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六甲山と瀬織津姫 ⑪ 春日山〜六甲山レイライン

昨夜、日下(くさか)について考えていた。
語り部から、電話で質問があったためだ。
「ヒノモトのクサカって、何ですか?」
いつものように神託があったらしい。
神託は声だけなので、漢字表記は分からないという。

日の下か、日の元か、日の本か、火の元か…?
また、クサカは日下でよいのか、草香なのか…?
そこから日下部を解いてみよと、挑まれている感じだ。


そして朝になり、最初に目についたものがこれ。
中村明蔵氏・著『隼人の実像』(南方新社)。
たぶん、ここにヒントがある。経験上。
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私は表紙にある「隼人の盾」に注目した。
8世紀初頭のものか。1963(昭和38)年に
奈良の平城宮跡から発見された16枚の板である。
1枚の高さは5尺(150cm)。人が隠れるほど大きく、
幅は1尺8寸(54cm)、厚さ1寸(3cm)だという。

奈良文化財研究所HPからも拝借した。
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『隼人の実像』を開き、該当する箇所を読む。
「第二部 朝廷に服属した隼人の諸相」より
「儀式に使用された隼人の盾」の項。

 南薩摩の隼人たちは、律令制度が整っていくなか、
中央に強制移住させられ、隼人司なる役所の所属と
なり、元旦や新嘗祭など朝廷の儀式の警護を担った。
また犬の鳴き声を真似る邪気払いの役割も果たした。

警護の際に掲げ持っていたのが「隼人の盾」で、
『延喜式』の隼人条には、その図柄は
〜「赤白土・墨をもって鉤型を画く〜とあった。
(要約と引用ここまで)

以下は私見…。
中央の渦巻き紋は鉤(かぎ)型で、隼人(日下部)
の祖(浦島太郎、神話では海幸彦)の海洋性を
表していると思う。また盾の上下に描かれた鋸歯紋は、
隼人はワニ(和邇氏)だという暗号だろうと思った。

日下部氏は、開化天皇の御子・彦坐王の後裔という。
その母(開化の妃)は、和爾氏始祖の妹・意祁都比売命
(おげつひめのみこと)。つまり日下部は和邇氏である。

和邇氏はまた、応神以降七代の天皇にも妃を出した。
天皇家の外戚として勢力を誇ったわけだが、時代が下り、
同族の隼人は都に移住させられて天皇の警護を担う。
大和の先住氏族だったにもかかわらず、
朝廷への服従を絵に描いたような職分は屈辱的だ。

さて、生駒山の西麓(現・東大阪市)に、
古来、草香(くさか)と呼ばれる土地があった。
二ギハヤヒが天降ったのは至近の哮峯(たけるがみね)
こと別名・草香山だったし、あの神武が東征の折り
熊野への迂回路をとった分岐点もここ。そして、
この地に定着していた人々が、日下族だった。



地図は日下雅義著『古代景観の研究』(中央口論社)より拝借。
6〜7世紀の摂津・河内・和泉の地図。
右端の南北は生駒山地、その西麓に草香津(赤線で加工)。
白い部分は海で、草香は港だった。
地図中央に平城京の副都だった難波宮■が見える。
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「日の下の日下」とは、まさにその草香津のこと。
平城京時代、「春の日の春日」と対句で歌われたという。
その意味を、吉村貞司氏は、
『原初の太陽神と固有暦』(六興出版)で解いた。

〜日下の土地は、日の出を見る地点であると同時に、
日没を見る所でもあった。具体的に言うと、
奈良の春日山を真東に、春分・秋分にこの神聖な
日の出を迎え、日は真西の大海の果てに沈みゆく日
を見ることができた。〜

日下とは、古代海人族による太陽祭祀の聖地だった。
そのことを語り部に伝えると、こう返ってきた。
「西の大海に沈む夕陽は、では、どの山にかかりますか?」
私は思わず唸った。
「ああ、六甲山でしょうね」

さっそく調べてみると…。
春日山(奈良市)北緯34度45分13秒
六甲山(神戸市)北緯34度46分40秒
2点は東西に並ぶ、春分・秋分の「太陽の道」だった。

レイラインに沿って日下族は移動したらしい。そんな
測量技術に長けた日下と日置は、やはり同族だったのだろう。






















by utoutou | 2016-04-30 16:40 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 ⑩ 琉球産の宝貝

