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神武の来た道 ③ 熊野本宮大社

熊野本宮大社(和歌山県田辺市本宮町)。
鳥居から長い階段を登って着いた拝殿は
既にお正月の設えで、お猿さんに迎えられた。


拝殿の奥に見えるのは、社殿の中央・第三殿。
左から射す陽光に映えて人影のない神域が眩しい。
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祭神は、家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)
亦の名は素戔嗚尊(すさのおのみこと)
相殿には、速玉大神(左、はやたまのおおかみ)
熊野牟須美大神(さらに左、くまのむすみおおかみ)
事解之男神(ことさかのおかみ)
天照大神(右)、結ひの神(さらに右、八百萬の神)。
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旅の2日目、この日は天河弁財天のある天川村
から、路線バスを乗り継いで熊野本宮大社
まで、紀伊半島を一気に南下した。
天川村を朝7時半に発ち、計7時間の長旅。

とはいえ、吉野川〜十津川〜熊野川への川沿いの道
は圧巻の景色で、↓田辺から熊野入りして熊野川に
達したときは、海原とも見まがう大河の流れに感嘆。

奈良交通の日本一長い路線バス(特急)の
運賃キャッシュバックキャンペーンは3月まで。
(私はコレで7500円トクしました)
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停留所が167ある八木(奈良)〜新宮(和歌山)バス
だが、熊野本宮大社にはオンタイムの14:23に着いた。
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さて、神武と熊野の関わりは、
火明命の子・高倉下(たかくらじ)が、
布都御魂(ふつのみたま)なる剣を献じて
出迎えたこと、また疲弊した神武軍勢は立ち直る
   と、高皇産霊神が八咫烏の到来を告げたことだった。  

その八咫烏には、境内のあちこちで出会う。
サッカー協会のキャラクターとしてお馴染み。

八咫烏は熊野三山(熊野本宮大社、
那智大社、速玉大社)に共通する「導きの神鳥」。
八咫烏の幟も、お猿さんが描かれた初詣バージョンに。 
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さて、本宮大社から500m離れたところ、
大斎原(おおゆのはら)に日本一の大鳥居が立つ。
古来、ここは熊野川・音無川・岩田川という三本の川
の中州だったという。この地こそが旧来の社地だった。
飛鳥時代(615年)に社殿が建てられたと伝わる。

今の8倍の規模を誇ったという社殿は、しかし、 
明治22年の洪水で甚大な被害を被ったため、
上四社が現在地に遷移、下四社と摂末社が残留。
平成23年に紀伊半島を襲った豪雨で、
再び被災したことは、記憶に新しい。
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大斎原に向う道すがら、地主神の拝所に遭遇。
石碑に「地主神」と標されている。
一段高い平地に、現代的デザインの建物・熊野世界
遺産インフォメーションセンターの屋根が見える。
かつての垣内は、いま日陰の路傍に。
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そのとき、ふと思った。
地主神は古来、もしや音無川に沿って、
つまり中州の水際に祀られていたのではないか。
上流の山間には船玉神社も鎮座しているらしい。
熊野に先住したのは、古代海人だったのだと思う。

八咫烏の三本足は「天地人」を表しているという。
思えばスサノオは、沖縄ではこう呼ばれる。
天地大神様(あめつちのおおかみさま)と。
その大神のことが思い出されてならなかった。







by utoutou | 2015-12-31 06:00 | 神社 | Trackback | Comments(16)

神武の来た道 ② 天河弁財天

天河神社(奈良県吉野郡天川村坪内)。
正式名称は、大峯本宮 天河大辨財天社。
日本三大弁財天のひとつである。
吉野熊野本宮とも呼ばれる。


下市口から洞川温泉行きのバスで、山道を1時間。
天川川合で降りて、民宿の送迎車に乗り換えた。

この天川村は、
高野、吉野、熊野という三大霊場の中心に立地。
役行者が開山。弘法大師空海もここで悟った。
江戸時代まで、村内に80 もの寺院があった
という修験道のまさしくメッカである。


祭神は、
市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)
熊野坐大神、吉野坐大神、
南朝四代天皇の御霊、そして、
神代天之御中主神より百柱の神々。
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12月17日午後4時、境内は無人、社務所も無人。
 お正月準備の飾りが、新春の華やぎを窺わせた。
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さて、神武との関わりと言えば、
熊野から吉野川を北上する際、この地の磐座で
「ひのもと」という言霊を得たという伝えがある。
また壬申の乱に勝った天武天皇は、そこに着想して
「日本」という国名を定めたとも言われている。


