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沖縄の天女伝説 ⑭ 大物主神と君真物(きんまむん)と大国家(でーこくや)

何日か前、沖縄の鍛冶神
ハ二マンガナシー(=カニマンガナシー)に
ついて書いた後、ふと思い出すことがあった。
それは首里城正殿の2階南東の神壇に、
聞得大君が祀った香炉(3柱の祭神)のこと…。
(過去の記事はこちら

『女官御双紙』(1710年頃)によれば、
その聞得大君が司祭する「おせんみこちゃ」
と呼ばれる部屋に祀った神は、
1. 御筋の御前(みすじのおまえ)
2. 御火鉢の御前(おひばちのおまえ)
3. 金之美御筋の御前(きんぬぬびうすじのおまえ)

それは、どのような神だったのか…。

かつて伊波普猷氏は〈1.〉祖先の霊〈2.〉火の神、
〈3.〉金属の神と説いた。また、
折口信夫氏は〈3.〉のみ伊波普猷氏とは意見が異なり、
「金之美御筋の御前」は「穀物の神」と解いた。なぜなら、
「かね」とは『おもろ』で穀物の堅実を祝福する常套語だからと。

私などはいまこう思うのだ。その神は…両氏の見立てを
合体させたようなかたちだが、金属の神であり穀物の神。
つまり、聞得大君の崇めた「金之美御筋の御前」とは、
稲荷大神と同じ神格の神様ではなかったか…。

稲荷大神とは、日本各地の稲荷神社に
祀られておなじみの倉稲魂(ウカノミタマ)のこと。
亦の名は豊受大神(伊勢神宮外宮に祀られる)
といい、元伊勢のある丹後でその神を古代に祀ったのは
天女と呼ばれた豊受姫であることは、最近も書いた。
その天女とは、産鉄の母神であったとも。

聞得大君が崇めた神は、その古代日本の母神と
同じ神格を内包した神だと、考えられるのである。

もちろん、久高島の「君の泊(港)」に坐す
アカララキ(アラハバキ)も同じ神格の女神だと思う。


↓ こちら首里城・円鑑池にある弁天堂と天女橋。
建造は1502年。
朝鮮王からっ送られたお経を納めるお堂だったが、
1609年の薩摩侵攻で崩落。1621年に再建された
とき、新たに祀られたのが弁財天象だったという
ことから、弁天堂と命名された。
これも沖縄戦で破壊されたが、1965年に復元された。
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さて、前置きが長くなったが、大物主大神の話である。
大物主を祀る神社といえば、日本最古の大神神社(奈良県)
で、大己貴神=大牟遅神=金穴神(産鉄神)だと前回書いた。

大物主という神名の由来の核心は「物」にある。
物部氏の「物」であり、『もののけ姫』の「物」
であり、武器兵器を作る「物」という意味もあるが、
そのすべてに、大きな霊力(=物)が秘められている。

霊力の部分を端的に表すのが、沖縄に残る
「物(むん)」の一字である。

君真物(きんまむん)とは、聞得大君に依り憑く神
であり、海底の宮を住処とする琉球古神道の最高神。
国王は君真物の守護なくして、真の国王たりえなかった。

その深意は「大物主大神にある」と、語り部は言う。

「大物主は、上古代、沖縄からヤマトへ上ったと思います。
銘苅港川原や、大里の拝所・天代大世にその神影を見ます。
つまり、大物主とは、渡来した古代産鉄族の首長であり、
大国主を束ねていた大王(おおきみ)だったのでしょう」

大国主の大王…。すかさず、私は聞いた。
「ということは、クナト大神ではないですか?」
「そうです。大物主は出雲神族の大王、つまり、
龍蛇族である富の一族を率いて渡来したクナト大神のこと」
「で、その末裔は残っているんですか?」
「大物主の裔は聞きませんが、大国主の末裔なら、
大国家(でーこくやー)として、天女伝説に出て来ますよ」

そう言えば、与那原・親川にも天女伝説が残っている。
そして、天女と結婚した男は大国家。
さらに、話は続き…。
「あの奥間大親と天女の間にできた察度の子
である崎山子(さきやましー)が、その大国家に養子に
なったという話が語り継がれています」



与那原の親川(うぇーがー)の拝所。
聞得大君が順はイした東御廻りの参詣場所のひとつ。
ここにも天女伝説と大国家の名が残っている。
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与那原出身の画家・故野津唯市氏による『天女』。
玉城・山の茶屋 楽水のキャラリーに展示されている。
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大国家の名が残るのは、与那原だけではない。
南風原の宮城(みやぐすく)に伝わる
もうひとつの天女物語の主人公(男)も、
大国子(でーこくしー)と呼ばれていたという話だ。

