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六甲山と瀬織津姫 39 イソタケルの城

伊計島は、古くは伊計離と書き「いちはなり」と
呼ばれたそうだ。「いちばん離れた島」の意味
     というが、なぜ「いち」に「伊」の字を当てるのか。    

思えば、沖縄に「伊」のつく地名は少なくない。
伊是名島、伊平屋島、伊江島、伊武部、
伊良部島、伊波、伊集、伊敷など。

久高島の東海岸にある白砂の聖地は、伊敷浜。
また地名でありグスク名でもあるのが、伊祖。


というわけで、伊計島を訪れた後、浦添市にある
伊祖グスク(現在は伊祖公園内)に行ってみた。
英祖王(1129〜1299年)の父祖代々の居城
だったと伝わる。伊祖公園内の丘陵がグスク跡で、
あちらこちらに古い石積みや石垣が残っている。
高さ50〜70m、縦長の城跡。鳥居の先が本丸跡。
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伊祖グスクは、『おもろさうし』に、
「あまみきよが、たくだる(つくった)ぐすく」と
歌われ、土器、須恵器、中国製磁器、貝殻、南蛮陶器
など、海を越えた交易を物語る遺物が出土している。

↓ 伊祖グスクの本丸跡あたりに建つ伊祖神社。
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↓ 伊祖神社の奥へ進むと物見台。拝所でもある。
眼下に、沖縄最古の貿易港である牧港が見える。
(煙突は火力発電所のもので、電波塔も兼ねる)
写真の右奥には、宜野湾や北谷の海岸が、また
写真からは外れるが、南西には慶良間諸島が望め、
この地が古来、要害の地だったことが感じられる。
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これまでも、
英祖王はアマミキヨ」などで推察してきたが、
この伊祖グスクで生まれたとされる英祖王は、
海部・安曇の流れをくむ古代海人族の末裔である。

では、伊祖の「伊」とは? と、改めて考える。
ヤマトの各地にも「伊」のつく地名は少なくない。

伊勢、伊豆、伊東、伊根、伊賀、伊丹、伊予、
伊那、伊万里など、全国に点在している。


神社では、伊勢神宮、伊雑宮、伊弉諾神社、そして
伊太祁曽神社(和歌山市)が代表的なところか。
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伊太祁曽神社はスサノオの御子・イタケル
(五十猛命、イソタケルを伊太祁曽神社ではそう呼ぶ)
を祭神とするが、歴史作家の戸矢学氏は、
「伊」とはイタケルのことであると、
著書『二ギハヤヒ』(河出書房新社)に記している。

紀伊国の「紀」は紀氏を意味するが、では古代、
「伊」氏もいたのかという観点から氏は考察した。
(以下、要約)

☆紀伊地方に紀氏と並ぶ伊氏がいたが、消えた。
☆「伊」姓は奄美地方に、またかつて沖縄にもいた。
古代海人族「伊」氏の名残かもしれない。
☆古来海人族の活動範囲は、中国江南から朝鮮半島、
日本列島の沿岸部全体で、自由に往来していた。
☆「伊」とはイタケル、海人族の王のことである。

さて…
伊祖グスクは、アマミキヨの造った城。
「伊」をイタケルと仮定するなら、伊の祖
・アマミキヨとは、スサノオということになる!?







by utoutou | 2016-07-27 18:48 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 38 豊葦原の大国主

伊計島・セーナナー(海人七氏族)の御嶽を
背にして右(西南)を見ると、宮城島が見える。
海中道路(1971年完成)が貫通するいまは、
勝連半島から伊計島まで一気にアクセスできる。
古代の船は、島々添いにこの海を往来したが、
干潮時には、近い島同士なら歩いても渡れたそうだ。


