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東国三社 ④ 香取神宮、要石の謎解き

東国三社、最後は千葉県香取市の香取神宮へ。
祭神は、経津主大神(ふつぬしのおおかかみ)
※又の名は、伊波比主命(いわいぬしのみこと)

社務所発行の『香取神宮案内記』によれば、
〜香取の大神は天照大御神の命を受けて、
鹿島の大神と共に出雲国の大国主かの地と
御交渉の結果、争いなく国土を皇孫に
捧げ奉らしめ、日本建国に尽くされた。また、
東国開拓の大業を完遂し、平和国家の建設と
民生の安定福祉に偉大なる御神威を顕わされた。〜



参道正面に立つ朱塗りの大鳥居から
広大な神域へと進む。杉森に囲まれる鳥居前も広々。
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雨がパラパラと降るなか、参道を本殿へと急ぐ。
早く終えて、要石へと急ぎたいと気がはやった。
鹿島神宮と一対の要石は、大鳥居の近く、奥宮の傍に。
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MAP左下に要石の記載がある。※赤矢印は当方加工。
奥宮から至近。その奥宮は何故か本殿と対極の位置に。
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鹿島神宮拝殿。黒漆塗りで上部に彩色。
楼門の朱との対比で、いっそう荘厳に見えた。
昭和15年、皇紀2600年を記念して建て替えたと。
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参拝後、
拝殿、そして権現造りの本殿を一周、
樹齢千年余という杉の巨木も見上げるなどして
から、まっしぐらに要石の方へと戻った。
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小高い山を登り、護国神社を過ぎると、
宇迦の御魂神を祀る押手神社の前に要石(左)が。
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傍らに【要石】の説明板が立っていた。
〜古伝によればその昔、香取・鹿島の大神は
天照大神の大命を受け、芦原の中つ国を平定し、
香取ヶ浦に戻った。しかし、この地方はなおただよえる国
であり、地震が頻発し、人々はいたく恐れていた。
これは地中に大きな鯰魚が住みつき、荒れ騒いでいると
言われていた。大神たちは地中に深く石棒をさし込み、
鯰魚(なまず)の頭尾を押さえ地震を鎮めたと
伝わっている。当宮は凸形、
鹿島神宮は凹形で地上に一部だけをあらわし、
深さ幾十尺とされている。
貞享元年(一六六四年)三月、徳川光圀公が当宮に
参拝の折、これを掘らせたが、根元を見ることが
出来なかったと伝わる。〜
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↓ こちら鹿島神宮の要石(再掲)。凹形をしている。
鹿島神宮の凹要石は女神、↑香取神宮の凸要石は男神
を表していると推理するのは、私だけではないだろう。
この凸凹石を繫いで結界を張り、建国以前の先住民を
封じ込めたのだろうと、香取神宮の凸型要石に感じた。
鰻とは、龍蛇族の暗示であるとも言えそうだ。
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クナト神・アラハバキの男女神を崇める出雲神族
(龍蛇族)は、出雲と東国に先住していたと思う。
武甕槌神と経津主神、建国の武神は出雲に次いで、
この東国で、もうひとつの国獲りを強行したのだろう。

日本列島にはクナト神の率いる出雲神族が
ネットワークを結んで住んでいたのではないか。

息栖神社の栞で見た、旧社名が気にかかった。
〜国史(三代実録)に書かれてある【於岐都説神社】が
現在の息栖神社です。常陸風土記によれば香島神都ができた
のは大化五年(今から約千三百年前)であり、(中略)
於岐都説は於岐都州であり、息栖になったものであります。〜

於岐都州(オキツス)。息栖の語源を解けば、
クナト神(岐神)のいた都の州(島)と読める。

すると、私の頭を見透かすように語り部から電話がきた。
「オキツス、とか、オキツシマという島が、
琵琶湖にあると思いますが、知っていますか?」

琵琶湖!?  また思わぬ難題が投げかけられた…。



 


by utoutou | 2015-11-29 12:25 | 神社 | Trackback | Comments(2)

東国三社 ③ 息栖神社、アラハバキが隠れている

鹿島神宮の次は、
茨城県神栖市息栖にある息栖神社へ。
息栖は「いきす」と読む。
古来、鹿島灘に向って鳥の嘴のように尖って
浮かぶ島だったことから「沖津州」と呼ばれた
のが、やがて転訛したという。

