<   2016年 03月 ( 9 )   > この月の画像一覧

九頭龍大神 ⑤ 弁財天と如意宝珠

『先代旧事大成経』で語られた、古代六家
(吾道・物部・忌部・卜部・出雲・三輪)。
吾道(あち)家は、阿智神社の祝部(はふりべ)
となり、後に戸隠へ遷移して九頭龍大神を祀った?

七つの首の蛇とはヤマチノオロチのことだ
と、かつて語り部と話したものだったが、
九頭龍大神については、冒頭の推理をした。

やがて神仏習合の時代となり、九頭龍大神
は、八臂弁財天に姿を変えたのだろうと。


地主神の九頭龍大神、そして八臂弁財天は
 宝珠を手にしているが、実はここ何日か、
それが頭から離れなかった…。宝珠とは何か?

八本の手に数々の武器を持つ八臂弁財天。
神の手と言われる左手に載せているのだから、
宝珠とは文字通り、霊験の象徴なのだろう…。



↓九頭龍大神は、中央の頭に宝珠を載せている。
国際日本文化センター・データベースより拝借)
a0300530_17000848.jpg



思えば、天川弁財天をはじめ、
江ノ島神社や、琵琶湖の生竹島宝厳寺など、
各地の八臂弁財天は、皆、宝珠を左手にしている。
昨秋に参った金蛇水弁財天(宮城県岩沼市)
も、このように左手に宝珠を載せている。
a0300530_17001947.jpg



沖縄にも弁財天信仰は残っていた。
王朝時代末期の聞得大君御殿にその掛軸が
掛かっていたという記録がある。↓こちらは、
首里末吉町・ノロ殿内の拝所に祀られる弁財天。
焼失した聞得大君御殿の尊像と同じ姿だという。
a0300530_16095873.jpg


さて、宝珠とは何か? 
巡礼地図帳さんの説明が分かりやすかった。
(以下、要約して拝借)

〜観音菩薩や地蔵菩薩が持っている、
上部が円錐形(たまねぎ形)になっている珠を
如意宝珠という。〜如意とは物事が自分の思い
通りになるという意味で〜火に包まれている
物を三弁宝珠(さんべんほうじゅ)と呼ぶ。〜


では、沖縄では宝珠のことを何と呼ぶか?
語り部に聞くと、「ぬぶしぬ玉」だそうだ。
ぬぶし=命、魂。
つまり、「ぬぶしぬ玉」とは、命(魂)の玉。
如意宝珠・火炎宝珠のことを指すのだという。


火炎宝珠なら、先日参った神社で目にした。
六甲比売神社(兵庫県神戸市灘区六甲町)。
六甲大善神社ともいう。祭神は、
六甲弁財天として祀られた瀬織津姫。
a0300530_15442691.jpg



その話をすると、語り部は意味深げに言った。
「その六甲山に、琉球に関係のある何かが、
隠されていますね。誰かが、
祀ることによって、重要な何かを隠した…」
「誰が、隠して祀ったのですか?」
「古代六家と関係のある人物でしょうね」

何だかまた、えらいことになってきた…。



by utoutou | 2016-03-30 21:15 | 九頭龍 | Trackback | Comments(0)

九頭龍大神 ④ 鎌卍の社紋は語る

戸隠神社五社には、「天の岩戸」神話に
登場する神々が祀られているが、
真ん中に祀られるはずの天照大神は、不在だ。

いっぽう、地主神の九頭龍大神は祀られている。
広大な戸隠山神域の奥の奥、磐座の奥深く。

このことは、戸隠神社が、「天の岩戸」神話
ができる以前、つまり記紀成立以前からの
聖域だったことを表していると、思うのだ。
つまり、天照大神を除いた神々は実在した。


そのことは、社紋である
鎌卍(かままんじ)の意味を紐解くと分かる。
天手力雄を祀る戸隠神社・奥社。
拝殿に社紋が見える(撮影は昨年9月)。
a0300530_10160276.jpg



