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六甲山と瀬織津姫 48 空海の鷲林寺

 六甲比命神社への参拝をきっかけに、
南方系海人族の痕跡を求めて、はや半年。
50回まであと少しというロングランと相成った。
「六甲山を1、2回」の予定が、ここまで続くとは。

  語り部は言ったものだ。
「六甲山には、琉球の宝珠が隠されていると思う。
神呪寺の極秘本尊であり、空海作の如意輪観音像
の中か、六甲比命神社の周辺のどこかに…」
   
その宝珠は、琉球を出て日本列島のヘソにあたる
六甲山に居所を定め、日本という国体の元を造り、
やがて表舞台から消えた、琉球海人族の存在証明だと。

その一族は紀元前の時代から、南薩摩を本拠に
琉球諸島や大陸との間を航海して貝交易で活躍した
隼人族、後の日下部氏だと私は考えるようになった。
「六甲山と瀬織津姫」を追うと、摂津から丹後地方に
かけての随所に日下部氏が見え隠れするからだ。

昨日、語り部は言った。
「瀬織津姫は、豊受姫であり、大日孁貴であり、
撞賢木厳之御魂向津姫であり、龍宮乙姫なのですよ」

宝珠とはやはり…と、私は思った。
龍宮(琉球)乙姫から浦島太郎が受け取った
玉手箱に入っていた「琉球の玉」に違いないと。

実際、鎌倉時代末期の作という
『元亨釈書』は、次のように記している(要約・訳)。
〜淳和天皇の次妃・真井御前(如意尼)は丹州与佐
の出身。828年、空海に従い出家して神呪寺を建立。
これより前の825年、故郷へ里帰りした真井御前は、
龍宮から帰った浦島太郎から玉手箱を受け取った。
空海はそれを如意輪観音に入れた。〜

浦島太郎の玉手箱。おそらく、これが、
「六甲山と瀬織津姫」を探る最後のヒントだ。

キーパーソン・空海はまた、神呪寺から1.5kmの
至近距離の山中に鷲林寺(じゅうりんじ)を建て、
まるで六甲山に結界を張るように、修験道を作った。
それはまたどうしてなのか?




六甲山・鷲林寺(西宮市鷲林寺町)の本堂。
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鷲林寺本堂の右奥に立つ、弘法大師・空海。
訪れたのは5月、神呪寺本尊御開帳の前日だった。
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↓手水舎の大鷲。鷲林寺HPの由緒によれば、
〜 833年、淳和天皇の命を受け霊場を物色して
いた空海が廣田神社に泊まっていたとき、夢枕に
立った仙人からの指示で西の山へ向かったが、
道中、大鷲が現れて火炎を吹き邪魔をしたという。
そこで清水に浸した木の枝で大鷲を追い払い、
桜の霊木で十一面観音を彫り本尊として祀った〜
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↓荒神堂。
大鷲と化した麁乱荒神(そらんこうじん)を祀る。
説明板には次のようにある(要約)。
麁乱荒神は、神呪寺の開基伝にも登場するので、
両寺にとって大切な尊である。麁乱荒神とは、
8つの顔と8本の腕を持つ八面六臂の姿で、別名を
三宝荒神という。俗に「竃の神」としても信仰される。
なお、宝塚市の清荒神・清澄寺も同神である。〜
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空海は、
神仏習合により神祇信仰が行き詰まった9世紀、
瀬織津姫(撞賢木厳之御魂天疎向津姫)を
麁乱荒神(八臂弁財天)として、隠し祀ったのだろう。



















by utoutou | 2016-08-29 21:12 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 47 トヨウケビメノカミ

熊野本宮大社の神職を代々務める九鬼家、
また籠神社の海部氏が奉斎する神が
天御中主神ならば、住吉大社の津守家も然り?