大物主、大国家、羽衣、古代産鉄、龍蛇族…。
これまで沖縄では謎とされていたモチーフのすべて
が、どうやら「天女」で繫がっている。

やはり、大物主神は、
古代琉球からヤマト各地へと東遷したのだったか…。




by utoutou | 2015-09-26 20:43 | 天女伝説 | Trackback | Comments(2)

沖縄の天女伝説 ⑬ 鍛冶神ハニマンガナシーと大物主大神

おもろまち駅に近い銘苅の遺跡から、
グスク時代(11、12〜15世紀)の「ふいごの羽口」
や、炉跡(鍛冶遺構)が出土したという記録を、
国会図書館で閲覧したときは、かなり萌えた。

ズバリ古代産鉄地であるとの確証は得られないものの、
縄文時代後期の時代にも遡る遺跡群の、
一部に鍛冶炉(カンジャー)や鍛冶(カニマン)の
遺物が認められたことは、逆に、
もっと深い地層に埋もれたかもしれない
「御先(うさち=上古代)カニマン」の痕跡を彷彿とさせる。

久高島の主祭殿・外間殿にも、また、
アマミキヨの神紋を掲げる大里西原の拝所にも、
鍛冶神・カニマンガナシーがいまでも祀られている
ことは「沖縄の鍛冶神」という記事に書いたが、ならば、
その神こそが渡来のアマミキヨではないかという
考えがおのずと湧いて、しばらく脳裏から消えなかった。

ヤマトにあって、鍛冶神とは大物主のことだと
『古代の鉄と神々』に著したのは真弓常忠氏だ。

日本最古の神社と言われる奈良県の大神神社。
そのご神体である三輪山に祀られる大物主大神、
    すなわちオオナムチ神(大穴牟遅神、大穴持神)    
とは、大穴=鉄穴(鍛冶穴)に坐す神であると。
その表現がまさに、沖縄各地にいまも
残る古の鍛冶屋洞穴(カンジャーガマ)とダブった。

いっぽう、語り部から聞いた古代琉球王朝の存在、
そして、その民族はヤマトへと北進したという口伝
を思い出せば、ハニマンガナシーがヤマトに達して
大物主と呼ばれたという連想も、我ながら不自然とも思えない。

そんな折、語り部から電話が来た。
「大物主神とは、どんな神ですか? ブログで
銘苅港川原遺跡の話を読んでから、気になっています」
大物主大神とは、はたしてハニマンガナシーと同神なのか!?

長くなったので、次回につづく…。
銘苅遺跡の写真を持ち合わせないので、
古の那覇(真和志)を偲ぶための写真などを以下に…。



↓ 現在の那覇市牧志2丁目。
左手方向に数分行けば、ゆいれーる見栄橋駅、
      右に行けば国際通りの市場本通りアーケード入口。 
書店・ジュンク堂の向かい側にあたる一帯は、
王朝時代から十貫瀬(じゅっくんし)と呼ばれる海だった。

現在はホテル、飲食店、レンタカー営業所などが並ぶ。
ちょうど銘苅川を訪れた日の夜に通りがかると、
↓人気の九州ラーメン店・暖暮(だんぼ)に長い行列が。
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那覇は古来、浮き島で、琉球王朝第一尚氏時代
・尚金福王の時代(1452年)、中国から来る冊封使
港から首里方面へ迅速に迎え入れるべく、長虹堤
( ちょうこうてい という全長1㎞の海中道路が設けられた。

葛飾北斎『琉球八景 長虹秋霽』(1832、天保2年頃)
にも、このように長虹堤が描かれているが、
ラーメン店・暖暮の位置は、ちょうど長虹堤のふもとあたりか?
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以下は『沖縄大百科事典』から拝借した那覇の古地図。
現在は前島にある夫婦岩公園のあたりは海だと分かる。

  地図の右上、銘苅川の流れる天久台地が、陸としての
「国のはじまり」だったことは、確かに地形からも窺える…。
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by utoutou | 2015-09-23 01:27 | 天女伝説 | Trackback | Comments(0)

沖縄の天女伝説 ⑫ 銘苅川沿いの産鉄遺跡

現在は那覇市銘苅2丁目。
銘苅子と天女が出会った川泉・シグルクガーは
   戦前まで、銘苅直禄原(しぐるくばる)にあった。  
直禄原…何やら意味シンな地名だ。 
 
禄(神様の贈り物)がザクザク生る川原?
何が生るかはさておき、直禄原は川沿いの湿地遺跡だ。

写真手前左にシグルクガー拝所があり、写真正面方向に、
「ふいごの羽口」が出土した銘苅原南遺跡がある。
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※ふいごの羽口についてはこちら
衣川製鎖工業(株)様のサイトがたいへん参考になる。



『銘苅原南遺跡発掘調査報告書』
('02年、那覇市教育委員会)によれば、この地の
地層は1〜12に分類され、もっとも多く出た土器は、
近世(地層の上から1〜3)のものと、
グスク時代(地層4〜6)のものだという。
※グスク時代とは、11世紀〜15世紀前半のこと。


