻り、北へ進むと、やがて
墓地(後生、ぐっしょう)の前に出る。
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墓地を抜けると、
左に石積みの残るエリアがある。
謎の城跡・ティミグスク(←南城市のHP)だ。
断崖の上にあるため遠見台という説もあるが、
それにしては規模が大きく(端から端まで約450歩)
何より、禊ぎ用の川と川に挟まれているのが謎。
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ティミグスクについての記事にも書いたが、
グスク跡のもっとも北には拝所があり、その
すぐ先が、やぐるがー(屋久留川)。
久高島で至聖のフボー御嶽まであとわずか。
グスク跡と川と御嶽が、一体となっている。

by utoutou | 2015-04-22 01:55 | 龍蛇神 | Trackback | Comments(0)

7つの首の蛇 5⃣ 禊ぎの意味

久高島七川(なながー)巡り〈その5〉。
西海岸を南から歩いて5川目は、イザイガー。
36年前に途絶えた古祭・イザイホーで
神女となる島の女性たちは、
三晩イザイ山に籠る前に、ここで禊ぎをした。

4川目までは生活用水用の川泉だったが、
イザイガーから北の3川は禊ぎ専用の川泉となる。


イザイガーへの入口(北側から撮影)。
写真右下の角を海側(右)へ進む。神女たちは、
島の南にある集落から裸足で歩いて来た。
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朝、イザイガーで禊ぎをした神女たちは、
洗い髪のままイザイホーへの準備を整えたという。
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さて、そのイザイホーの3日目。
神女の就任式である
「花さし遊び」と「朱りきぃー遊び」
を終えた神女たちは、次に、
「川神遊び(はーがみあしび)」に臨んだ。

川の神に感謝する儀式。
いったん主催場から退場した新神女たちと
ハタ神(先輩神女)たちは、七川の
方向から登場し直して、円舞を披露した。

「川神遊び(はーがみあしび)」のティルル(神歌)
の内容は、次のような内容だった。
※右側が標準語訳。
(『神々の古層 主婦が神になる刻
 イザイホー』比嘉康雄氏著より引用)


ヒーウスマーヤ 久しかった
ナマイガーヤ 今日のよき日
ムトゥマール 十二年ごとに
ティントゥマール めぐってくる
イザイホーよ イザイホーよ
ナンチュホーよ ナンチュホーよ

イティカワヌ 五ツの井泉の
ナナカワヌ 七ツの井泉の
カワヌウシジ 井泉の神様
ミディヌウビー 水の神様
ウサギノーチ 祈願をして

ヌキバナン さしたイザイ花
サシバナン さしたイザイ花の
ダキズゥラサ さした様の美しさよ(後略)


「イザイホーは神女たちが、
人間の身でありながら蛇に昇格する儀式」
と書いたのは、『蛇』の著者・吉野裕子氏。
「禊ぎとは脱皮(身殺ぎ)のことだ」とも。

神女たちが霊力(しじ)を更新
して生まれ変わる(=脱皮する)のが、
イザイホーの本質なのだと思う。

「川神遊び」のとき、神女たちが七川
の方向から再登場する演出は「脱皮」の証。
その聖所としてふさわしいのは、
川の神=龍蛇神が住まうイザイガーだった。


イザイホーが途絶えてから36年。神女たちが
禊ぎのために使用した石段の劣化は激しく、
これ以上は、ちょっと降りて行けそうになかった。
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七川巡りをした3月21日の朝でも、
降りて行くと、ひんやりとした冷気が走った。
イザイホーのあった旧11月は、さぞ寒かったのでは。
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by utoutou | 2015-04-20 22:20 | 龍蛇神 | Trackback | Comments(0)

7つの首の蛇 4⃣ 久高島始祖の墓

久高島の七川(なながー)巡り。
そうした観光コースがあるわけではない。
七つの川が並ぶ久高島を、いまき亡き神女たちは
「7つの首の蛇」と呼んだというので、歩いてみた。