以前、籠神社参詣した際、ケーブルカーで登り、
↓傘松山公園からこのような天橋立の絶景を見た。

眼下に広がる阿蘇海に天橋立が横たわっている。
半島と半島に挟まれた内海のようになっている。
その名からして、九州との関係が深いという印象がある。


写真の奥、山並みの向こう側は栗田湾といい、そこ
に注ぐ由良川の下流域に、志高(しだか)遺跡がある。
20年ほど前、この遺跡で弥生時代中期の墓、つまり
古墳の前段階の墓が発掘されたというが、
その際、宝貝が詰まった弥生土器の壷が出土した。
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宝貝には多くの品種があるが、キイロタカラガイ。
森浩一氏は著書『京都の歴史を足元からさぐる』
('10年、学生社刊、下の写真も拝借)で、
この土器が、中国式の貯貝器である可能性を示唆。
 豪族の墓の副葬品だったのではと、記している。
        
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キイロタカラガイは、中国では殷(前17〜11世紀)や
周(前11〜8世紀)の時代から、貨幣や贈り物として
用いられ、王墓の副葬品として大量に埋葬する
風習が、明代(14〜17世紀)まで続いたという。
いや現代でも、中国周辺に宝貝を珍重する所があると。

その事情を日本で最初に紹介した江上波夫氏は、
宝貝を子安貝と記したが、古代人が安産のみならず、
生命の永遠を願って、あるいは秘められた呪力を信じて、
女性器の形を崇めたのは、洋の東西を問わなかったようだ。



↓ 中国雲南省の石寨山(せきせいざん)古墳から
出た、漢代の貯貝器と、子安貝。
※写真は江上波夫・著『東アジア文明の源流』
(山川出版社)より拝借。
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こちらは、子安貝飾馬具(同じく借用)
中国河南省殷墟武官村大墓出土。殷後期(復元模型)。
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宝貝は、琉球が最大の産出地だった。
それを琉球人が採り、需要のある中国へもたらした。
船で運んだのは、主に九州の倭人たちだったと記し、
森氏はこの丹後の宝貝入り土器について分析した。

〜 丹後には中国の根強いタカラガイ愛好の習俗が
伝わっただけでなく、貯貝器に入れるというような
作法も伝わっていたとみられるのである 。〜

琉球産の宝貝が中国で珍重され、やがて日本海を経由
して、丹後に輸入されたのだろうと考えておられた。
ただ、伝わってきたのは「習俗と作法」だけとも読める。

では「宝貝と壷」はどこから来たのか? 土器は、
ここ丹後か播磨で作られたとの見方があるという。
宝貝については、琉球直送か大陸経由か分かっていない。

いずれにしても日下部氏がらみか? と、私は思った。

籠神社・海部氏の同族と思われる日下部氏は、
    この丹後・丹波・摂津・播磨に根を張り、   
日本海側の由良川から、瀬戸内海側の加古川へと繋がる
交通網の航海・水運権をほぼ掌握していたと思われる。

  いっぽう、日下部氏の祖先は、
薩摩の阿多にいた隼人という。その海人集団は、
紀元前から、琉球や南島産の貝を運搬する貝商人だった。

薩摩半島西岸部の阿多(現・南さつま市金峰町)の
高橋貝塚(縄文晩期〜)からは、琉球産のゴホウラ貝や
オオツタノハなどの大型貝類が出土しており、
              ヤマト各地に流通する貝輪の一次加工所があったという。              






















by utoutou | 2016-04-27 08:38 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 ⑨ 日置部のレイライン

六甲山が聖地たる所以は、ひとつには
六甲比命神社が鎮座していること、そして
もうひとつは、天日穂命の古代祭場があることだ。


六甲比命神社の磐座は、多聞寺(神戸市北区)
の奥の院として、雲の岩(↓写真奥の岩)や心経岩と
一体となっており、夏至の日の入りを向くという。
逆に、日の出方向に天穂日命の磐座がある。
この太陽の道(レイライン)を引いた古代人とは誰か?
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 磐座について、独自の視点で綴っておられる
ブログ『火(ホ)と「ニワ」と鍋釜』で、
甲山の磐座』(4/7)という記事を拝見したが、
六甲山東端にある甲山の東斜面からは、
見通しがよければ、年中、日の出が拝めるという。

ちなみに神呪寺は、北緯34度に位置している。
伊勢神宮、三輪山など、多くの聖地と同じ緯度である。
'80年に放送のNHK番組『謎の北緯34度32分をゆく
〜知られざる古代』は、未だに語り継がれている。