グスク時代中期にあたる地層(5)から、土製の
ふいごの羽口(形状と色が様々な破片)が16個出土。
また、鉄鏃、鉄釘、刀子などの鉄製品も出土したという。

焼土を多く含む地層ということで、製鉄炉跡も出たのか
と思いきや、残念ながらそれはなかったそうで、
報告書からも同様の無念の思いが感じられる。以下引用…
〜焼土層の広がりや羽口、鉄滓などの遺物が得られたことから、
鍛冶遺構の存在も考えられたが確認されなかった。〜  

ただし、この地にはさらに古い地層(地層7〜9)
があり、本土で言えば、縄文時代晩期に相当。
土器と脊椎動物の遺骸が目立ったという。



↓報告書から拝借した図版。写真左上は、現在は、
新都心公園となった銘苅原南遺跡遠景(東南から)。
右上は、北から撮った地層検出の模様。
下段の左は、縄文時代晩期の土器。
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さて、標高12.8mを頂点とした谷地状地形という
安謝東原南遺跡からは、2基の炉跡が出土。
そこには33個の小穴と、炭化物の堆積があり、
また床面の一部には焼土が広い範囲で認められる
ことから、報告書は「鍛冶関連遺構」だと記している。

遺物も、ふいごの羽口10点、鉄釘1点、鉄片3点が出土。
炉床から採取した炭化物は、放射性炭素年代測定により、
13世紀前半〜14世紀中頃という結果が出たという。

他に貝殻、土器、石器、徳之島カムイ焼きなどが
出ており、全体としては、縄文時代後期・弥生時代
から以降の重層的な遺跡と考えられるという。

近くの安謝東原遺跡とは同遺跡の可能性があるそう
だが、そこは銘苅川下流にあたる多和田川の湿地帯。
ここからも炉跡と、羽口38個が出土しているといい、
地形から見ても、まさに産鉄地の条件に当てはまる。

興味が引かれるのは、炉跡の下層から、
縄文後期、弥生〜平安時代の土器が出土したことだ。
銘柄川はやがて安謝川に合流して東シナ海に注ぐ。
人々はその川辺の立地を活かして暮らしていた。
報告書では言及していないが、縄文後期から代々、
産鉄民がこの地に住み着いていた可能性も
あるのではないだろうか?



↓写真は『安謝東原南遺跡・旧天久原古井戸遺跡』
('02年、那覇市市教委刊)から拝借。
下から2段目右が、鍛冶遺構の炉跡(横辺70cm)
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もう1ヶ所、やはり谷地である銘苅港川遺跡
からも、ふいごの羽口が出土した。
他に出た土器などの遺物の年代も含めると、
貝塚時代後期(弥生〜平安時代)からグスク時代
にかけての遺跡だという。

また焼土層の広がりや、黒色土層が確認された
ものの、具体的な鍛冶関連遺構は検出されなかった。



↓1947年ころの地形と遺跡分布図。
赤い矢印は私が加工したものだが、
南北に流れる銘苅川(青線)に沿って遺跡が密集。
地図上に流れる安謝川(青線)沿いに遺跡はない。
地図のなかで、
上の矢印は、銘苅港川遺跡
真ん中の矢印は、安謝東原南遺跡
下の矢印は、銘苅原南遺跡
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ところで、
米軍から土地返還後は、公団による土地区画整理が
行われ、現在は住宅街に変貌しているが、港川の地名が
示す通り、15世紀の初頭までこの地は入り江だった。

この一帯には「浜下り」という、
いまは途絶えた古来の風習があった。
旧暦3月3日に、女性たちが揃って天久浜に出て、
干潮の海で禊ぎをしてから、海藻を苅る。
銘苅(めかる)の意味は、そこから来ていると思う。

語り部に言うと、やはり同じ意見だった。
「北九州の門司港に、和布刈(めかり)神社
がありますね。銘苅も同じ意味でしょうね。
海の若布(芽)を苅り、スズを苅り、稲を苅る。
銘苅には古代からそんな海人族が住んだと思います」

銘苅家とは、海人族の技術集団だったのか…。



by utoutou | 2015-09-19 18:30 | Trackback | Comments(0)

沖縄の天女伝説 ⑪ 銘苅は古代産鉄地だった

那覇市・安里八幡宮の境内から、その南に位置する
国際通り方面を振り返る。この安里八幡宮が
往古、河口(海)だったことは、こちらに書いた。
第一尚氏王朝最後の王・尚徳は、この地から喜界島討征に出航、
戦勝して凱旋したことが、八幡宮建立の由来になった。