鎌卍については、以前、諏訪大社でも書いた。
戸隠神社では、「水の神・戸隠大神」の象徴。
つまり、地主神である龍蛇神を表している。
そこに天照大神を祀らない意地を見る思いがする。
a0300530_08161696.jpg



さて、戸隠神社には元宮があるという。
阿智神社(あちじんじゃ、長野県下伊那郡阿智村)
である。↓戸隠神社・中社に祀られている
天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)
を祭神とする。
a0300530_07565490.jpg



また、阿智神社は、↓戸隠神社・宝光社に
祀られる天表春命(あめのうわはるのみこと)
も祭神としている。
a0300530_07584783.jpg



天八意思兼命・天表春命を祀る阿智神社へは
参ったことがないので、画像は↓
地元の昼神温泉観光局HPから拝借した。
ちなみに、「昼神」とは「蒜噛」の当て字とか。
『日本書記』景行天皇の条で、ヤマトタケルが
信濃の山中で白鹿姿となった神に蒜を投げ
つけた事績が語源だという。
a0300530_08543287.jpg



この阿智神社、創建年代は不詳だが、社伝に
よれば、第8代・孝元天皇のとき、天八意思兼命が、
子神・天表春命を従えて天降り鎮座した。

やがて、天八意思兼命は戸隠神社の中社に、
天表春命は宝光社に分祀されたとの説が、別途ある。

江戸時代に編纂の『信濃地名考』によれば、
天八意思兼命の子神である天手力雄命も、
吾道宮に鎮座した後に、戸隠神社の
奥社に鎮座したと記されている。


阿智神社は、吾道宮(あちのみや)と呼ばれた。
そうか…と、思い出した。阿智=吾道であった。

吾道とは、吾道家のことで、
『先代旧事大成経・序』で語られた、古代六家
(吾道・物部・忌部・卜部・出雲・三輪)の筆頭。

六家については、以前、伊雑宮シリーズの
「物部氏と七匹の鮫」に書いたことがあった。

伊雑宮の港に来た「七匹の鮫」とは、
「古代六家+天皇家のことだ」と、語り部は言った。
もちろん、古代琉球と密接な関係があると。

「七匹の鮫」こそ、この国に先着しながらも、
時代を経て、やがて疎まれ、「九頭龍」
と呼ばれるようになったのかもしれない。










by utoutou | 2016-03-26 15:22 | 九頭龍 | Trackback | Comments(2)

九頭龍大神 ③ 岩戸に隠れた女神

明治の神仏分離で戸隠神社となるまで、
霊地・戸隠山は戸隠山顕光寺と称していた。
それは849年、学門行者という僧が開いたと
と言われるが、さらに古い歴史があり、
平安後期には戸隠寺と称していたという。

13世紀に比叡山の僧侶が記した
『阿娑縛抄(あさばしょう)』という、天台宗の
僧侶が記した書が、当時の九頭龍を伝えている。

以下に、『阿娑縛抄』の戸隠山の部分を要約。

〜大きな岩窟があった。そこで、
(学門行者が)法華経を唱えていると、南方から
臭い風が吹き、九頭一尾の鬼が現れて言った。
「以前祈った者は、こちらには害心がないのに
自らの毒気にあたって皆死んでしまった。
前の別当が貪欲ままに施物を用いて修行を
怠ったので、自分はこんな身になってしまった
学門行者が、「鬼は形を隠すものだ」と言うと、
鬼は石屋内に入って籠り、真言を唱えた。
学問行者がその龍尾鬼を、
石室の戸で封じたので、戸隠寺となった。〜



戸隠神社・九頭龍社から奥社方向を見る。
左が古代の御嶽らしき断崖絶壁の磐座。
学門行者はこの南(手前)に九頭龍を封じた。
a0300530_17322693.jpg



