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沖縄の天女伝説 ㉑ 天御中主神と七人の日巫女

首里末吉のノロ殿内御神屋に参った。
天女伝説の地・南風原宮城を訪れた日のこと
だったので、もう2週間近く前のことになる。
ノロ殿内(どぅんち)とは、ノロの
火の神(ひぬかん)のある家の敬称である。

その日、会うなり語り部が言った。
「聞得大君殿内にあったという掛軸について、
思い出しましたよ。同じ弁財天の掛軸が拝める
場所が、いまでもあるんです。首里の末吉町に」

昭和2年、聞得大君殿内を訪れた鎌倉芳太郎氏が、
掛軸に関するメモとスケッチを残していたことは
書いたが、(「鎌倉ノート」はこちらの過去ログに)
当主である男爵の話を図示しただけのものらしく、
琉球王朝最後の聞得大君が崇めていた神の絵図は、
結局、はっきりとは分からなかった…。



幸運にも拝観できたのが、↓こちらの掛軸。
建て替えて間もない神屋の神壇に掛かっていた。
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御挨拶し見上げていると、後ろで語り部が言う。
「弁財天…ですが、蛇になり龍になって見えます。
妙見菩薩にも感じられますね…そして…」
「そして?」
「その奥に、天御中主神の姿が控えています」
「アメノミナカヌシノカミ…ですか…」
「日月北辰信仰では、北極星、天帝、太一。   
ここ末吉は首里城の北に位置するので、
守護神として特にお祀りしていたのでしょうね」
「はあ、なるほど…」


なぜ天御中主神に見えるのか。
「見えない」私にはすぐには理解できなかったが、
何日かして、そうかもしれないと気がついた。
絵の最上に描かれているのは、太陽と月。
太陽と月は、神の島・久高島でも最高神として
祀られ、崇められてきたのだった。
その自然最高神のもと、神格化され描かれている
のが、天の真ん中に在って動かぬ北極星こと
天御中主神だろうことは、疑いようがない。

弁財天に見える中央の美しい神女こそ、
古代琉球より代々神に仕えてきた日巫女。
その名は…「玉依姫」と語り部。

魂が依り憑く姫、あるいは神の子を宿す姫、
そして、男兄弟を守護する妹である「オナリ神」。
国王と祭政一致を司る、聞得大君の元型である。



↓ 掛軸の上部分をズーム。
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掛軸の下部分には「七ぬウミナイ」が描かれている。
北斗七星に例えられる日巫女、玉(魂)依姫たち。
久高島の秘祀イザイホーで神女になる女性たちが
七つ橋を渡って七つ屋に籠るのも「七ぬウミナイ」
になるための儀式だったのだろう。
神女たちに神酒を注ぐ神職は「にぶとぅい」。
北斗七星のかたちをしたクバ柄杓のことである。
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右の位牌(とーとーめ)には、三神が祀られる。
右から天帝子、奴留(ヌル)大神、辺土野主。
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玉依姫と言えば…、
天久のある古老が語っていたという伝承がある。
〜天久には、中世玉依姫(なかゆたまよりひめ)
という神女がいて、機織りをしていたそうだよ。〜

神女は神名を一生涯隠さなければいけないのに、
なぜそれが伝わっているのだろうか?

語り部の意見はこうだ。
「それが、天女と言われた娘の後世の姿なのでは。
婚家と別れる理由として、名乗る必要があった?
“神の子”を生み継ぐために娶られた旧家の娘と
いうのが、伝説にいう天女の現実かもしれません」

元伊勢・籠神社の先代宮司は、天御中主神は
豊受大神のことであり倉稲魂(ウカノミタマ)
のことであると記した。琉球の神女たちは、
ウカノミタマのことを「七つの首の蛇」と呼ぶ。
古代琉球に渡来した天孫氏の異称である。



琉球八社のひとつ、末吉宮を末吉公園側から。
そう言えば、末吉町に屋号・大東(うふあがり)
という旧家があったという。『琉球祖先宝鑑』には、
「アマミキヨは(大陸の)大東から来た」とある。
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by utoutou | 2015-10-28 18:29 | 天女伝説 | Trackback | Comments(2)

沖縄の天女伝説 ⑳ 大国家と三保の浜

天女降臨の舞台は、銘苅川や森の川だけではない。
本島南部・南風原町宮城(みやぐすく)にある
御宿川(うすくがー)もそのひとつで、
大国家(でーこくやー)という旧家の近くにある
川泉に、羽衣伝説が残っている。

