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沖縄の天女伝説 ④ 中山王の母は天女

異種婚姻譚としての「羽衣伝説」「天女伝説」
は全国にあるが、沖縄でも「天人女房伝説」
として、古くから語られてきた。

「天女」でなく、なぜ「天人女房」かというと、
たとえば三保の松原の「羽衣伝説」のように、
男はすぐに天女に羽衣を返すのではなく、やがて
結婚して子どもをもうける筋立てになっているからだ。
おおむね以下のように。

男が水浴びをしている天女に出会い、
羽衣を穀倉に隠す。天女を家に連れ帰り、
やがて天女と結婚、一男一女が生まれる。
ところが、天女は、
子どもたちが歌う歌を聞いて羽衣のありかを知り、
それを纏い、子どもたちを残して天に戻って行く…。


沖縄の天女伝説で、まず挙げられるのが、
森の川(宜野湾市真志喜)に伝わるもの。
1372年に、中山王として始めて
中国との外交を開いたと言われる察度(さっと)は、
ここで出会った男と天女の間に生まれたという。



天女が水浴びをしていたと伝わる「森の川」。
いまでも水が湧き、沖縄県指定名勝の公園になっている。
ちょうど台風の合間の晴天で、空の青が水に映えていた。
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さて、察度(1321〜1396年)とは…
  『沖縄大百科事典』を参照すると、
中山王として、1350〜95年の46年間在位。
英祖王統最後の王・西威の世子の替わりに擁された。


父は、浦添間切謝名村の奥間大親(おくまうふや)
という貧しい男。天女との間に、
察度と姉(名は不明)が生まれた。

伝承によれば、察度の田畑には黄金が満ちていた
 ので、夫婦は黄金宮という楼閣を建てた。
人心を得たのは、その財力で牧港に入る日本商船から
鉄塊を買い、農器を作って農民に与えたためという。


察度の立志伝は、伝承ばかりか歴史でも語られる。
察度が泰期(異母弟か)とともに始めた交易は、
『明史』洪武5(1372)年の項に登場。
「中山王察度、弟の泰期を遣わして入朝」とあるの
をはじめ、『明実録』にも数回登場する。

ここまで史実が判明しているのに、なぜ
母はいつまでも、ただ天女として語り継がれるのか。
隠さなければならない系譜の女なのか。
奥間大親は本当に貧農の男だったのか…。
謎は多い。



森川公園は、現在の宜野湾市真志喜にある。
   那覇市内からカーナビを頼りに行き、30分で着いた。
   門を入ってすぐの駐車場奥に森の川はあった。
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王権との関わりを思わせる城壁?が丘の上に。
その先は広々とした運動公園になっている。
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by utoutou | 2015-08-29 16:14 | 天女伝説 | Trackback | Comments(0)

沖縄の天女伝説 ③ 羽衣は稲倉に隠された

沖縄はきょう旧盆のウンケー(お迎え)。
祖先の霊魂がこの世に帰っていらっしゃる日。


斎場御嶽の上の聖なる巨岩・ナーワンダーグスク
に風葬されたという天女神加那志
(てんじょしんがなし)の神霊も、
故郷に再び舞い降りて来られたか…。


アマミキヨ四世。同じく四世・天帝子加那志の妃。
(古代琉球の神々は兄妹婚だった)
一対の男女神は天孫氏王朝の開祖でもあると、
民間伝承をまとめた『琉球祖先宝鑑』は伝える。


また、語り部が聞いた伝承では、
天帝子と天女神の長男である
明東(ミントン)天孫氏が、初代王となったと。

そう分かったところで、
過去の天孫氏にまつわる記事も若干修正した。

記事に出て来る天孫氏の王墓
(琉球カントリー倶楽部内にある)には、
一昨年の夏に参拝。語り部が知る神女おばあたちは
生前、こちらでの祈願を欠かさなかったという。


ちなみに、天帝氏のお墓は南城市親慶原
(おやけばる)のアマチジョーにあるという。
天女神のナーワンダーグスクとは離れているが、
そもそも斎場御嶽を含む丘陵地帯と
その周辺は、古来、一体化していたと考えられる。