また、空海が創建した高野山も同緯度だと気づき、
「空海はなぜ北緯34度にこだわったのか?」
について調査された研究家に、笠井則男氏がいる。
笠井氏は、空海が金剛界曼荼羅を模してお寺を配置し、
レイラインを作ったのではとの仮説をまず立てたという。
(『空海の謎 ウェブサイト空海』に詳しい記事がある)。

レイライン作りに携わったのは、古墳時代初期
に活躍した測量集団・日置部(ひきべ)だった。
彼らは太陽の影を利用して、正確な緯度を測量。
レイライン上に寺院を配置するための日読みをした。



真名井神社の鳥居から宮津湾を遠望。天橋立から
北(写真左)へ約3km行くと日置(ひおき)の里。
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日置(ひき、ひおき)氏の祖先は出雲臣族という。
このうち紀伊・日置首は、天穂日命の後裔。

ようやく、六甲山の「天穂日命の古代祭場」に
↓ ストーンサークルがある意味にに合点がいく。
造ったのは天穂日命の裔にあたる測量集団だったか。
世界的に、夏至の日の出のとき、ストーンサークル
外側の立石と中心の石が一直線に並ぶとされる…。
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そういうわけで、日置氏は、
野見宿禰の土師氏や、菅原道真の菅原氏と同祖だった。

そして、日置氏には次のような特徴がある。
○土師氏は、埴輪作りや古墳造営に携わった。
○日置部は、製鉄・鍛冶を職掌としつつ
測量・暦作り・卜占いなどもした。
○日置部は太陽祭祀を司り、宮中では主殿寮殿部
として灯燭を司り、浄火を管理した。
 ○日置の語源は火起(ひき)。火鑚りの神事をした。
○日置郷は、新潟から鹿児島まで各地に点在した。

火と日と霊を崇め、御祀りをする火の一族。
沖縄久高島のアグルラキに住んだ島の始祖
アナゴノシー・アナゴノファーをやはり彷彿とさせる。
漢字表記にすると「穴子の子・穴子の婆」。

この一対神は、てぃだが穴(太陽の穴)
日夜守り崇めた天穂日命の一族だろうと、語り部は言う。
古代琉球人は、太陽は西(方言で、いり)に沈み、
地下を通ってまた東(あがり)から昇ると信じていた。
その太陽信仰からすれば、
地下は、夜の間の太陽の道(レイライン)だった。


ところで、日下部首の祖とされる浦島子がいた里
は日置(ひおき)といった。両者は同族だったのか?

日下部(日下部連、日下部首)は、開化天皇の御子
である彦坐王の後裔といい、『新撰姓氏録』には、
火闌降命(ほのすせり)の後裔で隼人と同族とある
ので、血脈は異なっているらしいが…。

とはいえ、日下部のいたところに日置の地名あり。
丹後だけではない。薩摩の阿多(吾田)にも日置があった。
阿多には、隼人の祖・火闌降命を生んだ木花咲耶姫がいた。
そのため木花咲耶姫は、亦の名を神阿多都比命という。

丹後と阿多は、海人族だった日下部氏を象徴する、
あるモノで繋がっていた。そして、琉球も…。



久高島・伊敷浜。東(あがり)のニライカナイを望む。
アナゴノシー・アナゴノファーの住んだ
アグルラキ(通称・みるく)はこの浜から近い。
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by utoutou | 2016-04-25 11:40 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 ⑧ 憧賢木厳之御魂天疎向津媛命

浦島神社(京都府与謝郡伊根町)には、
祓戸神(=瀬織津姫)も祀られている。

浦島神社の社殿は北向き。そうすると参拝する
方向はおのずと南向きになるわけで、真っすぐ先
に六甲比命の磐座が位置することになるという。
(大江幸久氏の資料より)

その六甲比命の磐座からは、
幾通りかの太陽の道(レイライン)が見て取れる。
夏至の日の出方向に六甲山頂、
石の宝殿(六甲山神社)、武庫山厳島弁財天などがある。
また、六甲比命の磐座から東へ300m離れた場所に
天穂日命の磐座が位置しているのも、見逃せない。


さらに見れば、
天穂日命を祀る ↓芦屋神社(芦屋市芦屋町)の
夏至の日の入り方向に位置しており、大きく俯瞰すれば、
伊勢の伊雑宮と、出雲大社を結ぶ線上にあるのだという。
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↓こちらは越木岩神社(西宮市甑岩町)の六甲山社。
憧賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかき・
いつのみたま・あまさかる・むかつひめのみこと)を
祀る山頂近くの六甲山神社(石の宝殿)を遥拝する。
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六甲山は古来、廣田神社(西宮市大社町)の社領だった。
廣田神社の主祭神は、『日本書紀』神功皇后
の条に登場する、憧賢木厳之御魂天疎向津媛命。