蛇とは龍蛇、あるいは龍蛇神。
古来、龍宮と呼ばれた久高島のことである。

「7」は久高島では聖数。祭祀でも重んじられた。
かつて神女になる女たちは、イザイホーの祭りで
七つ橋を7回往復してから、七つ家に籠った。

あるいは、久高島の島立ての祖と呼ばれる
夫婦・シラタルとファガナシーが、
伊敷浜で拾った白い壷には、七穀が入っていた。


そのシラタルとファガナシーに由縁の深い川が、
〈その4〉「やまがー(山川)」。 
川への降口前に、秘伝によれば夫婦のお墓がある。
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お墓は、写真正面の樹々に隠れた崖下にある。
ファガナシーはミントングスクの一人娘。
そして、シラタルはミントン門中である屋号・本部
(姓は百名)の息子であったため、久高島の神人は、
玉城参りを欠かなかった。そのことは
アマミキヨ末裔の里帰り…」に書いたが、
逆に、玉城からの「久高御願」と呼ぶ
参拝も続いていた。


戦前は8月14日に、戦後は不定期に。
ミントン家など元家の代表らが
こちらのお墓とフボー御嶽に参拝して、
米と酒を供えたものだという。
そして一行は、この地で昼食をとった。
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さて、シラタルを祀る宮は、現在
イザイホーの主祭場だった
御前庭(うどぅんみゃー)にあるが、
'70年代までは、イラブー(海蛇)
の燻製場(ばいかんやー)内にあった。



シラタルは龍蛇神の再来だったのではないか
と思う。写真は、やまがー入口から見る本島。
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やまがー内部。久高島では昔、
こうした川々に住むの神を
「川神(はーがみ)」と呼び、崇めていた。
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そして、イザイホーの3日目、神女たちは
「川神遊び(はーがみあしび)」の円舞を踊った。

by utoutou | 2015-04-19 23:22 | 龍蛇神 | Trackback | Comments(0)

7つの首の蛇 3⃣ 久高島「七川巡り」

玉城で「7つの首の蛇」伝説を思ったのは、
その前日、久高島で川巡りをしていたからだ。


↓写真は、久高島西海岸。
漁港の上のベンチのある木陰。
約5km離れた対岸の知念玉城と久高島は、
なながー(七川)と呼ばれる地下水脈で繫がっている。
語り部は、神女のおばあさん方からそう聞いたという。
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久高島フェリーが発着する安座真港に立つMAP板。
約5㎞離れた東方に久高島が浮かんでいる。
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周囲8㎞。細長い形をした島。
南側に集落があり、北側には聖地と畑がある。
島は東北に傾斜しており、川(水源)は西側に集中。
うち南の川は生活用水、北の川は禊ぎ用だった。


漁港(王府時代の主港)の近く(赤矢印)から、
うぷしがー(大石川)、とぅぎゃんでぃがー(潮川)、
はしがー(橋川)、やまがー(山川)、いざいがー、
みーがー(新川)、やぐるがー。7つの川口が並ぶ。
※地図は『久高島資料』('79年、古典と民俗学の会発行)

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〈その1〉うぷしがー入口。久高島郵便局の近く。
もっとも水量が多く、昔は簡易水道の水源だったという。
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'70年代までは川の水が生活用水だった。
映画「イザイホウ」にも、'66年の久高島で、
女性や子どもたちが頭上に水桶を乗せて歩くシーンが。
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〈その2〉とぅぎゃんでぃがー入口。
集落の通りから左に折れるとすぐ。ここは、
飲用ではなく洗濯や水浴び用の川だったという。
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とぅぎゃんでぃがー。漢字で潮川とも書く。
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同じく、とぅぎゃんでぃがー。降りた右側が水源。
北側の禊ぎ用の川とは、かなり趣きが違う。
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〈その3〉はしがー入口。白い看板には
消えかけているが「知念村」と筆書きが見える。
市町村合併で南城市になる前は観光名所だったのか。
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はしがー。
久高島の川はいずれも珊瑚岩から染み出るほど
の水量だったようで、夏の日照りの強い日には水が枯れる
ため、早朝から水汲みする人の列ができたという。
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本島を見やりつつ、南から歩いた「七川巡り」。
3川目までは、昭和時代までの生活が偲ばれたが、
4川目「やまがー」からは古伝の残る史跡となる…。

by utoutou | 2015-04-18 11:40 | 龍蛇神 | Trackback | Comments(0)