ちょうど大潮の日、珊瑚礁が露になった
その干潮(ヒシ)が、目の前に広がっていた。
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セーナナーを背に左を向いても↓干潮の海。
(写真中央右)に伊計島の北端近くにあるホテルが、
またその先に、本島の金武湾周辺の陸地が見える。
金武湾沿岸にも、九州弥生時代の遺品が出た
宇堅貝塚や、伊波貝塚などがある。ヒシは、
南洋・琉球奄美諸島・九州を結ぶ珊瑚礁の道だ。
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沖縄方言では干潮を指す「ヒシ」という言葉。
隼人族は、ズバリ「鉄」をそう表現したという。
台湾や南洋系の海人族の間では、「鉄」「鉄斧」。
マレー語では、besiに「鉄」という意味がある。

豊葦原の瑞穂の国とは、この東海の島々のことだ。
そしてこの島々から発した人々は「豊」の一族…。
干潮(ヒシ)を見渡すこの海辺に立ち、
そう思わずにいられなかった。



セーナナーの聖域内の石碑には、
「御先神様御降臨の聖地」と刻まれている。
御先(うさち)とは、紀元前後のことをいう。
その時代に往来した古代海人七氏族の痕跡を、
この地に残った後裔族が語り継ぎ、建立したようだ。
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御嶽内には石棺がいくつか安置され集合墓地の
様相を呈している。市教委の説明板にある通り、
この「降臨地」から、ある一族は島内の西部へと
移り住み…またある一族はヤマトへと北上した。
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海人七氏族の痕跡は↓御嶽内の拝所にも見られた。
縦70cmほどの小ぶりな石に神名が刻まれている。

左は、左三つ巴紋とその下に「大国大主神」と。
右は、左二つ巴紋とその下に「恵比寿大神」と読める。
中央には日月紋らしき刻印があるが、その下の神名は、
摩耗していて、しばらく目を凝らしても読めなかった。

とはいえ、大国主と恵比寿神というヤマトの神名
は、末裔同士の交流が長く続いた歴史を偲ばせる。
逆に、大国主は琉球に発した言葉とも考えられる。
沖縄本島には、大国大主という按司がいて、
大国家という根家があったとの伝承が残っている。
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海人族は、「移住する王朝」でもあったと思う。
首長・大国主に率いられた一族は居住地を
離れて新たな土地へと移住したが、故郷に残った
血縁一族とは交流を続け、領土を拡大していった。

その「豊の国」は九州を北上し瀬戸内海を渡って、
丹後へ、出雲へ、紀伊へ、大和へと移住した。

海人七氏族とは、「豊の国」から移動して
ヤマト国を拓いた「七つの首の蛇(龍蛇族)」。
神女は「七ぬウミナイ」(7人の日巫女)という。
(那覇市に残る所縁の記事は、こちら

「豊の国」の日巫女たちが崇めたのは、豊受大神。
  籠神社は亦名を宇迦御魂(うかのみたま)とする。 
海人七氏族(七つの首の蛇)の御魂である。















by utoutou | 2016-07-23 19:01 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 37 伊計島の「鏡」

沖縄本島の東に浮かぶ伊計島。
セーナナーの御嶽を抜けると海に出た。
7月4日(月)11時11分。
丘の上に、南東の空を向く大きな鏡を発見。
斎場御嶽のナーワンダーグスクと同じカーブミラー状。
鏡自体は古い時代のものではないと分かるし、
いま『琉球国由来記』を調べても、伊計島ノロが
祀る祭祀所として記録が残っているわけではない。


ただ、鏡の前に置かれた香炉は、ここが
太陽神と祖神を崇める聖地だったことを物語る。
少なくとも七氏族(セーナナー)の末裔にとっては。
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…にしても、はあ(なぜここに鏡)と、溜め息が出た。
標石は見当たらない。ただ日に向かう鏡。
その中心へと寄り添うように支石が積まれている。
語り部がの話では、20年前ぐらいまでは、もう少し
小型だったというが、ともかく鏡は祀られていた。