その「ひのもと」の磐座はどこに?
本殿の建つこの琵琶山にと言われるが、では 
本殿のどこに?と訊ねる相手もなく、見上げると雪…。
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大峯山系は標高1000〜2000mだが、祈りの力
からか、むしろ洗練された霊威が漂う、気がする。


摂社・五社殿の祭神は、立て看板によれば、
(写真奥から)龍神大神 弁財天の化身なる龍神の神
大将軍大神 八つの杜の内森本神社ご祭神
大日霊貴神 天照大御神の御別名
天神大神 菅原道真公
大地主神 琵琶山の地主神
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五社殿前に、奇妙な形の石が祀られていた。
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【天石の云われ】
大峯弥山を源流とする清流は天の川の注がれ
坪内(壷中天)で蛇行し、その形は龍を偲ばせる。
鎮守の杜、琵琶山の磐座に弁財天が鎮まり、
古より多くの歴史を有す。この地は
「四石三水八ツの杜」と言われ、
四つの天から降った石、三つの湧き出る清水、
八つの杜に囲まれし処とされ、神域をあらわす。
その内、三つの天石を境内に祀る。
(一つ階段右、二つ五社殿、三つ裏参道下行者堂左)
※以上、案内板の銘文。



↓二つ目の「天から降った石」を覗く。
この天石は隕石ということなのだろうか。
ではもう一つ、四つ目の天石はどこに?
それは本殿の地下深くに隠されている…が「定石」
だろうなどと思い、ヘタな冗句にひとり苦笑。
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拝殿に入り、本殿前の能舞台を見上げる。
拝殿内は暗闇、センサー感知で自動点灯する仕組み。
それを知らなかったので、瞬間ドッキリした。
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特別な形の五十鈴(←天川弁財天HPを参照)。
社伝来の神器で、天照大御神が天岩戸に籠ったとき、
天宇受売命がこの神代鈴を付けた矛で舞ったというが、
「やはり五十鈴か」と、見上げつつ思う。
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天宇受売命が舞ったとき持っていたのは、
『古語拾遺』によれば「着鐸の矛」だという。
鐸(さなぎ、褐鉄鉱の塊)を付けた矛(かや)。

鐸が密生した矛を振ると、乾いた音がしたのが
鈴の語源だと『古代の鉄と神』(真弓常忠著)に。

神代鈴の由来は、ここが製鉄の原料であるスズ
の産地だったことを示すが、平安時代には、宮廷
鎮魂祭の呪術に名残を留めるのみになったらしい。


『古事記』によれば、神武がここ吉野に来たとき、
尻尾の光っている人が井戸から出て来たという。
「汝は誰か」と問うと、こう名乗った。
「私は国神、井光(いひか)」と。次に磐石
を押し分けて出て来た人は、こう名乗った。
「石押分(いしおしわけ)の子」と。
光ある井戸とは、水銀(または鉄砂)の坑口、
磐石も鉱産物の存在を暗示すると、真弓氏。

吉野における修験道のはじまりも、ここに
豊富な鉱物資源があったからに他ならない。
吉野熊野の鉱床を求めて山中を跋渉したのが、
山伏だった。彼らが法螺貝を吹き鳴らすのも、
中央構造線の鉱脈を探る呪術に発しているとも。

ひるがえって、神武の時代。
推測するに、この地の地主神は龍神だった。
神武の目的は侵略支配ではなく、新旧の製鉄
技術の統合再編にあったのではと、ふと思う。
神武もまたワニを母に持つ龍蛇族だったからだ。

大和朝廷の初代天皇・神武。
日本や天皇の名が天武時代に始まるとすれば、
神武の時代に天皇の言葉はまだない。

その言葉を使い、記紀の影の作者が、大和朝廷
の成立を神武の時代に早めて脚色したのだろう。
神武は東征して各地の民々を帰順させたのだと。


翌朝、6時半に拝殿で行われる朝拝に参加した。
素晴らしい神事で、大祓詞などが奏上された。
別名・中臣祓詞。中臣氏が台頭した7世紀の作。
それ以前の悠久の歴史は、弁財天に姿を変えた
縄文の女神や、男神や、あの天石とともに、
地下の奥深くに隠されたままのように思える…。


本殿を出ると、集落が白い雪に覆われている。
霊山の尾根に、法螺貝の音が鳴り響いた。
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by utoutou | 2015-12-28 18:08 | 神社 | Trackback | Comments(0)