7つの首の蛇 2⃣ 鷲が運んだ稲

大前の殿(うふめーのとぅん)。
受水走水(うきんじゅはいんじゅ)から
徒歩10分ほどの高所(南城市玉城百名)にある。
かつては「五穀豊穣の宮」と呼ばれた。


戦後、安里家の神女が建造したという。
安里とは、稲作の祖・アマスのアマミツと
共に稲作を成功させた功労者。
もう一人の功労者が大前(うふめー)である。
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「大前の殿」内部。五穀神を祀る。
「大穂米之屯」で「うふめーのとぅん」。
鳥居が建てられたのは戦後のことで、
「親田御願」の祈願経路には入っていない。
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さて、沖縄の稲作は約700年前に始まったという。
アマミツを含む3名が稲作に成功したきっかけは、
中国へ渡った伊波按司(現・石川市)。
稲穂を持ち出そうとして果たせず、
鶴にくわえさせて飛ばしたところ、
嵐(あまべー)に遭い、この地に落下したと。

ただし、どうにも解せないのが時代だ。
この鶴伝説は、本当に
稲作の伝来と発祥を伝えているのだろうか。

シロミキヨの高天原」を書いて以来、
どうにも釈然としなかった。この地に残る
「高天原」「高皇産霊命」「御稲御倉」などの
神話的な言い伝えを思えば、稲作の伝来が
わずか700年前というのは、
どうも時代混同の感が否めないと思う。

神女おばあたちの言い残した話が甦る。
「稲穂の最初は鷲、後から鶴が飛んで来た」

鷲がくわえた稲穂という、
もうひとつの伝来伝説があった…。

鷲の伝説はミントングスクにも伝わっており、
紅型で人間国宝となった鎌倉芳太郎氏が記録している。
(『鎌倉芳太郎ノート』大正15(1926)年) 

〜『ミフーダ』ト称シ往昔アマンチュ、シルミチュ
の神初めて『ワシ』ノ持チ来リタル/稲穂ヲマキテ
作リアゲタル所ナリト云フ〜
〜「ワシ」ノ稲穂ヲ持チ来タリテ死シタル
オカー(ルビ:サチバルヌオカー)アリ〜

柳田國男氏の『海上の道』にも。
〜それでアマミキョは天に祷(いの)って、
鷲をニライカナイに遣って求めさせたところ、
三百日目に三穂をくわえて戻って来た。
初めてその種子を蒔いた田を三穂田と謂う〜

その鷲を、神女たちは「ゆがき鷲」と呼んだ。
夜明け鷲。琉球の夜明けは鷲から始まったと。


「7つの首の蛇」の伝説を思い出したのは、
 「大前の殿」に祀られた↓この絵を見たときのこと。

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その前日、私は久高島で川巡りをしていた。
島の西海岸には7つの川泉がある。そして、古来、
玉城と同じ「7つの首の蛇」伝説があったという。

そして、「大前の殿」へ。
頭を垂れる稲穂は以前も見ていたが、
稲穂を数えると、1、2、3…7本ある。
ふと思った。「7つの首」とは、
稲作を営んだ古代(龍神)族のことでは…?

by utoutou | 2015-04-16 17:11 | 龍蛇神 | Trackback | Comments(0)

7つの首の蛇 1⃣ 古代の稲田跡

沖縄稲作の聖地である受水走水
(うきんじゅはいんじゅ)の一帯・玉城に、
古来、「7つの首の蛇」伝説があったという。

玉城(南城市)全景を撮った画像を
と探すと一昨年に撮った↓これが出てきた。

玉城城(標高180m)の一の郭から
見渡した玉城。眼下に広がる
現在の琉球ゴルフ倶楽部=玉城台地を
水源地として、海へ、7つの川が流れていた。
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川というより地層を通して湧き出る川泉口。
その周辺には、7つの稲田があったと伝わる。

平野は沖縄でいう「原」。そのため、
7つの元稲田には、現在も「原」の字がつく。
当然のこと、水に恵まれ、日照に恵まれ、
そのうち何ヶ所かが、
全国的にも有名な観光名所となっている
のは、土地神・稲荷神の力と言うべきか。