ゆいれーる牧志駅に隣接するホテルから
朝の散歩に出て安里八幡宮に来たのは2年半前の
ことだったが、かなりの急坂だったのを覚えている。

安里八幡宮の北側、現在は新都心のおもろまち駅
となっているあたりは、かつて天久台地と呼ばれ、
今次の大戦時、シュガーローフの戦いの激戦地となった。
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現代にも語り継がれる天女伝説の舞台
・シグルクガーを含む銘苅地区は、戦後、米軍に接収され、
1953(昭和28)年に全面返還されるまで、
金網に囲まれた軍用地(牧港ハウジング)だった。 

1992(平成4)年以降、那覇新都心整備事業と
天久公園整備事業が開始されたのに伴い実施された
大掛かりな調査により、おもろまちには縄文時代晩期から
グスク時代にかけての、21もの遺跡があることが判明した。


その一部には、銘苅家と天女について推察するのに
重要な手がかりとなる、遺構と遺物が眠っていた。


↓こちらは、戦争前、昭和18年の銘苅地図。
『銘苅古墓群・重要遺跡確認調査報告書』
(2007年、那覇市教育委員会文化財課編)から拝借。

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上の地図を拡大して加工したのが↓こちら。
三ヶ所に青の下線を付けた。
●青線を付けた、いちばん上が、銘苅子の墓
●真ん中が、銘苅子が天女と出会ったシグルクガー
●いちばん下が、伊是名殿内の墓(古墓遺跡、
詳しくは、文化庁データベースを参照)
※下に黒くうねるのが銘苅川、上のうねりは安謝川。
右の線路は、戦前まで走っていたという軽便鉄道。
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上の地図中、さらに那覇市
教育委員会発行の遺跡発掘報告書を参照して、
産鉄地だったことを伺わせる遺構・遺物が出た遺跡
に赤の数字を付けた。上から、
1⃣ 銘苅港川遺跡
 2⃣ 安謝東原南遺跡
3⃣ 銘苅原南遺跡

ちなみに4⃣は、銘苅原古墓群遺跡(北地区)で、
銘苅子の墓のごく近くから湧川家代々の墓が発掘された。
(湧川殿内が銘苅家の家督を継いだ記事は★こちら

天女伝説の舞台シグルクガーを挟んで南北に
3ヶ所もの「鍛冶関連」の遺構・遺物が出たのである。


思えば、ヤマトタケルのシリーズで、久高島の外間殿や
大里西原の元家で鍛冶神(カニマンガナシー)を祀っている
  ことを記し、沖縄でも古代産鉄が盛んだったのではと推察したが、  
天女と産鉄地についての深い関係が、
こうして思わぬところで現われ出るとは…。

ヤマトでは、天女の羽衣伝説のある土地は産鉄地だった。
天女は農耕の女神であると同時に、古代産鉄の母神である。
たとえば籠神社のある京都・丹波の地では、その神名は、
豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)といった。
※『丹後国風土記』逸文より。

銘苅周辺の遺跡三ヶ所から出た鍛冶関連の遺構・遺物とは、
炉跡、ふいごの羽口、そして焼土だった。
詳しくは次回に…。



by utoutou | 2015-09-17 18:49 | 天女伝説 | Trackback | Comments(2)

沖縄の天女伝説 ⑩ 琉球王朝と銘苅家(めかるけ)

琉球第二尚氏王朝時代の初期のころ(1465〜87年)、
天久宮の社殿を建てた「銘苅村の銘苅の翁」を
『天久宮由緒』は、「唯人ならず」と記したが、
どのように「唯人でない」のかは記していない。

が、その意味を知りたいと、
しばし悩ましい日々を送った挙げ句、
とんでもない名門家だということを知った。

まず、ストーリーが似ているため
どうにもややこしい、
沖縄の天女物語を振り返ってみる。

時代の新しい順から、
天女伝説・その1「天久宮」の巻。
「銘苅の翁」は女人(弁財天)と出会い、
社殿を建立した(天久宮由緒)。記事はこちら

天女伝説・その2「銘苅川」の巻。
銘苅子は銘苅川で天女と出会って結婚。
生まれた娘が尚真王夫人となり、
佐司笠按司加那志を生む(『中山世譜』ほか)。記事はこちら

天女伝説・その3(森の川)の巻。
天女と出会って結婚した奥間大親は、
一男一女をもうけるが、その子はやがて察度王になる。
「昇天した天女」とは銘苅家の女である(口伝)。記事はこちら



天久宮境内にある弁財天。
銘苅の翁は、女人が弁財天であるとの神託を受けた。
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そして、きょう遂に(笑)合点がいった。
天久宮を建てた「銘苅の翁」と、
銘苅川で天女と出会った銘苅子は、
時代は異なるが、どちらも、
同じ安謝村銘苅の銘苅家の人物だったのである。

『琉球国由来記』「第十二 真和志間切」に、
〜旧跡 銘苅子祠堂 安謝村〜という項目があるが、
本文に、それは「銘苅翁子」旧跡だとある。
意訳すれば、
天久権現勧請由来、聖現寺縁起に見える銘苅翁の家だと。
続いて、あの銘苅子の伝説が綴られるのである。
〜往昔、銘苅原の井川で銘苅子が手足を洗っていると、
天女が現れて…結婚…その娘が尚真王夫人になる〜と。


