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神武の来た道 ⑬ 玉置神社末社・白山社

積雪のため、いまは一部交通規制もある
という、奈良県吉野郡十津川村。
玉置神社も既に雪に覆われているそうだ。
私が参った12月中旬、村営バスは冬期休業に
入っていたが、幸い雪には見舞われなかった。


玉置神社境内、
枕状溶岩の露頭が見られるこの参道は、
世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部。
この参詣道沿いに、
玉置神社末社・白山社が鎮座している。
祭神は、菊理媛神(くくりひめのかみ)。
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菊理姫命は『日本書紀』に一度だけ登場する。
黄泉の国から逃げ出そうとするイザナギと
イザナミが言い争った黄泉比良坂の場面。
姫神の仲裁で、無事イザナギはこの世に帰る。

この世とあの世をとりなす役の女神。
菊理媛神は山の民の地母神とも言われる。
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↓ 磐座の上部に見えるのは、枕状溶岩の露頭か。
(玉石社の神体石も、同じく露頭と言われる)
南洋の深海に噴出して冷却したマグマ。
その火の山。火の神の住まう処。

古代、この地に渡来した人々は、古代琉球
と同じ、火(ホ、女神)火(ヒ、男神)の
一対神を畏れ崇めたのだろう。語り部曰く、
後に天穂日命(あめのほひのみこと)の神名が
つくことになる、地球というガイアの火の神を。
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この山は、火の山脈への入口でもある。

玉置山から北へ、八劔山を経て山上ヶ岳へと
連なる大峯山脈は、紀伊山地のいわば基軸。


大峯山脈の玉置山から南方を見ると、
東側(写真左)へ西(写真右)へと、
東西方向に山並みが延びているのが分かる。
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東西に渡るいくつかの山列は、太古の昔
南太平洋から押し寄せてきたプレートで、
三波川帯、秩父帯、白亜紀四万十帯、
第三紀四万十帯と呼ばれるという。

逆に言えば、複数のプレートに東西から
圧縮されて隆起し、1000mを越す
急峻な山々となったのが紀伊山地。

そんなわけで、
古代の紀伊・熊野地帯は、鉄、水銀、金、
銀銅などが採鉱できる鉱床地だったようだ。

神話に語られる神武東征は、浪速で長脛彦
に打撃を受けたため熊野へと迂回ルートを
とったことになっているが、本当の理由は、
記紀編纂の時代になっても、依然豊富な
鉱物資源を、ヤマト政権が掌握している
ことを示すためだったという説がある。

神武の来た道とは、この熊野から吉野へと
連なる鉱脈だったのだろうと、私も思う。

先住民の住んだ熊野の旧名が牟婁郡だった
というのも、偶然ではないのだろう。
   玉置山は、異名を牟婁(むろ)山ともいう。  

それでは、「牟婁」とは何か。
『日本の地名』(鏡昧完二著、角川新書)
には、次のようにある(要約)。

〜Muro ムロ(1)山で囲まれた所で、
小さい入り江や河谷の小盆地を言う。
[室生(ムロー)]・牟婁(ムロ)
(2)神社または、その森。
(3)古墳の石室、縦穴住居。

そうか…「牟婁」とはやはり「室」。
沖縄で言う洞窟(ガマ)だったに違いない。

ムロ、ガマに住んだ民…。
牟婁郡に住んだ人々とは誰でしょうね?」
語り部に聞くと明快な答が返って来た。

「穴師だと思います」
私は、穴師坐兵主神社を思い出した。
「穴師とは産鉄民のことですね?」
「はい、ティダが穴にいた人々でもあります」
「ティダが穴にいた人たち…」
ああ、それで、という思いもする。

古代琉球では、ティダ(太陽)は西に沈み、
地中の「ティダが穴」を通り、朝また東から
上がってくると、信じられていた。

「ティダが穴にいる人たちは火を操り、かつ
太陽を崇め守る一族でもあったということで?」
「はい、太平洋の東から来た輝きのある者たち。
穴師とは、真の天津神でもあると思います」
「穴師はやはり南方から来た…沖縄から?」
「はい、そうだと思います」

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↑「ティダが穴」から昇る朝日。
(玉置神社発行の絵葉書集から拝借した)






















by utoutou | 2016-01-29 18:09 | 神社 | Trackback | Comments(4)

神武の来た道 ⑫ 玉置神社末社 玉石社

玉石社
(奈良県十津川村玉置川1番地)

玉置神社末社。玉置山の山頂付近に鎮座。
祭神は、大巳貴命(おおなむじのかみ)
ご神体は「玉石」(玉置神社の記事はこちら)。


鳥居傍らの石碑には、次の説明があった。
〜平安の昔、吉野より熊野に至る修験道を
開いた山岳修行の祖、役行者が後世の為に
財宝を埋納し祈念したと伝えられている。〜
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由緒に見える役行者(634〜701年)
の事績は、神武の奉献神事とよく似ている。