まず北東にあるのは、
受水走水の川口の浦田原(うらたばる)。
その少し北(写真手前)には、
水堅田原(みじきんたばる)と、
シンタバル(現在の下田原)があった。
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そして、新原(みーばる)。
新原ビーチはウィンドサーフィンにハングライダー、
バーベキューやグラスボートも楽しめると人気。
那覇市から車で40分の南城市玉城字百名。
新原集落の一角に流れ込んでいた川口は、
天孫氏川(かー)と呼ばれていた。
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新原ビーチ南端には、ネパール・カレーの人気店
食堂かりか」があり、本島各地からの来客がある。
ビーチから海岸通りに上がり、数分南へ歩くと、
高級ホテル「百名伽藍」がある。


その先は、老舗カフェ「浜辺の茶屋」「山の茶屋」。
山の茶屋は広大な「さちばるの庭」を併設。
現在の地名は、南城市玉城字玉城だが、
昔は「さちばる」と呼ばれたという。
崎(岬)の原である。
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その南に、中山田原(なけーやまたばる)。
玉城の人気宿「海坐(かいざ)」から
南の奥武島を望むと、右奥方向に広がるのが
古来の中山田原。玉城城の台地下にあたる。
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海岸線から外れるが、入田原(いりたばる)は、
ミントングスクの丘下にあたる。現在は住宅と畑に。
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7つの稲田跡は、北から、
下田原(しもたばる)、
水堅田原(みじきんたばる)、
浦田原(うらたばる)、新原(みーばる)、
崎原(さちばる)、入田原(いりたばる)、
中山田原(なけーやまたばる)。
この7つの原に注ぐ川泉を、
古代人は「7つの首」に見立てた。
※MAPは浜辺の茶屋HPから拝借、
崎原を中心に地図の左右約4㎞が「蛇」。
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「7つの首の蛇」伝説を、語り部から聞いた
のは、かれこれ5年前のことだった。
しかし、それがどういう意味なのか、
さっぱり分からず年月は経過した。

ところが先日、ある神屋(殿)に
祀られた絵を見て、もしや…と思った。


by utoutou | 2015-04-14 18:14 | 龍蛇神 | Trackback | Comments(0)

稲作と龍神 ⑪ シロミキヨの高天原

沖縄の始祖・アマミキヨとシロミキヨ。
シロミキヨの末裔はやがて黒潮に乗って
北上、各地で白玉稲荷神を祀った…
というのが前回までの推理。

ふと思い、再読して、自らに
突っ込みたくなるくだりがあった。
祇園神社の摂社・白玉稲荷社での感想。

〜白玉が瞬間「皇」に見えたとき、
語り部が常々言う言葉を思い出した。
「シロミキヨの白は皇(すめらみこと)の白」〜

そして、いまはこう加筆したい。
白玉の玉は、皇の降臨した地を意味するかと。

田植え人に神職が白玉団子(しちじ、みすじ)
を押す儀式「親田御願」の行われる受水走水。
その上にそびえる大岩は、
古来「タカマシカマノ御嶽」と呼ばれる。
近年まで、地元での亦の名は
「高天原」あるいは「高千穂の峯」。


いま、その呼称を知る人は多くないが、
語り部が出会った戦前生まれの神女おばあたちは、
皇祖・皇高産霊神(たかみむすぴのかみ)が、
そして、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、
↓この写真右の磐座に降臨したとの口伝を残した。
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ちなみに、「高天原」から
アマミキヨの到着地・ヤハラヅカサまで、
地続きの一帯は、浦田原と呼ばれる。

高皇産霊神とシロミキヨは、
はたして同系統の神なのか。

アマミキヨとシロミキヨについて、
ミントングスク近くに住む古老は言った。

「アマミキヨとシロミキヨは、琉球神話では
一対の男女神と語られるが、夫婦神ではない。
アマミキヨ(族)、シロミキヨ(族)と呼ばれた
渡来族がいた。彼らは別々のところから来た。
その順番はシロミキヨ、アマミキヨである」