ただし、鬼は、最初からその姿ではなかった。
九頭一尾という身に「変わってしまった」のだ。
逆にいえば、もともとは、国主(くず)の神
として、人々が崇める龍神・大蛇だったのだろう。

さて、戸隠神社の由緒では、
天照御大神の「天の岩戸」神話を起源とする。

戸隠社・奥社の祭神は、
天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)。
栞には、次のように解説されている。

〜戸隠神社は神代の昔、天照大神が
天の岩屋にお隠れになった時、無双の神力を
もっても岩戸を開いた天手力雄命を戸隠山の
麓に奉斎したことに始まります。〜

同じ岩戸でも開くと閉じる…大きな違いである。


↓戸隠神社・中社にも「天の岩戸」にちなむ
祭神・天八意思兼命が祀られている。
隠れた天照大神に出てきてもらうべく、
神楽を考案した、ご存じ「知恵の神様」。
a0300530_06205382.jpg


戸隠五社のうち、
宝光社には思兼神の子神である天表春命が、
また火之御子社には、天鈿女命が祀られている。
いわば「天の岩戸」神話グループに縁の神々。
けれども、神話の主役・天照大神は祀られていない。
そこに、戸隠の人々の意地を見る思いがする。


岩戸に閉じ込められた地主神。
岩戸が開いて誕生した天照大神。
この対比で、九頭龍大神の本質がより鮮明になる。

九頭龍大神とは後の九頭龍弁財天。つまりは、
天照大神によって存在を消された縄文の女神だ。


中社の右奥に流れていた小さな滝。
「昔はなかったよ」と、参拝客が教えてくれた。
滝神の復権? 戸隠山の姿も変化している。
a0300530_08055192.jpg


滝の横の九頭龍碑には、お賽銭がこのように。
九頭一尾の鬼は、福徳の龍神として復活した?
a0300530_06210942.jpg




by utoutou | 2016-03-23 13:14 | 九頭龍 | Trackback | Comments(0)

九頭龍大神 ② 弁財天は復活した

天河神社(天川大弁財天社)の社務所で、
『天川弁財天曼荼羅』を戴いた(2000円)。
巫女さんに「こちらをお願いします」と言うと、
「はい、曼荼羅さんですね」と出してくれた。

A4厚紙の白黒コピー、クリアファイル入り。
発色が薄く霞んでいるが、八臂弁財天で、
十五の童子がその足元に居並び控えている。
a0300530_11302082.jpg


『天川村史』によれば、本尊として、2組の
「弁財天像および十五童子像がある」そうだ。

役小角による開山より、明治時代に入るまでは、
琵琶山白飯寺というお寺だった天河神社。

神仏分離令の出た廃仏毀釈の折り、全国の寺院
で混乱や破壊の嵐が吹き荒れたと言われ、こちら
天川でも同様だったが、やがて140年の時は流れ…。

'08年の特別御開帳で参観した知人によれば、
この十五童子を伴った八臂弁財天の他、
後醍醐天皇像、大国様、吉野権現、熊野権現が、
そして、秘仏・日輪弁財天像も特別公開された。


天河神社の拝殿から本殿を仰ぐ。朝拝では、
宮司さんがこの拝殿から祝詞を奏上して祈祷。
a0300530_12011639.jpg



天河神社の主祭神は市杵島姫神だが、
現在は、公式HPでも次のように明言している。
〜市杵島姫命は辨財天様としても信仰されております〜

神仏分離で混乱した過去の影は感じられない。
もはや市杵島姫命(瀬織津姫)=弁財天との
 観念は市民権を得た…といった世相の反映か。

しかし、ところ変わって、戸隠神社(長野県)
には、廃仏毀釈の危機から逃れるため、隠遁を
続けたという悲劇の弁財天ヒストリーがある。

現在は宿坊となっている
戸隠神社旧本坊勧修院久山館に祀られる弁財天で、
戸隠神社(=戸隠山顕光寺)の前立本尊だった。

その名も九頭龍弁財天。
15年ほど前、神職でもあるご当主によって
発見されるまで、敷地内の小祠に封印され、
   世の中に再び現れるそのときを待っていた…。  

ネットでその画像を拝見したが、まったく、
十五童子を伴った天川弁財天像そのものである。
山岳密教の聖地だった戸隠には多くの宿坊があり、
秘された九頭龍弁財天像は他にもあると言われる。