『玉置山縁起』によれば、神武は東征の折り、
熊野の浜辺に上陸してから、八咫烏の案内で大和
に地を目指す道中、玉置山で安全を祈願して、
十種の神宝を奉じたという。(境内の案内板より)



玉石社は神武も参った玉置山の地主神。
その位置は、社務所前に立つ地図によれば
右手(北東)、山頂への道沿いにある。

その位置が、あまりにさりげない気が
していたが…最近ハタと気がついた。実は
本殿の奥(北)にも大巳貴命は祀られている。
地図には載っていないが、白山社の左に。
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それが ↓「山之神」という磐座。
石碑に「大山祇の神」と刻字されている。
大巳貴神と同じ大国主の異名である。
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山道を少し戻り、白山社を横から撮った。
どうやら、山之神、白山社はともに、
この巨大な磐座を一対神として崇めている。
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この巨大な磐座とは超古代の枕状溶岩だった。
道筋に以下の看板が立っていた。
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〜県指定 天然記念物
玉置山の枕状溶岩堆積地
平成九年三月二一日〜
玉置山頂上付近にある枕状溶岩は、海底火山の
噴火により噴出した玄武岩質の溶岩が水中に
流れ出し、冷えて固まったものである。産出
地帯は不規則な楕円体状または曲がった丸木状
をなした岩石が積み重なったもので、一つ一つ
の内部構造は中心から放射状に割れ目がある。
岩石の形状が枕に似ていることから、
枕状溶岩と呼ばれている。(後略)〜

調べると、磐座が「山頂付近の枕状溶岩」
の西端にあたるということが分かった。
また、枕状溶岩が吹き出た海底火山とは、
白亜紀(1億4500万年前〜6600万年前)
に南方の海洋底に噴出し、
海洋プレートの移動によってアジア大陸縁
に不加したものであるという。

この枕状溶岩、露頭が
チューブの断面が積み重なったように、
あるいは玉を重ねて置いたように
  見えるというのが、「玉置山」の名の謂れ。 
 
恐竜時代…。南方の海洋火山…。
古代人が神として崇めたマグマの巨岩…。
その霊威や価値を、神武が来たときに
既にいた先住民は知っていたのか。
そして、大巳貴命を崇めた民とは?






by utoutou | 2016-01-25 21:55 | 神社 | Trackback | Comments(0)

神武の来た道 ⑪ 火の神とホとヒ

熊野では廻りきれなかった神社や、
心残りな神社がいくつかある。


たとえば、熊野本宮大社の産田社。
本宮から旧社地の大斎原に行く途中、
↓ 左折の案内板を見ながらも、先に右折して
大鳥居に行ったところで、バスが来る時間に…。
産田社には伊弉冉尊の荒御魂が祀られている。
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伊弉冉尊と言えば、その葬所とも伝わる
花窟(はなのいわや)神社(三重県有馬市)。
熊野灘に面する巨大な磐座が御神体という。

記紀神話では、伊弉諾命とともに大八島国と
35神を生むが、軻遇突智(かぐつち)を生む
ときに陰部(ミホト)火傷を負い、神去った。
伊弉諾命は軻遇突智(かぐつち)を斬った。

火産霊命(ほむすびのみこと)とも表記される
カグツチは、神倉神社摂社の猿田彦神社と並ぶ
三宝荒神社にも、応神天皇と共に祀られていた。

「三宝荒神は、どんな神様ですか?」
境内にいたお爺さんに聞くと、
「荒神さんは竃の神、鍛冶の神ですよ」
と、教えてくれた。

沖縄の鍛冶神ハニマンガナシーと同じか。
ハニマンガナシーは、
久高島の外間殿にも祀られている。
フーチ(ふいご)の神でもある。


神倉神社のゴトビキ岩へと
登る石段の途中に ↓ 火神社(左)があった。
こちらにも、伊弉冉尊の死から生まれた
カグツチが祀られていたのだろうか。
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紀の国・熊野は、やはり「火の国」だ。
神倉神社や那智大社の「火の祭り」は、
火の神を畏れ崇める古代信仰から発した。

熊野三神に隠れるように祀られる「火の神」。
その残像が、旅の後、日に日に濃くなった。


神倉神社の窟は、ホト(女陰)に見えた。
ホト(火床)は産鉄民にとってのタタラ炉・
沖縄の御嶽は、ホトを象っているものが多い。
時代は下るが、亀甲墓も子宮の形に似ている。
御嶽の傍らには、古来、蛇(男性神)に見立て
られた高木・蒲葵(クバ)が立っている。
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さて、旅から帰り2週間ほど経ったとき、
語り部が電話で言った。
「ホトは女のモノだと、『如件』に書いて
ありましたね。では、男のモノは何と?」

『如件(くだんのごとし)』とは、
アマミキヨ直系と伝わるミントン家の口伝
を窪田道全氏が戦後著した小冊子のこと。

早速、手元の『如件』のページを開く。
A4コピー用紙20枚のうちの5ページ、
モノについての昔話が綴られている。
(要約)

