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六甲山と瀬織津姫 55 竹野神社へ

 名神大社・竹野神社(京丹後市丹後町竹野)。
浦島神社から近畿の最北端・経ヶ岬を通り
丹後一周道路の国道178号線で、約30分。

道の駅てんきてんき丹後(←MAP)近くに鎮座。
カーナビの目的地に道の駅を入力して走った。


竹野神社(本殿)と斎宮(いつきのみや)神社。
社号標も右左に建っている(が、右は見切れた)。
齋宮神社…その社名に心奪われていたようだ。
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道の駅の名になっている「てんきてんき」は、
竹野神社の祭礼に演じられる郷土芸能のこと。



↓ 国道から入るが、これが参道だとすぐに分かった。
田畑から盛り上がった一本道。ザ・王道という印象。
日本海を背に、竹野川を河口から溯るかのように、
正面(東)に竹野神社が鎮座。手前に神明山古墳。
被葬者は丹波道主命か竹野媛と言われている。
   左奥には神体山・依遅ヶ山(いちがおさん)を遠望。   
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由緒書に、以下の社伝があった(要約)。
☆竹野神社の祭神は天照大神。
☆斎宮神社の祭神は日子坐命、
建豊波豆良和気命(たけとよはずらわけのみこと)
そして、竹野媛命を祀る。
☆竹野媛は丹波大県主由碁理の娘で開化天皇妃に。
☆老いた竹野媛が天照大神を祀ったのが創祀由来。
☆斎宮神社には用命天皇の皇子・麻呂子親王も
祀られ、鬼族退治などの伝承がある。
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天皇妃や親王とは、つくづく皇家に所縁の神社。
浦島子の先祖・日子坐命も鎮座している。
浦嶋子は『丹後風土記』に日下部首の先祖とある
が、その日下部首とは、『姓氏家系大辞典』に、
「日下部宿禰同祖、彦坐命之後也」とあった。
「即ち開化天皇後裔、丹波道主家の一族にして、
子孫大いに栄え…」「与謝郡の古大族」とも。

時代順では、開化、彦坐命、丹波道主命、そして
5世紀後半に浦嶋子(日下部)が歴史に現れる。
ということは…と、御由緒の前で考える。

日下部の前に権勢を誇った古大族…とは?
和邇(和珥)だ。開化妃となり日子坐命を生んだ
のは和邇の姥津媛(おげつひめ)だった。※記紀

 いっぽう、由碁理の娘・竹野媛も開化天皇妃
となり、比古由牟須美命を生んだ。※記
『記』の一伝では、その子が丹波道主命である。
由碁理は海部氏『勘注系図』に建諸隅命とある。

いっぽう、調べるとこちら斎宮神社の祭神
・建豊波豆良和気命の母は開化妃のワシ媛。※記
そのワシ媛は、葛城・垂見宿禰の姫という。



和邇、葛城、海部の祖神が並ぶ斎宮神社は、
つまりアマテラス以前の神々を祀る古社である。
竹野媛は「丹後の姫」たちの初代斎宮だった…。
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竹野神社の中門。かつて「斎宮神社」の扁額が
 掛かっていたというが、見上げても今はない。
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実は、竹野神社・斎宮神社に参ってから
 ずっと気になっていたのは、竹野媛の名前だ。

すると…『勘注系図』に建諸隅命(由碁理)の子
として日本得魂(やまとえたま)命が見え、
 妹の名は大倭媛命、亦名は天豊媛命と分かった。
その姫こそが、竹野媛のことであろうか。

豊(トヨ)? 台与…13歳の…? 竹野媛とは、
『魏志倭人伝』に登場する倭国の女王なのか?