大国家は、ぜひ一度、訪れたいところだった。
そもそも大国家という屋号を冠したこの旧家は、
大国主の末裔であるという伝承があり、その当主は、
大国大主(うふくにうふすー)と呼ばれたという。

それを語り部に聞いたとき、沖縄=出雲だと思った。


ところが、いまは屋敷の跡形もなく、
↓拝所(写真右)は、鉄扉が錆び付いていて開かない。
語り部曰く、神壇には「大国さま」が祀られている。
覗くと、確かにそのような立ち姿が暗闇に浮かんでいた。
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さて、大国家の大国子(でーこくしー)が、
この地の天女伝説の主人公である。今から300年前、
大国子は御宿川で髪を洗う女性に出会った。
そこで、木枝に掛かっていた衣を高倉に隠し…やがて結婚。
子宝に恵まれ暮らしていたが…家族別離のときが訪れる。
おおむね天女は飛衣を得て昇天するストーリーだが、
この地に伝わる天女伝説は結末が違う。
東へ山ひとつ越した与那原で姿を消したというのだ。
(但し、『琉球国由来記』では、
「昇天せず死ぬ。御嶽内に葬る」となっている)



南風原町宮城の御宿川(うすくがー)。
看板の左下が天女の川泉。水は湧いてはいない模様。
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天女の消えた場所が、与那原与原の久場塘(くばどう)。
宮城から東へ車で10分、与那原交差点を西原方面に500m。
住宅街の駐車場内にひっそりと、しかし堂々と。
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「なぜ、天女はここで消えたとなっているのですか?」
語り部に聞くと、理由はあっさりと判明した。
「昔は、大国家がこの与那原にあったからですよ」
「あらら、南風原の天女伝説は、この与那原が元で?」
「一山越えて、移住したと伝わっています。ほら…」


語り部が指差した先、
拝所の小祠の左半分に、次のように刻まれていた。
〜南風原村宮城区拝所
一九五五年四月五日建立〜
この久場塘拝所は宮城のものであると明記されている。
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では、大国家が移住したのは、いつ頃だろうか。
南風原の天女伝説は300年前の話だというが、
『琉球国由来記』にも、大里間切宮城の項に、
「一ツ瀬アマオレヅカサ」という天女由来の御嶽が見えるので、
『〜由来記』成立(1713年)以前には、大国家は宮城にいた?

いっぽう、これまた驚いたことには、
察度王(1321〜95年)の息子である崎山里主が
南風原の大国家へ養子に入ったとの伝承がある。

逆に言えば、
天女一族と王族との縁組みは琉球王朝時代の
はるか以前から行われていたということになる。

察度は、奥間大親と森の川の天女から生まれたので、
崎山里主は、天女の孫にあたる。
  その王子が、大国主の末裔家に養子に入った…
  つまり、大国家はどれほど大きい家だったか。
   いまは寂れてしまったが、過去の栄華が偲ばれる。  
大国家も銘苅家と同様、古代海人族の流れだった。


ところで、
この地の天女も後の聞得大君と深く関わる。
天女が消えたのは久場塘だが、舞い降りたのは、
歩いて10分ほどの距離にある「浜の御殿」(うどぅん)。
後に琉球王朝の王族が順拝する東御廻りの拝所となった。



天女が出産したときに、↓ 親川(うぇーがー)の
湧水を産湯に使ったという古伝承があることから、
聞得大君は、就任式「お新下り」のときは、
この親川の泉で水撫で(うびなでぃ)をしたという。
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親川には、聖なる神名が付いている。
「与那原よなわしのあまおれ川、
君がおべい主がおべい、川御すじがなし」
(琉球王府編纂『お新下日記』による)

意訳すると、次のような意味になろうか。
「世直し(豊穣)のため天女が舞い降りた川泉、
 聞得大君のための、霊力(しじ)高い水の神」
聞得大君はこの霊力により国王のオナリ神となった。

この川御すじ加那志(神)こそ、各地の天女伝説で見た
弁財天であり、ヤマトの信仰で言えば瀬織津姫であり、
市杵島姫命であり、語り部によれば菊理姫でもあり、
そして、三穂津姫である。