・男のモノを火吹き(ヒーフチャー)と言った
・女のモノのことを、ヒと言った
・燃える火のことを、ホと言った
・火事になると「ホーハイ」と人を呼んだ
・若者たちの無駄話を見ると老人たちは、
「また火火(ホーヒー)の話か」と笑った
・火吹き竹は火に当てるから「火吹き」
・男のモノも女のモノに当てるから「火吹き」
・女のことを火と言った
・男のことを彦と言った

語り部は、ちょっと厳かな声で続けた。
「沖縄から熊野に来た古代の民が祀った神は、
ホとヒの神様、天穂日命。
アメノホヒノミコトだと思います」
「天穂日命は出雲の神様だと思ってました…」
「火の一族の祖神ですね」

祖神について、『如件』はこう記している。
〜アマミキヨは女の神様で、夫はソネ彦と
申したようであります。〜
「ソネ彦とは祖根彦」だと、語り部は言った。


沖縄の祖神もまた、「火の神」である。
改めてゴトビキ岩を仰ぐと男のモノに見えた。
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by utoutou | 2016-01-22 15:01 | 神社 | Trackback | Comments(3)

神武の来た道 ⑩ 熊野三所大神社

熊野三所大神社
(那智勝浦市浜の宮)

3泊で廻った天川〜熊野旅の終わりに、
1時間ほど余ったので、新宮から再び
那智山の麓へとUターンして、
補陀落山寺(ふだらくさんじ)へ。

補陀落山寺については、琉球八社との関わり
を交えていずれ書きたいと思っているが、
隣りに鎮座しているのが、熊野三所大神社
(くまのさんしょおおみわやしろ)。


祭神は、熊野三所権現である、
家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)
夫須美大神(ふすみのおおかみ)
速玉大神(はやたまのおおかみ)
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熊野三山を廻り、神仏混合の名残りで
本地仏と並び称された神名に接してきたので、
神名だけがすっきり並ぶ案内板を前にして、
熊野の神様は、結局この三神なのだと納得。
しかも拝殿はなく、本殿の前で参拝ができる。

摂社(石宝殿)は、案内板によれば…
丹敷戸畔命(地主ノ神)
三狐神(食物ノ神)
若宮跡(浜ノ宮王子社跡)

丹敷戸畔(にしきとべ)は、日本書紀
神武東征の段に登場する先住族の女首長。
たった一行だけ、記されている。
〜(天皇は)熊野の荒坂の津に着かれた。
そこで丹敷戸畔という女賊を誅された。〜
(宇治谷孟・訳『日本書紀』から引用)

神武(軍)に殺されたと伝わりながらも、
2千年の時を越えて祀られる女賊(姫?)。
「丹」とつくその名は、古来この地で水銀の
 採掘が行われていた証か。大いに気になる。

   もうひとつ気になったのは、摂社・三狐神。  
案内板に「食物ノ神」とあったのだが…。


振り返れば、
阿須賀神社の摂社にも稲荷神社があった。
古来、こちらは三狐神社と呼ばれたそうだ。
徐福の宮(写真右)と並んで祀られていた。
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阿須賀神社の摂社・稲荷神社(右)。
小社だが、本殿の真横に堂々の鎮座。
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三狐神は、熊野三山
の奥宮・玉置神社摂社の三柱神社にも
祀られている。三柱とは「由緒」では
倉稲魂神、天御柱神、国御柱神となって
いるが、その実、鍛冶神ではないのか。
と、私は思ったが、そうでもないらしい。


『玉置山権現縁起』によれば、
三狐神とは「天狐・地狐・人狐」のことで、
「阿須賀を本拠とし、その本地は極秘の口伝」
というから、これまた非常に謎めいている。
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いっぽう「三狐神=三光神」との説がある。
新宮市出身の下村巳六氏は、著書
『熊野の伝承と謎』('95年、批評社)に、
次のような独自の考察を記している。

〜三狐神は採鉱・鍛冶の神である。
稲荷信仰と結びついて、三光が三狐へと
変わったのだろう。
三光には、「太陽・月・星の三つ」の意の外
に、「キラキラ光り輝くもののたとえ」の意
がある。〜つまり、三輪、三光の旧い信仰が
三狐の名称によって故意に隠されている
疑いがあるのだ。〜

太陽・月・星の三光信仰。それこそ、
古来、沖縄で「お三つもん」と呼ばれた
「火の神(ひぬかん)」のことなのである。
戦前まで、沖縄の家庭ではどこも、
カマドに三つの石を祀っていたという。























by utoutou | 2016-01-18 20:53 | 神社 | Trackback | Comments(2)

神武の来た道 ⑨ 阿須賀神社

熊野新宮 阿須賀神社
(新宮市阿須賀1丁目)