天久宮の由緒にある通り、
「天久野」で法師と女人に出会った
「銘苅の翁」の足取りを(現代のものではあるが)
那覇市の地図と照らし合わせてみると…。



ルート検索サイト NAVITIME から地図を拝借。
銘苅川の「天女の御嶽」(検索では佐川急便営業所と入力)
が、緑色で示された径路の右端。また緑径路の左端が、
天久宮(検索では泊高校と入力)。
その距離は1.7㎞。タクシー料金は730円と出た。
往時の天久宮は現在から少し北にあったと言われるが、
徒歩数分の違い。銘苅家から天久宮までは、徒歩30 分?
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銘苅の翁は、天久まで歩いて行ったのだろう。
つまり、天久宮を建立した翁が「唯人ならず」と
記されたのは、古来この地の大地主だったからか?


くだんの『琉球国由来記』真和志間切安謝村
の項には、この銘苅子祠堂の祭祀を司るのは、
〜長じて佐司笠按司加那志となった銘苅子の外孫
の嫁ぎ先・向姓美里王子朝易、
湧川親雲上朝略外鼻の祖也〜とある。

いっぽう、銘苅家の祖・向姓美里王子朝易は、
『士族門中家譜』(比嘉朝進著、2005年、球陽出版)
にも、「首里士族 向氏(しょううじ)・湧川殿内」
の項に記されており、『由来記』の記載と合致する。
〜一世・越来王子朝理。
二世・見里王子朝易。〜妻は尚真王の娘。〜と。

尚真王の娘婿が銘苅家の家督を守ったということか。

琉球王朝に深い血縁を持つ銘苅家。
その古代より繫がる系譜とは、いったい…。




天久宮の拝殿内部。
神社としての祭神は熊野三神となっている。
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by utoutou | 2015-09-17 18:25 | 天女伝説 | Trackback | Comments(0)

沖縄の天女伝説 ⑤ 琉球王妃は天女の子孫

天女伝説の舞台・森の川(宜野湾市真志喜)。
公園の東側は、御嶽の森になっている。
石垣の先は、神女の修行の場とも言われる。


石垣の奥に『西森碑記』という石碑がある。
琉球王朝に近い伊江家による建立という。
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以下、碑文解説の抜粋。
〜(前略)森の川で沐浴していた天女と奥間大親が出会い、
一男一女が生まれた。男の子は察度と名付けられ、
後に中山王に就いた。私達の元祖尚宗賢伊江王子朝義の
母は宜野湾間切謝名村の野国掟(うっち)の娘で、名を
城の大按司志良礼(しられ)といい、尚清王夫人である。
私達孫は毎年五月、西森および森の川の泉を拝んでいる
が、野国掟は奥間大親の末裔であるという伝説
があるからであろう(後略)〜

しばし、説明に見入った。
つまり…ふたつの王統が、
天女の血縁で繫がっていることになる?

ともあれ、尚清王(在位1527〜1555年)の第七子を
初代とする伊江家の人々が森の川の石積み工事を
完成させたのは、1725年のことだったという。



森の川の傍らで見つけた往年のスケッチ(石板)。
川泉周辺の石積みを整備しのは、
天女の子孫である伊江家の人々だという。
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中山王・察度(さっと)の母は天女、
琉球王朝の王妃もまた天女(の末裔)。天女とした
ところに政略的な作為を感じるのは、私だけかしらん?
などと思いつつ、森川公園を出ると、近くに
たいへん立派な拝所があるのに気づいた。


公園で見た古絵地図に奥間家が描かれていた
が、ちょうど位置的に一致している。
失礼します…と、無人の神屋に声をかけ、
静かに、しかし、思い切って引き戸を開けた。
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畳間の神屋に上がらせてもらうと、
真っ先に目に飛び込んできたのは、天女の掛け軸。
その下に飾られた絵画もまた、天女の絵!
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やはり、
天女と結婚した奥間(大親)家の神屋だった。
横の壁にも天女の扁額を見つけ、
ここは天女を祀る聖所なのだと納得した。
そして、月夜に舞う天女の姿にutoutou(合掌)。


しかし、驚くのは早かったようだ。なんと、
神壇の位牌には、アマミキヨ直系の神名があった。
すると天女と結婚した奥間大親は、アマミキヨの末裔?
天女周辺の謎がさらに深まってきた…。
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by utoutou | 2015-09-13 05:49 | 天女伝説 | Trackback | Comments(0)

沖縄の天女伝説 ⑨ 天久宮(あめくぐう)はアマミキヨ宮

「天久(あめく)の由来はアマミキヨ」
という言い伝えが気になったので、探ってみた。

古代この島に着き、
本島南東部のミントングスクに住居を構えたという
沖縄の始祖アマミキヨの痕跡が、
なぜこの西海岸の近くに残っているのか?