スマホ画像に残る時刻は、同じく11時11分。
正面から見上げる鏡に太陽光が映り込んでいた。
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やはり11時11分。右へ進んでまた1枚。
近くの海岸に釣り人がいるらしい気配があったが、
あえて島の突端に鏡を祀ったところに、
海人族の末裔らしい神祀りのありようを感じる。
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セーナナー御嶽へと進む小道沿いには、
大日本塗料社の耐候性試験所というのがあった。
また、後日ネットで店名を知ったのだったが、
ギリシャ料理店リトルグリークキッチンがあった。
コンテナを利用した店内を窓から覗くと、
天井で白い羽根の扇風機がゆっくり廻っていた。
本島からグルメが車を飛ばして通う人気店らしい。





鏡と正対したまま振り帰ると、一面の海。
鏡はいったい、何と相対しているのか? と思う。
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海から30度ほど体を西にひねると目前に宮城島。
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拝所を去る間際にもう1度、鏡を見上げる。
微妙な角度で上を向く鏡には通信機能もあったか?
久高島で聞いた話では、神人たちや海人たちは、
かなり最近まで鏡の光で通信し合ったという。
西海岸と東海岸で、モールス信号を打つように。
しかし、鏡の先には太平洋が広がるだけだ。
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あるいは、南中の太陽光線を捉える装置か。
子午線(南北線)を示す太陽コンパス?
しかし、羅針盤ならこうして大地には祀らない。


どこまでも謎の鏡。一笑に伏される覚悟で聞いた。 
「鏡は、沈没したムー大陸を指しているのでは?」
    すると語り部は、さらりと言った。   
「日のいずる処から来た人々の痕跡ですからね」
「ムー大陸から来て、ヤマトへ行った人たちの?」
「はい、そう思います」

(やはりか…)はあ…と、また溜め息が出た。










by utoutou | 2016-07-19 21:47 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 36 琉球にいた海人七氏族

海部氏系図に「おとよ」という男孫がいる
いっぽう、歴史に残る姫に台与(とよ)がいる。
『魏志倭人伝』に卑弥呼が没して国が荒れた後、
13歳で女王として立ったと記された日巫女である。

海部氏の勘注系図では、
九世孫の妹・日女命(ひめのみこと)がいて、
その亦名が、倭迹迹日百襲姫命
(やまとととひももそひめ)だが、これが卑弥呼か。

また日女命は十一世孫の妹にもいて、その亦名
稚日女命(わかひるめのみこと)、あるいは、
小豊姫命(おとよひめのみこと)となっている。
この姫が、どうやら台与のことらしい。
(伴とし子著『卑弥呼の孫トヨはアマテラス
だった』を参照)

小登与、小止与、雄豊、そして小豊姫…。
それら「おとよ」なる人々は、語り部が言うように
真名井神社の祭神・豊受大神に繋がる人々なのか?

語り部は言う。
「豊とは沖縄でいうトトの神、つまり偉大なる父神
を意味する言葉です。神様を拝んで合掌する
とき、沖縄の人たちはウートートと念じますよね。
そのトトです。そして、倭迹迹日百襲姫命に
あるトトも、私は同じ意味だと思っています」

私のブログネームはそのウートートから戴いたが、
豊受大神を指しているかもしれないとは驚きだ。
「豊」族が、古代に琉球から渡海した海人族なら、
邪馬台国の台与も琉球にいたことになるのか!?


なかば呆然としつつ、改めて
籠神社の所伝にいう豊受大神を見てみる…。

籠神社の先代宮司・海部穀定著『元初の最高神
と大和朝廷の元始 伊勢神宮鎮座前史の研究』
からは、次のような神像が浮かぶ。(要約)

☆雄略の時代、真名井原の与謝宮から伊勢
神宮外宮に御饌都神(みけつかみ、食の神)として
遷移した神格に限らず、宇宙根源の大元霊神である。
☆元初の神で、天御中主神、国常立尊に該当する。
☆その権現した神は、宇迦御魂(倉稲魂)である。

海人族は豊受大神こと宇宙の大元神を信仰した。
思えば、ウカノミタマ(宇迦御魂、倉稲魂)に
ついては1年ほど前に、こちらのシリーズで書いた。
久高島や玉城に残るかすかな手がかりをもとに、
ウカノミタマとは、龍蛇(大船)に同乗して移動
した「7つの首の蛇」こと海人七氏族のことだと。