籠神社奥宮・真名井神社の奥に広がる禁足地。
鳥居脇には、祭神・豊受大神(天御中主神)とは、
宇迦之御魂(稲荷大神)であり、また塩土老翁
・綿津見大神・住吉同体でもあるとして、
異名同神の名を刻んだ石標が立っている。



廣田神社(西宮市大社町)の祭神は、
撞賢木厳之御魂天疎向津媛とされるが、脇殿には
住吉大神が配神されている。つまり、
本来の祭神は天御中主神なのではないだろうか?
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というわけで、『住吉大社神代記』を見る。
住吉大社(大阪市住吉区)第一本宮神殿の奥深く
秘蔵されていたという唐櫃入りの古文書
(長さ17mの巻物)である。

住吉大社の神主が神祇官に提出した文書で、
巻末に大同3(731)年と。1300年近く昔だ。 


  とはいえ神主従八位下津守宿禰「嶋麻呂」、
遣唐使神主正六位上津守宿禰「客人」という
2名の直筆署名と、「後代の験の為に判を請う」
という注釈とともに、住吉郡と摂津職の押印がある。
写真は田中卓著『住吉大社神代記の研究』より拝借。
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いわば、津守氏の極秘家伝(全文漢字)。
大半が『日本書紀』と同じというが、ここだけは
譲れなかったのだろうと思われる独自の説話も載る。
他でもない、まずは「天地開闢」についての部分だ。
(以下引用)

〜 時に天地の中に一の物生れり、状(かたち)
葦牙(あしかび)のごとし。便(すなわ)ち神
 となる。天御中主尊(あめのみなかぬしのかみ)。
一書に曰く、国常立尊(くにとこたちのかみ)。
次に国狭槌尊(くにさづちのかみ)、次に
豊斟渟尊(とよくむぬのかみ)。凡て三神ます 〜

津守氏が崇める住吉大神も、やはり天御中主神。
皇學館大学元学長の田中氏によれば、
↑ 赤字部分は『日本書紀』にない所伝という。
ただ、『古事記』の所伝とは一致すると見ており、
『住吉大社神代記』の撰者は、『書記』にない
自家の古伝を強調したかったのだろうと記した。


廣田神社の脇殿に祀られる
住吉大神(=天御中主神)こそ、廣田神社の
真の祭神だと推理したところで、葉山媛を思った。
摂社・斎殿(ときどの)神社に祀られる初代斎宮だ。
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説明板に見える葉山媛・斎殿神社とは(要約)
☆神功皇后が廣田神社を創建した際、
皇后の命を受けて天照大神之荒御魂を祀った。
☆古くは廣田神社の東北・御手洗川沿いに鎮座
していたが、何度かの遷座の後、ここに祀られた。
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廣田神社の東北、御手洗川沿いとは甲山の麓。
葉山媛はいまの神呪寺の近辺で神祀りをした。

祀ったのは豊受大神(天御中主神)と、
 その向津姫こと豊受比売命(トヨウケビメノカミ)。
 亦の名は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛(瀬織津姫)。










by utoutou | 2016-08-24 11:43 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(6)

六甲山と瀬織津姫 46 九鬼文書(くかみもんじょ)

「九鬼(くき)一族は、熊野から加古川へ渡った」
語り部がそう言ったのは、私が熊野への
神社巡りを終えた昨年末のことだった。

九鬼氏は一説には中臣氏の係累で、代々、
熊野神社の別当職にあることは有名だが、それも
後白河天皇の時代に任じられて以来の旧家とか。
中世後期は九鬼水軍、近世は綾部藩として知られる。


その「九鬼」の名を熊野本宮大社の参道で見た。
↓ 落書きが目立つが、宮司さんの新年メッセージ。
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↓ もはや懐かしくさえ感じる、
今年('16年)正月仕様の熊野本宮大社の拝殿。
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ところで、古来、加古川流域だった播磨は、
まさに私がいま注目している摂津国の西隣り。
現在の兵庫県加古川市と高砂市の市境に、
六甲山系に連なる播磨アルプスこと
高御位山(たかみくらいやま)がそびえている。