祭神は、久那戸神(くなどのかみ、岐神)
相殿に、天鳥船命(あめのとりふねのみこと)
住吉三神(=上筒男神、中筒男神、底筒男神)

鹿島神宮と香取神宮に祀られる武神(と神剣)を
東北へ道案内したという久那戸神と、武神を乗せた船、
そして航海神が祭神となっており、
神社のたたずまいも二社に比べて地味だが、
拝殿で宮司さんのお話で、一気に胸が高鳴った。



正式参拝ではないにも拘わらず、拝殿に
上げてもらえるのは、嬉しい計らいだった。
バスツアー客40人は、拝殿内でお話を聞いた。

↓ 本殿のクナト神を背に、いわゆる神様の目線。
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逆に、楼門から本殿を見ると、こんな感じ。
鳥居から一直線に進む。境内もこじんまり。
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さて、
拝殿では、こうした距離からクナト神に詣でる。
見上げると、
向って右に鏡、向って左に神剣が掛かっている。
「右は女神、左は男神を表しています」と宮司さん。


すぐに、クナト神とアラハバキだと直感した。
出雲神族を率いたというその男女神は、アイヌ語で、
男性器と女性器という意味だと聞いたことがある。

また沖縄や出雲をはじめ、古代信仰の残る各地で、
男女の性器をかたどった一対の磐座を見てきた。
鏡と剣を神社のに祀るこの地にも、
クナト神とアラハバキが祀られていたか?
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逆に楼門から本殿を一直線に見る。
「祀られているクナト神は、鹿島神宮や
香取神宮よりも古い時代からここにいた神様」
と、宮司さんは仰った。ならば、
アラハバキが隠れていると思わずにいられない。
男女一対の神祀りは、出雲神族の信仰形態だった。
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男女神の祀り方は、社前の利根川にかかる
一の鳥居(地図の下部分)でも見ることができる。

一の鳥居の両脇にふたつの鳥居が立っているが、
その中から清水が湧いている。
本殿から見て、左が女瓶、右が男瓶と呼ばれる。
併せて「忍潮井(おしおい)」という。
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御神体である男女の井戸「忍潮井」は、
伊勢の明星井、伏見の直井と並ぶ「日本三大霊水」。
楼門から見ると、少し先に一の鳥居が見える。
利根川の河口にあたるここは、古代は海だった。
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思えば、クナト神が祀られる出雲大社の
摂社・出雲井神社に参ったのは、2年前のことだった
(記事はこちら)。

その出雲井神社が妙に思い出されるのは、
同神が祀られているからだけではなかった。
語り部の言う、
この東国と出雲を結ぶレイラインが、クナト神の
移動に伴って引かれたものだったとしたら?

太陽の昇る東、太陽の沈む西。
鎌足に始まる藤原一族は、朝廷の中枢に
駆け上がる足掛かりに、この東国を欲しがったのか。
人間には支配できない「太陽」の替わりに…。

東国トライアングルには、その野望が渦巻いていたか。









by utoutou | 2015-11-26 20:17 | 神社 | Trackback | Comments(0)

東国三社 ② 鹿島神社、レイラインの意味

鹿島神宮。祭神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)。
創祀は、神武天皇紀元元年という。
『新鹿島神宮誌』にある由緒によれば、
〜神代の昔に、天照大御神の命令により、出雲の
大国主と国譲りの話し合いをし、その後、各地を歩かれ
て国の統一をはかり、未開の地・東国に入っては、
星神・香香背男(かかせお)を討って
国中を安定された。〜



境内から見る楼門。日本三大楼門のひとつ。
水戸徳川藩主の頼房卿による奉納という。
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さて、
星神を討って、中央集権国家の成立に貢献した
軍神・武甕槌神を祀るという、この鹿島神宮
の近くには、↓鎌足神社が鎮座しているが、
そこが藤原鎌足の生誕地との説があり、興味を惹かれた。

創建時期は不明というが、生誕の件は
藤原氏を描いた歴史物語『大鏡』(平安後期)に見える。
それを元にしてか、『新編常陸国誌』(江戸〜明治)
にも、鹿島で生誕したとの説が記載されている。

鹿島神宮の宮司だった東実氏の『鹿島神宮』によれば、
〜いつの頃か東国へやって来た中臣氏が、
鹿島神の神系と婚姻関係を結び、やがて鹿島神宮の
宮司となり、この神を崇めるようになったのだろう。〜
ということなので、鎌足生誕説の可能性は五分五分?