そして今月上旬、語り部が、何十年も昔に
聞いたあることを、突然思い出したと言った。
  
「御先(うさち、上古)の時代、伊計島からヤマト
に上った七氏族がいたと、神人から聞いたことが
 あります。伊計島にその場所が残っていたんです」

ちょうど沖縄にいた私は、
語り部に案内を頼み、レンタカーを走らせた。


古代氏族の痕跡はしっかりと残っていた。
伊計島の集落のはずれにある御嶽・セーナナー。
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セーナナー(七氏族)の詳しい動向は忘れ
去られたようだが、うるま市教育委員会による
標識が立っており、次のような説明があった。

〜セーナナーは、伊計島に人が最初に暮らした
地と言われている聖地です。その場所から
ニシバル(西原)のシンヤマへ移住したと
伝えられています。
かつて、伊計島のナナウジ(神を祀る家)たち
は御馳走を供え、祈願しましたが、残念ながら
現在は行われていません。〜


鳥居から入った聖域には、拝所や石棺が並ぶ。
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拝所ばかりではない。語り部がジャングルのような
草むらを進むので追うと、その先に開けたのは…。
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海、太平洋である。
さらに、岩場伝いに干潮の波打ち際まで降りると、
これはヒミコの鏡??という光景が目に飛び込んだ。
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by utoutou | 2016-07-17 21:18 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(6)

六甲山と瀬織津姫 35 ヒミコは移動した

海部氏の系図に「とよ(豊)」のつく男孫が、
度々登場するが、その名の由来とは何か?
ということを考える前に、女神の話を少々…。

撞賢木厳之御魂天疎向津姫命(つきさかき
いつのみたまあまさかるむかつひめ)は、
ご存じ、神功皇后が創祀した兵庫第一の古社
である廣田神社の主祭神。
日本書紀的には、天照大御神の荒魂とされるが、
この長い神名について、語り部はこう言っている。

「日巫女が掲げた神の依り代を連ねた神名だ」と。
彦火明命…のあの長い神名のときのように、
今回も分解してみると、意味がよく分かると。

そんなわけで、以下のように分解してみると…
撞賢木・厳之御魂・天疎・向津姫命。
なるほど、絵に描いたように日巫女像が見える。
剣・勾玉・鏡・を掲げて日神に向かう姫だ。


↓廣田神社の祭神名の由来はその祭祀にある?
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廣田神社の境内には古代祭祀を偲ぶ井戸もある。
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その神水は、神奈備である甲山から廣田神社へ。
その御手洗川はいま、散歩道や公園になっている。
↓ 廣田神社にある古代遺跡地図。
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では、その日巫女(向津姫)はどこにいたのか?
私は「豊の国」にいたのだろうと思った。
豊後、豊前、豊浦など「豊」のつく地名の多い
土地と言えば、北部九州である。海部氏の
先着隊は「豊の国」から丹後に移動した。

そして、その名残りをとどめるように、
首長の名に、「とよ(豊)」の暗号を潜ませた?

祭祀を担う日巫女は、撞賢木厳之御魂天疎向津姫命。
剣・勾玉・鏡という弥生時代の「三種の神器」
が、王墓からの副葬品として揃って出土するのは
全国でも北部九州だけで、畿内には見られないという。

「豊の国」には、あのヒミコの鏡の出土した
 日田(大分県)も含まれることは記憶に新しい。
思えば、その一族とは琉球から渡来した日下部
だったとは、何度か書いた()ことだった…。







by utoutou | 2016-07-13 21:28 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 34 海部氏系図の謎

「海部氏勘注系図」に瀬織津姫の神名がある
のを、系図を入念に見ていたときに知った。
つい先日のことだ。勘注系図「前書」の
最後尾(左いちばん下の部分)に、次のように。

天照皇大神宮 天照大神荒魂 瀬織津姫命

その左には「春日社 天児屋根命」、
さらに左には「猿田彦命 一云 大世多大明神」
とあり、また右方に「眞奈井社」ともあるので、
境内摂社の解説部分なのだと分かる。