由緒によれば、その女神は、
伊勢神宮内宮に鎮座する天照大御神の荒御魂で、
神功皇后が征韓したとき霊位を示した。

私たちは、当然、天照御大神の荒御魂と、
憧賢木厳之御魂天疎向津媛命は同神と思ってきた。
が、そこに、「待った」をかけた人がいた。
古代史研究家の大和岩雄氏である。

〜『日本書紀』は、天照大神の荒御魂が
憧賢木厳之御魂天疎向津媛命だと、どこにも
書いていない。荒魂説は
鈴木重胤の『日本書紀伝』の「節」でしかない。〜
(大和岩雄・著『神と人の古代学』大和書房刊)

私は、このくだりを読んだ数年前、本当か?と、
図書館に出向いて各版元から出ている『日本書紀』
を比較してみたが、本当だった。

〜神風の伊勢国の百伝ふ度逢県の析鈴五十鈴宮に
坐す神、名は憧賢木厳之御魂天疎向津媛命なり。〜
と、伊勢神宮の神であることは記しているものの、
天照大御神の荒御魂とは、記されていなかった。

なぜ荒御魂になったかについて、大和氏は考察する。
鈴木重胤は幕末の国学者で、長州藩の勤皇の志士
たちに影響を与えた人物。そのため最後は暗殺された。
そういう生粋の国学者だったので、伊勢神宮に鎮座する
祭神は天照大御神以外にはあり得ないと独断したのだと。

なるほど、天照大御神が、持統天皇の時代に
つくられた女神であり皇祖神であるとすれば、
いわば縄文の女神といえる瀬織津姫が、その荒魂
 というのも、考えてみれば確かに少し無理がある。


伊勢神宮内宮・荒祭宮(左は古殿地)。
天照大御神の荒御魂が祀られているとされる。
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大和氏はこうも述べる。
伊勢神宮にあるすべての宮は南面しており、
東向きなのは外宮に鎮座する「土宮」だけだと。

土宮は、式年遷宮の山口祭・御船代祭の祭場、
古代海人族の古儀をいまに伝えている。

その太陽祭祀は、朝日・夕日信仰だった。
司祭したのは、天照日の神から離れて向かう姫。
憧賢木とは心御柱、いわゆる神木のことだろう。 
向津姫でなくては、神霊(厳御魂)は降ろせなかった。

では、神霊を発する最高神とは? 
例えば沖縄では、御天父親加那志(うてぃんちちうやがなし)
そして、御天母親加那志(うてぃんははうやがなし)という。

憧賢木厳之御魂天疎向津媛命は、古代の
海人族に奉じる日巫女で、後に女神と見なされた。
そして、神功皇后は最後の日巫女だったと思う。

『日本書紀』はその神功皇后を卑弥呼に仕立てたが、
憧賢木厳之御魂天疎向津媛命を天照大御神の荒御魂に
見せかけたのも、付会だったのではないかと私も思う。

 






by utoutou | 2016-04-23 08:23 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 ⑦ 真名井御前は日下部氏の姫

空海に浦島太郎の珠を渡したと言われる
真名井御前は、日下部氏の姫だったのか?
つまり、籠神社の海部氏の養女だったのか
について、あれこれ考えてみたい。

空海とともに神呪寺(かんのうじ)を創建して、
瀬織津姫を弁財天として祀った真名井御前。
その名前から、丹波の比治(ひじ)の真名井を
舞台にした「天女伝説」が、つい思い浮かぶが、
そのあたりに何か、真名井御前の出自に関する
ヒントが隠されているかもしれない。


籠神社の奥宮・真名井神社の鳥居。
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『丹後国風土記』(8世紀)に載るその
天女伝説が、沖縄のそれと決定的に違うのは、
羽衣を隠したのが男でなく、
和奈佐という老夫婦だった点だ。
二人に助けられた後、豊宇賀能売命という天女は、
お酒を造って老夫婦に大きな富をもたらした。

比治の里という伝説の舞台の地名、
酒を造るという特技(噛み酒)、
そして、老夫婦の名乗っていた「和奈佐」…。
このキーワードを並べてみると、この天女、
やはり琉球や奄美の島々に関係がありそうだ
と、思わずにはいられなかった。

地名のヒジに似たヒシとは、琉球から
南九州にかけて連なる島々を取り巻く干瀬のこと。
また、女が噛み酒を造るのは隼人族の風習。
隼人とは、薩摩の大隅半島にいた人々の呼称だ。