その頂きこそ、
九鬼一族にとっての霊峰であると語り部は言う。


標高304mだが、ご来光スポットとして人気とか。
↓高御位山の写真は「全国 観るなび」HPより拝借。
ちなみに、東経134度47分(北緯34度48分)。
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高御位山の山頂には高御位神社が鎮座しているが、
高御位神社運営委員会発行『聖峰たかみくら』に、
その由緒と伝承が記されている(以下要約)。

☆地元の旧家より昭和62年に発見された古文書
(大同2年(西暦807年)の記述あり)によれば、
祭神は高御位大明神(大己貴神命と少名彦命)。

☆その高御位大明神は、大同2年に降臨した
(朝廷の宗教改革によって降臨儀式が行われた)。

☆凝灰岩からなる山頂の磐座は、古代祭祀遺跡。
円形テラスには、灯火用に加工された盃状穴や、
御水址(みもひし)、祓禊趾(みそぎし)などの
祭祀遺構があり、ここが天壇だったことが窺える。

上古、天皇(帝)の即位式はこの山で行われた?

天皇の即位礼が行われる
高御座(たかみくら)の元型を、この高御位山に
見る思いがするのは私だけだろうか。
もし命名の時系列が逆だったなら、不敬のカドで
斬罪されたかもしれない時代もあったのでは?



高御座とは、天皇の玉座のこと。
平安時代から京都御所に安置されており、
平成天皇の即位の礼には自衛ヘリで皇居に運ばれた。
↓ 即位礼正殿の儀。※朝日新聞デジタルより拝借。
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さて、くだんの九鬼家に家伝として残るという
  古史古伝に『九鬼(くかみ)文書』がある。
成立の詳細は不明だが、天児屋根命の時代
に書かれたという神代文字を、奈良時代に
藤原不比等が漢字に直したものだと言われる。

そのなかに、
高御位山と古代天皇の関係に触れた箇所がある。
※三浦一郎著『九鬼文書の研究』を参照して要約。

〜神武五代の孝昭天皇は即位した後の正月、
天中押別命に命じて高御位山に鬼門八神を祀った。
高御位山は、皇始祖である天御中主天皇の磐座
の在るところ。神国で唯一の霊峰聖地である 〜

ちなみに、孝昭天皇の時代は日本書紀に沿えば
紀元前5世紀だが、編年の捉え方次第ではもっと下る。

また、鬼門八神(宇志採羅根真大神)とは、
天之御中主大神、高御産霊大神、神御産霊大神、
伊弉諾大神、伊邪那美大神、天照大御神、
月夜見大神、建速素戔嗚尊大神。


やはり…天之御中主大神。しかも…皇祖神。
九鬼文書には、その即位の経緯も記されている。

〜(顕生の神)天地萬身光生大神と、
(幽界の神)天地黄泉大神が聖婚して、
天津日嗣の大神である天之御中柱天地豊栄大神
(万国の統治神)が誕生した。この神は、
皇子である天御中主神に皇位を継承した。
ここまで一世24代にして312代、5万年余なり 〜

こうして超古代史に触れると、琉球の「天孫氏王朝
17802年」の数字は、驚くにあたらないと思う。
語り部は、「人類は誕生から9008代」
という神女の口伝を聞いたこともあるそうだ。
    





by utoutou | 2016-08-21 09:59 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 45 天御中主神ライン

天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)のことは
↑ 先日書いたが、それは海人族にとって
子(に)ぬふぁ星(北極星)と見なされた神。
籠神社・海部氏の所伝によれば、
奥宮・真名井神社の祭神であり宇宙根源の大霊神
・国常立大神であり、宇迦の御魂(倉稲魂)である。


籠神社の奥宮・真名井神社境内にある天御中主神
   の磐座。手前の標石にその神名が刻まれている。  
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天御中主神はまた、上古の沖縄にいたらしい
「海人七氏族(セーナナー)=七つの首の蛇」の御魂、
つまり「宇迦の御魂」であり、豊受大神というのが、
語り部の伝授を私が咀嚼して至った結論である。