竹野神社本殿(左)と斎宮神社(右)。右は拝殿。
本殿に十六菊と桐の神紋、鶏の彫刻があった。
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by utoutou | 2016-09-27 22:03 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 54 浦嶋神社へ

籠神社・真名井神社(京都府宮津市大垣)から
車で20分走り ↓「舟屋」で有名な伊根の港へ。
そして、浦嶋神社(与謝郡伊根町本庄浜)へ向かう。
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籠神社(青)〜 浦島神社(赤)国道178号線を走った。





経ヶ岬を経由して1時間ほどで到着。
平日のせいか昼時だからか、参詣客はまばら。
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鳥居前の社号碑に「うら神社」と刻まれている。
田畑と山々囲まれており、ここから海は見えない。
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さて、この社に詣でたことがないままに、
数ヶ月前、記事()を書いたものだったが、
 境内で初めて御由緒の全文を嬉しく拝見。
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そこには祭神のほか、日下部一族についてや、
北極星信仰についても、明記されていた。
以下、御由緒(要約)

〜 浦嶋神社[宇良神社]
祭神 浦嶋子(浦島太郎)
相殿神 月讀命、祓戸大神

☆『延喜式神名帳』に『宇良神社』とある式内社。
☆浦島子は雄略天皇22(478)年に常世の国へ
行き、300有余年を経て天長2年に帰還(伝承)。
☆淳和天皇が浦島子を筒川大神として祀った。
その大祖は月讀命の子孫、日下部首の先祖である。
☆社殿は北極星を向いており、北極星信仰・・・〜

なぜか北極星信仰に続く・・・の部分には、白い
テープが貼られていて読めなかった。宮司さんを
探したが、運悪くお留守で、仕方なく英文を見る。

〜Emperor Junna named Urashimako
Tsutsukawa Daimyojin God and the shrine
was founded . in one theory, the Poriar Star
is enshrined as a God too.〜

(自前の訳)
〜淳和天皇は浦島子を筒川大明神として、また
一説には北極星も神として祀り神社を創建した〜

真名井神社では、祭神の豊受大神(天御中主神)
に、住吉大神・綿津見神・塩土老翁といった
異名があると石碑の銘に示されていたが、ここでは
ズバリ、筒川大神(住吉大神?)と北極星が主祭神。

北極星=天御中主神=天帝=太一=子(に)ぬふぁ星。
古来、琉球の海人族が崇めていた「北極星」を、
ここでしみじみと思ったことは言うまでもない。
日下部とは、大海を渡り来た先着の民なのだろう。



拝殿横の看板には、次の題文の看板があった。
〜浦嶋神社創祀一千二百年祭に伴う
本殿等大改修に関わる御寄付のお願いについて〜
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こちら東側から仰ぐ本殿。
明治17(1884)年の遷宮での建立という。
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ところで、日下部氏と海部氏は同族というが、
真名井神社に加えて浦嶋神社が創られた
のは、いったいなぜだったのだろうか?

淳和天皇の御代、
こちらに祓戸大神(瀬織津姫)を祀らねば
 避けられない災厄が起きていたのかもれしない。

社伝によれば、本殿は北極星を向いている。
神社の位置は東経135度15分。
あ、そうかと思う…。以前の記事に、
南北に神社が連なる「東経135度の子午線
天御中主神ライン)という自説について書いたが、
浦島神社は、その最北の地にあたる。

東経135度の子午線(南北線)に並ぶ6社。
保久良神社、廣田神社、芦屋神社、越木岩神社、
六甲比命神社、本住吉神社。祭神は、住吉
神社(住吉三神と神功皇后)を除いて瀬織津姫。
天御中主神ラインとは、瀬織津姫ラインだった。

その最北の7社目・真名井神社の豊受大神が、
御饌津神として伊勢の地に遷座して以降、
長きにわたって空位になっていた神座は、
浦嶋神社で再生したということなのではないか。
浦島子が持ち帰った龍宮宝珠の威光によって…。









by utoutou | 2016-09-24 14:52 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 53 真名井神社

六甲山と丹後の関係を、姫=巫女=女性祭祀者
 に求めると、筆頭に真名井御前が挙げられる。

時代は「丹後の姫たち」が武庫の地に来てから
かなり下るが、籠神社海部氏の娘に生まれ、その
奥宮と同名を授けられ(籠神社では真井御前と記す)
10歳から京都・六角堂で修行して空海と出会い、
淳和天皇の妃となるも出家して如意尼を名乗り、
甲山・神呪寺を建て自ら如意輪観音菩薩のモデルと
 なる…なんだかとても数奇な人生を辿った姫だった。