神武の来た道 ① 橿原神宮

橿原神宮(奈良県橿原市久米)。
畝傍山の南麓に広大な神域(50万平米)が広がる。
参詣客もまばらな参道を急ぎつつ、師走感を満喫。
正月三が日は県下一、二の人出になるという。


拝殿前で、初詣のための干支画に目を奪われた。
12年ぶりの「猿」に歓声。というか「おっ」と呟く。
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祭神は、神武天皇。
姫蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)。

当初は、神武の長子で
ありながら弟に皇位を譲った神八井耳命を祀る
多神社(奈良県磯城郡田原本町)に行く予定だった。
多氏は鹿島神宮の元宮と呼ばれる大生神社の
本来の祭神・建借間(たてかしま)を、また
諏訪大社の健御雷(たけみかずち)を祀った。
大和建国に関わる古社には多氏の存在がある…。

ところが、その日の
宿泊は、天川弁財天のある吉野郡天川村。
当日中に最終バス(天川村15時半着)に乗るには、
田原本町駅からかなり歩く多神社に参る余裕はなく、
結局、同じ近鉄沿線ので6駅目の橿原神宮へ。
こちらなら、ほぼ駅前に鎮座している。


初詣には人の波で埋め尽くされる、橿原神宮境内。
正月準備として絵画展のテントも設営(写真右)。
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テント内で「神武天皇御一代記御絵巻」が開催中。
橿原神宮への最後の道程、この逆コースを行く旅
なので、まさにタイムリーな企画と出会った次第。
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↓一代記の7番目は「八咫烏先導を給はる」
その舞台となった玉置神社は今回の旅のメイン。
3泊するバス旅の幸先よい予習ができた感じ。
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境内の西にある深田池の佇まいが清冽。
西参道(写真右)の先は西の鳥居、手前は神饌田。
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本殿と深田池の間に、長山稲荷社が鎮座。
神武皇后はホトタタライスズ姫ともいう大物主の娘。
ホトとは琉球語でも同じで、子宮または火床の意味。
出雲の製鉄鍛冶王の娘と結ばれたこの地で、
神武東征の旅は終わり、倭建国が始まったわけだ。
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本殿へは赤い鳥居の参道を行く長山稲荷。
熊野路〜大和路、そして熊野川〜吉野川を
遡る橿原への「神武の来た道」とは、
朱砂を産出した丹生の川を遡る道でもあったのだ。
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by utoutou | 2015-12-25 15:42 | 神社 | Trackback | Comments(0)

神武の来た道(序)まずは日牟礼八幡宮へ

何日か前まで書いていた東国三社、
鹿島神宮・香取神宮・息栖神宮。
西へ足を伸ばし諏訪大社にも参ったが、その間、
頭の端に引っかかっていたことがいくつか…。

〈その1〉大和朝廷による東北進出の軍神であり、
鹿島神宮の祭神・武甕槌神と、香取神宮の経津主神
にまつわる神話は、神武東征神話と酷似している。

〈その2〉藤原氏より以前の那珂国の国造は多(おお)氏。
古代産鉄族の筆頭で、
神武天皇の第一皇子である神八井耳命の末裔。
その始祖を祀る多神社は、大和(奈良県)にある。

〈その3〉東国三社と、もしかすると密接な関係のある
日牟礼八幡宮。その社名の由来になったという
「応神天皇が見た二つの太陽」とは、何を指すのか?


というわけで、今年を締めくくる神社旅として、
近江〜大和〜熊野を巡ってみた。銘打つとすれば、
日本一長い路線バスで行く大和熊野の4日間。

参ったのは、日牟礼八幡宮〜橿原神宮〜
吉野神宮〜玉置神社〜天川弁財天〜
熊野大社本宮〜熊野那智大社〜那智速玉大社
〜神倉神社〜阿須賀神社。
終えてみると、図らずも、
「神武の来た道」を逆コースで辿る旅となった。



1社目は、↓日牟礼八幡宮(滋賀県近江八幡市)。
東京新宿0時発の深夜バスで京都駅に6時半到着。
JR琵琶湖線快速で30分の近江八幡駅へ。
朝ラッシュのバスで7時15分、神社に着いた。
早朝に参らねば、この日のうちに天川弁財天のある
天川村(奈良県)に着けないため、強行スケジュール。
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日牟礼八幡神社の
祭神は、誉田別尊(ほむだわけのみこと)
息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)
比売神(ひめがみ=宗像三女神)