その神は丹後・真名井神社から伊勢へと遷座。
千年以上を経た今も外宮・豊受大神宮に鎮座するが、
神徳は天照御大神の御饌津神(食物・穀物を司る神)
としてであって、海部氏の所伝とは大きく異なる。

なぜそんなに大きく異なるのかというと、
天御中主神は存在を消されたからである。
海人七氏族(先住系海人族)の崇める大神は、
その消滅と運命を共にせざるをえなかった。

物部氏が蘇我氏に滅ぼされた契機は、538年。
いわゆる仏教の教典や仏像の伝来にあったと思う。
その導入を担った蘇我氏の台頭に対して、神道を
擁護した物部氏は滅亡(587年)へとひた走る。

やがて起こる藤原氏の宗教改革によって、
       7世紀後半までに天御中主神は駆逐された。      

記紀では「天香香背男(天津甕星)征伐」と
されるが、まさにその星こそ天御中主神だった。


真名井神社にはこれまで3回ほど参拝したが、
こうした海人族の盛衰には思いが及ばなかった。
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さて、六甲から丹後へと北上するかのように
描かれた、東経135度の子午線とは?

それは、海人族の渡来地を貫き、聖なる
子ぬふぁ空を崇める「天御中主神ライン」。上古の
天皇を守護すべく北斗七星を象徴していたと思う。



改めて、琉球王朝の聞得大君が礼拝したという
天御中主神と七人の日巫女」の掛軸を思い出す。
中央に弁財天=瀬織津姫が鎮座しており、
7人の日巫女たちは北斗七星の化身に見える。
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きょう8月17日(水)は、ちょうど
沖縄では旧盆ウークイ(お送り)の日。
ご先祖さまが天空へと戻ってゆく、いまは夜…。











by utoutou | 2016-08-17 23:06 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 44 東経135度の子午線

「レイラインは6本ある」という語り部への神託
 (記事はこちら)を私なりに受け止めて、
 メッセージに秘められた意図を推理してみる。
最終的に知りたいのは、無論、六甲山と
沖縄を出発した海人七氏族との関係である。

六甲山レイラインを考えるときの起点は、
語り部の言う日前神宮・国懸神宮(和歌山市)
東経135度12分(北緯34度13分)。

いわばカタカムナ人(アシア族)やホツマ族
の司祭者である向津姫(瀬織津姫)が、
北極星(天御中主神)を仰ぎ、日神に向かって祭祀
した聖地とは、東経135度の子午線(南北線)と、
レイライン(東西軸)が交差する地点となるはずだ。

瀬織津姫に所縁の聖地がはたして6ヶ所あるか…。
(奥宮と里宮の関係にある神社は1グルーブとした)


(1)保久良神社(神戸市東灘区)
東経135度16分(北緯34度44分)
本殿の右脇に摂社・御祓神社と東向きの
伊勢遥拝所、奥には三交岩なる巨大な磐座が
あり、古代祭祀場の中心地だったことが窺える。
御祓神社の祭神は春日大神と天照皇大神だが、
本来は瀬織津姫だったとの説もあるようだ。


(2)芦屋神社(芦屋市東芦屋町)
東経135度18分(北緯34度44分)
カタカムナ文献を残したアシア人が社名の由来?
横穴古墳に↓菊理姫(瀬織津姫)が祀られ、本殿には
豊受姫も鎮座。ちなみに、奥宮と言われる六甲山頂上
 近くの天穂日の磐座は東経135度14分(北緯34度46分)。
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(3)越木岩神社(西宮市甑岩町)
東経135度19分(北緯34度45分)
高さ10m周囲30m、本殿背後の甑岩(こしきいわ)
には、市杵嶋姫大神(瀬織津姫)が祀られている。
奥宮と言われる六甲山頂上の「石の宝殿」は、
東経135度16分(北緯34度46分)で祭神は菊理姫。
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(4)廣田神社(西宮市大社町)
東経135度20分(北緯34度45分)
祭神は撞賢木厳御魂天疎向津姫(瀬織津姫)。
創建時は神呪寺(東経135度19分 北緯34度46分)
のある甲山の麓にあったのではないかとの伝えがある。
↓廣田神社境内には、古代祭祀場跡らしき磐座も。 
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(5)六甲比命神社
東経135度14分 北緯34度46分。
六甲山頂上付近の磐座「六甲比命大善神」で
瀬織津姫が祀られていたことが『ホツマツタエ』
研究者によって紐解かれ、社祠が建造されている。