古来、噛み酒の風習は琉球にもあり、
久高島の古祭イザイホーでは、神女(かみんちゅ)
の就任儀礼を終えた女たちのする初仕事は、
嚙み酒を神人や島人に振る舞うことだった。
歯の綺麗な女ほど、よい酒が醸せると言われた。



久高島イザイホー(4日目)の演目、
グゥキマーイ(樽回り)と名のついた円舞。
中心に、タルマーミキ(樽の神酒)が置かれる。
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以前イザイホーの記事にも書いたが、
噛んだ酒を発酵するのには月の力を借りたという。
久高島では月の女神の名は、マチヌシュラウヤサメー。

ヤマトでは、発酵の神、月の神、草の神。
『古事記』によれば、鹿屋野比売神(かやのひめかみ)。
亦の名は野椎神(のづちのかみ)だと記されている。
    鹿屋野比売神は、イザナギ・イザナミの間に生まれた。 
そして、木花咲耶姫命の母神となった。
  
鹿屋野比売神は、なかなか歴史の表舞台に
登場しないが、その娘・木花咲耶姫命を祭神
とする都萬(つま)神社が、宮崎県西都市にある。
古来、司祭しているのが日下部氏である。

酒造りをする天女・豊宇賀能売命、
真名井神社の祭神である豊受大神
そして、真名井の霊水で育った真名井御前。
三重に重なるその女神像は、真名井御前が、浦島子
と同族の日下部氏の姫だと暗示しているように思える。

そう言えば、
浦島神社の相殿に祀られた祭神は、月讀命だった。



真名井神社への道。里と呼ぶのにふさわしい空気感。
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by utoutou | 2016-04-22 18:17 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 ⑥ 浦島太郎は住吉大神

浦島太郎が丹波の豪族だったことは、
浦島神社(京都府与謝郡)の由緒で分かる。

〜創祀年代は淳和天皇の天長2(825)年
浦嶋子を筒川大明神として祀る。
浦嶋子は日下部首等の祖先に当る。日下部に
ついては『新撰姓氏録』の和泉皇別の条に
「日下部宿禰同祖、彦坐命之後也」とみえる。
彦坐命は開化天皇(紀元前157〜98)の子、
従って日下部首は開化天皇の後裔氏族で、
その大祖は月讀命の子孫で当地の領主である。〜


祭神は浦島子(筒川大神)。
相殿神は月讀命と祓戸大神。
↓浦島神社写真はまたもや公式サイトより拝借。
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「月讀命」については後に考えるとして、
開化天皇→彦坐命→浦島子→日下部宿禰という系譜。
浦島子とは開化天皇の後裔にして、与謝の領主。
また、摂津を治めていた日下部宿禰の祖だった。

浦島子が帰還した頃、真名井御前が、
先祖の地・摂津の六甲山の東麓に、神呪寺を
創祀したというのも、自然の成り行きだったか。

と、ここまで書いて我ながら苦笑した。
浦島子が347年ぶりに帰還とはあり得ない話。

そこで、改めて語り部の意見を反芻してみる。
浦島子は、
「再びまた戻って来たのだと思います」

そこで、ようやく私もその真意に思い至った。
消えた神々が戻って来たということか…。

浦島子が龍宮城へ行った雄略22年。
真名井神社にも異変があった。
祭神・豊受大神が、天照大御神の神勅によって
  伊勢神宮外宮に御饌都神として迎えられたのが、
 同じ雄略22年だった(年代参照 伊勢神宮HP)。

それから347年、真名井御前が甲山で感得した
女神とは、故郷・真名井原に坐す豊受比売だった。
そのとき、一対神である豊受大神
(=浦島子=筒川大神)も甦ったと祝福された。
住吉三神の「筒」を冠した筒川大神とは、
住吉大神の亦名だったと思う。




↓真名井神社のご神体山(禁足地)の鳥居脇に、
神々の名が連なっている。
左の碑には、鹽土老翁、亦名 住吉大神、
亦名 綿津見神、亦名 豊受大神とある。すべて同神
という意味だろう。ちなみに、磐座の奥に小さく
「道祖神」とあるのを参拝した3年後のきょう発見。
こちらも同神としてのクナト神のことだろう。
そして、宇迦之御魂は豊受比売の亦名だと思う。
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『浦島太郎』とは、聖地・真名井にいた女神を
皇祖神・天照大神の御饌都神(食事を司る神)
として奪われた古代海部族のリベンジ物語か。