↓勘注系図を接写。全体図はこちらにあります。
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現在も摂社として並ぶ(左から)猿田彦社、
春日社、天照大神和魂社(注釈に荒魂とある)。
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※系図、写真とも、
『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』より拝借。


瀬織津姫はいま「縄文の女神」と呼ばれるが、
ご存じ縄文時代からその神名だったわけではない。
誕生したのは、天武・持統の時代にまで下る。
中臣氏が大祓詞に瀬織津姫として封印して、
(祟りを鎮めるための)新しい祭祀を始めたときだ。
その内容は、927年に完成した延喜式に見える。

「海部氏勘注系図」に、瀬織津姫の
神名が記されたのがいつだったかは分からない。

金久与市著『古代海部氏の系図』(学生社)に
よれば、勘注系図は古代より伝わる「丹波国造本紀」
を、仁和年間(885〜889年)に補正したものを、
さらに江戸時代初期に書き写したのだというが、
いずれにしても、始祖・天照国照彦火明櫛玉饒速日命
にも見える天照大神(男神)の妃神を、
作られた皇祖神・天照大御神(女神)の荒魂と
して祀らねばならなかった、ねじれた祭祀状況に、
「元伊勢・籠神社」の無念を思わずにいられない。


さて、もう一点、
勘注系図を見ていて、非常に謎めいていたのが、
「おとよ」と名のつく人物が何度か登場することだ。

まず、十世の孫である
縫(おぬい)命の亦名が、小止与(おとよ)命。
妹に大倭姫の名があり、その亦名が倭迹迹姫命。

九世孫である倭迹迹日百襲姫命との近似性が気に
かかるが、この点は金久与市氏も指摘している。

次に、同族・尾張氏の部分。海部氏十一所世孫に
乎止与(おとよ)命がいて(過去の記事はこちら)、
その妹が宮姫である。この姫は、
ヤマトタケル妃として亡夫から草薙の剣を継承した。

そして、私がもっとも興味を引かれたのが、
後に如意尼となる真井御前(まないごぜん)の父で、
海部直三十一代の名前も、雄豊(おとよ)であること。

重要人物に「おとよ」が、なんだかヤケに多い。



秘仏・如意輪観音像ご開帳の日に訪れた
神呪寺に残る真井(まない)御前の姿。掛軸の
横に「海部直・雄豊の娘」との解説があった。
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神呪寺(西宮市甲山町)と神奈備山の甲山。
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「おとよ」という名のつく海部氏のキーパーソン。
その解釈について、語り部に意見を求めると…。

「豊…という字を示す暗号ではないでしょうか」
と言った。意表をつく見立てに驚き、私も聞いた。
「豊とは、真名井神社の豊受大神のことですか?」
「はい、大いに関係があるのではと、思います」

籠神社奥宮・真名井神社の祭神である豊受大神。
その来歴に、いったいどんな秘密があるのか?

六甲山から始まったシリーズ、ようやく戻ってきた
と思いきや、なんだか難解な謎解きが待っていた…。








by utoutou | 2016-07-11 22:34 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 33 スサノオの再臨

籠神社に初めて参拝した'09年のこと、
宮司さんに何やら不思議な話をお聞きした。
その年の春の葵祭りのとき、御神幸と呼ばれる
渡りの最中の正午ごろ、太陽に輪の虹がかかったと
いうのだ。それはまさに宝冠のように輝いていたと。
↓ 記念写真を印刷したものを、私も頂戴した。
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その写真を思い出し、いま改めて見て、
「時代は変わるときが来たのかも知れません」
と、仰った意味が飲み込めたという思いがする。

丹後では、葵祭りを「藤祭り」とも呼ぶそうだ。
あるいはまた、「御生(みあれ)の神事」とも。
最初に司祭したのは、彦火明命。

「御生れ」とは神が降臨または再生することをいう。
沖縄久高島の言葉で言えばイザイホーの「魂替え」。
始源の神の霊力を、新しく入れ替える神事を指す。


葵祭りはまた、『海部氏勘注系図』の綏靖天皇
代の欄には、「御蔭の神事」とも記されている。
天御蔭命がスサノオの異名だと解釈したいま、
その神事の意味を私なりに紐解くと、葵祭りとは
スサノオの神迎え神事ということになるか。