熊野川の河口に建つ。朱塗りの社殿が、
後背の蓬莱山に寄り添うように鎮座。


祭神は、事解男命(ことさかおのかみ)
家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)
熊野速玉大神(くまのはやたまおおかみ)
熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)
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↓ 神倉神社の拝殿(ゴトビキ岩)からの眺め。
中央から少し左に標高48mの蓬莱山が見える。
いかにも神奈備山らしいお椀を伏せたような
その山は、熊野川へと突き出た浅州処(あすか)
にあったというのが、阿須賀という社名の由来。
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JR新宮駅から車で数分。少し迷ったが、
商店街を通り越した小道に鳥居が立つ。
さりげない風情だが、創祀は孝昭天皇の時代と、
熊野三社でもっとも古い(紀元前423年)。


境内からは、弥生〜古墳時代の住居跡が、
蓬莱山では祭祀遺跡が発見されているという。
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境内の案内板によれば、
〜熊野権現は初め神倉山に降り、
次に阿須賀の森に移った。新宮が初めて
書物に文字として登場したのは熊野邑
だが、熊野邑は当神社の古名であり〜
〜阿須賀権現が現在の東京北区飛鳥山へ
勧請されるなど、全国各地に当社の末社が
見られます。〜 

その東京都北区王子にある王子神社は、
南北朝から室町時代まで石神井一円の支配者
だった桓武平氏の流れを汲む豊島氏が勧請。
王子には飛鳥山公園があり、熊野本宮大社
旧社地の禊ぎ川・音無川と同名の川が流れる。
(このことは読者さんからのコメントで知った)

熊野川河口に鎮座する阿須賀神社こそ
熊野速玉大社の元宮であることは、
大社の祭りの様式に現れている。

神倉神社の「御燈祭り」では、松明を掲げた
男たちが石段を駆け下りると、神職一同は
阿須賀神社に報告するという次第。
「神馬渡御式」でも、神馬は本社からまず
阿須賀神社に神馬を引いて行くのだという。



境内の奥まったところに徐福の宮がある。
この地に紀元前3世紀に上陸、居住したという。
「平原光沢の地を得てその王ななった」と
『史記』が記す舞台が、この阿須賀だったか。
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境内の「徐福渡来の記」にも、徐福伝が。
〜不老不死の仙薬を求めて童男童女三千を
率い五穀百工を携えて東海に船を浮かべ、
常世の郷熊野邑即ち飛鳥に来る。
然して子孫此処に止まり繁昌せり〜

最後の一行に、熊野の秘史を感じるのは
私だけだろうか?

あの東京北区の王子神社は豊島氏による
創祀だが、「紀州熊野の鈴木重尚が王子村に
来て豊島氏と図った」と『新編武蔵風土記』に。

鈴木氏こそは、
神倉神社の祭神・高倉下命を祖とする、
というより饒速日命の後裔といい、
熊野速玉大社の宮司家・鈴木(穂積)氏という。
そして、
熊野三党の一角(他二党は、宇井、榎本)。
高倉下命が神武に遣わせた八咫烏とは、
その熊野三党のことだと言われている。

そこで、私は思った。八咫烏とは
「此処に止まり」し徐福の子孫ではないかと。



阿須賀神社のすぐ北に、徐福公園がある。
極彩色の唐門の奥は、陽の当たる広場。
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公園の正面に徐福像が立っている。
徐福の墓もあり、男性が祝詞を奏上していた。
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徐福。このブログのタイトル「mintun」は、
沖縄アマミキヨの居住地・ミントングスクから
頂戴したが、その明東にも徐福伝説があり、
(記事はこちら
また久高島にはハタスと呼ばれる神田がある。

新宮のお隣り、三重県の熊野市にも、波田須
(はたす、旧名は秦住)という徐福渡来地がある。
久高島のハタスも、秦氏や徐福に関係がある
証拠だと、語り部は見ている。






by utoutou | 2016-01-15 22:37 | 神社 | Trackback | Comments(3)

神武の来た道 ⑧ 猿田彦神社

猿田彦神社
(熊野速玉神社摂社・神倉神社境内)
神倉神社へと進む太鼓橋の正面に鎮座。
というより、
「千穂の峯」の山麓に鎮座と言うべきか。
祭神は、当然のこと猿田彦大神である。
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実は伊勢神宮に参った一昨年秋、伊雑宮と
猿田彦大神が気にかかり伊勢志摩に4回通い、
確か都合30回ほどブログ記事を書いた。

結果、伊勢元来の地主神は、猿田彦と
瀬織津姫(罔象女大神、美都波女神)
だと知ったのだったが、伊勢と
地続きのこの熊野でも、猿田彦大神が、
千穂の峯の主として祀られていたとは…。