まず、地形からひも解いてみようと思う。
現在の天久宮は泊港に近く、沖縄県庁前から約1㎞。

国道58号線から入ってすぐ、都会のど真ん中だが、
巨大な石灰岩の磐座があったであろう古の地形を
偲ぶ手がかりは、まさに天久宮由緒のなかにあった。

〜 往古、銘苅村にいた銘苅の翁子が、
夕陽の没する頃、天久野で、法師と気高い女人が、
山上から下ってくるのに出会った 〜

「天久野」で、銘苅の翁が、「山の上」から下りてきた
女人と会った…のだから、女人は天久の隣村(北側)
の銘苅(=野原)に向って下りたと、推理できる。


天久宮の拝殿。現在は泊という住所だが、元は天久。
こちら拝殿の奥にある本殿は千木のある流造。
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また、
琉球王朝の地誌『琉球国由来記』(1713年)は、
真和志間切(間切=行政区としての村)の
天久村の項に、4つの御嶽があったと記すが、
御嶽の神名が、この天久の地形を言い当てている。

天久之嶽 神名 オシアゲ森之御イベ
潮花ツカサ 神名 ヨリアゲ之御イベ
天久寺御嶽 神名 オダシ森之御イベ
天久之子小嶽 神名 コバノ森御イベ 

神名にはすべて森が付き、オシアゲ
やヨリアゲの意味から、海山の豊穣が集まる様を示す。

語り部に聞くと、4つの御嶽のうち3つは、
現在の天久宮の地から、その北の副都心(おもろまち)
近くまでの広範囲にわたって点在していたという。

いっぽう上記のうちの御嶽名・潮花ツカサは、
沖縄の始祖アマミキヨの着いた南部の聖地
ヤハラヅカサの海岸上にそびえ立つ御嶽名と同じだ。

潮花とは、波が大岩に当たって弾け飛ぶ様を言う。
つまり、少なくとも300年前は、
天久村は、銘苅の隣町にあり、巨大な岩山が海ぎりぎり
まで迫っていた大きな村だったことになる。



天久宮の本殿は、このように岩山に超接近。
階段の上がいわば岩山の頂きで、龍宮神の拝所がある。
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沖縄中の神事に関する口伝を集めた『琉球祖先宝鑑』を開く
と、阿摩弥姑(アマミキヨ)志仁礼久(シロミキヨ)
三世として、天久大神の神名が載っていた。

そして、この地に眠るのだとも…。
〜天久大神 玉骨は真和志天久村の白浜の前の
高岩の穴に埋葬せらる。居所は、同村の志利川と云ふ家也〜

『琉球祖先宝鑑』は巷間伝わる口伝をまとめた
に過ぎないと言われるが、この地にアマミキヨ三世が
埋葬されたという伝承と、地名の由来が
一致するという情報は、相当にリアルだ…。 



天久宮の境内にある権現堂。写真右の赤いお宮が弁財天。
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by utoutou | 2015-09-10 22:24 | 天女伝説 | Trackback | Comments(0)

沖縄の天女伝説 ⑧ 天久宮の天女は弁財天

那覇港に近い泊高校の北に隣接して、
琉球八社のひとつ「天久宮」がある。
那覇市泊3丁目。旧地名が天久だったらしい。
「天久にも天女が舞い降りた伝説がある」と
語り部に聞いて、参ってきた。

鳥居前に立つマンションの引っ越しで、
トラックが停車しており、1回切り返して
レンタカーを鳥居の中へと滑り込ませた。
そこは清らかな神域…のはずだったが、駐車場。


祭神は、天龍大御神(先樋川)、 
天久臣之姫大神、泊龍宮神、弁天負泰彦大神、弁財天。
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駐車場の左手、狛犬ならぬシーサーに迎え入れられ、
地下1階にあたるらしい境内に降りて行く…。
正面に見えるのが、沖縄県立泊高校。
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シーサーの傍らには「天久宮由緒」書き。
この地にも「銘苅」の翁が登場する。
時代は舞踊『銘苅子(めかるしー)』と同じ、
尚真王のいた琉球第二尚氏王朝、15世紀中頃のこと

以下、由緒の抜粋(一部、現代語訳)。

 〜 お宮の創建は成化年間と伝えられる。
尚圓、尚宣威、尚真王時代、西暦1465〜1487年)

往古、銘苅村にいた銘苅の翁子が、
夕陽の没する頃、天久野で、法師と気高い女人が、
山上から下ってくるのに出会った。


中腹には小洞窟があり、井戸から水が湧き出ている。
翁子が「女人が何人なるか」を尋ねると、法師は、
「自分は山の中腹に住んでいるが、女人は山上に住む人で、
名前は分からない」と、答えた。