記紀成立の時代に大和朝廷によって祭祀が
 改変されて以来、海人族の大王・天御蔭命
(私見ではスサノオ)は悪神・禍々しい神とされた。
その神の新たなる御生れの時に現れたに虹は、 
  籠の鳥が出る「夜明け」の到来を告げていた?



藤祭葵祭発祥二千五百年祭風景。
『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』より拝借。
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↓ 籠神社。現存最古の系図と言われる
『海部氏本系図』『海部氏勘注系図』は、
   秘蔵1200年を経て、'76(昭和51)年に
   籠神社より公表された後、国宝に指定された。
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by utoutou | 2016-07-08 22:22 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(4)

六甲山と瀬織津姫 32 神の名はスサノオ

籠神社(京都府宮津市)に伝わる『勘注系図』
では、天火明命のこととされる
天御蔭命(あめのみかげのかみ)が、こちら
国懸神宮(くにかかす神宮、和歌山市秋月)の祭神
でもあることは、先日、語り部の指摘で気がついた。


参拝したのは5月末日。一の鳥居から入ると、
左に日前神宮、右の国懸神宮が鎮座している。
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明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと)。
確かに国懸神宮の祭神・国懸大神の下に神名が。



↑ 日前神宮・国懸神宮の由緒を改めて見る。
〜謹みて按ずるに 日前国懸大神は天照大神の前霊に
座しまして 其の稜威名伏すべからざる太古大神
天の岩窟に幽居ましし時群神憂ひ迷ひ 手足措く所を
知らず 諸神思鐘命の儀に従ひて種々の幣帛を備へ
大御心を慰め和め奉るに當り 石凝姥命 天香具山
の銅を採りて 大御神の御像を鋳造し奉る 是れ
日前神宮奉祀の日像鏡 国懸神宮奉祀の日矛の鏡に
して二鏡 斎き祀る〜

難解ゆえ、日前・国懸神社HPから要約すると…

☆日前宮の神体は日像鏡(ひがたのかがみ)。

☆国懸神宮の神体は日矛鏡(ひぼこのかがみ)。

☆神代、天照大御神が天の岩戸に隠れたとき、
思兼命の議(はかりごと)によって石凝姥命が
鋳造した天照大御神の鏡を祀り、後に鋳造した
鏡は伊勢神宮の神体となったと日本書紀にあるが、
神武東征の後、紀伊国造の天道根命が、二つの神鏡
を(共に)祀ったのが、当宮の起源である。

つまり、二枚の鏡は表裏一対のまま
日前神宮・国懸神宮の神体として祀られていると…。
伊勢神宮の八咫鏡に先立って造られたものだと…。
国史を根底から揺るがすような由緒書きである。


では、
その鏡を奉祀した日前大神・国懸大神とは?
語り部の見立てはこうだ。
「日前大神とは天照大御神(女)より前の日神で
天照大神(男)、国懸大神は素戔嗚尊のこと…
合わせて天照国照となるのだと思います」



天津神と国津神、共に男神だったことになる。
↓ 国懸神宮には記紀にない歴史が見えると、語り部。  
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私は聞いた。
「すると、籠神社の系図にもある天御蔭命とは?」
「代々継承された素戔嗚尊の御魂のことでしょう」


それなら分かると…ようやく解けた謎がある。
天御蔭命の名は、勘注系図に何度も登場する。
そのことが、どうも解せなかった。
三世孫の倭宿禰命、六世孫の建田勢命、九世
の大那毘命、十一世の小登輿命、十二世の建稲種命。
その建稲種命は「亦の名を須佐之男という」とも。