戸隠神社奥社に並び祀られる九頭龍社。
祭神は(地主神である)九頭龍大神と栞に。
『戸隠山大権現縁起』には
「本地仏は九頭龍弁財天」と、記されている。
※昨年9月に撮影。いま3月は雪景色のなかに。
a0300530_13391616.jpg



九頭龍弁財天は、戸隠神社中社へ登る、
こちらの石段手前の久山館に祀られている。
拝観の予約は、かなり混み合っている模様。
a0300530_13453949.jpg


九頭龍弁財天像は復活、修復も終わって
人々に功徳を与えているが、時代をさかのぼって
みると、ひとつの疑問が湧いてきてしまう。
そもそもなぜ、九頭龍大神はこの戸隠山に、
地主神として祀られることになったのか?

いや、むしろ封じ込められたのである。

『伝説はなぜ生まれたか』(角川学芸出版)
の著者・小松和彦氏はこう記している。
〜戸隠山の九頭龍は、封じ込めて「神」として
祀り上げているところに、大きな特徴があった。〜

九頭龍大神は「祟り神」となったのだ。

















by utoutou | 2016-03-20 23:43 | 九頭龍 | Trackback | Comments(2)

九頭龍大神 ① 南朝を守護した天川弁財天

神武は東征の途、吉野の国栖(くず)に寄った。
国樔、葛、国主、国津、来栖、久須、九頭も
含め、クス・クズとは「先住の民」との意味らしい。

歴史学者・喜田貞吉(1871〜1939年)
は、次のような論考を著している。

〜国栖人を以て、やはり隼人や、肥人や、出雲民族や、
海部・土師部などと言われたものと同じく、石器
時代から弥生式土器を使った、先住民族の一民族
であると考えている。彼らは古伝説において、
国津神または地主神として伝えられたものである。

土着民の事を国人などと呼ぶ事は、諸所に例が多い。
国栖あるてはその文字のままに、『クニスミ』
すなわち前々から国に住んでいた人の意か。〜
(『先住民と差別』河出書房新社より)




そう言えば、下市口(奈良県)から熊野への
路線バスに乗る前、国栖に近い吉野神宮に参拝。
明治天皇が創建したそうで、後醍醐天皇を祀る。
a0300530_07464175.jpg



武家の専横政治と対決した後醍醐天皇は、
「建武中興」を掲げて鎌倉幕府を討幕したが、   
足利氏の謀反で吉野に遷居、やがて崩御した。
後醍醐天皇はじめ南朝の天皇らの行宮だったのが、
他でもない、奥吉野の天川弁財天だったという。

南北朝時代は、
後醍醐天皇の中興(1333年)の3年間と、
吉野に都を構えて以降3代の天皇による57年の歴史
を数えるというが、その3分の2以上の期間は、
奥吉野に拠点が置かれた。
天川村役場HPより)

文字通り天川弁財天の守護のもと奥吉野に身を
置いた南朝の天皇たちは、当然のこと、
弁財天という名の龍神大神を崇敬していた。

また時代はさかのぼって、天武天皇こと
大海人皇子も、天川村を訪れていたが、
琴の音に合わせるように天女が現れ戦勝を祝した。
その天女は、役行者が弥山山頂に祀ったという
弥山大神、すなわち龍神大神だった。



その龍神こそ、九頭龍大神と同神だと思う。
そう言えば、天川弁財天に伝わる「天河秘曼荼羅」 
(能満院所蔵)も、九頭ならぬ妖怪のような三面蛇神。
七福神のひとりとして福神に仕立て上げられる
のは、室町時代以降のことだったらしく、
それまでは、怨念の逆巻く呪詛の女神だった。
a0300530_11085949.jpg