(6)本住吉神社(神戸市中央区)
東経135度15分(北緯34度43分)。
住吉三神と神巧皇后を祀るが、現在、大阪にある
住吉大社は、本来この摂津にあったと考えられる。


六甲山周辺の6カ所に太陽神を祀る聖地があり、
向津姫(瀬織津姫)たちが春分秋分のレイライン
を崇めていたと、語り部は視ている。

ただ、海人に七氏族がいたとするならば、
聖地は単純に1カ所足りないということになるが、
私は、7カ所目は真名井神社では…と考えた。

(7)籠神社の奥宮・真名井神社(京都府宮津市)
東経135度11分 北緯35度34分。
 日前宮のほぼ真北。祭神は豊受大神(天御中主神)。


東経135度の子午線。南は沖縄
最南端の波照間島から、北は北海道の宗谷岬まで、
連なる日本列島のど真ん中となる。画像は、
↓日本のへそ公園のある兵庫県西脇市のHPより拝借。

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東経135度「女神の子午線」は、何を語るのか…?



by utoutou | 2016-08-15 22:57 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 43 ホツマツタエ

保久良神社境内の磐座群 ↓について書いた頃、
語り部は、磐座が渦巻き状に配置されていると
霊視した。カタカムナ文献を残したアシア族が、
磐座群で宇宙を表現して祀ったものだろう…と。


境内を金網越しに撮影した磐座(神生岩)。
         磐座群が渦巻きを成すかは、一見では分からない。         
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私は言った。
「本殿の奥へは勝手に入れなかったのですが、
ネット情報では、そういう意見もあるようですね」
「渦巻き状の磐座は、まさに先日のブログの内容、
カタカムナのウタヒ”を象ったものだと思います」

そう言えば、やはり縄文人の古伝と言われる
『ホツマツタエ』の「アワ(天地)の歌」も
古代人の宇宙観を表し、四十八音が渦巻く。

語り部は言った。
「古代の人々が六甲周辺にいたのは、土地の持つ強い
宇宙エネルギーが渦巻いていたからだと思います。
日本のはじまりは六甲からとされるのは
その地質のためで、先住民も渡来人も、それに
引き寄せられるように、六甲を聖地とした…」



こちらは、ホツマ研究家・いときょう氏が
主宰する『縄文文字を楽しく書く会』で、
資料として頂戴した ↓「フトマニの図」。

カタカムナとは一味違うが、やはり図象文字。
言霊を中心としたホツマの宇宙原理を表す。
円の中央に「アウワ」とある3つの象字は、
宇宙の中心にいる創造主のことだという。

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 ↑古代人は、創造神が「ウー」と息を吐くことで
  アウワ(ビッグバン)が起きたと考えていた。
  この息から左巻きの渦「ア」と、右巻きの渦「ワ」
  が出現したという。これが語り部の言う「アワの歌」
  の渦巻き。保久良神社の磐座は渦巻きの再現か?