天御蔭命がスサノオの魂を継承する人物に冠する
神名ならは、何度も登場することに違和感はない。

そこで、籠神社で求めた林兼明氏による大著
『神に関する古語の研究』を開いてみた。
以下「あめのみかげ、ひのみかげ」の項の要約。

☆祝詞文によくある「天之御蔭、日之御蔭」は
の語句は日本民族の根本信念で唯神大道の極致。
賀茂真淵が「蔭=遮蔽」と誤解して意味が混乱した。

☆「天之御蔭、日之御蔭」とは、
「天日の光躍=天日の恩光」の意味と考えられる。

「蔭」は古来、現代とは真逆の言葉だった。
天に光り輝く「天御蔭命」とはスサノオだった


語り部は言う。
「蔭は、“映した”の意味とも考えられますね」
「コピー?」
「はい、蔭に投影することで隠した神」
「後ろの正面だーれ、ですか?」
「はい、籠の中の鳥はスサノオだったのでしょう」

遂に出た、『かごめかごめ』の籠の中の鳥。
その神の名は、スサノオだ。


 ↓江戸初期に書写されたという、
勘注系図にはスサノオの暗号が隠されていた?
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by utoutou | 2016-07-06 21:31 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(4)

六甲山と瀬織津姫 31 ヒミコの魂(改)

 伊勢神宮から淡路島の北部・船木の磐座まで
の東西軸を貫く「太陽の道」。北緯34度32分、
総距離約200kmとなるレイライン上に点在する
古代の聖蹟群が物語るのは、原初の太陽信仰だ。

それは海人族が航路を定める羅針盤であり、
五穀豊穣を占う農事暦であり…人々が、
生命の輪廻と子孫繁栄とを祈った聖域。

よって、そのレイライン上に築かれた箸墓の
被葬者と言われる倭迹迹日百襲姫命が、
大物主の妃神であると同時に、太陽に向かって
日神を祀る向津姫だったことを示している。

ただ、二至(夏至冬至)二分(春分秋分)
に行われた日神祭祀は、何も北緯34度32分
の線上だけに限ったことではないと思うのだ
日神祭祀を行う巫女を向津姫と呼ぶなら、
向津姫とその神籬は緯度に関係なく在った。

憧賢木厳之御魂天疎向津媛命が祀られる
廣田神社は北緯34度45分に。

ホツマツタエが祭神・瀬織津姫、天照大神と
記す日前神宮・国懸神宮(和歌山市秋月)は、
北緯34度13分に。瀬織津姫は向津姫である。



日前神宮・国懸神宮
(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)
には、伊太祁曽神社と同日に参拝した。
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日前神宮。祭神は、日前大神こと瀬織津姫。
相殿に、思兼神(おもいかねのかみ)
石凝姥命(いしこりどめのみこと)。
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国懸神宮には国懸大神(くにかかすおおかみ)
と、玉祖命(たまおやのみこと)
明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと)
細女命(あめのうずめのみこと)が祀られる。
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広大な境内の東西に、二社を祀る。
日前神宮方向から国懸神宮を見る。
朝7時40分。国懸神宮方向から朝日が射す。
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迹迹日百襲姫、神宮皇后、瀬織津姫…。
この姫君たちに共通する向津姫の条件とは何だろう。

語り部は言う。
「向津姫は日巫女であり日御子だったと思います。
代々の天皇の姫が斎宮となったように。それなら、
その頂点にいた王は、どなただと思いますか?」
その問いに、私は答えられなかった。
「……」
「天御蔭命(あめのみかげのかみ)だと思います」
「あ、それなら分かります。『海部氏勘注系図』
に、天火明命と同神だと書かれてますね。
迹迹日百襲姫もその系図に日女命と」
ヒミコの魂を継ぐ姫には間違いないのですが、
私には、火明命が天御蔭命とはどうも思えない」

驚いたことに天御蔭命は、こちら国懸神宮にも
明立天御影命として、祀られている。つまり、
丹後・六甲山・大和・熊野を繋ぐ神とも言える
が、さて、その新たに見えてきた神像とは…。

by utoutou | 2016-07-05 17:36 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)