代々のアマミキヨが継いだ天孫氏王朝は、
ミントングスクを中心に大里・玉城・知念・佐敷…
玉城台地の周辺一帯を居城にしていた可能性がある。
※玉城の俯瞰地図は、こちらに掲載。


久高島から斎場御嶽左のナーワンダーグスクを望む(再掲)。
右の岩がイナグ・ナーワンダー=女の守護霊の御嶽。
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1年前の8月27日、あるルートから
イナグ・ナーワンダーの巨岩によじ登った。
地面には「女神」の道標があった。
ナーワンダーは農耕時代以前の風葬墓で、
近代になって人骨と機織機が出土したと言われている。
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さて、斎場御嶽の寄満(ゆいんち)とは、
「豊穣な収穫物が寄り満つる台所」の意味というが、
王府の記録には、必ずしもそうは記されていない。

寄満は、大庫理、三庫理と同様に重要な聖地だった。


3ヶ所の聖地には、等しく「御物壇」なる場…
神女たちが祈願するための基壇があった。
琉球王朝の『女官御双紙』には、寄満の御物壇のサイズが
記されており、その大きさは十六畳。
↓ 現在のサイズ、横7m、奥行き3.6m、高さ1.3mと、ほぼ一致。
しかも、敷石下から金銀の銭貨が出土した、
などなど、祭祀場としか思えない条件が揃っている。
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「寄満は台所じゃなかったのですね」
と確かめると、語り部は言った。
「古代には、五穀の倉はあったと思うのです。
伝説に出てくる天女の羽衣はどこに隠されますか?」
「稲倉です。だから、ここにも天女伝説があったと?」
「はい、天女神は機織り姫でもあったと思います」
「それで、ナーワンダーグスクから機織り機が出土した…」


ナーワンダーグスクの麓の寄満から、三庫理方向。
寄満の反対側の大庫理が王府時代末期には主祭場となった。
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斎場御嶽の御門口から真東に浮かぶ久高島を見る。
  この揺るぎない祭祀空間設計こそ、
天(海)の民だったアマミキヨの痕跡だと思う。
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by utoutou | 2015-08-26 21:28 | 天女伝説 | Trackback | Comments(0)

英祖王はミントンに来たアマミキヨ

どれだけ古い墓なんだろう。古木が立岩に絡み付き、一体化している。
高さ3m以上。どこか妖艶。血が通っているかのような生々しさが迫る。
一種の崖葬墓。昨秋、初めて参ったときは背筋がゾクッとした。

南城市の琉球ゴルフ倶楽部内にあるこれは、英祖王統三代・英慈王の墓。
歴史書にも教科書にも載らない、地元でもほとんど忘れられた王墓である。
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忘れるなと言っているような。命は繫がっていると。そんな気配があった。
やはり、この墓の存在は重要。
「てだこ」(太陽の子)こと中山王・英祖が、実は本島南部玉城の出身で、
恵祖世主とは養子縁組みしたのでは? との口伝を支える、いわば傍証。

英慈王(1309〜13年)は在位5年。初代・英祖王と同じく本島の西海岸を
見下ろす浦添城を居城としたが、永遠の眠りについたのは、この東方だった。

さて、こちらの王陵に眠るのは、英慈王が最初ではないと、語り部は言う。
玉城にある古い墓の特徴は、イリク(新旧の混合墓)。だから元々の主がいた。
その祖先とは明東(ミントン)天孫氏。

逆を辿れば、天孫氏(=アマミキヨ)の墓に入った英慈王もアマミキヨ。
当然その祖父・英祖王はミントングスクに定住したアマミキヨの末裔。
今来のミントン・アマミキヨである(といっても700年以上前だが)。

↓明治初期に流通した「長浜系図」(琉球三山王各世流系旧案録)を見てみる。
祖神・阿摩弥姑(アマミキヨ)と志仁礼久(シネリキヨ)の二世四世が天帝子、
その次代に、明東(ミントン)天孫氏(=玉城天孫氏)の名がある。

左ページ赤線(筆者による)部分には、具体的な伝承が記されていた。
明東(ミントン)天孫氏の在所は玉城・上江州口(いーじゅぐち)の南にある
竹山の中の石厨子の入った墓であると。つまり、英慈王の墓(↑)だ。