さて、天川村と縁の深い吉野神宮を訪れたのは、
朝8時ごろだった。近鉄の吉野神宮駅で降りて、
タクシーに乗ると、1㎞走る間、バックミラー
を覗き込んで年配の運転手さんが言った。
「この寒い時期に、ご苦労なことですなあ」
a0300530_07470223.jpg



   年末のこと、境内は墨絵の世界のように沈んで、   
案内図に見た桜満開の写真が恨めしかった。
あの吉野桜も、3月末の開花までもう一息という…。
a0300530_07470846.jpg







by utoutou | 2016-03-18 19:46 | 九頭龍 | Trackback | Comments(0)

神武の来た道 (了) 神武の北上

神武東征の仕上げは、紀伊半島の「北上」
だったが、それはどんな理由によるものか?

鉄や金に加えて、神武が狙ったらしい熊野・吉野の
 主たる鉱物資源が水銀(朱、丹)だったと考える
と、紀伊半島を東から西へと横切る中央構造線沿い
を、東にまっすぐ進めばよさそうなものを、
くどいようだが、なぜ熊野灘を廻って南から北へ?



↓神武が即位したという橿原神宮(奈良県橿原市)
「神武天皇崩御2600年」の来春、大祭が催される。
a0300530_14300064.jpg



『日本書紀』は、神武が長髄彦の抵抗で半島横断
が果たせないと分かったとき、次の台詞を記した。
〜「いま自分は日神の子孫であるのに、日に
向って敵を撃つのは、天道に逆らっている。
一度退去して弱そうに見せ、天神地祇をお祀りし、
背中に太陽を負い、日神の威光を借りて、
敵に襲いかかるのがよいだろう」〜

その戦略も分からないではないが…。

〜日神の威光を借りた神武軍は12月、皇軍は
ついに長脛彦を討つことになった。〜
同盟を結んだ饒速日命が長髄彦を斬った。〜辛酉
の年春一月一日、天皇は橿原宮にご即位になった。〜
東征に就いてから、6年が経っていた。

古代とはいえ、
もっと効率のよい時短ルートはなかったものか…。


↓中央構造線はこのように走っている。
三峯川総合開発工事事務所のサイトから拝借)
紀伊半島を横切る構造線の東端に、伊勢神宮が
あり、西端に日前・国懸神社がある。
また構造線に沿って、丹生の地名や丹生神社が
多く、古来、水銀鉱山も多かったという。
a0300530_14411304.gif




橿原神宮の拝殿と、畝傍山(うねびやま)の裾野。
最後に立ち寄った宇陀水銀鉱山は右(東)方向。
a0300530_13535686.jpg



私は、最近こう思うようになった。
神武(か神武なる人)の不自然な「迂回」は、
地理的な「天(北)」へと駆け上がる、
記紀編纂者の苦肉の演出だったのではないかと。

もし、本当に
神武が中央構造線沿いに進んでいたとしても、
記紀が、大和朝廷にとって中央集権を強化する
ツールとして位置づけていたことは、確かだろう。

記紀が強調したかったのは、皇祖神である
女神・天照大御神の煌めく誕生と、
天(高天原)という概念の導入と、さらには、
十二支に基づいて「子(北)」を王位の方向と
する、新しい王権神話の創設ではなかったか。



その意味で、神武が玉置神社のある十津川村
をはじめ、熊野の険しい山脈を北上する物語は、
豊富な鉱脈を含む紀伊半島そのものを手中にした
とする強引な勝利宣言だったのではないだろうか。

そうでなければ、記紀編纂の8世紀になってなお、
おそらく古神道と修験道が息づいていた
「反逆の聖地・熊野」を、「神武東征ルート」
として、たやすく位置づけることはできなかった。