日本書記」では、高皇産霊命と書かれる。
(「古事記」では、高御産巣日神)
ヤマト神話によれば、その娘・栲幡千々姫と、
天照大神の御子神・天忍穂耳命が結婚して
生まれたのが天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)。
つまり、高皇産霊神は天孫の外祖父に当たる。

シロミキヨが、もし高皇産霊神の系譜にある神
ならば、沖縄最古の王朝と言われる天孫氏王朝に、
含まれる「天孫」の2文字が、真に迫ってくる…。


沖縄の「高天原」と呼ばれた御嶽を分け入り、
進むと、建立者不明だが「天武の墓」がある。
(中央下に写る小さい石碑)
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↓ 沖縄中部の浜比嘉島にある御嶽・シルミチュー。
こちらもシロミキヨを祀ると伝わるいっぽう、
巷間「皇室にゆかりの霊廟」とも囁かれる。
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by utoutou | 2015-04-09 22:09 | 玉城 | Trackback | Comments(14)

稲作と龍神 ⑩ 白玉稲荷はシロミキヨ?

伏見稲荷大社境内の御膳谷(ごぜんだに)。
四つ辻を過ぎ、あと30分ほど登れば、
稲荷山の頂上に着くというところで、
雨も降り出したせいか、参拝客はいなくなった。

ひとり山の中で、
明治期に寄進されたという
無数ある私的なお塚群を見ていると、
ちょっと生々しい神気に、腰が引けた。
ワタシハナニヲシニキタンダッケ。 

祈祷殿の近くで、白玉大神のお塚を探す。
御膳谷にある白玉大神(6基)はすぐ見つかった。


↓ そのうちのひとつのお塚。
神名は注連縄に隠れて見えないが、ミニ鳥居には
「白玉大神」「白鬚大神」と手書きされた神名が。
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で、奉拝所で禰宜さんに聞く。
「白玉大神の白玉は、どのような意味ですか?」

唐突な質問だったか、禰宜さんは戸惑われた様子。
とはいえ、丁寧に教えてくれた。
「白は清浄の色なので、白狐、白龍、白山など、
神様の名前としても多いですね。白玉も同じです。
で、玉となると、白い勾玉のことかもしれません」
「勾玉のことですか…」
「紅白のお餅を木の枝に付ける小正月の行事、
あれも白玉大神様にちなんでいると思います」

そう言えば、語り部も、ヤマトの繭玉神事の元は
沖縄の田植え神事やイザイホーの米団子だと言った。
ただし、禰宜さんは沖縄のことは知らないと言う。

要するにと、下山しつつ禰宜さんの話を反芻。
各地に勧請された白玉稲荷神社とは、
稲荷神・倉稲魂(うかのみたま)の聖なる勾玉(魂)。

そこで思い出したのは「うか」の意味だ。
それは古語で龍蛇を表す。
出雲大社の奥宮・素鷲社(そがのやしろ)
の背後に控えるのは宇迦(うが)山である。

すると倉稲魂(うかのみたま)は、
龍蛇神の御魂という意味にもとれる。
それが白玉稲荷神の本来の姿ではないか。



というわけで、夕方、神戸の祇園神社へ。
素戔嗚尊と櫛稲田姫を祀る。
移動しながらの検索で、
摂社に白玉稲荷社があると知った。
それも、伏見稲荷大社から勧請されたという。
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本殿の奥に摂社が並ぶ。
↓ 右が白玉稲荷神社。左が市杵島姫命社。
白玉稲荷社には「倉稲魂命」と筆書きが。
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参拝した後、真新しい神名を見上げる。
あらっと思う。白玉が瞬間「皇」に見えた。
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語り部が常々言っていたものだ。
「シロミキヨの白は皇(すめらみこと)の白」だと。
亦の名はシネリキヨ。
シネとは稲のことである。
アマミキヨの一対神・シロミキヨが白玉大神か?


境内には猿田彦社もあると、後に知った。
隠れているが写真右手に。
シロミキヨは猿田彦大神とも言われる。
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by utoutou | 2015-04-07 08:45 | 玉城 | Trackback | Comments(0)