また「浦島太郎」との年代の一致を見ると、
真名井御前は、封じられた民が長く待ち望んだ
 霊力高き「丹後の姫」だったようにも思える。

年譜は以前「浦島太郎と玉手箱」に書いた通りで…
雄略22(478)年、豊受大神が、この元伊勢から
伊勢へと遷座したのと同年、浦島子(浦島太郎)
は龍宮へ行った(以上『日本書紀』)。そして、
347年後の天長2(825)年、浦島子が帰還した
その頃、真名井御前は神呪寺を創建。空海が、
浦嶋子の持ち帰った宝箱を如意輪観音像に隠した。

この隠された龍宮の宝箱が、語り部の視る
「龍宮(琉球)の「ぬぶし玉(宝珠)」なのか?
とすればなぜ、淳和天皇の世はそれを望んだのか?
などをつらつら考えるのが、丹後旅のテーマだ…。



まずは籠神社・奥宮の真名井神社へ。
主祭神・豊受大神。籠神社から徒歩15分、
背後の御神体山を目指して急いだが…ガク然。
3年前の秋とは違い「立ち入り禁止」となっていた。
拝殿横から正面には見えるが、手は届かない。
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↑鈴なりの鈴の横に、案内書きがあった。
〜天に通ずる御生れ鈴
『丹後国風土記』や『古事記』『日本書紀』に
よれば、天橋立(天浮橋)は神々が天と地を交うため
 に造られた梯子(橋)であったと伝えられています。
その根元にある磐座は天に坐す神々に願いを伝える
特別神聖な祈りの場でありました。この御生れ鈴の
清らかな音色は磐座を通して参拝者の心を
天まで届けるものです。〜




↓御神体山(3年前の撮影)の前。いまは、
白石が敷き詰められ、遠くから拝するのみ。
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こちらも3年前の真名井神社。奥へ一歩進むと、
神代の時空に浸る気がしたものだったが、残念。
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この度は、写真に映る方たちと同じように、
塀から身を乗り出し、恨めし気に参拝した。
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いまは、「古代祭祀場」のうち左側の
天照大神(男神?)の磐座をこうして覗く感じ。
右に映る建物は、真名井神社の拝殿。
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真名井の霊水で磨かれ美しく育った厳子姫は、
20歳のとき、まだ皇太子だった後の淳和天皇に
みそめられて、第4の妃として迎えられたという。
こちら磐座に射す西陽(クドいようだが3年前の撮影)。
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さて、いよいよ浦島神社へと出発。
籠神社の正面には「本宮御鎮座千三百年」と。
来る平成31年が、記念の年となるらしい。
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by utoutou | 2016-09-20 22:38 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(1)

六甲山と瀬織津姫 52 丹後の姫たち

神功皇后が創祀した廣田神社。祭神である
撞賢木厳御魂天疎向津媛命(瀬織津姫)を祀る
斎宮(巫女)は葉山媛といった(こちらにも記事)。
海部氏の勘注系図に記される山背根子の娘という。
よって、神功皇后と同じ「丹後の姫」である。


初代斎宮として、廣田神社の摂社である
斎殿神社に祀られている(写真は再掲です…)。
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『日本書紀』や神社の創建由緒にもある通り、
神功皇后らが朝鮮半島出兵から帰還する折りのこと。
応神天皇の異母兄弟であるカゴ坂王と忍熊王が
武装して待ち構えていると知り、皇子を紀伊水門に
避難させると真っすぐ難波に向かった。が、難航。
すると、天照大神が「我が荒魂を皇后の近くに置く
のはよくない。広田国に置くのがよい」と、神意
を示したので、葉山媛に祀らせることにした…。