あるとき、女人が洞窟に入る途中で消えるのを見た
翁子は驚き、事の次第を王の臣に伝えた。
伝え聞いた時の王は、真偽を試そうと、役人に命じ、
洞窟に向って香を供えさせたところ、
それが自然に燃えたので、外に社殿を造営して祀った。

そこで、神託があった。
「我は熊野権現なり、衆生の利益の為に現れたり。
かの女人は国家の守護神なり、弁財天である」と。

銘苅の翁子は、
神徳を重んじ国家安全、万民豊楽の基のため、
社殿を建立して祭ったという。〜(後略)



階段下の境内に、
「由緒」に登場した弁財天のお宮がある。
天女橋?のかかる川が流れている。
こちらの建立時期は、社務所が無人のため聞けなかった。
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↓ 弁財天のある、地下1階部分(境内)。
右手前が拝殿、奥の建物が権現堂。
これは巨大な磐座の中途に渡された足場なのだと、
階段でさらに地下2階部分に降りてから分かった。
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右が本殿のようだ。
拝殿と磐座の間に隠れてるように祀られている。
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地下2階に降りて行くと、磐座の基層部分に出た。
左の尖った石に「泊之ユイヤギ御嶽」と刻されている。
こちらが、御由緒にある弁財天のいた洞窟か。

この石天井が、上の境内の地面となっている。

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こちら地下1階部分(境内)の上にある御嶽。
右から、泊龍宮神、筒男神・弁天負泰彦大神
という神名が見える。

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もともとの社殿は昭和19年の空襲で消失したため、
戦後はいったん御嶽形式で奉祀することにしたが、
本土復帰後の昭和47年に宗教法人となり、
同日神社本庁に包括されて社殿が復活したという。

本来の御嶽は、巨大な磐座だったのか…。

そして、なぜこの地に、
熊野権現と弁財天が祀られたのか?
それをゆっくりと語り部に尋ねてみたいと思う。








by utoutou | 2015-09-05 21:26 | 天女伝説 | Trackback | Comments(4)

沖縄の天女伝説 ⑦ 琉球王の守護神

察度王の母となった天女が、銘苅(めかる)の女?
父の奥間大親(おくまうふやー)がアマミキヨ子孫(天孫氏)
ならば、銘苅家とは、それ相応の家柄と思われる。

そこで思い出すのは、『銘苅子(めかるしー)』。
子(しー)とは元服後、叙位するまでの士族の称号
なので、「銘苅村の青年」といったところか。

銘苅村の銘苅子と天女の話は、
琉球王朝の踊奉行・玉城朝薫の組踊『銘苅子』で有名。
こちらの天女伝説でも、天女は一男一女をもうけるが、
やがて羽衣を見つけて昇天。残された娘は尚真王の夫人となり、
後に高級神女・佐司笠(さすかさ)按司加那志になった。
そのストーリーは、『中山世譜』『球陽』などの文献にも見える。

つまり、銘苅子は実在の人物だった。
そして、察度と同様、天女は再び王権にからむのである。


『銘苅子』の羽衣伝説の舞台は、現在の那覇市新都心。
銘苅は都会に残された緑地帯といった趣き。
那覇市の新都心銘苅庁舎や佐川急便の近くと聞いて…。
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遊歩道は、左の銘苅川と、右の佐川急便の間。
天女伝説の舞台となった川泉は、すぐに分かった。
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↓ 天女が水浴びをしたという川泉・シグルクヌウカー。
伝説の舞台が、600年経ってもこうして残されている。
天女伝説の舞台、往時の住所は、島尻郡
真和志間切 安謝村 銘苅(まわしまぎり・あじゃそん・めかる)
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銘苅川は、安謝川の支流。河畔に下りたかったが、
原生林?の壁はちょっと厚かった。
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さて、天女の娘が成長して就いた
佐司笠(さすかさ)按司加那志(あじがなし)は、
第一尚氏王統時代には最高神女の位の公職だった。
第二尚氏に入り、その座を聞得大君に譲ったが、それでも
なお佐司笠は、航海神の司祭として崇敬されたという。

この「航海神」というところに、強く感じるものがある。
尚真王が、八重山征討の航海安全祈願をしたところが、
斎場御嶽の寄満(ゆいんち)だったことは既に書いた。

そのとき歌われた「おもろ」もこちらの記事に。
以下、おもろ部分の抜粋。( )内は現代語訳。


斎場嶽 君々しよ 守れ
(斎場御嶽の神女たちよ、王の船を守れ)
(中略)
風直り 煽らちへ
(ノロは鷲の羽の髪飾りを風に揺らして)
赤の御衣(あかのみそ)煽らちへ
(美しい衣を風になびかせて)
(後略)



ここで詠われる「鷲の羽」「赤の御衣」に、
天女の羽を連想するのは、私だけだろうか。
沖縄では、羽衣を飛衣(とびんす)と呼ぶそうだ。

古代、海(あま)は天(あま)と呼ばれた。
天女とは、天翔る、海神の娘ではなかったか。

現在は新都心一部として活況を呈する銘苅。
銘苅村は、大海に注ぐ銘苅川の流域にあった。
銘刈家は、この地を居城とした海人族の家系か?