そして墓を守っているのは、玉城の上之畠(いーのあたい)であるとも。
屋号・上の畠は「上の当(いーのあたい)」と同音同義。
語り部が出会った神女のウメおばあ(こちらを参照)の家である。
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英祖王が築いたという浦添ようどれ(=王墓、ようどれとは夕凪の意味)の西室。
二代目・大成王の墓は玉城城に。五代目までの墓がすべて玉城にあるのが不思議。 
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ゴルフ場内の英慈王墓への道。 上江州口(いーじゅぐち)は戦前まで竹林で、
ウメおばあたちはこの墓を「竹山(だきやま)のアジシー(古墓)」と呼んでいた。
一般には「天孫氏ウッカー」。この名前でなら、ツアーガイド本で見たことがある。
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by utoutou | 2015-08-26 14:18 | 天孫氏 | Trackback | Comments(0)

ナーワンダーグスク登頂〈5〉天照(アマテル)は男神

太陽と月に挟まれた星、
地球に生を受けた「人」。
「人」は「霊止(ひと)」に通じると、
語り部から以前にも聞いたことがある。
何万年、何百万年のことになるのか…。
そういう言い伝えが沖縄にはあったと。


沖縄の開闢物語は、神話ばかりでなく、
ときに歴史として語られるが、
ナーワンダーの岩陰に並ぶ3つの香炉は、
壮大な宇宙を思わせる配置にあった。


本来の意味で、
3つの香炉は「火之神(ひぬかん)」なのだ
と、語り部は言う。沖縄の家庭では、
台所のガスコンロの奥に香炉を祀り、
それを「火之神」と呼んで家内安全を祈願するが、
古来の呼称は「おみちむん」。
「3つのもの」、
つまり3つの石を御神体として崇めていたという。


首里城の祭祀部屋「おせんみこちゃ」にも、
「おみつもん」と呼ばれる3つの金の香炉
(御日御前・御月御前・御火鉢御膳)が祀られていた。


これまで多くの学説によって
様々に解釈されてきたが、
実際にナーワンダーの巨岩に身を置き、
「おみつもん」と対峙すると、
「太陽・月・そして星(地球)」という説明が、
とてもしっくりと馴染む。
琉球王朝による「日月星辰」信仰のかたちが、
ナーワンダーに具現されている。
やはりここは斎場御嶽の奥宮なのだと思う。



ナーワンダーグスクの3つの香炉はこの東の海、
ニライカナイに向って並んでいる。
左手の崖上には鏡。王府時代、
日月星辰への信仰をノロ(巫女)は赤衣で司祭した。
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語り部に聞いた。
「日月星は分かりました。では、辰は何の意味?」
「太一でしょうね」
「たいち…北極星?」
「そうです」 
     
なるほど。
古代中国では北極星を中心に星々が巡る
ことから、北辰とも呼んだ。
いわば、宇宙の要。天帝。
道教にいう太一神である。
陰陽道においては、
太一は宇宙生成と森羅万象を司る神。
ただし、琉球の伝承では、あまり聞かない呼称だ。

「太一、他に呼び名はありますか?」
「アマテル、天照大神ですね」
「アマテル! あぁ、天照」

それなら分かると、思う。
沖縄の伝承にいう「アマテル」とは、
女神ではない。
国家神道における皇祖アマテラスが、
ヤマトに誕生する前の男神。
語り部が交流した神女のおばあたちは、
みなアマテルを男神だと信じていたという。


太一で思い出したのが、
伊勢神宮別宮である伊雑宮(いざわのみや)。
毎年6月に行われる、御田植祭を思った。
見学したことはないが、竹取神事の…
男たちが泥んこになり奪い合う大団扇に「太一」と、
見た覚えがある。
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※「皇大神宮別宮 伊雑宮のしおり」(神宮司庁)より借用


それを言うと、驚くべき推理が飛び出した。
「ナーワンダーの祭祀は、古代の海人によって、
伊雑宮に運ばれたと思います」
「おみつもん信仰が、黒潮に乗って!?」


考えてみれば、古代海人族の祖は
おしなべて「アマテル」である。
尾張氏の祖・火明命は「天照国照彦」。
物部氏の祖・ニギハヤヒも「天照国照彦」。
そうすると伊雑宮の「太一」は、本来、
男神の「天照」だったいうことになるか。