では、中臣(藤原)氏が婚姻関係を結んだという、
この地に先住した「鹿島神の神系」一族とは?

『新編鹿島神宮誌』には、こうある。
〜鹿島の地は神宮創設以前には、那賀国造の部内
だったが、いつの時代にか中臣連に与えられた。〜

那賀国造(ながこくぞう)…。
那珂国造、仲常磐、仲国造(なかのくにのみやつこ)とも。
古来、仲国(茨城県水戸市周辺)を支配したと言われる。

国造本紀(先代旧事本紀)には、
成務天皇(13代)の時代に伊豫国造と同祖である
建借馬命(たけかしまのみこと)を国造に定めた
ことに始まると記されている。

そして、
神武天皇の第一皇子・神八井耳命の後裔の
多氏が、国造を世襲したという(水戸市史)。
水戸市のある愛宕山古墳の被葬者は、
仲国造の初代・建借馬命と言われているとも。

つまり、この鹿島に先住した
多氏一族が奉じていたのは、タケカシマノ命。
タケミカヅチではなかった。そして、
鹿島の神と藤原氏とは本来、関係がなかったようだ。
藤原氏は、記紀に載る武甕槌神を祭神としたわけか。

吉田大洋氏の著『謎の出雲帝国』によれば、
多氏の系譜は以下のようになるという。

コトシロヌシ---ヒメタタライスズ姫+神武天皇---
カムヤイミミノ命---タテカシマノ命(那珂国造祖)
---多氏---太安麻呂

まさに出雲神族の系譜。事代主を遡れば、大国主、
そしてクナトの神に行き着く。

そこで、鹿島神宮本殿の向きに気がついた。
鹿島神宮の本殿は複雑な「向き」をしている。
建物は参道に対して横向き=北向きに建つが、
さらに神座は北向きでなく、東を向いている。

鹿島神宮の宮司だった東実氏は述べた。
〜その配置と内部構造は出雲大社の内陣と共通する。〜



確かに、出雲大社は、
神座が建物の南向きでなく、西を向く。
祖先が同じなら、社殿も同じ形式になるのは当然だ。
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鹿島神宮の神体は東向き、出雲大社の神体は西向き。
このことは何を意味しているのか。

語り部に意見を聞くと、驚きの回答が返ってきた。
「それが真のレイラインなのでしょうね」
「なるほど…。横1本に繋がりますね。そして、
真ん中あたりに健御名方が逃げた諏訪が位置する…」
語りも言った。
「陽の沈む出雲の日御崎(西)、陽の昇る鹿島(東)。
レイラインで繫ぐことに意味があったと思います」

太陽のレイライン。その意図は…
出雲の国獲りに次ぐ、もうひとつの国獲り?
後の藤原氏が大和朝廷で権勢を誇ることになる
その原点を知る思いがする。



そう言えば、古来、
鹿島神宮では、現在の鳥居と反対(東)が参道入口。
御手洗池(みたらしいけ)で潔斎のうえ参拝したという。
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御手洗池から急な坂道を歩くと、現在の奥宮。
その南の鹿島山に、↓地中に埋まる要石があるが、
それは巨石で水戸黄門が
7日7晩掘っても掘りきれず諦めたという。
真ん中が凹んでおり、いまは参詣客が1円玉を投げ入れる。
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要石の前には鳥居が立ち、案内版にはこうある。
〜要石
神世の昔、香島の大神が座とされた万葉集
にいう石の御座とも、或は古代における大神
奉斎の座位として磐座とも伝えられる霊石である。
(中略)信仰上からは、伊勢の神宮の本殿床下の
心御柱的存在である。〜
要石は、タテカシマノ命の磐座だったようだ。
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奥宮から要石の間には、武甕槌神の像もある。
大鯰(なまず)を踏んでいる図が、これでもかと、
出雲神族を封殺しているように見えてしまう…。
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by utoutou | 2015-11-19 13:19 | 神社 | Trackback | Comments(2)

東国三社 ① 鹿島神宮、藤原鎌足の桜

東北旅の名残りも消えない先週末、東国三社へ。
我ながら頻繁に動き廻る理由は、他でもない
鹽竈神社との関連に、いたくそそられたため。

大和朝廷の東北進出への拠点だったという東国三社。
神社なのだから拠点というより出陣祈願の社か。

鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の祭神は、
鹽竈神社と同じ武甕槌神(たけみかづちのかみ)。 