朝7時半、那智山から見る、熊野本宮方面(東)。
縄文から続いた東西軸を崇拝するヨコ志向は、
記紀から、タテ志向の信仰観に変更されたと思う。
a0300530_15382653.jpg


琉球の信仰にも、ヨコ志向とタテ志向があった。
太陽の昇る東方を崇拝する「ニライカナイ」
と、ひとえに天を崇拝する「オボツカグラ」
という、相対する宗教観・自然観だ。

「オボツカグラ」は時代がかなり下った
1713年に出た『琉球国由来記』に登場するが、
その大和的な概念はすぐに廃れてしまったようだ。











by utoutou | 2016-03-14 18:22 | 神社 | Trackback | Comments(0)

神武の来た道 ㉓ 神武が出会ったクズの祖

クスという地名は、どこにありますか?」
そう語り部が聞いてきた。
「熊野櫲樟日命」を読んでから気になっていると。

樟(クス)と同音の、クスがつく地名か…。
考えたこともなかったが、思いつきで答える。
「久須志神社が、富士山に九合目にありますね」
「そうです」
「はい?」
「先住民のいた所が、クスと呼ばれたと思います」

久須志神社については、こちらの記事に。
富士山には、大和朝廷が成立するはるか以前から
この列島に先住した人々の大神が祀られていると、
私が富士山本宮浅間大社に参ったとき、
語り部は視た。

クスに似た地名は「神武の来た道」にもある。
「クスだけでなく、国栖(クズ)もそうですかね?」
聞くと、語り部は言った。
「だと思います。吉野川の上流にいましたね」

神武は橿原神宮に入る前、井戸の中から出て来た
井氷鹿(いひか)と名乗る尻尾のある男や、
「吉野の国巣の祖」である石押分之神
(いしおしわけのかみ)という、やはり尻尾の
ある男に出迎えられたと、『古事記』に。

また記紀は、時代下って応神天皇が吉野宮に
行幸した折り、国栖人が醴酒(こさけ)や
 土毛(くにつもの、特産品)を献上し、
歌舞を奏して天皇を慰めたと記している。



国栖奏(くずそう)は、天武天皇を祀る国栖の
浄見原神社ほか 、近年では神武が即位した
↓橿原神宮の神武祭(4月3日)でも奉奏される。
a0300530_03531141.jpg


また、語り部はこんな突飛な質問をした。
「吉野には、お餅も古くからありますか?」
「そうですね、葛餅なら有名ですけど」
話しながら検索すると、吉野葛の老舗「天極堂」
のサイトに「葛の呼び名の由来」が載っていた。

〜国栖人は主に岩穴に住んでおり、非稲作民で〜
国栖人はつる草の根から澱粉をとり、里に出て売る
ことがあったので、いつしかその澱粉を
「クズ」と呼ぶようになり〜

なるほど、国栖と葛は同義だったのだ。

では、そもそもなぜ神武は国栖を通ったのか。
吉野・熊野は修験道にもなる急峻な山渓。
決して小規模ではなかったろう神武一行の兵站基地
を置けるような平地がなかったのは一目瞭然。
ということは、やはり、国栖あるいは
その次に訪れた宇陀で採れる鉱物が狙いだったか。



私は五條駅(奈良県)から熊野へと南下する
バスで、国道168号線を走った。
神武の行った道は、その東の国道169号線沿いか。
↓途中休憩した日本一長い十津川村の
「谷瀬の吊り橋」。長さ約300m、高さ54m。
a0300530_12495605.jpg



山の民・穴師だった国栖の人が採掘していた
のは、水銀(丹)だったはずだ。
神武が名草邑からあえて南下して、荒坂津へと
迂回したのも、そこに丹敷戸畔の率いる採丹族が
いたからだろう。さらに熊野川を北上すれば、
いま丹生神社の点在する水銀産地へと辿り着く。