真名井御前は、真名井に坐す女神こと豊受比売
神格を継ぐ霊力(しじ)高い日の巫女だった。
幼名は厳子(いつこ)。

その一字「厳」は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命
(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつ
 ひめのみこと=瀬織津姫)にも含まれる
「神聖なる、神々しい」という意味だろう。

真名井御前は、日の神に向かって崇める
「向津媛」となる宿命の姫だったのだ。



by utoutou | 2016-04-18 08:24 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 ⑤ 空海の隠した珠

「六甲山付近に何かが祀り隠されている」
と、語り部が呟いてから、かれこれ10日。
おそらく琉球に関係する、神器のような何かだ
ろうと苦悶していたが、あるきっかけで閃いた。

祀り隠されたのは浦島太郎こと浦島子の玉手箱。
隠した先は、真名井御前をモデルに空海が彫った
という神呪寺の秘仏本尊・如意輪観音像の中では…?



神呪寺のある甲山(西宮市)。
神戸観光写真集から拝借。
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浦島子と真名井御前の出自が同じ(日下部氏)なら、
如意輪観音像に隠すのは、あり得ないことではない。
日下部氏は、丹波にも六甲山のある摂津にも居た。

そう思ったのは、
『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』籠神社発行)
で、海部光彦宮司の一文を読んだときのことだ。
題して「空海と真井御前(如意尼)に就いて」。

海部宮司は日下部氏や浦島子には触れていないが、
次のように推察している。(要約)
・真名井御前は一の筺(はこ)を秘蔵していた。
・空海はこれを真名井御前から与えられた。
・筺には海神の霊能の象徴、潮満珠・潮干珠があったか。
・真名井御前はその珠を父から持たされたか。



籠神社の奥宮である真名井神社。
鳥居の奥は禁足地、真名井原ご神体山である。
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ということで、語り部の意見を聞いた。
「六甲山付近に隠されたのは
浦島子の持ち帰ったものではないですか?」
「そうです。
龍宮とは、すなわち龍宮ですからね」
「やっぱり玉手箱でしたか…」
「いや、玉手箱に入っていたものです」
「そりゃそうですね……箱じゃ如意輪観音に隠せない」
「龍の珠であり球の珠であり、ヌブシヌ(命の)珠。
竜宮(琉球)から持ち帰った珠だと思います。
『浦島太郎』が龍宮(琉球)へ行った“話”ですから」

確かに“話”。
浦島太郎のそれは「おとぎばなし」だ。
『日本書紀』に記されながら、お伽話として
 語り継がれてきたことに、秘史の匂いを感じる
 隠された、いや隠すべきとされた歴史の真実?

そこで、素朴な疑問を投げかけてみた。
「“話”では、浦島太郎は3年経って帰って来た。で、
乙姫様の禁を破って玉手箱を開けたらお爺さんに。
でも実際には、347年ぶりに帰って来た。
なんで、そうはっきりと分かるのでしょうか?」

語り部は、間髪を置かずに答えた。
「再びまた戻って来たのだと思います」
「日下部氏が? 琉球の珠を持って?」
「はい」
「ほんとですか…まさか」

とは言ったものの、そのまさかかも知れない。
日下部氏をめぐる謎の一致を思った。

  浦島子が帰った825年、地元である丹後の与謝に
   浦島子を筒川大神として祀る宇良神社ができた。
ときの淳和天皇が自ら創建した。
同じ年、その淳和天皇は出家した皇后・如意尼と
空海のために、神呪寺に寺領150町歩を寄進した。


京都府与謝郡にある宇良神社(旧名)。
↓社殿の写真は浦島神社HPから拝借。
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浦島子を祀り、如意尼と空海を支援した淳和天皇。
まるで日下部氏の復活を諸手を挙げて歓迎している。

いったい日下部氏とは何者か?
即位前(真名井御前と出会った頃)の淳和天皇が、
大伴親王と名乗っていたことも気にかかる。














by utoutou | 2016-04-15 22:16 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 ④ 浦島太郎の玉手箱

後に出家して如意尼となる真名井御前
の出自であるかもしれない日下部氏とは、
どのような古代豪族だったのか。

記紀には、5世紀の事績に登場する。
皇位争いで雄略天皇に殺された
履中天皇(400〜405年)の子・市辺押盤皇子
の幼い皇子であるオケとヲケ兄弟を連れて、
丹波国余社郡に避難したのが、日下部連使主
と、その子である吾田彦だった、と。