9月の沖縄旅は、伊勢への旅に変更するかなと、
ナーワンダーを下山して思った。
斎場御嶽下の「あざまサンサンビーチ」。
古の久手堅の泊(港)。
海人族はこのあたりから、さらなる東方へと出帆した?
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※投稿日が2015年8月になっているのはカテゴリを変更したためで、
ナーワンダーグスクに登頂したのは、'14年8月27日のことでした。
by utoutou | 2015-08-26 13:35 | ナーワンダーグスク | Trackback | Comments(0)

ナーワンダーグスク登頂〈4〉火の神(ヒヌカン)

斎場御嶽のナーワンダーグスクで
祈願していたらしいノロを詠った
「おもろ」(853番)について、語り部と電話で話していた。

風直り 煽(あお)らちへ
(ノロは鷲の羽の髪飾りを風に揺らして)
赤の御衣(あかのみそ)煽らちへ
(美しい衣を風になびかせて)

この「赤の御衣」を『おもろさうし』
の校訂をした外間守善氏は、
「美しい御衣」と現代語に訳しているが、
本当は何色だったのだろう?
というのが、私の素朴な疑問だった。
すると語り部は言った。


「赤は女神の色、月神の色ですから、
その霊力をいただく神女は
赤い神衣を着ていたと思います。その名残りから、
沖縄の婚礼衣装は赤を基調にしています
。琉球舞踊のルジン(胴衣)も赤。
久高島の十五夜には、
アカヤミョーブ(赤い天幕)を下げてお祝いします」


そんな折りも折り、
久高島では十五夜(ジューグーヤー)を迎えていた。
9月8日(旧歴の8月15日)。
もう10 日も前のことで、
ややタイミングがズレてしまったが、
島に住む友人や、祭りを見に行った知人から、
続々と写メが送られてきた。
それはそれは美しい赤色。
そして伝統のしつらえ。月の力が注がれる思い。
こちらには比嘉康雄氏の本から拝借したモノクロ写真)


十五夜の祭場・外間殿の東に立つデイゴの木に掛けた竿に、
月神を象徴する赤い天幕が掛かる。
夜更けには天幕の上に満月が浮く。
月の女神を呼ぶための提灯は、
古くは7個あったそうだが、いまは3個。
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月が昇ると、アカヤミョーブの下で神女たち
が祈願してお祭りは始まる。
こちらは祭りの後の神女たち。
外間殿の正面にも赤い天幕が下がっている。
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来年こそは是非と思う久高島の十五夜。
島ではスーパームーンは話題にならない。
太陽神(テントゥガナシー)と
月神(マチヌシュラウヤサメー)が最高神である。
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さて、話は戻って…。
ナーワンダーグスクの祭祀空間には、
3mほどの間隔で3つの香炉が並ぶ。



沖縄中の御嶽のなかでも、
香炉が等間隔で並ぶ御嶽は珍しい。
何しろ、東(久高島)と、
西(大里西原)を結ぶ線上に、香炉が3台。
相当に古代の祭祀を偲ばせるが、
この数字、この配置は何を意味しているのか。
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私は勘を頼りに言った。
「向って右(東)の香炉は太陽神ですよね。
すると左(西)は月神」
「考え方は合っています。ただし、太陽は左、月は右です」
「左神(ひじゃいがみ)!? 
出雲大社の鳥居の注連縄と同じ、神様目線?」
「そうです。では真ん中は?」

それが、私には分からなかった。
太陽と月という最高神の間にいる神?
「星ですよ、地球。そして…」
語り部は言った。
そして…?