そんな折り、語り部が言った。
「国栖と言えば、今度は九頭龍が気になります。
その語源は楠、船玉。それは龍蛇に繫がると思います」

九頭龍。
沖縄ではそれを古来、「7つの首の蛇」と呼んだ。
玉城、久高島、津堅島に、その口伝が残っている。
ことに、久高島は龍宮と呼ばれた。
7つの古代海神族が存在したという意味である。

建国の礎となり大和朝廷で重用されながらも、
やがて、蔑まれていく国津神・龍蛇族。
国栖の人を「尻尾のある男」などと
揶揄したのは、神武や天武ではない。
天武・持統の裏で記紀を創作した藤原不比等だろう。


谷瀬の吊り橋の側で会ったお地蔵さん。
地主神か丹生津姫か、一点の紅が鮮やかだった。
a0300530_13543712.jpg



















by utoutou | 2016-03-11 20:43 | 神社 | Trackback | Comments(0)

神武の来た道 ㉒ 神武は殺さなかった

『名草戸畔(なぐさとべ) 古代紀国の女王伝説』
(なかひらまい・著)に、名草戸畔の末裔で、
宇賀部神社(海南市)の宮司家出身である
小野田寛郎氏の聞き書きが載っている。
それを読んで驚いたのは、口伝の内容が、
『日本書紀』の記述と相反することだった。

『日本書記』には、次のようにある。
〜旧暦6月23日、神武軍が名草邑に着いた。
そこで名草戸畔という女賊を誅された。〜

いっぽう、小野田口伝によれば、
名草戸畔は神武に殺されてはいない。
〜「ナグサトベは合戦で戦死しているんです」
「神武軍は(名草軍に)撃退されたから、
しようがないから(迂回して=紀ノ川をのぼら
ないで)熊野に入ったんです」〜

従わない豪族を誅伐して、熊野から大和への道
を駆け上がったと信じられてきた神武東征だが、
ご当地では異説が語り継がれてきたのだった。



↓橿原神宮で見た神武東遷図(最後半のみ)。
地図中(4)は長髄彦との戦いで後退した草香邑。
南下して名草邑へ着くが、以降わざわざ迂回して
海路で再上陸を試みたのは、名草戸畔軍に撃退された
からだというのが、初公開された小野田家の秘伝だ。
ちなみに、(5)は熊野灘(6)神倉山(7)玉置山
(8)宇陀 (9)吉野(10)丹生(11)國見丘。
a0300530_15420502.jpg




勝浦から熊野古道(国道42号線)を新宮方面へ
車を走らせると、「神武東征上陸地」の看板に
遭遇した。「荒坂の津」(現・三輪崎)。
『日本書記』はこの地で、神武はもうひとり女首長
「丹敷戸畔(にしきとべ)を誅した」と記す。
a0300530_14455392.jpg



熊野古道から見渡す、神武が航行した熊野灘。
「荒坂の津」付近に車を停めて撮影(正午すぎ)。
a0300530_14452547.jpg




丹敷戸畔は那智の浜(勝浦)近くの
↓熊野三所権現に地主神として祀られている。
奥の石祠にひっそりと、ということのようだが、
この女首長も神武の逆賊として殺されたのなら、
そもそも祭神として崇めることはできなかったのでは?
振り向くと、逆光に立つ鳥居の横に大楠が見えた…。
a0300530_14462466.jpg


さて、
名草戸畔について、猟奇的な逸話が残っている。
『名草戸畔』で、なかひら氏は次のように記す。

〜神武に殺されたナグサトベの遺体を頭・胴体
・足の三つに分けて、頭を「宇賀部神社」、
胴体を「杉尾神社」、足を「千種神社」に
埋めたという伝承だった。〜

しかしだ。殺さなかったのだから、
神武軍が遺体を切断することはなかった。
それは、この地の祖霊信仰の習俗だったことが、
なかひら氏の取材と考察によって明らかになる。