また、葉山媛の妹である長媛は、事代主命を
↓長田神社(神戸市長田区)に祀った。その
神意は「自分を長田の国に祀るように」だった。
祀った長媛も当然のこと、「丹後の姫」である。
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いっぽう、天照大神の妹・稚日女尊が、
「自分は生田長狭国にいたい」と神意を示した
ので、海上五十茅(うながみのいさち)に
祀らせたのが、生田神社(神戸市中央区)の由緒。

では、この巫女も「丹後の姫」なのだろうか?
について探ってみると…。

現在まで、生田神社の社家は天穂日命の末裔と
 のことで、海上五十茅も同系譜の姫と考えられる。

天穂日命は出雲の神だが、丹後にある産霊七社
(京丹後市久美浜町市場)にも祀られている。
ちなみに、こちらの社家は日下部氏という。

市場村に、姫に関する不思議な伝承がある。
〜竹野神社(京丹後市丹後町)の巫女は、
市場村の日下部氏の血を引く娘と決まっている〜

その竹野神社は、同じく丹後の日本海側にある。
天照皇大神を祭神とするが、摂社の斎宮神社
には、竹野媛と日子坐王などが祀られる。
開化天皇の妃となった竹野姫も「丹後の姫」だ。

とすると、
生田神社で稚日女命を祀った海上五十茅も、
市場の娘…つまり「丹後の姫」の可能性が大か。

丹後から大和へ、摂津の六甲へ。
日本海から遠く隔たる瀬戸内海まで、姫たちが
何かにつけやって来た。あるいは喚し上げられた。
その理由とはまた、どういうことだったのか?
甲山の神呪寺を建てた真井御前こと、海部宮司家
31代・雄豊の娘だった厳子も「丹後の姫」。



そんなわけで、丹後半島に出かけてきた。
台風の間隙を縫い金曜日、東京からの夜行日帰り旅。
まずは海部氏の籠神社と、奥宮・真名井神社から。
その佇まいは、3年前とはかなり変貌していた…。
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by utoutou | 2016-09-19 09:14 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(4)

六甲山と瀬織津姫 51 武内宿禰

古代、六甲山は武庫山と呼ばれたというが、
武庫泊(むこのとまり)を見下ろす位置にある。

万葉集には、難波の地から西の方向を見渡すと、
武庫の港から船が出て行くのが見える…という、
これから旅立つ人の思いを歌った歌があった。
武庫の津は難波を出て最初の寄港地だったらしい。
武庫は、山であり海なのである。



神呪寺の仁王門には「武庫山」と山号額が掛かるが、
廣田神社(古代の海岸線)からは、わずか3km。
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甲山・登山道の中程(標高200 m余)から港を展望
に、六甲山ロープウェーのアナウンスを思い出す。
「晴れた日は関空や紀伊の山々もご覧になれます」
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さて、
海部の勘注系図からも同族と分かる日下部氏と
安曇氏は、共に南方から渡来の先住海人族だが、
実は紀国の名草氏も加わっていたようだ。
そして、その系譜に武内宿禰の名が浮上する。

安曇氏、名草氏について、『住吉大社』
(住吉大社編)は、次のように記す(要約)。

☆安曇はアマ(海)ツ(の)ミ(神)で海神の意味。
☆応仁天皇の時代から、淡路島や難波にもいた。
☆本拠は筑前国粕屋郡安曇で、志賀海神社の社家。
☆『日本書紀』神功皇后の朝鮮出兵の条にある
〜磯鹿の海人名草を遣わして視しむ〜の「名草」
とは、志賀海神社の安曇氏に関係する海人の一人。

名草の名前は、『住吉大社神代記』にも見える。
〜然して、新羅国を服え給い、三宅を定め、亦、
大神の社を定めつ奉つる…祝(はふり)は
志加乃奈具佐(しかのなぐさ)なり〜

神功の新羅出兵に志賀の名草氏(安曇氏)が
従軍したことは、どうやら間違いなさそうだ。



名草氏の本拠は紀の国だった。
↓名草彦と名草姫が祀られている名草宮。
現在は日前神宮・国懸神宮(和歌山市)の摂社
だが、創祀当初の日前宮は「奈具佐の濱宮」と
呼ばれ、天照大御神の御杖代・倭姫も巡行した。
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「名草」と言えば、神武東征の物語で
「名草戸畔を誅した」とのくだりに登場する
女首長・名草戸畔が有名だが、私が日前宮に
 参拝した後、語り部は少し唐突に質問をした。