この与那原は近年、再開発が進んでいるが、
往古は、御殿山や親川の側を通る国道329号線まで海岸
が迫り「与那古浜」「三保の浜」と呼ばれたという。
「そして、立派な松林があったそうです」と、語り部。

大国家と三保の浜と松原と羽衣伝説。この地の
天女伝説を辿ると、出雲神話の原風景とそっくりに
感じられる「いにしえの与那原」に行き着いた。
なんとも不思議…。



埋め立てが進み現在の海岸線は、西原きらきらビーチ。
地域には野外コンサート場や観光施設建設の予定もある。
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宮城観光地図のサイトはこちら
by utoutou | 2015-10-24 19:53 | 天女伝説 | Trackback | Comments(2)

沖縄の天女伝説 ⑲ 銘苅御殿は語る

天女と結婚した銘苅子が祀られている
銘苅御殿(めかるうどぅん)は、米軍からの
土地返還(1987年)後に開発された新都心の一角にある。
神屋も真新しく、銘苅子とおぼしき肖像画 も新作のようだ。
案内してくれた語り部は、描いたのは
沖縄出身の日本画家・故 柳光観氏ではないかと言う。
(※御殿(うどぅん)とは、一般に王族の建物を指す)


ただ、神壇に香炉と位牌がないため、
各地の元家にある神壇とは、決定的に印象が違う。
この家の御元祖(うぐわんす)を示す位牌を祀らないという
ことは、銘苅家が断絶してしまったということだろう。
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上に掛かる扁額には「凌雲堂」と。
左(上座)には火の神が祀られ、右に天女の絵が掛かっていた。
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↓ 昇天する天女を描いた日本画も、柳画伯の作品か。
絵の下に描かれるのは、長じて尚真王夫人
となった銘苅子の長女と、まだ小さかった弟か?
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神屋の外には、古い香炉が並び祀られている。
香炉は、右から(天女と銘苅子の出会った)シグルクガー、
(天女が降りた)アマオレガー、御嶽。そして、
ヤマトと唐に当てられた御香炉だと語り部は言う。


ヤマトと唐に関連する香炉がある…。銘苅家はやはり
水運と貿易に従事した古代海人族の末裔なのだろうと思う。
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香炉の佇まいが語るように、銘苅御殿の歴史はとても古い。
天久宮が創祀された成化年間(1464〜1487年)、
この銘苅の地に天久宮を創祀した「銘苅の翁」がいた。

シグルクガーで天女と出会って娶った
「銘苅子」は、翁の次代の銘苅家当主だったか。
伝説に残る銘苅家代々の当主が、
神壇の肖像画に集約されて描かれているようだ。

繰り返すが、位牌はない。
そこには一体どんな意味が? 語り部は言う。

「権力によって封じられた家なのだと思います。
銘苅子の墓も戦前はこの地にあったそうですが、
返還後の再開発で(那覇市)識名に移されています」

その「銘苅子の墓」一帯は、
考古調査により銘苅北地区古墓群遺跡と命名された。
古墓からは、向姓湧川家代々の骨壺が発掘されたと、
『銘苅古墓群』報告書(1998年、那覇市教委刊)は記す。

〜この墓から出土した蔵骨器の銘書き(みがち)と、
那覇市企画部市史編集室が発行した『家譜資料(首里系)』
に掲載されている「向姓家譜湧川家」の家譜とが一致した。
この墓は銘苅子の墓と言われている。〜(以上引用)
(※蔵骨器(じーし)は骨壺。銘書きは壷表に墨書された名のこと)

銘書きを家譜とを照らし合わせた結果、
次のような埋葬者と判明したという。

・(九世)越来(親方)朝盛/室
・(十二世)朝喬湧川親方/室
・(十三世)朝興湧川親方
・(十三世)朝興湧川親方/継室
・(十六世)朝愛/五女真加戸


さて、
「銘苅子の墓」に湧川家代々の人々が眠る理由は、
銘苅子の孫・佐司笠按司が湧川家に嫁いだからだった。
    父・尚真王の叔父で二代王・尚宣威の二世
である、里美王子朝易と結婚した。

相続の話は、王府の正史『球陽』(1743年)にある。
〜羽衣を見つけた天女が飛び去った後、男子ふたりは夭死し、
長女は尚真王夫人となる。茗苅子(=銘苅子)には
跡継ぎになる子がなく、その采地(さいち=領地)
を譲って外孫の女佐司笠按司加那志に伝えた。〜(※意訳)