息栖神社(茨城県神栖市)の主祭神も、塩竈神社の
塩土老翁と同神らしい久那斗(くなと)大神。

鹿取神宮(千葉県香取市)の主祭神も、
塩竈神社と同じ経津主神(ふつぬしのかみ)。


武甕槌神と経津主神は、神話の上では高天原
の武神として国譲りに登場、国土平定をなした。

これを逆に出雲の目線で言うなら、天照大御神が
派遣した武神二神は、大国主から葦原中国を収奪、
抵抗した大国主の子・建御名方(たてみなかた)
を、はるばる諏訪(長野県)にまで追い詰めた。
いっぽうクナト大神は、私見では出雲の先祖神である。

いわば高天原と出雲の神々はその後、仲よく東進
して陽の昇る日の本である、この東国に鎮座して、
蝦夷征伐の守護神となった(あくまでも神話上の話)。
さらには、陸奥国一ノ宮・鹽竈神社にも祀られた。



さて、その東北三社の位置関係が、近年
「謎のトライアングル」として注目されている。
↓(神栖市観光協会HPより拝借)
また、鹿島神宮を発するレイラインが、皇居や富士山や
伊勢神宮から九州の高千穂まで一直線に貫くとか、
鹿島神宮と諏訪大社は同緯度であるなど、広範囲な
聖地の配置が指摘されるが、ではそのレイラインを
設計したのは誰か? また、時期はいつか? 
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到着して気になるのは、やはり祭祀空間の設計。
こちら大鳥居は、南西向き。鳥居は他に、
東(上の地図では右)の海岸に立つ一之鳥居と、
反対の西(利根川沿い)に立つ二之鳥居がある。
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境内MAP。大鳥居は境内の西にある。参詣者は
東へと、ほぼ一直線に「奥参道」の杉並木を進む。
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大鳥居と楼門を通り、本殿(拝殿)あたりで振り返る
と、本殿は珍しい北向き(→方向)だと分かる。
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さて、鹿島神宮の
創建は神武元年だったというが、この東北を睨む
本殿の配置を見ると、武甕槌神を守護神と仰いだ
中臣氏(藤原氏)が祭主となった時代が、
真の造営時期ということになるか?

『常陸国風土記』にも、それらしきくだりがある。
〜天智天皇の御代(※662〜671年)に、
初めて使人を遣いて神の宮をつくらしめき。〜
本殿の裏に立つ大杉も、樹齢1300年という。



本殿での参拝を終え、しばらく行くと、
参道沿いから見えるところら「さざれ石」がある。
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その傍で、目立って細い1本の木が雨に濡れていた。
思わず足を止め、説明に見入って驚いた。
なんと、その名は、鎌足桜(かまたりざくら)。
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【鎌足桜】
〜鎌足桜はヤマザクラの一種で…(中略)
鎌足桜は千葉県木更津市の指定文化財になっており、
市内にある高蔵寺の境内に粗株があります。藤原(中臣)
鎌足が大化の改新の大業が成ったことを報告、お礼参り
に来た時に、持っていた枝に着替えをかけて、お参り
した後杖をそのまま忘れてしまい、その枝が根をつけて
桜になったという伝説があります。(後略)〜
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なんだかよく分からない説明だ。どうして、
木更津のお寺の桜を鹿島神宮の境内に植樹したのか?

 道々スマホから検索して、今度はのけぞった。
もっと驚いたことに、この鹿嶋市は、
藤原(中臣)鎌足が生誕した地という説があると。
鹿島神宮の近くには鎌足神社もある。

大和国(奈良県)の飛鳥生まれではなかったの? 
いきなり藤原家の謎にハマってしまった…。




by utoutou | 2015-11-16 22:29 | 神社 | Trackback | Comments(6)

東北へ ④ 塩竈神社

東北神社旅の最後は、塩釜市森山の塩竃神社。
仙台市宮城区岩切の青麻神社から、カーナビを
頼りに目指したが、20分とかからなかった。


岩切方面(内陸側)から来て駐車場に車を置くと、
まず庭園内の池越しに塩釜湾を望むことになる。
午後4時前、薄暮の趣き。銀色に光る凪いだ海に、
かえってあの大震災の甚大な被害を思った。
きょう11日は、月命日。慎んでutoutou(合掌)。
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陸奥国一の宮。ここには奥州一の宮と記されていた。
神社名も鹽竈神社と表記。来てみなけりゃ分からない。
主祭神は塩土老翁(しおつちのおじ)。
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鹽竈神社へも是非と思ったのには訳がある。
塩土老翁は、全国区とか南島出身の神様だと
いう印象があるのに、なぜここに…と考えていた。