小祠は岩戸社。右の本殿奥に磐座があるはず。
玉砂利を掃く音と鳥の声が響き合うなか社奥へ直行。
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巨大な磐座(屏風岩)が出現。本来の御神体か。
さすが日本最古、和邇氏ゆかりの社
は、超古代の地層信仰を思わせる。
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↓境内の鳥居傍から見下ろす「八幡浦」の運河。
豊臣秀次が八幡城を築城したとき構築されたという。
近江八幡は水郷の街、ここは琵琶湖の三大港だった。
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写真奥の八幡山にはロープウェーが運行。
八幡山の先、琵琶湖に浮かぶ離島・沖島の
奥津島神社には、藤原不比等が建立した
という奥津島神社(祭神は奥津島姫)が、また、
その先の琵琶湖西岸に猿田彦を祀る白鬚神社がある。
琵琶湖湖岸の東西とも古代は和邇氏の拠点だった。
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さて、
応神天皇が見たという「二つの太陽」とは何か?
この地には、和邇氏の他にも土着氏族がいたのか?

少し前、語り部は言っていたものだ。
「クナト神を祖神とする二つの龍蛇族がこの地にいた」
それは和邇と息長ではないかと、私は思った。
そのことは、今回の旅で確認できそうな気がした。






by utoutou | 2015-12-22 18:50 | 神社 | Trackback | Comments(1)

東国三社 ⑧ レイラインを諏訪大社へ

龍蛇族は、沈没したムー大陸から来た。
ユーラシア大陸を往復してきた龍蛇族もいた。
彼らは、後に日本となるこの島々に着いてから
なお、日の出の東方に向けて移動を続けた。

ムー大陸から来た龍蛇族を国津神といい、
大陸から来た龍蛇族を天津神という。
沖縄の古伝では、「どちらの神も元ひとつ」という。

そんな語り部の話を聞いてから間もない週末、
思い立って諏訪大社(2社4宮)に参った。
東京新宿から3時間、恒例の日帰りバスツアーで。

東国三社の筆頭である鹿島神宮と緯度が同じで、
2点を結ぶと東西のレイラインになる諏訪大社。
上社下社の4宮を、湖畔に抱える諏訪湖は、
日本列島を九州・沖縄から、茨城の鹿島まで走る
中央構造線と、糸井川静岡構造線がクロスする位置。

はたして龍蛇族が交差した痕跡はあるのか?

ご存知、諏訪大社の主は出雲で国譲りをしたと
神話にある大国主の次男である。
国取りのために派遣された武甕槌神に抵抗して、
この地に逃れた。出雲や越後の伝承によれば、
海路、母神の故郷である越後に着いてから
諏訪に入ったとされる。



まず出雲からの来た神の痕跡に目を見張った。
諏訪大社下社秋宮の神楽殿には、
出雲大社で見たままの巨大な注連縄が張られている。
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諏訪大社4社に共通する背の高い「御柱」にも、
出雲と同じ祭祀様式が見られる。社殿自体にも。
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↓こちら諏訪大社上社前宮の奥(写真左が本殿)。
祭神は、建御名方命とその妃・八坂刀売命。この
写真右方向にその墳墓がある。ご覧のような磐座も。
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↓諏訪大社上社本宮。ご神体は背後の守屋山と言われる
が、物部の末裔が祀ったとの伝承があるが、時代は新しい?
異名では洩矢山とも呼ばれるが、こちらは
建御名方と戦った土着の神に由来すると伝えられる。
では、太平洋から渡来の痕跡は…?
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手がかりが掴めず、語り部に連絡した。
ひとつだけ気になるものが、あるにはあったので。

「社務所で“薙鎌(なぎかま)守”ってお守りを見ましたよ。
諏訪大社の神器を模したものと書いてありました」

薙鎌とは、諏訪大社の神器のひとつだそうで、
御柱祭の前年(来年は大祭なので今年だが)には、
御柱となる杉に薙鎌を打ち付ける「薙鎌神事」がある。

思うに、薙=ナーガとは、インドの龍蛇神。
草薙の剣の「薙」の語源という説がある。
いっぽう諏訪明神は龍蛇神、冬の「御神渡り」も、
湖面が龍の背のように凍って盛り上がることをいう。