熊野地方に住んでおられる方から、
何度かコメントをいただいたが、やはり、
明治時代までこの山麓に猿田彦神社があり、
「天狗さま」として崇敬されていたという。

私が参った朝も、いまは猫の額のように狭い
境内で、お年寄りが和やかに談笑していた。


愛される産土神であると同時に、猿田彦は、
熊野〜熊野川〜三重と、広範囲に広がっていた
牟婁郡(むろ郡、記紀成立以前からの古地名)
君臨した代々の大地主だったのだと思う。
つまり、この地の先住民族の祖神だったと。
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さて、
前回掲載した1枚の写真(↓再掲)は
神倉山の上に祀られる小さな祠(右)だが、
記事を書いた後、どなたかのブログで、
「満山社」の社名が写る画像を見て仰天した。
満山社とは、瀬織津姫を祀る摂社である。
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満山社は熊野本宮大社の摂社でもある。
その傍で、以下の説明文を見た。


満山社(結びの神・八百萬の神)
〜此のお祀り申し上げている玉石は
親と子の結ひ等、
人と人の縁を結ぶ再生の玉石です。
百五十年振りに御社殿を復興
平成十九年九月二十日〜
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平成19('07)年の150年前に消失とは、
安政の大地震で倒壊したということか?

ともかく、満山社は復活した。
菊池典明氏は著書『円空と瀬織津姫』や
ブログ『月の抒情、瀧の激情 風琳堂夜話』
に「満山社は瀬織津姫を祀る」と記した。
熊野本宮大社に立つ案内板に
「祓いの神(=瀬織津姫)」と明記された
画像と共に。(私自身は撮影を失念、
画像も上記ブログより拝借した)
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自ら撮った熊野本宮大社満山社の画像で、
ここにも梛(なぎ)の木があるのを発見。

熊野速玉大社の御神木としても有名な梛。
いや熊野三山の御神木として、古来、
その葉は神札と同一視されていたという。



思えば、神倉神社でも梛を見た。
神倉神社の威部(いび、沖縄で至聖所の意味)
にも、梛の木がこうして供えられていた。
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梛の木は、今も昔も熊野信仰の象徴。
そして、その原点を、黒潮の源流に位置する
沖縄の古い祭祀に見出すことができる。

梛の葉はアザカ(長実ボチョウジ)と似ている。
ことに、葉が十字に「対生」する性質が。

沖縄方言では、十字になった
ものを「アジケー」とか「アザカ」と呼ぶ。
そのため、アザカの十字に生える葉に、
人々は「聖なる永遠の生命」を願った。

97歳の長寿を祝う祭り「カジマヤー」では、
現代でも、十字の風車を持つ長寿者が、
集落のアジマー=十字路で皆の祝福を受ける。
(↓ 那覇市首里の末吉公園で撮影)
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アザカについては、何度か書いたが、
それは、猿田彦神の象徴だったと思う。

沖縄久高島の古祭イザイホーの最終日、
神女たちは、ハブイ(草冠)の下にアザカ
の葉を挿して円舞を踊った話を書いた。

アザカの葉を飾るのが、神女となった証。
数日間の籠り明け、神女として再生した
女たちが、喜びの円舞のとき胸に抱いた大扇
には太陽と赤い鳳凰が描かれていた。

鳳凰とは、
沖縄方言で、紅の鳥(びんぬとぅい)のこと。
紅の鳥=不死鳥(フェニックス)=火の鳥。

黒潮に乗って熊野へ渡った「火の一族」。
その故郷は、沖縄の島々だったと思う。


















by utoutou | 2016-01-13 22:21 | 神社 | Trackback | Comments(7)

神武の来た道 ⑦ 熊野速玉大社

熊野速玉大社
(新宮市新宮一番地)

祭神は、熊野速玉大神、
熊野夫須美(むすび)大神

神倉神社から車だと5分ほど。
歩いても15分とかからない
市街地のど真ん中に鎮座。通った
交差点も数えるほどという距離なので、
社殿が南面していることが自ずと分かった。


速玉大社の右手を熊野川が流れる。
神倉神社は、左(西南)に位置している。
神倉神社と速玉神社は、ほぼ並ぶ格好で、
太平洋(熊野灘)を見据えている。
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当然、神門も南面している。
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↓ 10時15分。
陽光を背に撮った社殿は壮観。
左奥は神倉山に連なる権現山方面か。
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くどいようだが、なぜ南面?
元宮である神倉山に神が降臨した
というが、新宮である速玉大社拝殿は
その聖地を拝する方角を向いていない。

社務所発行の冊子『御由緒』も、
元宮は神倉山だと明記している。
 新宮としての速玉大社が創祀されたのは、
景行天皇58年(※西暦128年)だと。
〜まさに天(あめ)と地(つち)を
教典とする自然信仰のなかから生まれ
てきた〜(中略)〜換言すれば、
原始信仰から神社神道への発展を意味
するともいえる新宮なのである。〜


が、その疑問は、
↓ 境内掲示の「熊野新宮参詣曼荼羅」
(自前画像NGで新宮市観光協会HPより拝借)
で解けた。こちらでも左上に神倉神社が、
その右に速玉神社が並んで描かれていた。