というのも、
神話のなかの塩土老翁は、神武が東遷する前、
「東のかたに美し地があり」と、大和の地を教えた。
あるいは、神武の曾祖父のニニギが「国ありや」
と聞くと「国あり」と、南九州あたりを示した。

また、神武の祖父の山幸彦が釣針をなくして
さまよっているときにも現れて、海神の宮
への行き方を教えたと、日本書紀に。
全国的な地理情報に詳しい翁なのである。

またアマミキヨ的な視点で考えれば、
海神の宮=龍宮=琉球。それを熟知しているのなら
南島にいた翁では?となる。

情報通だった塩土老翁とは、いったい何者?
製塩を教えた(由緒)のだから
海人族というのは確かだが、具体的にはどんな人? 
という興味があった。



ともあれ小雨のなかを拝殿に急ぐ。
本殿は別宮と呼ばれる。別=特別 という意味とか。
主祭神・塩土老翁の相殿に祀られるのは、
左宮に武甕槌神(たけみかづちのかみ) 
右宮に経津主神(ふつぬしのかみ)。
いわゆる朝廷による東北開拓を護った軍神である。
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神社の創建時期は、由緒によれば不明というが、
宮城の製塩は縄文晩期後半に始まったという
たばこと塩の博物館サイト)ので、そのあたりか。

文献では平安初期(820年)の『弘仁式』が初見。
中世以降は奥州藤原氏、江戸時代は伊達家の崇高
篤く、陸奥国総鎮守として発展。
古来、鹽竈宮、鹽竈明神、鹽竈六所明神と呼ばれた。

では、その鹽竈六所明神とは? 
答えは『鹽竈社縁起』で見つかった。
曰く、鹽竈明神とは、次の同体異名の6座であると。
塩土老翁、猿田彦命、事勝国勝命、岐神、興玉命、太田命。

そうだったのか。
猿田彦命であり、岐神(くなとのかみ)。
猿田彦は海神・綿津見神の子。
和邇氏、安曇氏ら、古代海神族にとっての始祖神。
岐神はこの島々に初渡来した出雲神族の始祖神。

猿田彦大神は、朝廷に帰順したうえで水先案内人
に仕立てられた国津神だと、かねがね思っていたが、
塩土老翁も同じ
役割を担わされ…というより同神だった。
どおりで、神話のなかの立ち位置が似ているわけだ。



こちらには摂社4社がズラリと並ぶ。
左から、稲荷社、住吉社、八幡社、神明社。
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↓こちら志波彦神社。明治になって岩切から遷座。
志波彦とは「シワ(朝廷勢力圏の端)」で
信仰されていた国津神のことだと」由緒に。
つまりこちらも塩竈明神のことか。よい気に満ちていた。
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実は、時間切れで寄れなかった境外摂社がある。
塩土老翁が使ったという神釜を祀る、御釜神社。
古式で塩を造り奉納する藻塩焼き神事が有名。

塩竈神社のサイトによれば、その工程は、
まず竃にかけた釜に置いた竹棚に
海から刈ったホンダワラを並べ、
海水を入れ、点火して煮詰め、塩をつくるという。

「海から刈ったホンダワラ」で、つい連想するのは、
古代の沖縄でも行われていたであろう製塩のことだ。
先日来、書いてきた銘苅(めかる)の翁とは、
沖縄にいた塩土老翁のことではなかったかと。

古代のヤマト語で「め」とは海藻のことだという。
沖縄では古来、ワカメでなくホンダワラが採れた。
その藻を刈って塩を造る翁と、一族がいたのでは。

沖縄から製塩遺跡や鉄釜は見つかっていないが、
『随書 流求伝』(656年)には、こんな一文がある。
〜木槽の中に海水をさらして塩となす〜
南島では、煮なくても日射で乾燥して塩ができたと。
痕跡の残らない塩造りをしていたのではないか…。







by utoutou | 2015-11-11 18:17 | 神社 | Trackback | Comments(0)