どこか南方系の龍蛇神の匂いがするが、さすがに妄想?
と思っていると、語り部が言った。

「薙鎌…戸隠神社(長野県)の社紋と同じですね」
「は?」
実は9月初旬、戸隠神社(長野県長野市)に参詣した。
その際、奥宮の拝殿で目にした卍の社紋は覚えている。
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↓ 戸隠神社の社紋である「鎌卍紋」
画像は戸隠神社HPより拝借した。
サイトによれば、4本の鎌を卍にかたどった
鎌卍(まんじ)とは水の神・戸隠大神の象徴という。
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薙鎌でつながる戸隠神社と諏訪大社は、
確かにいずれも天竜川水系に属する立地。
龍脈なる中央構造線を源流へと遡った同族もいたか。
上古から農事に鎌を使う民…産鉄族でもあったろう。


「鎌卍や薙鎌は、沖縄のカジマヤーと同じ形ですね」
「カジマヤー?」
言われてみると、確かに形が似ている。
カジマヤーとは、風車のこと。旧歴の
9月7日に行われる「97歳の長寿祝い」を指す。

カジマヤーを祝われるお年寄りは、風車を手に
オープンカーに乗り、四辻を廻って祝福を受ける。

語り部が続けた。
「カジマヤーには、“龍蛇族は永遠に”の意味もあります」
「は〜、草薙の剣もカジマヤーも龍蛇族の証?」
「そうだと思います」
「では、その別名である天叢雲の剣は?」
「それが、大陸から戻ってきた龍蛇族の証では」
「ああ、神剣はふたつあった…」

三種の神器のひとつ神剣はひとつではないと、
語り部は、かねがね言っていた。

景行天皇の時代、東国へ向うヤマトタケルに
倭姫から手渡されたのは「天叢雲の剣」。
駿河国で敵の放った野火に巻かれたとき、
剣で草を刈って窮地を脱したことから、以後、
「草薙の剣」と名付けられたと、日本書紀にはあるが、
神剣がふたつ存在した史実のカモフラージュでは…と。

草薙の剣と、天叢雲の剣が、
国津神と天津神、それぞれのレガリアだったとすれば、
日本神話にも「ムー大陸」伝説は潜んでいたことになる。






























by utoutou | 2015-12-16 15:09 | 神社 | Trackback | Comments(9)

東国三社 ⑦ 龍蛇族の渡来経路

「ノアの方舟」「ムー大陸沈没」を思わせる
洪水は、はたして本当に古代琉球に起こったか。

『失われたムー大陸』の著者 J・チャーチワード
は、南太平洋のポリネシア諸島を覆うような、
文明の発達した巨大大陸が一瞬にして水没したのは、
地球に大地殻変動が起きた12000年ほど前だったと
と記したが、「古代天孫氏王朝17802年」という、
琉球王朝国史の記述と付き合わせると、その王朝は
大洪水をまたいで再興されたと考えてもよいものか。
(※国史は洪水伝説には言及していない)

戸惑っていると、語り部は続けた。
「ムー大陸だけではないのです。南太平洋上には
アトランティスやレムリアも、何万年か前にはあった
と思わせる伝えが、沖縄にも数十年前までありました」

例として語り部は、ミントングスクの神紋を挙げた。
↓ 沖縄の始祖神・アマミキヨの住居跡である
ミントングスク(南城市)の神壇に残るその神紋。
先代当主の手による彫刻だというが、
語り部は、その由来が三大陸と考えられると言った。

「レムリア、ムー、アトランティス。その
3大陸が、三つ巴紋の元々の由来だと思います。
ミントングスクには不思議な口伝がありました。
“うちはアダムとイブの子孫だよ”と、先代の
おじさんが言っていたのを聞いたことがあります。
アダムから数えて十代目がノアですからね。
3大陸が沈む洪水はあったと言わんばかりでした」
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「あ、それで…」と、そのとき、私は、
ミントングスクの崖上神域にある
「ニライカナイの御嶽」を思った。
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古代琉球は太陽信仰だったというのに、
ニライカナイの御嶽(写真中央の木の下)
は、日の出の東(あがり)を向いていない。
神域の西(いり)に位置しており、
夕陽の沈む西を向いているのである。
それは民族の折り返し地点だった地球の西方か?
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「では、この三つ巴を取り巻く菊花紋とは、
古代ユダヤの十二氏族か、シュメールの太陽神?」
私はそう訊ねたが、語り部はやんわり否定した。
「あくまでも龍蛇族はムー大陸から発したと思われます。
この南海の島々から旅立ち、中東のシュメールを
折り返し、里帰りしてきたのだと、私は見ています」