また『播磨風土記』には、二皇子は播磨
に身を隠していたとの伝承が残っている。
丹波と播磨、どちらがいったい正しいのか。

丹波国について、籠神社HPはこう語る。
〜但波国(丹波国)とは、
713年に丹後国が建国されるまで
当地方が属していた国のことである。
飛鳥時代頃まで現在の丹後・丹波地方
(京都府中部・北部・兵庫県の一部)は、
「たにわ」の国と呼ばれ、〜



そうだったのかと、眼から鱗が落ちた。
丹後と播磨と摂津は、古代、同国だった?
その三国は明らかに隣接している。
(↓こちらの地図も籠神社HPから拝借)
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さて、
あの有名な浦島太郎の童話も、日下部氏
    のアイデンティティーを示す大きな要素だ。    
 
12世紀末の歴史書『水鏡』に、それが見える。
〜浦島太郎は、天長2年、龍宮城から玉手箱
を持ち帰った。その箱を開けると中から
紫雲が昇り、たちまち老人となり、
うまく歩けないほどだった。〜(要約)

帰ってきた天長2年とは、825年である。
いっぽう、行ったのは478年。
なぜなら、
『日本書紀』雄略天皇22年に、こうあるからだ。
〜秋7月に、丹波の国の余社郡の菅川の人、
瑞の江の浦島子、船の乗り釣りす。〜

                        『丹後風土記』はこの瑞の江の浦島子」
                         こそが、「日下部氏の祖」だとしている。
                                           
またもや日下部氏…。そう言えば、
現在の六甲山が位置する摂津郡に日下部氏
献金した、つまり首長だったのは766年。
 真名井御前が生きた時代と、ほぼ同時代である。

真名井御前と浦島太郎が、日下部氏の同族
ならば、現実に出会う機会を得ていたのでは?
ということで、以下に↓年表を整理してみる。


802年 後の真名井御前(厳子)誕生。
812年 10歳。京都・真言宗の頂法寺で修行。
822年 20歳。大伴親王の妃に。
823年 大伴親王が即位、淳和天皇に。
825年 浦島の子(浦島太郎)が竜宮城より帰る。
826年 真名井御前、神呪寺を建立。
空海を師として修行。
830年 28歳。空海が如意輪観音像を彫る。
831年 神呪寺の本堂が完成。如意尼となる。
834年 33歳、入定。
835年 空海が死去(62歳)。


やはり…年代が一致した。
浦島太郎(825年)は、
神呪寺の建立(826年)に関わっていた?

ここは、語り部に意見を聞いてみよう。
六甲山の周辺で、隠された何かとは、
浦島太郎の玉手箱ではないのか?



真井御前の古称は、匏宮、吉佐宮、
与謝宮、久志濱宮(くしはまのみや)という。
籠神社から徒歩10分ほど(撮影は'13年秋)
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真名井神社の祭神は豊受大神。
古名は、瓢宮、吉佐宮、与謝宮など。
真名井御前(籠神社では真井(まない)御前)
がそう呼ばれたのは、なぜなのだろうか?
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by utoutou | 2016-04-13 01:35 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 ③ 紀香・日下部氏・如意尼・空海

六甲比命神社の話の途中てすが…。
昨日、藤原紀香さんが西宮ガーデンズ
(西宮市高畑町)で行われたイベントに現れたという。

西宮ガーデンズは、阪急電鉄・西宮北口駅直結の
大型商業施設(阪急百貨店・TOHOシネマズなど)
だが、この地には、かつて西宮球場があった。

私は年に数回、この西宮ガーデンズ前の施設で
行われる会議に参加するために西宮市に赴き、
ガーデンズのフードコートでランチをしたりする。
六甲比命神社参拝も、そんな出張帰りのことだった。


紀香さんの出身地での
「一日署長」姿は神戸新聞NEXTから拝借。
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さて、この西宮ガーデンズから古代遺跡が
出たのは、建設工事を前にした2006年のこと。
その結果、西宮市で初めての木簡(荷札)が出土
したが、なんと「日下部」の記名があったという。

いま、西宮市役所HPにも以下のような説明がある。
〜高畑遺跡では、古代にあっては「摂津国
武庫郡日下部某」木簡・和同開珎・斎串などが出土
した井戸跡や大型遺跡群が発掘されています。〜

木簡や井戸跡という特殊性から、当時「これは
武庫郡の役所跡か」と専門家も言っていたものだ。

その記憶が、六甲比命神社で資料を読んだとき、
「日下部宿禰」の箇所に反応した理由だった。

いずれも奈良時代の出来事。同じ日下部氏。
ただの偶然ということはないだろう…と。

あのとき、資料を繰る手が止まったのが、もう一箇所。
『六甲山 瀬織津姫・白山姫と和歌姫 和す・
尽くす トノオシテの復活! 』(大江幸久著)の
「六甲弁財天と空海・真名井御前」と題するくだり。