ちなみにこの曼荼羅絵図は、
'04年に「紀伊山地の霊場と参詣道」が
ユネスコの世界遺産に登録された際の制作。
中世、熊野比丘尼(びくに)と呼ばれる尼
たちが全国を広報行脚したのに用いた
「熊野那智参詣曼荼羅」のいわば現代版。
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そうか…と、曼荼羅を見て思う。社殿は、
神倉山にピンポイントというより、
反対側のピークの千穂の峯(253m)を
含めた権現山全体に向いているようだ。

【新宮市】(コトバンクより引用)
で「千穂の峯」の位置を確かめる。

〜新宮市は熊野川中流を含む北側に大きく
広がり、奈良・三重県に囲まれた飛び地を
有することになった。中心市街地は
南東流してきた熊野川が千穂ヶ峯
(253m)に当たって蛇行し、東流して
熊野灘に注ぐ河口三角地上にある。
千穂ヶ峯東麓に速玉大社があり、
南東麓の速玉神の
旧座所とされる神倉山と相対する。〜


思えば ↓ 神倉神社を去る間際の1枚。
左がゴトビキ岩、右上方に鳥居があった。
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鳥居付近に「千穂ヶ峯の山道案内図」が。
鳥居は神倉山のさらなる奥宮を示していたか。
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実は、師走に熊野に参って以来、
年を越しても妙に引っかかる件があった。

神倉神社の火まつりこと「御燈祭り」
の火種はどこで起こすのか?



「山は火の瀧 下り龍」と新宮節に歌われる
ままに火龍が走りうねる「男の祭り」。
※画像は新宮観光協会のサイトから拝借。
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男たちは祭りの前、海で禊ぎをする。
「火まつり」は神聖なる火の祭り。
ならば、神の分霊とも言える火種を戴く
こそ、熊野大神の在所であるはずだ。

旅から帰ってネット検索したところ、
「神倉神社の社殿内で神職が行う」
との見学記を、いくつか見た。
やはり神倉山のようだった。

そんな折り、
機会があったので語り部に聞いた。

「火種はどこで起こすと思いますか?」
「神倉神社の祭神とされる高倉下命が
火を掲げて下りて来たのは…高千穂、
千穂ヶ峯からでは…。穂は火の意味です
「ああ、それで千穂ヶ峯。だから権現山」
「そうです。熊野大神が権現した山。
火祭りは、火の神霊が八方に分散して
いく様子を再現していると。ところで…」
「ところで…?

今度は語り部が質問した。
「高倉下命が神武に授けたと霊剣とは?」
「十握剣(とつかのつるぎ)ですね」

布都魂(ふつのみたま)剣の別名。
石上神宮の祭神。先代旧事本紀で、
物部氏祖神・ニギハヤヒの子とされる
高倉下命は、王権の象徴である
この聖剣を神武に譲ったのだと思う、と。

語り部が言う。
「そして、高倉下命は神武に言った。
この剣を持って日の本へ行けと」
「日の本…ああ、玉置神社へ?」
「はい、十津川(とつかわ)へ」
「なるほど…」

十の川を束ねる村。八咫烏のいた山。
高倉下から神剣を受けた神武は、
玉置山から天川へと駆け上がるように
龍脈を辿って行ったことになるか。

ではその神代、龍脈にいたのは誰か?
高倉下命が知っていたであろう、山の民。
「神武が来た道」にいた先住民が気になる…。



熊野速玉神社の社務所で見た八咫烏。
導きの神、そして太陽の化身。
烏は鉱脈を探すのが得意だともいうが。
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by utoutou | 2016-01-11 21:54 | 神社 | Trackback | Comments(0)

神武の来た道 ⑥ 神倉神社

神倉神社
(熊野速玉神社摂社、新宮市神倉)。
那智勝浦大社から北東へ車で20分、
新宮市内最高峰「千穂ヶ峯」の東南端にある
神倉山(120m)の山頂付近(80m)に鎮座。
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速玉大社の摂社だが、奥の院とも言われる。
熊野大神が最初に降臨したのがこの聖地だと。

速玉大社の御由緒によれば(要約)
まず熊野三山の中心となる速玉大神、
 結大神(夫須美神=当社と那智大社主祭神)、
家津美御子(本宮社主祭神)という三柱の神が
神代の頃に神倉山に降臨した。次に
景行天皇の代に新社殿を創祀、結(夫須美)
速玉の二神を祭祀したので、旧社(神倉山)
に対して新宮と号したという。
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祭神は、高倉下(たかくらじ)
天照大神(あまてらすおおみかみ)。

思えば、境内に入ってすぐに石碑があった。
〜神武天皇紀 至熊野神邑 且登天磐盾〜
(神武、熊野の神邑に至り天磐盾に登る)

日本書記にいう天磐座は神倉山だと記していた。
が、書記では、神武軍はさらに荒れた海を進み、
荒坂の津で高倉下と会い太刀を授かったはずで、
場所違いでは?(荒坂津は5㎞南の現・三輪崎)
と、思ったが、538段の石段を息も絶え絶えに
登り磐座を目にした途端、屁理屈は吹き飛んだ。