「人です。太陽と月の間にある星(地球)
でしか、人は生まれない。
「……」 
「火という字を考えてみてください」
「火……」
「左が太陽、右が月とすると、真ん中が、人。
つまり3つの香炉は、
火の神(ヒヌカン)を表しているのです」


※投稿日が2015年8月になっているのはカテゴリを変更したためで、
ナーワンダーグスクに登頂したのは、'14年8月27日のことでした。
by utoutou | 2015-08-26 13:35 | ナーワンダーグスク | Trackback | Comments(0)

ナーワンダーグスク登頂〈3〉王の船を守れ

ナーワンダーが王権祭祀から消えたのは、
1677年ごろだと思う。
王府が国王の久高島行幸を廃止したのが、
1673年だった。

尚真王時代に聞得大君制度が
成立してから200年近く。
その初期、国王の航海安全祈願が、
斎場御嶽の寄満(ゆいんち)で行われたのは、
そこがナーワンダーを見上げる拝所だったからだ。
王の渡海が廃止されたとき、
王権にとってナーワンダーの霊的価値は失われた。


尚真王と聞得大君が、
八重山征伐(1500年)の戦勝を祈願した
「おもろ」(謡)には「なでるわ(=ナーワンダー)」
の文字が見える。


「おもろ34 きこへきみおそいが節」
(外間守善氏校注「おもろさうし」岩波文庫刊を参照して意訳

聞得大君ぎや 斎場嶽 降れわちへ
(聞得大君が斎場御嶽に降り給うて) 
うらうらと 御想ぜ様に ちよわれ
(穏やかに物思うようにあられる)
嗚響む精高子が
(霊力高い聞得大君が)
寄り満ちへに ちよわれ
(寄満に坐しておられる)
(中略)
威部の祈り しよわちへ
(神聖なる聖所で祈り給う)
浦々は寄せて 司祈り しよわちへ
(国中の岬を代表する拝所で神女が祈り給う)
撫でる曲は寄せて
(なでるわ(霊的守護力)を集めて)


寄満で聞得大君が祈願している間、
ナーワンダーの天頂では、
司(久手堅ノロ)が祈っていたのだろうと、
ここで風を感じたとき、ふと思った。


巨岩の真下に位置するのは寄満、
その先に大庫理、三庫理、5.3㎞先に久高島。
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斎場御嶽の神女(久手堅ノロ)の様子が
リアルに描かれた「おもろ」もある。


「おもろ853」※こちらも( )内は私の意訳

せぢ新神泊 雲子寄せ泊
(霊力新たな港、宝の集まる久高島の港から船が出る)
波風 和やけて
(波風を穏やかにして)
斎場嶽 君々しよ 守れ
(斎場御嶽の神女たちよ、王の船を守れ)
(中略)
風直り 煽らちへ
(ノロは鷲の羽の髪飾りを風に揺らして)
赤の御衣(あかのみそ)煽らちへ
(美しい衣を風になびかせて)
(後略)



天頂には畏れ多くて立つことはできなかったが、
上の画像を撮った姿勢のまま、右手に見える海を撮った。
もし久手堅ノロがここに立ち、祈っていたなら、
その姿は久高島を出た王の船からも見えていたはずだ。
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王権祭祀から解き放されたとはいえ、
ニライカナイを望む
東方(あがりかた)が聖域であることに違いはなかった。


  「おもろ847 あけしのがこばもりかなもりが節」
にそれが伺える(意訳)
      
聞えあけしのが
(名高い神女あけしのが) 
斎場嶽 降れわちへ
(斎場御嶽でお祈りをしている)
蜻蛉御衣 召しよわちへ
(蜻蛉の羽のように美しい衣を着て)
風直り 差しよわちへ
(鷲の羽の髪飾りを頭に差して)
波轟ろ 海轟ろ 押し浮けて
(船々が海に浮かび)
百名の 浦走りが 見物
(百名の浦を巡航するさまは見事)
(後略)



斎場御嶽の海側にある知念岬公園から見た
百名・玉城方面(6月に撮影)。
この内海(イノー)を見下ろし、ノロは風を操った。
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※投稿日が2015年8月になっているのはカテゴリを変更したためで、
ナーワンダーグスクに登頂したのは、'14年8月27日のことでした。
by utoutou | 2015-08-26 13:34 | ナーワンダーグスク | Trackback | Comments(0)

ナーワンダーグスク登頂〈1〉新月の日に

そこに鏡はあった。本当にあった。
これが祖神の霊を祀る日巫女の鏡だ。
沖縄至高の御嶽・斎場御嶽の奥宮と言われる
ナーワンダーグスクの聖なる頂き。


極秘に伝わる御嶽とはいえ、
まさか天頂に、本当に鏡が祀られていたとは。
5mほど先にそびえる巨岩の上に祀られた鏡と
対峙して、それだけを思った。
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イナグ(女)とイキガ(男)。
巨岩一対を成すナーワンダーグスク。
かつては斎場御嶽の拝所・寄満(ゆいんち)
の対面に登り口があったが、
現在、登山道は「立ち入り禁止」。
ナーワンダーは原始の森に隠された。