東北へ ③ 青麻神社

仙台市宮城区岩切にある青麻(あおそ)神社。

御祭神は
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
月読神(つきよみのかみ)
天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)

日月星を祀る三光宮の総社という。
東北に行くことがあれば参りたいと思っていた。
案内板によれば、創祀は852年。
現社家の遠祖・穂積保昌が山城国からこの地に来て、
里人に麻の栽培を教え、一族の尊崇する日月星の
三光神を、この清水湧く岩窟に奉祀したという。



日月星辰を崇めた琉球王朝と、深層で繫がりそうだと
思っていたが、拝殿に向かい、なるほどそうか…と。
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社紋に描かれた麻の葉が6枚、六芒星を象っている。
やはり物部に所縁の神社なのだなあ…と思う。
沖縄にも、旧約聖書に由来したと思われる風習が多い。

六芒星は、ダビデの星、カゴメ紋とも呼ばれる。
昨秋、伊雑宮に参り、伊勢神宮の御幸道路に点在する
六芒星の灯籠について書いた(こちら)のを思い出す。

こちら青麻神社の御由緒には、
現在の社家を十代遡る鈴木儀衛門が、
神祇伯白川家より神主許状を賜る…とある。
春祭に舞う神楽も、京都神祇白川家より伝習…と。

伊雑宮をはじめ、六芒星の灯籠を何百と造った
のも、白川神道(伯家神道)に所縁の人々だった。

その白川神道につながる「三宮信仰」は、
江戸時代(1680年ごろ)に弾圧された。
伊勢神宮の祭神は「日月星」だとの伊雑宮の口伝を
説いた『先代旧事本紀大成経』が江戸で禁書処分となり、
伊雑宮の御師・中村兵太夫が毒殺されたあの事件だ。

その後、大成経と内容の同じ『白河本旧紀』、
いわゆる白川版『大成経』30巻が編纂されたが、
その核心は勿論、日月星の三光神だった。

そうすると、この青麻神社を創祀した穂積保昌
なる人が京都・山城から来たことも深く頷ける。
山城は秦氏の里。その秦氏が創祀した「蚕の社」
こと木嶋坐天照御魂神社が太秦にあり、
境内に、三位一体を表すという三柱鳥居がある。



青麻神社の境内にも御井神社。三井の意味か!?
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この秋深まる東北の山間で、伊勢や沖縄に
思いを馳せるとは意外だった。

ことに、
「伊勢参参詣曼荼羅」(江戸時代、三井文庫蔵)を。
左に内宮、右に外宮が描かれる。当初、
伊勢神宮は内外ともに「三宮」連棟式だったようだ。
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千年以上前、穂積氏が日月星を祀った「鎮守の森」
は、いま広大な「県民の森」に生まれ変わっている。
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境内には、いくつもの狛猿と石灯籠が並ぶ。
灯籠にも、丸・三日月・宝珠…日月星があしらわれていた。
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↓ 摂社の山神社。
近くに草に埋もれた石階段があった。
奥宮へと続く道だろうか?
一説には、瀬織津姫が祀られているという。ならば
こちらの祭神・天照大神とは、伊雑宮の元宮
・佐美長神社に祀られる大歳神(ニギハヤヒ)と同神か。
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また今年も、失われた古祭イザイホーの季節が来る。
古代海人族の祭りを基層にした琉球王朝の王権儀礼。
久高島の最高神は、日と月と星だったのだろうと思う。

王朝時代、国王は太陽、聞得大君は月に例えられた。
いっぽう、天御中主神を祀る星信仰は消えた。
ヤマトが祀る天照大御神をおもんぱかってか、
天御中主神を、弁財天(妙見)に隠して祀った。 

先月の沖縄での発見を、図らずも東北で確信した次第。




















by utoutou | 2015-11-08 08:52 | 神社 | Trackback | Comments(0)

東北へ ② 金蛇水神社

宮城県岩沼市三色吉に鎮座の金蛇水神社
に初参詣。「かなへびすい」と読む字面
に違わず、古来、水神の宮だったという。

御祭神は水速女命(みずはやめのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)

水速女命=罔象女命(みずはのめのみこと)
無論、=瀬織津姫神。
その名で思い出すのは、伊勢神宮内宮の別宮
・伊雑宮のさらに奥宮と呼ばれる天岩戸(滝祭宮)
に祀られていたのが、罔象女命と猿田彦大神だった。
また無論、猿田彦大神=大己貴神。
縄文のとき奄美沖縄を含むこの東アジアの列島で、
あまねく祀られていたであろう、男女一対神だ。