熊野灘を一望。神は降臨したと思える絶景。
下は断崖絶壁らしく、風がふわり舞って流れた。
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さて、
神倉神社と言えば、「御燈祭」が有名。
中上健次が「火まつり」と呼んだ神事は、
毎年2月6日に現在でも女人禁制で行われる。
2000人もの男が松明を手に石段を駆け下る
様は、まさにウネる龍神のようだという。



巨大な磐座の神域への鳥居に、なぜか
扉が付いているが、これは「火まつり」のため。
松明を手に男たちが集まった時点で扉は閉じ
られ、再び開門を待つという劇的な段取り。
女たちは家で男の持ち帰る「火の神」を迎える。
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この「神迎え」は「さかむかえ」と呼ばれる。
(速玉大社発行の冊子『御由緒』より)
沖縄でも、神事から戻った神人を迎えることを
「坂迎え(さかんけい)」と呼ぶ。

高さ10m、巨大な磐座は「ゴトビキ岩」。
カエルという意味だそうで、そんな形。
写真の右手に進むと山道。千穂ヶ峯の
もうひとつの山・権現山へと続いている。
ゴトビキ岩の上には、さらに巨石群が広がる。



後ろ髪を引かれるように下山しようとして、
振り向くと、(日陰で見にくいが)
写真左端の社殿と、写真右手の玉垣の間に
古い石積みの囲いが見えたので、急いで戻った。
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↓ 沖縄の御嶽で言う威部(いび、至聖の拝所)か。
三庫理(さんぐーい)に似ていると思う。
斎場御嶽で有名な、巨石でできた三角の空間。

あるいは斎場御嶽の奥宮とも言われる
ナーワンダーグスク(←過去記事はこちら)
ナーワンダーとは「なでるわ=守護神の霊力」
という意味で、性器を象徴する巨岩がそびえる。

イキガ(男)とイナグ(女)のナーワンダー。
琉球の祖神が眠る古代の風葬墓と言われるが、
現在は立ち入り禁止となっている。


白い小石が撒かれ、供花もある祭祀空間。
ここも、いわばイナグ(女)ナーワンダーか。
時間切れになってしまったのが、悔やまれた。
ここに男女神が眠るとすれば、それは誰なのか。
また、はたして男岩もあるのか…。
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by utoutou | 2016-01-07 19:38 | 神社 | Trackback | Comments(8)

神武の来た道 ⑤ 熊野那智大社

熊野那智大社(和歌山県東牟褸郡那智勝浦)。
社伝に、神武東征神話が綴られているという。


〜神武が熊野灘から上陸したとき、
那智の山に光が輝くのを見て、この大滝を
探り当てて神として祀ったところ、
八咫烏の導きで大和入りを果たすことができた〜
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※境内は正月仕様の飾り付けだが、年末の撮影。



こちら那智大社を訪れる前日は、玉置神社に参拝
して、午後、路線バスに2時間揺られて南下。
終点の新宮駅前でレンタカーを借り勝浦へ移動。
この朝いちばんの那智大社への参拝に備えていた。


JR勝浦駅に最寄りのホテルを7時に出て25分着。
目も眩むような朝日のなか長い石段を急ぎ上がる。
鳥居から無人の境内を進むと、社殿の前に出た。
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【熊野那智大社社殿 八棟】は次の通り。
第一殿 瀧 宮
第二殿 証誠殿
第三殿 中御前
第四殿 西御前
第五殿 若 宮
第六殿 八社殿
御 懸 彦 社
鈴門 ・ 瑞 垣



↓ 宝物殿の前から撮った社殿の一部。
密集して見えるが、俯瞰図では整然としている。
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社伝に曰く、神武の東征以前から、先住民
たちは那智の大滝を神として崇めていたといい、
そこに大巳貴神(大国主神)と、
  夫須美神(伊弉冉尊)を祀っていたという。  


社殿を創建したのは、仁徳天皇。そのとき、
大滝を別宮・飛瀧大神として夫須美神を祀った。
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毎夏の例祭に「那智の扇祭り」がある。
熊野の神々が、もともと祀られていた那智の滝
に里帰りして、神威を新たにする神事だという。
通称「那智の火祭り」。
この地に先住したのは、「火の一族」だったか。
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↓ 隣接する天台宗
・青岸渡寺(せいがんとじ)への神(仏)門。
大社社殿に向かって奥宮の位置にあたるが、
まさに同じ垣内のよう。山号も那智山という。
 神仏共存は、むしろ風通しよく柔らかな印象。
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もとは那智の滝を中心にした修験道場だった。
開基したのはインドの僧・裸形上人で、
大滝で修行を積み、滝壺で観音菩薩を感得した
ことによるという。本尊は、如意輪観世音菩薩。
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好天に恵まれた絶好の参詣日和だったが、
そうゆっくりもしていられなかった。