「近くに武内宿禰の井戸はありませんでしたか?」
あるも何も…知らなかったので…と、調べると、
市内近隣に鎮座する安原八幡宮の奥宮・武内神社
 に、誕生のとき産湯を汲んだという井戸があった。

武内宿禰の母は、日前宮を祀る紀伊国造
・宇治彦の娘・山下影姫と、また父は孝元天皇
の三世孫にあたる方と言われている。

また、
武内宿禰の生誕地、あるいは紀氏のルーツには
九州説もあるが、この安原八幡宮の祭神を知り、
少なくとも朝鮮半島との強い関連が感じられた。

安原八幡宮の祭神は誉田別尊(応神天皇)、
そして、気長足姫尊(神功皇后)、武内宿禰。

由緒は…(平成祭礼データより、要約)
〜神功皇后が三韓より凱旋の際、忍熊王の難を避け、
難波から紀水門(ここ安原)に船を着けた。
誉田別を武内宿禰に護らせ、自らは迂回路を取り、
後に戻って合流、この地に頓宮を建てた〜

武内宿禰生誕の地、一族が勢力を張った地、
というのが、応神天皇が身を寄せた理由だったか。

明治末の時代まで安原は「名草郡」にあった。
名草山の麓に位置し、古代産鉄地だったようだ。



↓日前宮。その御神体は、日前神宮は日像鏡、
国懸神宮は日矛の鏡という2鏡である。
神宮皇后の先祖で、新羅から渡来したという
天日矛命との関係が、にわかに気になってくる。
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by utoutou | 2016-09-11 22:03 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 50 猿田彦大神

「六甲山は海神の砦と言いますが、この地で
 いちばん古い海神は?」と、語り部が聞いた。

住吉大神について度々書いたのを見て、何か
他に見たものを忘れていないかと、言外に…。

「それならば、猿田彦大神ですね」と
言おうとして、止めておいた。急がば回れ、
直感で言うよりも慎重に裏取りを試みようかと。
迷宮入り寸前の事件を扱う刑事のような心境で。



↓こちら神呪寺と、神奈備である甲山。
本堂屋上の火炎宝珠のあしらいが鮮やか。
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その本堂。手前右に「淳和天皇聖蹟」の石碑が、
手前左に「開山如意尼公領」の石碑が建っている。
が、それはあくまでも本堂落成(831年)の年号。
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時代は溯り(4世紀末)、神功皇后は甲山の頂上
に如意宝珠と兜を埋めて、国家平安守護のための
 祈願をしたと、甲山登山道の入口に標されていた。
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さて、
まさに神功皇后の朝鮮出兵(百済救援)の帰り、
難波に向かう途中、船がぐるぐる廻って難航した。
そして「住吉三神を祀れ」との神託があった。
というのが、「住吉大社=海神」の創建由来だった。

その住吉大社の近くにお住まいという方から、
先日、コメントをいただいた。
「住吉大社の地には、もともと、いまの摂社の
大海神社が鎮座していたと言われています」と。

住吉大社境内の東北に坐す大海神社の場所は、
もとは海に突き出た断崖だったと由緒にもある。

綿津見信仰の古い歴史を示す象徴的な話だ。
大海神社の祭神は、豊玉彦と豊玉姫。
その神籬は、海神である父とその姫のいた龍宮
として、古代海人の崇敬を集めたのだろう。

龍宮の主である綿津見神について、
『古事記』は、「安曇連等の祖神」と記している。
逆に「安曇連等は綿津見神の子・宇都志日金析命
(うつしひがなさくのみこと)の子孫なり」とも。

宇都志日金析命とは、猿田彦大神のこと。
沖縄・久高島では、二ライ大主(うふぬし)と
見られていたと私は考えた(記事はこちら)が、
その猿田彦大神が、ここ甲山に祀られていたとは…。