いま水量は極めて少ない様子だが、
銘苅川が蕩々として流れる川だったことが分かる。
とすれば、主流となる安謝川の古の雄大さはいかに…。
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by utoutou | 2015-09-03 16:41 | 天女伝説 | Trackback | Comments(4)

沖縄の天女伝説 ⑥ 天女は誰?

薄々気になっていたことが、
あるとき、フッと解決することがある。
自分の早合点に気づく反芻機能が働いたか?
あそこは拝所だったのだと、ようやく気がついた。


天女が現れた舞台、森川公園の森の川(むいぬかー)
↓ 傍にあった1枚の絵はこうだった。リアルなよい絵…。
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が、いま絵の左半分を↓ このように、
レイアウト加工してみて分かったのは…。
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絵の左上、
石積みで囲まれた聖地を、私が見過ごしていたことだ。


↓ こちら私が撮った森の川。実際、石積みの
囲いまでは行ったが、拝所とは分からなかった。
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そこで、改めて由緒書きの写真を見返す。
森の川は、真志喜村の産川
(うぶがー=赤ん坊のための産水を汲む川)であり、
正月の若水を汲む重要な川泉だと書いてあった。
(2005年3月 沖縄県教育委員会、宜野湾市教育委員会)
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思えば、村の共同井泉には
水の女神が祀られ、季節の折目になると、
一族の神女(人)の司祭で祈願するのが、沖縄の風習。

誕生した赤ん坊にそうしたように、
知念玉城の聖地を廻る東廻り(あがりうまーい)も、
聞得大君の即位式・御新下り(おあらおり)も、
久高島のイザイホーも、聖水の生命力をいただき、
守護神の霊力(せじ)を新生・再生する
水撫で(うびなでぃ)が、儀式のクライマックスだった。


水の女神、川泉の女神である生命の源泉。
人々は、そこに天女を見たのだろう。
その原型は、斎場御嶽の奥宮・ナーワンダーグスクに
祀られた「天女神加那志」だと、語り部は言った。
ヤマトで言う、縄文の女神・瀬織津姫である。

そうすると、中山王・察度の母となった天女は、
水の神の霊力を得て、夫となった奥間大親
(おくまうふやー)を、畑に金銀のなる富豪に押し上げ、
息子を王になる男に育てたことになる。


さて、前回からの続き。驚いたのは、
奥間家拝所に祀られている神々の名前である。


右の位牌から、真志喜大神、真志喜五郎、
そして、奥間大親、天願按司泰期と銘記されていた。
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左の二神は、天女の夫と、察度の異母弟である。
(天女は一男一女しか生まなかった)

そこで、右の神名、真志喜大神と真志喜五郎
の二神について『琉球祖先宝鑑』で調べると…。

真志喜大神は、アマミキヨ(天孫氏)の末裔。
その項には、百名世主の十二男とある。
百名世主の父は、百名大君。祖父は天孫氏也。

天孫氏は、アマミキヨ四世、
天帝氏加那志・天女神加那志の長男である。
 つまり、この伝に従うなら、奥間大親とは、
アマミキヨ八世(十二男)だったのである。

驚いたのは、真志喜五郎で、この人は、
渡来した清和天皇の末裔・源為朝が、
琉球初代王・舜天王の他にもうけた十二男
三女のひとりで、
「御母は宜野湾市真志喜村のノロ也。居所は、
同村の奥間という家也」とあった。

では、奥間大親と結婚した天女は誰か?
勢いに乗って、
語り部に聞くと、意外な逸話が返ってきた。

あるとき、宜野湾の我如古(がねこ)に
あった察度王の流れを汲む新垣という家で、
お爺さんが、少年だった語り部に尋ねた。
「オマエは、天女とは誰のことだと思うか?」
「おじい、天女は天女じゃないの?」
「バカを言うな。人と天女の間に人ができるか」
困り果てた語り部に、お爺さんは言った。
「天女はね、銘苅(めかる)の娘だよ」

銘苅!

有名な天女伝説のひとつに、銘苅子(めかるしー)
という男が天女に会って結婚するというのがあるが、
なんと、森の川の天女も銘苅の娘だったとは。

では、銘苅とはいったい、どんな家?
新たな難題が持ち上がってしまった…。


森川公園の見晴し台から、
米軍普天間基地方向を背にして、東シナ海を望む。
宜野湾市のウォーターフロントが見えるが、
その左手方向に行くと、銘苅村のあった那覇新都心。
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by utoutou | 2015-09-03 15:32 | 天女伝説 | Trackback | Comments(0)