吉野〜熊野「神武の来た道」の旅も最終日。
昼過ぎには新宮から東京へ帰る予定だったため、
那智の滝はカメラを通しての遥拝で失礼した。

熊野灘を往く船からも見えたという大滝。
「那智の滝が見える喫茶店」の駐車場から
こうして撮影できたのは、早朝参りのご利益。


しばし、滝口と瀑布に見とれていたが、
ある微かな違和感が頭をよぎった。
なぜ祭神は、大巳貴命だけになったのか。
なぜなら、
「熊野那智大社社殿・八棟」の第一殿は瀧宮。
祀られるべきは、滝神(水神)のはずである。
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思えば、伊勢神宮内宮別宮・伊雑宮の奥宮
天岩戸(滝祭窟)(←過去ログはこちら)
に祀られるのは、猿田彦神(=天照大神)
罔象女神(みずはのめのかみ=瀬織津姫)
という男女の一対神である。また伊勢の
地主神も、天照大神(男)と瀬織津姫だった。

地続きで隣り合わせの熊野と伊勢志摩。
どちらへも南方からの海神族が渡来したのなら、
祭神が同じであっても、何ら不思議はない。
むしろ、同じであるほうが自然というものだ。

するとにわかに、熊野本宮大社の旧地に
置き去られるように祀られていた地主神
の塚が、気になり始めたのだった。

そもそも、
熊野大神(熊野権現)とはどんな神なのか?










by utoutou | 2016-01-04 19:56 | 神社 | Trackback | Comments(0)

神武の来た道 ④ 熊野三山奥宮 玉置神社

玉置神社(奈良県吉野郡十津川村)。
標高1076m、霊峰玉置山の山頂近くに鎮座。
創祀は崇神天皇の時代。熊野から吉野に至る
修験道として拓かれた大峯奥駈道の十番目の霊場。
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'04年にユネスコ世界遺産として登録された
「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部である。
前日は天川村を出て、バスに乗る前に吉野神宮
に寄ったので、吉野〜天川〜熊野本宮〜玉置山と、
ほぼ大峯奥駈道をバスで逆走破したことになる。


大峯山系の最南端で別名「沖見山」と呼ばれる。
天気がよければ熊野灘が望めるというから、
神武も、来た道を振り返ったか…という立地。
左が熊野本宮方面、中央が龍神方面。
雲海を冠した稜線はまさに龍神の背に見えた。
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神武は東征中この地で兵を休め、
十種神宝の玉を鎮め置き、武運を祈願したのが、
神社名玉置の由来。道案内は八咫烏とされる。


「十津川村の人々は八咫烏の子孫」というが、
一体どこから来てこの山深い南大和に先住したか。
樹齢3000年になんなんとする巨杉を
見上げつつ、そればかりを思う。
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ともあれ玉置山の神域へは、
十津川村のホテル昴で借りた車で30分走り、
昼なお仄暗い杉木立を20分歩いた。土曜だった
が、十津川村役場バスは冬期休業中で、この日
出会った参詣客はわずか2組のみ。


祭神は、国常立尊(くにとこたちのみこと)

     伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
  伊弉冊尊(いざなみのみこと)
  天照大御神(あまてらすおおみかみ)
  神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)


こちらの鳥居も正月初詣の準備が完了していた。
駐車場は70台ほどのスペースがあったので、
正月は参詣客で賑わっているに違いない。
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↓摂社・三社神社。この参道も大峯奥駈道の一部。
祭神は、倉稲魂神(うがのみたまのかみ)
 天御柱神(あめのみはしらのかみ)
 国御柱神 (くにのみはしらのかみ)
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三社神社から10分、さらに急峻な山道を登ると
9合目あたりに末社・玉石社が鎮座している。
祭神は、大巳貴命(おおなむぢのみこと)
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三本の巨杉の中から頭を出す黒い磐座。
こちらが、熊野三山のいわば御神体だ。
日本という極東の島々の成り立ち、その鍵を
握るはずの「玉石」に神武は、いや神話の作者は
どのようななメッセージを託そうとしたのか。
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紀伊半島を縦貫する大峯山系の南端・玉置山。
北端近くの天河神社に祀られる弁財天。
修験僧や山伏といった非農耕の民が信仰した女神
の社域にも、思えば磐座が鎮まっていた。

黒く光り霊気を発するこの玉石は、大巳貴命。
もしや天河と一対になっているのではないか。

天河の奥宮・弥山と玉置山がつなぐ大峯山系、
このレイラインを北に伸ばせば、橿原神宮の地。
そして南に伸ばせば…熊野灘…そしてその先は
ムー大陸? まさか……霊気に当たりすぎたようだ。

天河弁財天と玉置神社の磐座については、
語り部の意見を求め、後日続編を記そうと思う。








by utoutou | 2016-01-01 17:52 | 神社 | Trackback | Comments(2)