そのことは、語り部も神女おばあから伝え聞いていた。
「尚真王から佐司笠按司への遺言があったそうです。
あんたが男だったら家督を継がせたかったが、
女だから、婿との間にできた子から継がせなさいと。
ところが、生まれた子がまた女だった。
そのため、湧川家が銘苅家の家督を継いだ、と…」

語り部は常々言っていた。
「それほど、銘苅は大地主だったと伝わっています。
銘苅口説の文句にもあると言いましたね。
〜国のはじまり銘苅国、川のはじまり銘苅川〜
国とは真和志のこと、古代から陸地だった地域を指します」

  
銘苅御殿を出てから、天女は誰かという話になった。
「そろそろ天女は誰か、分かってきましたね?」
「銘苅家の女ですね。
そして、御先世(上古代)からこの地に住んだ海神族
が崇めた女神の霊力を継ぐ日巫女だったのだと思います。
銘苅子と天女は、古代の習俗のまま同族婚だった。
それを隠す必要があって、天女として語り継いだのでは…」

天女伝説が語られる『球陽』や
『琉球国由来記』は、1700年代前半の編纂。
薩摩による琉球侵攻(1609年)の百年後である。
琉球の古代信仰は隠さざるを得なかったのか。
  


銘苅御殿は、現在のおもろまちにある。
周囲には真新しいマンションや病院など各種施設が立ち並ぶ。
右手前、赤瓦の屋根の建物が銘苅御殿。
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by utoutou | 2015-10-20 13:54 | 天女伝説 | Trackback | Comments(0)

沖縄の天女伝説 18 天女の孫が見つけた泉

昨日、10月14日(水)朝6時55分。
沖縄南部・新原(みーばる)海岸に昇る朝日。
水平線上、左手に久高島が平たく浮かぶ。
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今回の沖縄旅で初めて迎えた朝。
新原海岸の北、百名海岸へも行った。
↓7時5分。大潮のためヤハラヅカサは水没していた。
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姿が隠れてしまったアマミキヨ渡来の聖碑
ヤハラヅカサに向かい、Gパンを捲り足を浸ける。
そして「天女の羽衣」をつらつら思う。

天女はなぜ羽衣(飛衣)を盗まれるのか…。
素っ裸となって水浴びをしていたからだが、
ではなぜ、どの天女も水浴びをするのか。

沖縄の天女の場合、それは水撫で(うびなでぃ)と
同じ意味が込められていると思う。
聖水の生命力をいただき、霊力を新生させる。

神祀りをする神女に限っての儀礼である。
新たなる霊力は所縁ある人々に授けられる。
それを思うとき、天女は神祀りをする巫女であり、
シャーマンであるということが腑に落ちる。
琉球王朝にとって、弁財天は「国家の守護神」
(天久宮の由緒より)だった。


さて、海を出てからは、天女ゆかりの川泉へ。
那覇市首里に、佐司笠樋川(さしかさひーじゃー)がある。

銘苅子(めかるしー)と天女の間に生まれた
銘苅家の娘は、琉球王朝・尚真王夫人となり、
一女を生んだというが、この王女(天女の孫)が
向氏・見里王子朝易に嫁ぎ、三十三君である
佐司笠按司加那那志(さしかさあんじがなし)になった。



首里の桃原(とーばる)にあるのは首里桃原(とーばる)  
に建つイタリアン・レストラン「ラフォンテ」。
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桃原通りを車で走行中、
何度か綺麗なグリーン色のエントランスを見ていた。
それが、佐司笠按司加那志の御殿跡だったとは驚いた。

近代に入ってからは、松山御殿が建っていたという。
琉球王朝最後の王・尚泰王の第四王子だった尚順男爵邸で、
その築造による桃原農園もあったと、サイトに記されている。


レストランの庭園奥に現存する佐司笠樋川
(さしかさひーじゃー)の別称は鷺泉(けいせん)。
佐司笠按司がフクギの木に白鷺が止まっているのを見て、
探り当てたのでその名が付いたのだとか。
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華やかで洗練された首里城の城下町、いまは
お洒落なレストランとなった御殿後に、
昼なお暗い石囲いの下、500年枯れない川泉はあった。