神武は先住族を殺していない。私もそう思った。
なぜなら、名草戸畔も丹敷戸畔も楠を信仰した。
「船玉の神」である楠を信仰したのは古代海神族。
神武の母・玉依姫は綿津見神(海神)の娘。  
神武と先住族は、実のところ同祖だったからだ。


ちなみに、
和歌山観光情報さんのサイト
名草戸畔の遺体を祀るという三社
(宇賀部神社、杉尾神社、千種神社)情報が見られる。








by utoutou | 2016-03-08 10:08 | 神社 | Trackback | Comments(2)

神武の来た道 ㉑ 古代紀の国の楠信仰

熊野には古くから楠信仰があり、
楠の字を入れて命名された人が多いという。
和歌山出身の博物学者・南方熊楠もその一人。

藤白神社(海南市)饒速日命を祭神とするが、
併せて熊野櫲樟日命も祀っている。
熊野の神(=熊野櫲樟日命)が楠に籠る(子守る)
と伝わる摂社は、その名も「子守楠神社」。
熊楠は両親が楠神に願かけして生まれたという。

そんな謂れからか、熊楠は神木の楠を大切にした。
明治時代、神社合祀反対運動の先頭に立った熊楠は、
当時、内務官僚だった柳田国男に働きかけ、
引作(ひきづくり)神社(三重)の楠の伐採を阻止した。



那智大社の大楠(樟霊社)も熊野櫲樟日命が籠る?
a0300530_15544325.jpg



↓大楠がそびえる藤白神社の摂社・巳神社。
(こちらの写真は、藤白神社HPから拝借)
a0300530_17215599.jpg


楠の神、熊野神であった熊野櫲樟日命
は、子孫繁栄の神であると同時に、
海の人々が崇めた船玉の神でもあった。

『名草戸畔 古代紀国の女王伝説』(スタジオ
・エム・オー・ジー刊)の著者・なかひらまい氏は、
神武が誅したと伝わる紀伊先住族の女首長
・名草戸畔(なぐさとべ)は、楠をトーテムと
して信仰していたのではないかと記している。

理由として、和歌山
市内には、楠を神木とする神社が藤白神社
はじめ十五社もあること。また、
『南海道紀伊国神名帳』の「地祇三十坐」に、
「従四位楠本大明神 従四位名草戸姫大神」
と、列記されていることなどを挙げている。

極めつけは、名草戸畔の末裔という
小野田寛郎氏のコメント(手紙)だ。
〜いつも母から、楠は大樹に成長するので、
大きな船を作るのに適しているため
神聖視されていたと聞いている。〜
(ちなみに小野田氏は、ルバング島から
帰還したあの「小野田さん」である)

スサノオが託宣した造船材・楠への信仰は、
この地で現代まで引き継がれていたのだった。



私が詣でた神社では、伊雑宮が記憶に新しい。
海人性の強い土地柄、倭姫旧跡にも楠があった。
a0300530_15545224.jpg



事代主を祀る長田神社(神戸市)の摂社は、
その名も楠宮稲荷神社。倉稲魂神を祀る。
a0300530_15551277.jpg


そう言えば、
海の神(底筒男命、中筒男命、表筒男、神功皇后)
を祀る住吉大社(大阪市)でも、大楠を見上げた。

熱田神宮(名古屋市)にも空海お手植えの大楠が鎮座。
根元の祠には、鶏卵が供えられていたが、
神の化身の蛇が住み着いているといわれるため。
「龍蛇神は卵好き」といった口伝は沖縄にもある。

船となる神木・楠は、熊野櫲樟日命であり、
各地でも船玉神として崇められた。

なお、名草戸畔が率いた一族は、紀元前、
九州から紀伊半島に渡来してきたという。
〜宮崎から大分の、リアス式海岸のあたり〜
(『名草戸畔〜』)からやって来たという口伝
が、小野田家に残っているそうだが、
船玉信仰はさらに南の島々から起こったと思う。















by utoutou | 2016-03-04 21:07 | 神社 | Trackback | Comments(0)