  

さて最近、そんなアレコレを
思い出させる話が、語り部から飛び込んだ。

「六甲周辺には、カタカムナ系とホツマ系、
ふたつの縄文民族の流れがあったと思います。
どちらも、非常に似通った宇宙観を持っていた」

初耳な話だったので、すかさず質問した。
「そういうふたつの民族が、共存していた?」
「他にも流れはあると思いますが、少なくとも
2族は熊野(紀伊半島)から北上した。その痕跡が
日前・国懸神宮のご神体、2枚の鏡だと思います」



紀ノ川の下流域に坐す日前宮(和歌山市秋月)
は、日前神宮・国懸神宮という東西2社をさすが、
西の日前神宮は「日像(ひがた)の鏡」が御神体。
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いっぽう、東の国懸神宮は「日矛の鏡」を御神体とする。
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神域の中央あたりの坐すのは、地主神である
名草彦・名草姫を祀る中言(なかこと)神社。
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聖域の奥深く祀られる2枚の鏡は、
記紀神話「天照大神の岩戸開き」に登場する
八咫の鏡に先立って造られた鏡というのが由緒だが、
語り部は、その具体的な経緯を推理した。

「日前神宮の日像の鏡は、カタカムナ人の御神体、
国懸神宮の日矛の鏡は、ホツマ人の御神体かと…。
縄文の同時代、ふたつの海人族がこの地で融合して、
瀬戸内海から六甲山へと移動したと、私には視えます」

しばし呆然の後、私はいくつかのことを思った。
ふたつの海人族は南方から渡来した?
この地に残留した集団は名草族とも融和した?
北上集団は、瀬戸内海を渡り加古川から六甲へ?

そして、視界が晴れるような爽快感を感じた。
一対の鏡を日神の御神体として祀ったのは日前大神。
その女神を、『ホツマツタエ』では瀬織津姫という。
亦の名は、撞賢木厳之御魂天疎向津姫。
六甲山の向津姫あるいは、六甲比命とも呼ばれた。

すると今度は、難問が飛んできた。
「天疎(あまさかる)の意味は何だと思いますか?」
「天御中主神を仰いで…ですか」
ただし、次の一言が私には難解すぎた。
「だから、六甲山にレイラインは6本あるのです」






by utoutou | 2016-08-12 18:41 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 42 カタカムナ文献

天御中主神と言えば…六甲山系の
金鳥山で発見されたカタカムナ文献に登場する
ミナカヌシのことではと、密かに思っている。

紀元前1〜数万年前という超古代の日本に
先住していたというアシア族(カタカムナ人)
の文化を示したカタカムナ文献。

科学者の楢崎皐月(ならさきこうげつ)が、
1949(昭和24)年、電気測定調査プロジェクト
のため金鳥山の山中に2ヶ月ほど穴居していた折り、
平十字(ひらとうじ)という猟師らしき男と出会い、
「カタカムナの神の御神体」なる巻物を見せられた
のを機に、5年の歳月をかけて解読したという。


金鳥山は ↓保久良神社(神戸市東灘区)の北にある。
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境内の裏(西北)に、金鳥山への道標があった。
楢崎は、金鳥山の頂近くのドロカエシの沼あたりで、
カタカムナ文字の巻物を持つ平十字と出会った。
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保久良神社参拝の後、その道標の前で、
金鳥山コースを登っていく男性と擦れ違った。
地元の方らしかったのに、ドロカエシの沼が
実在しているかを聞けなかったのが悔やまれる。
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さて、
カタカムナ文献の解読に成功した楢崎氏の弟子
・宇野多美恵氏が著した『相似象』学誌(全15号)
には、図象文字で書かれた80首の歌(渦巻き)
のうち5首が載っているが、第1首が ↓こちら。
※『相似象』第10号より拝借

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中央の「カ」から始まる渦巻き状の文字列とは…。

〜 カタカムナ ヒビキ マノスヘシ
アシアトウアン ウツシマツル
カタカムナ ウタヒ 〜

次のように読み解けるという。
※深野一幸著『超科学書 カタカムナの謎』より要約。

〜現象世界の背後には目には見えないカム
 という無限エネルギーが広がる潜象世界があり、
カムナという主(ヌシ)が存在する。いっぽう
現象世界にはカムナから作られたアマナという
主(ヌシ)が存在する。(中略)
このカタカムナの歌はアシアトウアンという
人物が渦の図象として写し奉った。〜