「折り返した……何のために?」
「古代の人たちは神託に従って動いたのでしょう。
クナト神の率いた龍蛇族は、二通りの経路を辿って
私たちの住む極東の島々へと渡来したと思います。
太平洋(ムー大陸)から北上した一族(国津神)、
そして、中東(シュメール)へ行って帰って来た
一族(天孫族)、二通りがいるということです」
「白人・黒人・黄色人が二通り?」
「いえ、実はそれ以上で、五色人がいた」
「はあ…」
「若い頃、私はアマチジョウガマ(南城市)
で、五色の龍が弊立神宮(熊本県)へと流れていく
のを見たことがあります。
それを神女のおばあに伝えると、返事は…
あたんどー(そう伝わっていたよ)の一言でした」
(※南部戦跡でもあったアマチジョウガマは、
新里佐敷にある「上嶺口」とも呼ばれる)

五色の龍(五色人たち)は琉球にいた。
そして、弊立神宮のある熊本へと移動した。
神宮では「五色神祭」が、いまも続いているという。

また五色の龍については『琉球祖先宝鑑』に、
同じ伝説が記されている。(以下要約)
〜アマチジョウの穴内から生じた青龍が昇天した。
時を同じくして五色の瑞雲が空に流れた。そのとき、
大東(うふあがり)からシロミキヨという男神が、
大荒(うふあら)からアマミキヨという女神が、
天降りして、青龍化生の洞穴に入った。〜

「でもなぜ、弊立神宮へと流れて行ったんです?」
 「この南方の島々から東へと上がって
行った人々は、気のよい土地を移動しました。
いわゆるゼロ磁場で、龍脈とも呼ばれますね」
「ああ、ゼロ磁場の連なり…中央構造線ですね」

というような会話をしてから、7年が経つ。
古代ヤマトで東国と呼ばれた鹿島灘は、
中央構造線の東端にあたると気づいてから、
当時聞いた古伝が、まざまざと甦った。  

※中央構造線とは何かについては、こちら
(大鹿村中央構造線博物館)のサイトが詳しい。




アマチジョウ洞穴の上の御願所。
この地から五色の龍が、弊立神宮へと流れて行った
と、琉球口伝は言う。弊立神宮は中央構造線の南端と、
言われてきたが、始点は沖縄か、さらに南だったか。
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by utoutou | 2015-12-11 13:15 | 神社 | Trackback | Comments(13)

東国三社 ⑥ ノアの方舟

沖縄に残るムー大陸伝説は、琵琶湖西岸の
白鬚神社に参った理由と大いに関係がある。
大国主の裔・冨一族の伝承を記した『謎の出雲帝国』
(吉田大洋著)で白鬚神社のくだりを見たからだ。

現在の祭神は猿田彦となっているが、明治時代
までは渡来した新羅王子の
天日槍(あめのひぼこ)が祀られていたという。

アメノヒボコは神功皇后や応神天皇につながる
息長氏の祖神。
沖縄方言では沖縄を「うちなー」と言うが、
その語源は「息長」だと、私は思っている。
那覇市の海岸沿いに「うちなーの御嶽」がある。
古来、朝鮮半島と沖縄は潮流を介して密接だったと。



というわけで、白鬚神社。
境内は急峻な上り坂で、大きな磐座があった。
特別な神域として注連縄が回され、古墳らしい。
写真左は岩戸社。並ぶように配置されていた。



境内から下ると、こうして琵琶湖が見える。
写真左の建物が本殿、中央が絵馬殿。視線の先に、
琵琶湖の対岸の沖島や日牟礼八幡宮が位置する。
日牟礼八幡宮の本殿裏にも、
屏風岩と呼ばれる大きな磐座があるという。



白鬚神社に最寄りJR近江高島駅で見たポスター。
白鬚神社・沖島の奥津嶋神社・日牟礼八幡宮を
結ぶラインは偶然、湖に描かれた丸を横切るあたり。



白鬚神社と琵琶湖東岸の神社群の位置を見るとき、
思い当たるのは「遥拝(ようはい)」という古代習俗。
海原を航海した海神族は、拠点を定める度に、
常に始祖神を崇める聖地を構えたと、私は思う。
決め手は朝日のさす方向か、始祖神のいた方向、
星を羅針盤にし、月の満ち欠けに時を計りつつ。