ただし、裏からの道は何本かある。
2ヶ月前にそこから森に入った。
が、案内人はイナグの巨岩に登ったことはなく、
麓から引き返したのだった。


いっぽう語り部は、裏道は知らないが、
寄満から登ったことがある。
巨岩の麓まで行けば、登ることができるという。
ふたりで行けば登頂できるだろうと、
語り部に同行を頼んだ。
      
数日前から沖縄入りして機を待ち、
登ったのは8月27日(水)。
「新月の日がいい。27日に登りましょう」
と語り部が言ったその意味に、
鏡を仰いでようやく気がついた。


「そうだったのか! 月…。
鏡とは月のことだったんですね」
ただ、そうピンと来た。
「そうですよ。鏡は月を意味していると思います」
天頂へのクライミングを試みている語り部の声がした。


鏡の一段下の祭祀空間へも、このような絶壁を登る。
およそ高さ8m。墜ちたら事件、登れたら発見。
40度近くある気温にクラクラしつつ、
岩にへばり付いて登った。
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あと一息で天頂。最後の巨岩クライミングに挑む前、
太平洋の画像を撮った。
見慣れた海を初の視座で見る。11時17分。
森に分け入ってから30分経過していた。
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ナーワンダーグスクに登頂したのは、'14年8月27日のことでした。
by utoutou | 2015-08-26 13:33 | ナーワンダーグスク | Trackback | Comments(0)

ナーワンダーグスク登頂〈2〉消えた女神

イナグ(女)ナーワンダーグスクの天頂
に祀られた鏡を拝するべく、
女神岩の絶壁を登ってみると、
それはステンレスのカーブミラー状のものだった。
足のあるスタンド型。特製か。
案外と新しいように見える。

かつて荒俣宏氏の著書に掲載されたと同じ
ものかどうかは分からない。

確かなのは、古来の信仰を伝える誰かが、
この御嶽を管理しているという事実。
伊達や酔狂で鏡を祀るほど、
ナーワンダー天頂への道は平坦ではなかった。


絶壁に挑みつつ、
ジーパンのポケットに入れたカメラ(スマホ)が、
スポっと滑り落ちないかと心配し、
普通のスニーカー履きなのを後悔した。
登るのに両手を空けようと、
水入りのペットボトルは、麓の木陰に置いた。
そして語り部の指導通り、神への挨拶を唱えながら登った。



直径約40㎝の鏡の前には香炉と石が。
こちらもさほど古くはないようだ。今次の戦争中、
ナーワンダーは日本軍の砲台として占拠されたというが、
戦後再び、この自然造形の神壇で、古代祭祀は甦った。
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絶壁に張り付いたまま背伸びすると、
斜め右(北東)の先に久高島が見える。
久高島と斎場御嶽の位置関係は過去ログに詳しいが、
その姿勢で左に振り返れば、
6〜7m下の祭祀場跡に香炉が三つ
(下の画像は真ん中のを間近から撮ったもの)。


祭祀空間を囲んで緩やかにカーブして立つ岩壁、
その裾に一直線に並んでいる。
香炉の向きについては、
次回以降で考えていくとして…。
痛切に感じるのは、
この古代祭祀場を秘かに守ってきた人々の信仰の力だ。
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もちろん時代によって、
聖地としての機能は変遷したと思う。
ナーワンダー「グスク」と名が付くので、
三山時代には城として使われただろう。
天頂からは、琉球王朝第一尚氏の本拠地だった
佐敷を見下ろせる。第二尚氏時代には、
王族の久高行幸という渡海儀礼を見守る
守護霊(なでるわ)であったことは
『おもろさうし』にも唱われている。


時の権力者たちは、
ニライカナイの東方海上にもっとも近い斎場御嶽と、
周辺に残る古代からの地方祭祀を内包しつつ、
中央祭祀をかたちづくった。
それゆえ、古層においては、
ナーワンダーの祭祀は守られてきた。