竹駒神社から北西へ車で10分、歩けば1時間という
山裾に金蛇水神社はある。鳥居は珍しく白色で、
神域に足を踏み込んでから振り返ると、紅葉が見事。
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金蛇水神社『参拝のしおり』によれば(引用)
〜金蛇水神社の創祀は、その水源の神としての性格
からみると、この地方に人々が初めて足跡を記した
悠久の太古にさかのぼるものと考えられる。〜

以下、意訳。

そこへやって来たのが、
平安京に住んでいた刀匠・三条小鍛冶宗近。
一条天皇の永祚元年(989年、平安時代中期)
天皇の御刀を鍛えよとの勅命を受け、
名水を求めて諸国を歴訪するなか、こちら
三色吉(みいろよし)で至高の清水に出会った。

で、いよいよ刀を鍛えようとするが、蛙がうるさく
鳴くので、自ら金蛇を打って池に鎮め、刀鍛を完成。
帰り際に奉納したその雌雄一対の金蛇は、御神体と
して祀られ、以後、↓ 金蛇水の社名となったという。
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小野篁が竹駒神社を創祀した842年のほぼ同時代、
今度は天皇の勅命を受けた刀匠もやって来るとは。

宗近は国宝指定の銘刀・三日月の作者。
どれだけメジャーなのか岩沼…と、夜行バス明け
のアタマで思ったが、ここは陸奥国府・多賀城
の玄関口にして東海道と東山道が交差する要所。

南にはヤマトタケルが訪れたという旦理町
があり、ヤマトタケルは産鉄地を廻ったという
持論により、この地は広範囲な古代産鉄地だったろう
と確信した。しかも、境内には立派な藤棚がある。

藤で編んだザルは、川で採った砂金を選る道具だ。
よって藤のつく地名・人名は古代産鉄に関連した証。
この地を訪ねた三条宗近は、調べると、
名を信濃守粟田藤四郎(938〜1014年)
という公家(信濃は拝領地)であったという。

粟田氏と言えば粟田真人がおり、和邇氏と同族。
また三条宗近は、姓を橘といったそうだ。
橘氏は、敏達天皇の裔と言われるが、
その夫人となったのが春日臣仲君の女・老女子。
和邇氏から皇家に嫁いだ9人のうち最後の姫である。
すると三条宗近は、皇家外戚の裔ということになる?



鳥居からすぐ中にある素晴らしい藤棚。
春になると「九龍の藤」が見られるそうだ。
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さて、三条宗近は、52歳のときにこの地を訪れた。
狐の相槌で刀を打つ物語の能『子狐』にも描かれて
いるのだが、史実、宗近の氏神は稲荷神だったようだ。

ならば、宗近は竹駒神社へも参っただろうし、逆に
この地域一帯は、産鉄集団の居住地だった可能性がある。
宗近は小鍛冶(刀鍛冶)。ここに大鍛冶(産鉄業者)
いなければ、刀や金蛇を打つことはできない。



金蛇神社の拝殿。
手前にある太鼓橋を渡って拝殿に進み出るが、
太古から崇められた磐座そのものに参りたい気分。
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拝殿の左にあったのは、蠟燭立てらしい小祠。
燦然と屋根に輝く金のアイコンが、金運を呼び込んで
くれそうな雰囲気。いまは金運上昇の神社として人気。
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さて、興味深いことに、ほぼ同時代にもうひとり、
都からこの岩沼にやって来た人がいたという。
竹駒神社の別当寺・竹駒寺を創った能因法師。
この人の姓がまた橘、名は永愷(ながやす)といった。
近江守だった橘忠望の子で、出生988年〜1050年没。
26歳のとき、1013年に出家して歌人になったという。

和邇系3番目の僧侶は、何故ここに寺を編んだか。
というより、なぜこう次々と和邇氏の裔が陸奥入りを?

それは少なくとも、大和朝廷成立以前より、
この地に和邇氏がいたことの証左ではないか。

各地にいた先住集団とのとりなし役を担ったのは、
いつの世も、中央に呼ばれたり派遣されたりした和邇系。
大田田根子、ヤマトタケル、倭姫、神功皇后、
そして小野篁。あるいは三条宗近、能因法師も?