天女の孫・佐司笠按司加那志が見つけ日々祈った
佐司笠樋川の隣りには、対となった川泉もある。
世果報樋川(ゆがふひーじゃー)と呼ばれてきたという。
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佐司笠按司加那志は、水の神、龍宮神、航海を司る神女。
そして、天女の孫であり、銘苅子の孫。

ふと、この地は誰のものだったかと思った。
天女は天から来て帰ったのだから。
銘苅家のものだったはずである。
「銘苅子は大地主」と語り部は言ったが、
この首里までもその領地だったのだろうか…。

  




by utoutou | 2015-10-20 10:43 | Trackback | Comments(2)

沖縄の天女伝説 ⑰ 弁財天は聞得大君の先祖

久米島の君南風(きみはえ、方言では「ちんべー」)は、
琉球王朝の三十三君(高級神女)の公職名
だが、その始まりは往古まで遡るとの伝承がある。

通称『君南風由来記』(1700年頃)によれば、
〜神代に三姉妹の神女が降臨した。
長女は首里の弁が岳に降り、
次女は久米島の東嶽に降りたが、
やがて八重山の於茂登岳に移り住んだ。
三女は久米島の西嶽に住んで、君南風になった。〜

また、語り部が本島玉城の神女おばあから聞いた
ところでは、神女三姉妹はヤマトから来たといい、
なかでも三女の君南風はズバ抜けて霊能力が高かった。

〜尚真王の時代、八重山征伐(オヤケ・アカハチの乱)
のときに御神託があって、ヤマトから三姉妹が来たが、
それがスサノオの御子たちなのか、
豊後海部の日巫女三姉妹なのか、はたまた、
宗像三女神なのかは、はっきりとはしない。
とにかく、長女は弁が岳に降り、
次女は八重山の於茂登岳に、
三女は久米島に降りられた。
そのなかで、いちばん霊力が高かったのは、
久米島の君南風になられた三女。
どれほどの霊力高(しじだが)だったかというと、
海の上を草履を履いて歩き、呪術をよく使った。
君南風が一振りすれば、風が舞い、火が起きた。〜

語り部は「君南風は市杵島姫命のことでしょう」と言う。
そして私は、この海神族のプリンセス三姉妹とは、
神代この琉球諸島に降臨した女神だったのではと思う。
 


石垣島に行ったとき、大浜でアカハチの銅像を見た。
 王府に反旗を翻した島の英雄だったが、オヤケ・アカハチの乱
(1500年)で、君南風の参加した王府軍に誅伐された。
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さて、神女・君南風は
弁財天の霊力で王府軍を戦勝に導いたが、
では、その弁財天と王府の関係はどうだったのか。
実はその女神を聞得大君が崇めていた痕跡が残っている。



1927(昭和2)年、
鎌倉芳太郎氏は、尚侯爵家に野嵩御殿(尚泰王の子の妃)
を尋ね、聞得大君御殿の神壇について聞き書きした。
↓そのスケッチが『鎌倉ノート13 北部神座考』にある。
右ページのいちばん上に「弁財天掛物」と。(※原文は辨財天)
つまり神壇の真正面に弁財天の絵が掛かっていた。
左ページは掛物のスケッチで、真ん中に女神像とメモがある。
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また上の左ページのメモは次のような内容だ。
(原文のカタカナ表記は平仮名に変換)

〜中央掛物図様
これは「ウミナリウシジ」にして風の御神なりと云う。〜

(中央掛物の女神像についてのメモ)
〜これを弁財天と呼ぶも疑問多く、故 尚泰侯爵もこれが
弁財天とは考えられたるも、古来かく伝えられたる
ゆえしか称す。されど不思議なりと、野嵩御殿に御話
ありきとうけたまわる。〜

いっぽう、
これと同じ掛軸を、伊波普猷氏は田島利三郎氏による
スケッチで見たと「火の神考」に記したが、その図柄とは…。
〜ひとりの女神が胡座にかけていて、その
右手(向って左)にお供らしい女が三人立っている。
それに相対して左手には、お供らしい
七人の女性に取り囲まれた弁財天女の立像がある。〜


「7人のお供に囲まれた弁財天像には、
どんな意味がありますか?」
資料を閲覧した国会図書館から、語り部に電話した。
すると、こんな答えが返ってきた。
「弁財天のお供が7人いるのですね。それは、
昔から“七ぬウミナイ”と呼ばれた日巫女たち。
久高島の祭・イザイホーで神女が籠る七つ屋は、
ここから来ているのです」
「すると、弁財天は聞得大君の先祖というわけですか?」
「そういうことになりますね」