その移動経路が、ゼロ磁場と呼ばれる中央構造体に
沿って点々と残る聖地であり、レイライン(龍脈)。
日高見と呼ばれた東国の鹿島灘がその終着点だ。



遥拝所は、沖縄各地に残っているが、たとえば
沖縄本島・南城市玉城百名にあるアイハンタ御嶽。
(地元では、エーバンタ御嶽と呼ばれる。
最近整備され、久高島を遥拝する拝所が復活した)
※11月末に撮影。


久高島の南端が真っ直ぐに望める
この御嶽の崖下には、久高島の始祖ファガナシー
夫妻が船出した水堅浜(みでぃきんぬはま)が、
逆に約100m背後の丘陵にはミントングスクがある。
沖縄の始祖アマミキヨに所縁の御嶽が一直線に並ぶ。
琉球王朝時代、ここで国王が雨乞いをしたとも伝わる。


沖縄本島と久高島を繫ぐレイラインは、
島の東端にある「スペーラの御嶽」を向くと、
語り部は言う。御嶽名の意味はスメラミコト…。

御嶽を遥かに拝するその眺めは、
琵琶湖西岸の白鬚神社からの眺めを彷彿とさせる。
東岸の日牟礼八幡神社にも、この国の
建国にまつわる秘史が隠されているかもしれない。


さて、本題。
「龍蛇族はムー大陸から来た」という口伝の核心と
なっているのは、「洪水伝説」である。
語り部はある神女から、35年前にそれを伝え聞いた。
語り部と神女はこんな会話をした。
(私のメモ帳から転載)

〜アマミキヨ以前の伝説をノートに書き
留めている神女おばあに、語り部が聞いた。
「これ、なんね?」
「わったー(私)が聞いた古い歴史。
(アマミキヨの渡来地)浜川にいたのは、
天王ガナシーという男神だった。
お妃が天妃ガナシーで、3人の男の子がいた。
そして、洪水が起こって島が沈み、兄弟は逃げた」
「あ、そう、どこへ逃げたの?」
「長男は天孫氏を名乗ってケラマに行った」
「へえ、じゃあ、次男は?」
「シロミキヨを継いで浜比嘉島に行った。
三男はミントンに残ってアマミキヨを継いだ」
「は? まったくノアの方舟の話じゃない?」
「いー、その通り。まったくノアの方舟さ。
白人・黒人・黄色人種も、やせーや(そうだよ)」
「はあ?」
「昔はね、3つの人種がいて、天孫氏はその次。
どれだけ古いかというと、人間は9008代である」
「2億年ぐらい前から人がいたってこと?」
「わったー分からん。ただ、そういう伝えがあった」
「どこに?」
「(本島の東の)伊計島にあった」〜

ところで、
「始祖アマミキヨは大東(うふあがり)から来た」
と、沖縄では言われる。現在の大東島ではなく…。
それがムー大陸とすれば、位置は当たっている。
ニライカナイが「東海にある理想郷」である理由も。



↓『失われたムー大陸』(1931年)の著者
ジェームズ・チャーチワードの描いた地図。
木村政昭氏『ムー大陸は琉球にあった!』より拝借。

先日、語り部の話が「ムー大陸」に及んだとき、
私は仰天して聞いた。
「すると、クナト神はムー大陸の人々が崇めた
という太陽神ラ・ムーのことですか?」
「はい、そういうことになります」



by utoutou | 2015-12-08 14:57 | 神社 | Trackback | Comments(0)

東国三社 ⑤ 龍蛇族はムー大陸から来た

語り部からの質問はいつものように唐突で、
それが、東国三社と何の関係があるのかと思うが、
おそらく何か重大な神託を思い出したに違いない。

語り部の質問とは…
「オキツス、とか、オキツシマという島が、
琵琶湖にあると思いますが、知ってますか?」
いや、私は知らなかった。

琵琶湖と言えば、今春、関西出張した帰りに、
京都から湖西線で高島駅に近い白鬚神社へは行った。
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古式蒼然とした境内案内図。
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語り部の言うオキツシマとは、
「近江八幡にある神社に関係のある神社」という。
「そのあたりに、古代、東国にいた一族と同じ人々が
住んでいて、クナト大神を崇めていたと思います」と。
つまり今では上書きされてしまったが、上古には、
息栖神社と同じクナト大神が祀られていたはずだと。


琵琶湖へは行ったことがないと聞いていたが、
時空を越えて古代を見るのは語り部の常。
というか、失われ、掻き消されたであろう、
沖縄の古代を知る手がかりになる神託が、
必要に応じ、その都度、降りてくるのである。