倭姫や神功皇后で思い出したが、
鍛冶とシャーマンは「同じ穴のムジナ」だった。
鍛冶場は火の精霊の棲む儀礼の場でもあったからだ。

また古代において、採鉱・精錬・鍛冶を含む製鉄は、
巨大な技術システムの一環だったという。
技術の伝承は決して個人的なものではなく、そこには
極めて結束の固い組織集団「産鉄族」の存在があった。
(浅井壮一郎著『古代製鉄物語』を参照)



御神体を模した?雌雄一対の金蛇ズームアップ。
伏見稲荷大社と同じシステムのようで参詣客が奉納する。
出雲で出会って以来、このおびただしい数の竜蛇神…笑。
和邇氏しかり、龍蛇神は海人族の信仰対象だった。
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by utoutou | 2015-11-05 22:57 | 神社 | Trackback | Comments(0)

東北へ ① 日本三大稲荷・竹駒神社

沖縄から目を転じて、秋の東北1泊旅へ出た。
宮城県岩沼市の竹駒神社で、旧友が脚本を書いた
浅野温子よみ語り』が上演されたのでそれを観に。

浅野さんは10年余り前から各地の神社を巡って
古事記の独り語りを演っているが、近年は
「ふるさと発見伝」シリーズでも各地を廻っている。

今回の演目は、
「きつねに守られた小野箼(たかむら)」なるオリジナル。
小野篁(802〜853年)は平安時代の官人だが、
陸奥に着任した842年に竹駒神社を創建したという。

祭神は倉稲魂神(うかのみたまのかみ)
保食神(うけもちのかみ)
稚産霊神(わくむびのかみ)。



社名の由来は、神社の南を流れる阿武隈川の武隈から。
宮城県では塩竈神社と人気を二分するというが、
それはともかく、鳥居の上に出ていたのは龍雲かしら?
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小野氏は沖縄と関係が深い(はずの)和邇氏同族。
その点でも、よみ語りへの期待は大きかったが、
御由緒を活かしたストーリーもたいへん面白く、
浅野さんの演技力も相まって会場を圧倒していた。
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平安京から「蝦夷(えみし)の国」へと下った小野箼。
征夷大将軍の坂上田村麻呂とアテルイの戦いが800年前頃
だから、数十年後に箼が陸奥守としてかの地に着任した
当時も、朝廷による支配は完遂しているわけではない。


流血の激戦地に乗り込んだ官人の祀った神が倉稲魂
というところに、古代海人族の流れを汲みながら、
大和朝廷で重用されもした小野氏一族の皮肉な役割
と、意気と、意地が、見て取れる気がするのである。
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毒をもって毒を制するではないが、「蝦夷の国」
に赴いた箼は、この地の先住民と同類の神を祀った。
倉稲魂の本地(本質)の神は、十一面観音だという。
言い替えれば、縄文の女神・瀬織津姫だ。


阿武隈川の河口にあたるこの地は、古代より
沼地だったそうで、豊かな水を湛える池もその名残か。
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その日は、
東京池袋から夜間の高速バスで仙台に着き、
駅で朝ご飯を食べて岩沼へ向ったが、それでも朝9時。
多くの禰宜さんや中学生たちが清掃しているそばから
歩く境内は、申し訳ないほどに清廉な空気感。



元宮の神壇は、本殿の奥の地下通路にあった。
左右に狐。第一鳥居をくぐって境内に入ってから、
少なく見積もって5組の白狐に出会ったと思う。
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元宮の通路から外に出て、また狐と出会った。
神様の眷属である狐をお祀りしているという命婦社。
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命婦社の上を見上げると、さらに奥宮が鎮座。
階段でその御前まで登ることができる。
階段は、目がくらむほどに急なものだったが、
下から一瞬だけ吹いた風に押し上げられた気がする。
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ここは古代産鉄地だったかもしれない。
阿武隈川沿いで、古代からの沼地、そして狐が眷属。
稲荷=鋳生りであることは、もう知っている。
またその語源は日経(ひつね)。
狐がくわえる巻物は暦だと『ひもろぎ逍遥
のブログ主さんに教わったことを思い出す。

その見立ては、
次に参った金蛇水神社で当たりだと知ることになる…。












by utoutou | 2015-11-02 19:45 | 神社 | Trackback | Comments(2)