とんでもない方向に話が展開してきた。
イザイホーで、七つ屋の近くに建てられていた小祠。
それは、普段は久高島の旧港・君の泊にあるアカララキ
そこに坐す神とはアラハバキだと、昨年の旧正月に書いた。
旧港を上がり、向って左の森にアカララキはある。
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天女=弁財天=アカララキ=アラハバキ=市杵島姫=瀬織津姫。
するとやはり聞得大君とは、琉球王朝に始まった神職
ではないのかもしれない。その発祥は神代に遡る?

かつて、語り部は言っていたものだ。
「聞得大君は、ヤマトで言えば菊裡姫なのです」と。





by utoutou | 2015-10-10 09:59 | 天女伝説 | Trackback | Comments(0)

沖縄の天女伝説 ⑯ 神女・君南風は弁財天(市杵島姫命)

大物主神を大田田根子が祀ると、世の混乱が治まった
という、奈良・大神(おおみわ)神社の御由緒。
それと、弁財天が祀られる天久宮の御由緒が似ている
気がして、一体どこが似ているのか? と思っていたが、
突然、絡まった糸がほぐれるように閃いた。

いや、単純明快な話だった。
大田田根子がそうだったように、
神祀りをするのは、その神の子孫なのである。
よって弁財天を祀った銘苅村の翁とは、
弁財天を祀った一族の子孫だと考えられないか?

天久宮の「由緒」を改めて見る。
銘苅の翁が、洞窟に消えた女人を不思議がって
祀ると、そこに熊野権現が現れて神託を下した。
「かの女人は国家の守護神なり、弁財天である」と。



この夏、訪れた天久宮(那覇市泊)境内駐車場からの眺め。
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トラックのイラストが映ってしまったが、御祭神に弁財天と。
古代は海沿いだったためか、天龍神、龍神といった神名が並ぶ。
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さて…、
熊野権現そして弁財天と言えば、天河大弁財天神社
が思い出されるが(といっても参ったことはない…)
主祭神は市杵島姫神(いちきひめのかみ)という。

その女神はまた、宗像三女神のうちの一柱とも、
海部・安曇・尾張など海人族の祖・火明命
饒速日命)と一対を成す女神とも言われ、
亦の名を、縄文の神・瀬織津姫という。

本地垂迹の時代には、弁財天と習合して祀られた。
そして…この弁財天と一対になるのは大黒天。
神道では大物主と呼ばれる神である。

その男女神を天久宮に祀ったのは、銘苅の翁。
つまりアマミキヨ、天孫氏の末裔だったと思われる。

ところで、
創建時期について、天久宮由緒は次のように記す。
〜お宮の創建は成化年間と伝えられる。
(尚圓、尚宣威、尚真王時代、1465年〜1487年)〜

成化年間とは、当時の琉球が冊封した明の第九代
皇帝・憲宗(成化帝)の在位期で、1464〜1487年。
この間が、尚円・尚宣威・尚真の時代と一致する。

その琉球国王、第三代までの在位年はというと
初代・尚円王は、1470〜1476年、
尚宣威王の在位は、1477年(在位は半年)、
尚真王の在位は、1477〜1526年。

その尚真王は、当時14、5だったと言われる実妹の
聞得大君・音智殿茂金(おとちとのもかね)とともに、
八重山征伐(1500年)に出立する前の戦勝祈願を、
斎場御嶽の再奥の拝所である寄満(ゆいんち)で行った。

結果、八重山征伐(オヤケ・アカハチの乱)に戦勝したが、
戦いを勝利に導いたと言われるのは軍尼・君南風(チンべー)。
彼女に依り憑いた霊力(しじ)とは、宗像三女神の三女
・市杵島姫命に比定される女神・弁財天だった。

このことを考えてもやはり、
銘柄家は古代海神族(天孫氏)の末裔に違いない。



宗像大社(福岡県)にある古代祭祀場(高宮祭場)。
宗像三女神が降臨した聖地と伝えられる。
全国でも数少ない古代聖地跡とも言われるが、
その空気感は沖縄の御嶽と、よく似ていた。'13年12月撮影。
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by utoutou | 2015-10-06 09:19 | 天女伝説 | Trackback | Comments(0)