このナーワンダーが歴史から消えたのは、
私は第二尚氏時代だったと思う。
羽地朝秀の財政改革「羽地仕置」により、
王の久高島参詣が中止された17世紀後半。


1677年、王府は聞得大君の継承を
王の姉妹(血縁)ではなく王妃に限る決定をした。
それは、姉妹が兄弟を霊的に守護した古来の
「おなり神」信仰との訣別を意味した。  
その祭祀場・イナグナーワンダー(女神、月の神)は、
王権祭祀から消えた。



ナーワンダーグスクの麓に埋もれる
「女神」の神石に、思わずutoutou(合掌)。
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※投稿日が2015年8月になっているのはカテゴリを変更したためで、
ナーワンダーグスクに登頂したのは、'14年8月27日のことでした。



by utoutou | 2015-08-26 13:18 | ナーワンダーグスク | Trackback | Comments(0)

沖縄の天女伝説 ② 天女神加那志(てんじょしんがなし)

『琉球祖先宝鑑』('33年、琉球史料研究会)
は、歴史研究家・慶留間知徳氏の著。
琉球の歴史上の人物三百数十名を列記して、
その出自・居所・葬所などを克明に記した人名録。
沖縄の神事や門中などを知るひとつの手がかり
として、多くの門中の元家に保管されている。

巻末に載る氏姓集は、首里王府系図座の資料から
編集したもので、系統を尋ねる貴重な書とされる。

戦前まで、各地の門中で「元家はミントン」と
伝えていたという話はよく聞くが、それは
ミントン家の始祖アマミキヨ・シロミキヨの子孫が
各地に発展したのが現在の沖縄だという古伝による。


さて、「天女神加那志、 
玉骨は久手堅村の後方波御嶽の内に埋葬」と
『琉球祖先宝鑑』に記されていることは、
何度か読んだのに気がつかないことだった。
その女神が初代・聞得大君の母神だったとは、
「囲む会」で語り部が偶然、口にするまで…。
(※波御嶽とは、文脈から才波(斎場)御嶽と考えられる)


斎場御嶽の風葬墓とはナーワンダーグスクを指す。
斎場御嶽の奥宮である。昭和以前には
参拝できたといい、さらに遡り、
琉球第二尚氏王朝三代の尚真王の時代までは、
そのナーワンダーが第一の御嶽であったため、その真下に
位置する寄満で王と聞得大君が戦勝祈願したとの記録がある。

語り部が聞いた民間伝承では、当時まで、
聞得大君の即位式はこの寄満で行われたというのだ。
(琉球王朝の記録では、大庫理で行われたとされる)



↓寄満からナーワンダーグスク(右上)を仰ぐ(13時)。
この寄満、そして大庫理、三庫理といった斎場御嶽の
主だった祭場は、ナーワンダーグスクから東へ一直線に
並んでおり、その東方に久高島が浮かぶといった位置関係。
これを見ても、ナーワンダーグスクの重要性が伺われる。
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ナーワンダーグスクに折よく登った1年前の
レポートは、こちらのシリーズで。

天女神加那志は、アマミキヨ四世という。
そこになぜいままで気づかなかったかのか。



↓『琉球祖先宝鑑』の1P目に以下のアマミキヨ系図があるが…。
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私はこれを『中山世鑑』(1650年編纂)の琉球神話……
「安摩美姑(アマミキヨ)・志仁礼久(シロミキヨ)
の間に、三男二女が生まれた。
長男は国王のはじめとなって天孫と称した。
次男は按司のはじめ、
三男は百姓のはじめ、長女は大君のはじめ、
次女はノロのはじめになった」
と、同じ内容なのだろうと思い込んでいた。  


ところが、語り部の話をきっかけに『琉球祖先宝鑑』を
改めて読んでみると、実は上の図は略図で、
一世の阿摩美姑と天帝子の間の
二代がカットされていたことが分かった。

天帝子は上の図から見える二世ではなく
四世で、その妃が天女神加那志だった。
天帝子・天女神加那志の子である三男二女のうち、
長女が初代の聞得大君になったとされているわけだ。