今回も手がかりを元に、私が検索してみると
東国三社の息栖神社の語源「オキツシマ」と同じ
名前の神社は、なんと偶然にも、
白鬚神社の対面、琵琶湖の東岸近くにあった。
それも、2社。
離島・沖島にある興津島神社と、
近江八幡の大嶋興津島神社である。




琵琶湖の部分地図で示すと…
(※赤丸と赤線は当方の加工です)
赤丸の上から順に白鬚神社、沖島の興津嶋神社、
近江八幡市の大嶋興津嶋神社、そして、
いちばん下が、近江八幡市で最大の日牟礼八幡神社。
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手書きゆえ、神社位置は正確さに欠けるものの、
なんと4社は湖を越え、ほぼ1列に位置していた。

そのためだろうか、↓ 琵琶湖西岸に建つ白鬚神社
には、神社と道路を挟んだ湖中にも鳥居が…。
思えばまるで対岸の何かを、あるいは対岸の何かが
白鬚神社を拝むような配置になっていたのだった。
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さて、4社の祭神はどうかというと…

・白鬚神社の祭神は、猿田彦大神。
・興津嶋神社の祭神は、興津島比売神。
   (和銅5年、藤原不比等による創祀)
・大嶋興津島神社の祭神は、大国主神と興津島比売神。
・日牟礼八幡宮の祭神は、
誉田別命(応神天皇)、神功皇后、比売大神。
比売大神とは、宗像三女神のことだから、
この琵琶湖東岸には、宗像族が入植したと思われる。
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※画像は日牟禮八幡宮HPから拝借。


その日牟禮八幡宮HPに、以下の由緒が(要約)。

〜成務天皇即位の折、竹内宿禰に命じて、この地に
大嶋大神(地主神)を祀った。

応神天皇6年(275年)天皇行幸の際、興津嶋神社
に参拝され、ご休憩した際、御座所が設けられたが、
後年、その御仮屋に日輪の形を二つ出るという話が
あったので、祠を建てて「日群八幡宮」と名付けられた。

持統天皇5年(691年)藤原不比等が参拝し、
詠んだ和歌にちなみ、比牟礼社と伝えられる。

そもそも日牟禮の社名は、日燭の転とする説があり、
和珥・日燭使主に由来する。和珥氏は応神天皇に
深い縁故を有し、同族の櫟井氏とともに、
江洲(現在の滋賀県地方)土着の氏族です。

古来わが国の各地に分布していた氏族の多くは、
その祖神あるいは神祇を奉祀していました。
当社は同族の人々がその祖神を祀る斎場に、
縁故深い八幡大神を合祀したものと考えられる。〜



なるほど…白鬚神社の琵琶湖西岸だけでなく、
この東岸地域にも、和邇氏がいたか。

東国三社で、あるいは東北で、和邇氏の痕跡
  を見たが、遠いこの琵琶湖でそれを確認するとは。  

「古来わが国の各地に分布した氏族の多くは、その祖神
神祇を奉祀した」と、日牟禮八幡宮は言う。
縄文族のネットワークがあったと言わんばかりに。
ただし、だからといって、その祖神がクナト神だとは
示されてはいなかった。

問題は、はたして、冨族と同様に、
和邇族もクナト神を崇めていたのかという点だ。
ただ、どちらも龍蛇族であるという共通点がある…。

和邇族についての考えは、このブログの
甦る古代琉球(5)(海に消えた倭族ワニ)や、
甦る古代琉球(6)(大陸渡来のワニ氏)に既に書いた。

クナト神を崇めた出雲神族・冨族については、
出雲の龍蛇神に会いに行く(出雲井神社)に書いた。

しかし、古代の和邇族と、出雲神族・冨族の、
祖神が同じという確証はなく、お手上げ状態に。

そこで、語り部に再び聞くと、こう言った。
「和邇族も冨族もクナト神を崇めていたと思います。
ただし、時代と渡来の経路が違う」
「ということは、つまり…?」
「出雲神族であった富族はシュメールから、
それよりさらに古く渡来した東国の和邇族は、
太古に沈んだムー大陸から渡来したと思います」

遂に出た…ムー大陸説。実は何度か語り部から
その口伝は聞いたが、書く勇気がなかった。
しかし、機はついに熟したと、いまは思う。



by utoutou | 2015-12-02 21:19 | 神社 | Trackback | Comments(5)