カムナという潜象世界の主に対する存在として、
アマナヌシという現象世界の主がいると…。
その名は、別の歌には、ミナカヌシとも記される。

アマノ・ミナカヌシと天御中主。酷似している。
また、アシア族と芦屋。
これも酷似しており、その関係も気になるところ。
保久良神社と芦屋は、わずか1駅の距離にある。


↓保久良神社の参道に立っていたMAPの拡大。
(赤線は当方の加工です)

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ちなみに、平十字は楢崎に言った。
このアシアトウマンとはアシア族の首長で、
天孫族(天皇家)との戦いに破れ九州で死んだと。

六甲は、やけに古代人の往還する土地柄だ。

先日、語り部も言っていたものだ。
「六甲には沖縄のセーナナー(海人七氏族)も
渡っていたのだろうと思います。
北へ北へ、にぬふぁ星(北極星)を目指して。
あるいは先祖のいた土地へ、先祖還りのために。
芦屋神社の祭神・天穂日命を祀る一族もしかりです」









by utoutou | 2016-08-10 10:31 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 41 天皇の背負う星

天で動かぬ北極星は、天帝であり天御中主神。
その星神は古祭・イザイホーから消えた。
というより、むしろ国王の神魂と習合されたうえ
祀られたと考えられるが、その神祭りの
在り方は、何も琉球王国だけに限らなかった。

伊勢神宮と大嘗祭(天皇の即位式)の主祭神は
太一(北極星)だと、民俗学者の吉野裕子氏は
『天皇の祭り』(講談社学術文庫)で述べている。

その推理とは…(以下要約)。

☆大嘗祭の祭神は、「太一」と太一に習合された
「天照大神」と「天皇霊」という三位一体の神霊で、
これらを祀るのが現身(うつしみ)の天皇である。

☆礼服は日本古来のものでなく、古代中国皇帝
の服制の踏襲。また伊勢神宮の宗教改革や
大嘗祭の制定は、天武朝において行われた。

☆天皇は、自身が宇宙神・北極星の化身であると
の自覚から、北斗七星を礼服の背に負っている。

☆天皇の礼服は、隠された大嘗祭の意味を
無言で明示する物的証拠である。



ということで、同書では
幕末の孝明天皇の礼服(宮内庁所蔵)を掲載。
北斗七星を背に負う。中国皇帝の場合は北斗七星
でなく、北斗と織女が袖に配されデザインが異なる。
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↓ 礼服表面の最上部(肩)には、
左に太陽と三本足の鳥が、右に月と兎が、また
両袖には巻龍が、大袖と裳(下の写真)の
全体で12種の刺繍が配されている。

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さて、
古来、天皇のあらたえ(神衣)を織り上げたのは
阿波(徳島県)忌部氏の末裔・三木家だったが、
平成の大嘗祭(平成2年11月)でも伝統は貫かれた。



忌部氏は古来、三種の神器(剣・勾玉・鏡)
を奉持し(古事記)、天皇家の祭祀の中心を成した。
神衣を織る大麻作りは、徳島県美馬郡木屋平村で、
三木家当主による種播きの儀式から始まるのが伝統。
↓『大嘗祭』(キョーエイ刊、非売品)より拝借。
(厚さ6cmある大著ゆえコピー不可で概観)
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大麻の刈取りと製糸を経て、神衣の織り初め式。
忌部神社で織女たちが4反の神衣を織った。

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平成2年10月27日、1年かがりで仕上がった
4反の神衣は、三木家から皇居へと運ばれた。

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天太玉命を祖とする阿波忌部氏は、
6世紀の中頃、阿波国に進出したと言われる。

忌部氏ら六家(他に出雲・物部・三輪・吾道・卜部)
は上古より続く史家だと『先代旧事本紀』は記した。

六家に天皇家を合わせて北斗七星を成す七家…。
忌部氏は、伊計島にいまも残るセーナナー御嶽を
発った七氏族のうちの一氏だろうと、語り部は言う。
六家の行き先は六甲山から丹後へ、出雲へ、紀伊へ、
伊勢へ。さらに東へ。列島各地だったに違いないと…。


by utoutou | 2016-08-06 10:12 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 40 天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)