↓登山道の入口に、祠が並ぶ一角がある。
甲山稲荷大師(左手前)のほうは、左右に
白龍大明神・白菊大明神が合祀されている。
由緒は不明だが、稲荷(=鋳成り)ということは、
 甲山も古代は産鉄地だったということだろうか。
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猿田彦大神(白鬚大明神)の祠は、右(東)隣りに。
琵琶湖西岸(高島市)の白鬚神社に詣でたことが
あったが(記事はこちら)、祭神は同じ猿田彦大神である。
その右奥、小さな石祠には善女龍王が祀られている。
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割と新しい社だったが、ともあれ、
この地に海部氏と同族で綿津見神を奉斎する安曇氏
 とその末裔がいたことを暗示しているように思う。

安曇氏は北九州が本拠と言われるが、
神功皇后に随行した武内宿禰も同族と思われる。
この地で銅の採掘をしたという日下部氏も…。




by utoutou | 2016-09-09 05:27 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(4)

六甲山と瀬織津姫 49 海神の砦

鷲林寺では、多くの龍神に出会う。
境内に足を踏み入れたときは意外に思ったが、
六甲山は渡来海人族の聖地だったのだから当然か。


こちらは八大龍王。平成19年築ということで
 真新しいが、右奥の洞窟に龍王の古い住処がある。
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↓ 龍王の洞窟。役の行者が龍神を拝んだといい、
現在は3m入った地点に八大龍王が祀られているとか。
入口には、白龍大神、伍大国長天龍神・国龍大神
といった銘碑に参拝。白龍も祀られていた。
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鷲林寺は空海(774〜835年)が建立した。
さらに古く、役小角(634〜701年)も来た。
鷲林寺は古来の神々を護った僧たちの聖地でもある。



十一面観音が祀られる本堂から奥へ進むと石仏がズラリ。
左は空海が祀ったという白山大権現、そして、
中央が不動明王。つまり、菊理姫(瀬織津姫)を、
女神を刀剣を抱えた不動明王が護衛している?
ちょうど夕方。西日を背にやんわり立つ不動明王には
「勇猛」より、縄文の土偶にも似た「和」を感じた。
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不動明王の先にも、石仏が続いている。
写真左は栂尾(つがお)明神、中央は宮八大神など。
右は末廣大神・玉姫大神、御劔大神。さらに並ぶ。
石仏群は、地祇系の神仏が絶妙に混合している。
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本堂の右手には、新築という護摩堂と多宝塔がある。
護摩堂の本尊は、空海作と伝わる鷲不動明王という。
火炎の中に鷲が飛んでいる構図。やはり、
鷲の姿となった瀬織津姫を不動明王が守護している?
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空海の建立した鷲林寺はまた
六甲修験道のスタート地点という。↓若宮神社の近く
に、パノラマ、せせらぎ、両コースの標識があったが、
調べると、せせらぎコースを行くと六甲修験道に続く。
一説には、若宮神社の祭神は瀬織津姫という。
六甲修験道は、瀬織津姫の聖地を護る結界だったか。
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鷲林寺から観音(かんのん)道を歩いて下りる途中、
ほぼ東の方向に、神呪寺のある甲山が見えた。
ちなみに、六甲修験道の終着点は多聞寺。
その多聞寺は、六甲比命神社を奥宮とするという。
六甲山の東と西とに位置する真言宗の三寺。
三という聖数は、やはりオリオン星座が由来だろう。
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六甲山は、伊勢の伊雑宮と出雲大社を結ぶ線上
に位置する(大江幸久氏の六甲山資料より)という。

伊勢、六甲山、出雲。この三大聖地を繋いだラインに
ついて考え続けていたが、いまならそのことが分かる。

西の龍神から、東の太陽神へ、
つまり海の神から、天照大御神へ。
信仰改革の進んだ7〜8世紀に生きた僧侶たちは、
六甲山という砦で、封殺されゆく海神を庇護したのだ。 








by utoutou | 2016-09-02 23:11 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)