ちなみに、その系図部分を抜粋すると…。

 一世の志礼仁久と安摩美姑には、
13人の子がいた。
二世の天美人加那と巣出美人加那志には、
10名の子がいた。
三世の天太子大神加那志と竜宮女大神加那志には、
20人の子がいた。

  以上三世は本島開発前の御世也(ママ)

そして、
四世の天帝子加那志と天女神加那志には、
5人の子がいた。
一万七千八百二年(ママ)
         
  いまでは語る人のないアマミキヨ系図伝承。
そして、天孫氏王朝のはじまり。 
  語り部によれば、天女神加那志は、
   琉球の天女伝説の原型になっているという。



     8月18日(火)の朝日。玉城垣の花より久高島を望む。    
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by utoutou | 2015-08-24 15:33 | 天女伝説 | Trackback | Comments(2)

沖縄の天女伝説 ① 斎場御嶽

しばらく更新が滞っていましたが、
ブログ復活します。まずはご報告から。

8月16日(日)に開催しました
語り部を囲む会〜「私の好きな御嶽」を語ろう〜
@沖縄県南城市玉城・天空の茶屋。

定員を越す皆様にお集りいただきました。
ありがとうございます。

御嶽を廻っている人、ルーツ探しをしている人、
琉球の歴史に興味がある人、玉城に惹かれた人、
奥武島の観音様が気になる人、久高島に通う人、
与那国生まれの人、斎場御嶽が気になる人…などなど、
持ち寄った「伝承」や「御嶽で見たもの」や
「夢に見たもの」のお話を、語り部を囲んで共有しました。

語り部もいつになく語り、テーマは玉城から、
離島から、ムー大陸から、もちろん琉球の神々から、
琉球王朝時代から、原初の地球から、宇宙創世から…
時空を縦横無尽に飛ぶように展開しました。

ブログ主が書けなかった話を、直接お聞きいただいた
ことで、皆さんの探求のヒントになれば幸いです。


さて、私自身にも発見がありました。
斎場御嶽のくだりで、語り部が言ったこと。
「寄満(ゆいんち)には、天女神加那志が祀られています」
てんじょしんがなし。初耳の神名に興味を引かれ、
司会役にもかかわらず、割って入ったものです。
「初めて聞く神様、それをどうして、いま…」(笑)

いや、神名を知らなかったことが恨めしいのではなく、
今回の沖縄旅の目的がまさに「天女の御嶽」廻りだったので。
どうやら天女巡りの旅は、既に始まっていたらしい…。



斎場御嶽の寄満(ゆいんち)。囲む会の翌々日に訪問した。
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斎場御嶽の寄満については、何度か訪れ書いてきた。
寄満の真上に位置するナーワンダーグスクへも参り、
(レポートはこちら
また、久高島との位置関係も考察した。こちら


ところが、語り部は言ったのである。
「琉球王朝の初期の頃、聞得大君が即位式をしたのは
寄満で、その理由はここに
天女神加那志が祀られているからです。
風葬墓もあると、神人おばあたちから教わりました」



かつては、この寄満の正面右からも
ナーワンダーグスクへと登れたという。
聞得大君はここで、天女神加那志の霊力を授かったと。
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斎場御嶽の御門口(うじょーぐち)。
写真左の階段上が御門口。左へ登ると大庫理(うふぐーい)へ。
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ほかにも何ヶ所かの御嶽を廻り、数日後、東京へ帰った。
さっそく、天女神加那志の神名を求めて資料を開く。
慶留間知徳著『琉球祖先宝鑑』(昭和8年、琉球史料研究会刊)

阿摩弥姑(アマミキヨ)・志仁礼久(シネリク=シロミキヨ)
の四世として、その女神の名はあった。

四世 天帝子加那志
四世 天女神加那志

そして、二神の下に記された文字に驚いた。

一万七千八百二年

この表記で、二神が古代琉球王朝の始祖だと分かる。
この長い数字は、琉球古代天孫氏王朝(過去ログはこちら
の存続した年数として、琉球王朝『中山世鑑』にも載る。

すでに語る人もいない古代天孫氏王朝の存在は、
少なくとも昭和の時代までは語り継がれていた…。

by utoutou | 2015-08-23 12:19 | 天女伝説 | Trackback | Comments(2)