伊祖グスクの後、波上宮へと足が向いた。
5月に参拝したばかりだが、ふとその気になった。

スサノオとイソタケル(五十猛命)。
「書記」では高天原から出雲に天降った親子神だが、
記紀の影響をほとんど受けていない沖縄にあって
も、イソタケルは馴染みの薄い神様だと思う。

いっぽう父神のスサノオは、沖縄総鎮守である
波上宮(那覇市若狭)の祭神・速玉男尊、
事解男尊と異名同神。琉球八社のうち七社に
祀られていることもあり、篤い崇敬を受けている。


波上宮の鎮座伝説に登場する崎山里主は、
察度王(1321〜1395年)の子で、南風原の
大国家(だいこくやー)の養子となったが、海で
釣りをしていて「モノを言う不思議な石」を得た。
霊石を狙う追っ手を逃れて ↓波上山に来たときに
「熊野権現をこの地に祀れ」と神託を受けたという。
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大国大主神の名は伊計島セーナナーでも見たが、
どうやら大国家はスサノオの神系統にあったようだ。

スサノオはまた天王ガナシーとしても崇められる。
「天土大神様(あめつちのおおかみさま)」とも
呼ばれ、琉球開闢の地・ヤハラヅカサ(南城市)
の浜川御嶽に香炉があったと、語り部から聞いた。



私は伊計島を取り巻くこの↓大海原を見たとき、
天王ガナシー・天土大神様・スサノオとは「水の星の神」
「地球創世の神」と人々は捉えていたのだろうと実感した。
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さて、伊計島を先頭(北)にして、本島の東に
浮かぶ、宮城島、平安座島、浜比嘉島、浮原島、
津堅島、久高島という7つの島を、かつて神人たちは
北斗七星に例えて、「にぶとぅい星(ぶし)」
(柄杓という意味)と呼んでいたという。

いっぽう、北極星は「子ぬ方星(にぬふぁぶし)」
で、船乗りたちが航海するときの目当てとされた。
その星は、籠神社の伝承で「宇宙根源の大元霊神」
とされる天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
(=太一、天帝)のことである。

沖縄とヤマトでは、天御中主神の神格は大違いだ…
と、つい思いがちだが、実はそんなことはない。
「子ぬふぁ」(北の方向)に動かずに坐す大神として、
久高島の古祭・イザイホーでも崇められていた
ことが、その祭祀構造から見てとれる。



↓イザイホー(1978年で終了)の祭祀場となった
御前庭(うどぅんみゃー)。神アシャギ(中央)など
神屋は南面し、その奥=子(北)の方向の森のなか、
神女らが籠る7つの小屋(ナナツヤー)が建てられた。
8つ目の小屋にはアカララキ(瀬織津姫)が鎮座した
(過去の記事はこちら)。神魂の転生を司る縄文の女神だ。
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子(北)と午(南)の方向を重視する祭祀様式から、
イザイホーは「子午線の祭り」とも呼ばれる。
が、祭りが王権儀礼となって以来、天御中主神の
信仰は失われたのではないかと、島の神人は言った。
「久高島に日神と月神はいるが、星神は消えた。
それは琉球国王に取って代わられたのだろう」と。

とはいえ、
琉球王朝は「日月星辰」を信仰の基層とし、
天御中主神を秘神として崇めていた節がある。
首里城の北に位置する神屋には、聞得大君御殿に
あったものと同じ掛軸(弁財天と7人の日巫女)が、
いまも残っている(過去の記事はこちら)。  
その神像図は、丹後地方に残る天女伝説と相似だ。

語り部は、その中心に天御中主神を視る。

真名井神社の祭神は、豊受大神(=天御中主神)。
セーナナー(海人七氏族)は丹後へと渡ったのか…。





by utoutou | 2016-08-01 10:48 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)