〜空海とともに廣田の神南備山=甲山に神呪寺
(かんのうじ)を開基した真名井御前(幼名:小萩
出身地は現京都府与謝郡与謝野町の香河(かご)と
伝わる)も弁財天=瀬織津姫と出会われたことが
『元亨釈書』などの記録に残っています。〜

廣田神社の神南備山である甲山を開いたのは、
籠神社の姫で淳和天皇の妃となった真名井御前。
そうだったのか…と、ちょっと大きく息を呑んだ。

真名井御前とは、空海の手彫りによる神呪寺
の如意輪観音のモデルとなった如意尼のこと。

そして、
真名井御前は、実は籠神社宮司家の海部氏と
同族の日下部氏からの養女だったという説がある。
六甲山と丹後半島は、日下部氏で繋がっていた…。



神呪寺の如意輪融通観音(重文)
『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』
(元伊勢籠神社社務所発行)より拝借した。
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↑写真の絵解きには、次の一文が記されている。
〜弘法大師が海部直三十一代雄豊(おとよ)の娘
真井(まない)御前の生き姿を彫る。〜

神呪寺の如意輪観音は5月18日にご開張される。







by utoutou | 2016-04-07 20:29 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 ② やっばり天穂日命と沖縄は

標高931mという六甲山に初めて登ったが、
山頂近くの六甲山カンツリーハウスまで
ロープウェイとバスを乗り継いで行ったので、
六甲比命神社までで、歩いたのは約20分。
誰もいなかったので、1時間ぐらい滞在した。

この磐座は、
沖縄県南城市・斎場御嶽の三庫理(さんこうり)
と似た形の空間で、いわゆるホトの形の自然洞窟。
なぜこんなに形が似ているのかを考えると、
やはり、語り部が、沖縄の始祖ではないかと言う
天穂日命(アメノホヒノミコト)繋がりか…と
思い至るわけで、拝礼もおのずとしみじみと。



ホト(女性器、産鉄の火床の意味も)を思わせる
が、それはまた沖縄の亀甲墓の元型とも言われている。
どちらにしても、私たちの生命の源そのものの形だ。
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ちなみに、
六甲比命の三角の空間から左へ、身を乗り出すと、
↓このようにダイナミックな石積み状の磐座が。
こちらを下方から拝礼するのが、正しい参詣法らしい。
つくづくと、やはり沖縄の御嶽に似ていると思う。
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そう言えば、天穂日命の古代祭場には、
↓ストーンサークルもあったが、やはり南城市
の百名海岸にあるアマミキヨ渡来地に見える
ストーンサークルと、姿がよく似ている。
(木村正昭・琉球大名誉教授の説はこちらの記事に)
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さて、六甲比女神社に長時間滞在した
もうひとつの理由は、神社の中に、
瀬織津姫と天穂日命にまつわる豊富な資料が
あり、お賽銭箱にお金を入れて購入した後も
興味津々その場で読み込んでしまったこともある。
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資料は以下のタイトルの2種類があった。
(料金は賽銭箱に入れるシステム)

1.『六甲山 瀬織津姫・白山姫と和歌姫
和す・尽くす トノオシテの復活!』
(↑写真中央、大江幸久著、66頁1000円)

2.『雲ヶ岩周辺の由来』
(↑写真右、六甲比女講世話人会著、4頁200円)


またスクラップブックには、所縁の寺社や、
『ホツマツタエ』など関連資料が満載。
内容はおいおい紹介したいと思っているが、
そのなかに、何だか気になる箇所がいくつか…。



まず、日下部(くさかべ)。
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『第日本地名辞書』「武庫郡」の項にこうあった。
(武庫郡とは、六甲山(旧武庫山・向つ峰)
のある、この地、摂津国武庫郡を指している)

〜続日本紀、天平神護二年、武庫郡大領、
日下部宿禰浄方、献銭二万(ママ)、椙榑一千枚〜 

即、スマホで調べると、天平神護二年とは766年。
このとき、この地・武庫郡の長官は日下部宿禰なる
御仁で、とにかく、献金と杉材献上をしたらしい。

日下部か…と…いや、自分でも何だかよく
分からないが、ちょっとピンと来るものがあった。
日下部氏といえば、天穂日命の末裔ではないか?
やっぱり天穂日命は沖縄と…。





by utoutou | 2016-04-05 21:43 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(4)