沖縄の天女伝説 ⑮ 大物主(蛇神)と玉依姫

語り部が銘刈港川原で霊視したという大物主大神。
思えば、当ブログでは案外と頻繁に登場している。

崇神の時代に、大神神社(奈良県)の祭主として
大物主大神を祀った大田田根子の出自は和邇氏だった
という系譜は、『琉球の和邇氏』の記事で見た。

この大田田根子は、天皇に「親は誰か?」と聞かれて 
「父は大物主、母は活玉依姫」と答えたと記紀に
あるが、母の活玉依姫については、『古事記』に、
名も知らぬ若者の子を身籠った姫として登場する。

妊娠に驚いた両親に、男の身許を調べるよう言われ、
男の着物の裾に、針に通した麻糸を付け、
それをたぐって行ってみると三輪山に辿り着いた。
若者は三輪山の大物主大神、つまり蛇神だった…。

それとまったく同じストーリーの神話が、宮古島
最高の聖地・漲水御嶽(はりみずうたき)にもある。
美しい娘を孕ませたのは、漲水の洞穴にいた大蛇だったと…。

大物主神という名の蛇神と、宮古島と、銘苅。
古代、大物主が率いた一族は宮古から移動してきたのか?

現代ではもはや調べる手がかりもないと思いきや、
先日、語り部が言った。
「銘苅から安謝川を挟んで北は、浦添ですが、
そのあたりには宮古島出身の家がとても多いのです」
「浦添ですか…」
「その一族と、浦添城は関係があるかもしれません」

浦添城。琉球初代の王・舜天(1187〜1237年)
の時代に創建されたと言われる。
浦添の語源が百浦襲(ももうらそ=浦々を支配する)
であるという考察は、伊波普猷氏が
著書『古琉球』の「浦添考」に記した。
首里城の正殿・百浦襲(もんだすい)の謂れだとも。

その百浦襲(ももうらそ)を思うとき、いつも、
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそ姫)を連想する。
百・浦・襲の3字に通じる浦添の地名が、
ズバリ琉球と百襲姫の関係を物語る…との説もある。



百襲姫の墓陵と言われる箸墓古墳(奈良県桜井市)。
『日本書紀』では、姫は大物主神(蛇神)の妻になったと。
百襲姫を『魏志倭人伝』の卑弥呼に比定する説は根強い。
(写真は'11年の撮影)
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倭迹迹日百襲姫命は、第七代孝霊天皇の皇女。
「大市墓」とも呼ばれる箸墓は3世紀後半の築造とされる。
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墓名の「大市」とは、倭迹迹日百襲姫命の別名である。
京都丹後の籠神社に秘蔵されていた『海部氏勘注系図』に、
「九世孫の妹」に日女命(ヒメノミコト)の名があるが、
その亦の名として、以下の4つの名が載っている。
倭迹迹日百襲姫命、千々速日女命、日神、神大市姫命。

最後に、神大市姫命とある名前が「大市墓」の由来か。
また「日神」が日の巫女=卑弥呼と同一視される理由だ。

では、千々速日女命(ちちはやひみこ)とは誰かというと、
孝霊の妃である春日千々速真若比売(古事記)、
亦の名は、春日千乳早山香媛(日本書記)。
どちらも和邇氏と同族の「春日」の文字を含んでおり、
倭迹迹日百襲姫命の母は和邇氏の女だったと考えられる。
とすれば、倭迹迹日百襲姫命も和邇の血脈にあることになる。

話はグルッと廻って、また和邇氏に戻ってしまった…。
ワニ氏のことは『大陸渡来のワニ氏はアマミキヨ?』に詳しい。



↓那覇市辻から遠望する、泊の港。
天久宮のある泊(旧・天久村)に、伝説の神女がいたという。
名は「中世玉依姫」と呼ばれていたと、語り部に聞いた。
「玉依姫」とは、大田田根子の母・活玉依姫を彷彿とさせる神名。
活玉依姫は和邇の女だった。さらに古代、
神武の天皇の母もまた同名の、和邇の地を引く姫だった。
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何だか今日は、天女を離れて、和邇氏の話ばかり…。
つまり大物主は和邇の祖だと思うのだが、その話はまた。


by utoutou | 2015-10-01 21:10 | Trackback | Comments(2)