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六甲山と瀬織津姫 63 饒速日命(ニギハヤヒ)

秘祭だけに、イザイホーの祭神を記した史料はない。

琉球最古の史書『中山世鑑』(1650年)を
編纂した羽地朝秀という人は日琉同祖論者で、
民族独自の信仰や風習には否定的だったという。
よって、いわゆる薩摩侵攻(1609年)以前の
信仰について記された史料は残っていない。

近年では、廃藩置県において、
明治政府は沖縄県に対して独自の研究を禁止。
「琉球」への同化策なのか独自の信仰を封印した。

しかし、
そうした時代の変遷にあっても消えることなく、
英祖王統時代から、琉球王朝をまたいで昭和
の時代まで約400年も続いたイザイホーの祭神は、
琉球王朝の崇めた「日月星辰」だと思われる。
少なくとも皇祖・天照大御神ではなかった。

その祭祀の中心に、物部氏や穂積氏や熊野国造の
祖神と言われる饒速日命の神影がピタリ重なる。



最後となったイザイホー(1978年)には、
千人もの見物客が降り立ったと言う↓徳仁港。
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10月上旬 ↓スベーラの御嶽に足が向いた。
本島からの船が着く際、左手に見えるこの岩礁だ。
イラブーガマ(洞窟)の並びに位置している。
イザイホーとノロの継承が途絶えたいま、
訪れる人も少ないようだが、美しく保存されている。
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港の反対側にあたるスベーラの御嶽の入口。
掃き清められ、往古の神域の佇まいが残る
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スベーラの御嶽は「統べる王の御嶽」を意味する。
どれだけ古い歴史があるかは計り知れない。

しかし、語り部は言う。
「上古、饒速日命は天津国から十種の神宝を携えて
玉城のミントングスクに上がったのだと思います。
後には邇邇芸命も上がり、この御嶽で覇王として
の就任の儀式に臨んだのだと。そして琉球の国土開闢
の後、始祖たちは出雲へ熊野へと移動していった」

同じ説話は、ミントン門中の
屋号・天祖(あます)の神女口伝にもあった。
天祖は、天孫氏王朝の末裔と伝わっているが、
つまり饒速日命を先祖と仰ぐ家系だったわけだ。


ちなみに、『先代旧事本紀』によれば、
饒速日命は天忍穂耳命を父に、
高皇産霊尊の女・萬幡豊秋津姫命を母に持ち、
邇邇芸命の兄となっている。



↓後ろ側からのミントングスク全景(10月5日)。
古老の話では、昔は円錐形の山だったらしい。
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さて、くだんの『先代旧事本紀』には、
饒速日命が天の磐船に乗り河内国(大阪市交野市)
に天降りた際、32人の防衛をはじめとして、
数多くの随伴者を従えていたという。

「琉球王朝時代、三十三君と呼ばれた神女組織が
ありましたが、それは饒速日命と32人の防衛たち‥
饒速日命王朝を守護したオナリ神たちの
名残りだったと思います」と、語り部は言う。

「琉球には33個の金の香炉があった」と言う
秘伝もあったが、今次の戦争で失われたのだと。












by utoutou | 2016-10-29 22:06 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(4)

六甲山と瀬織津姫 62 新月の久高島

八咫烏→鳳凰(不死鳥)→久高島の火島(ふしま)
と、次々に連想したのは、先日その久高島で見た
朝日が美しく、強く印象に残っていたからだった。



10月1日(土)06時31分の伊敷浜(東海岸)。
日の出には10分遅れたが、むしろ水平線上に出た
太陽は饒々しくも神々しい光を八方に放っていた。
偶然、太陽と月が重なる新月の日の朝だった。
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久高島の最高神は、太陽と月と考えられてきた。
太陽は男親(男の象徴)、月は女親(女の象徴)。
太陽と月は夫婦で、日蝕月蝕は夫婦の逢い引きだと。

それなら同じ方向から昇る新月も、夫婦の逢い引きだ。太陽の光で月が見えないだけで日食と似ている。  
満月の日には、月は太陽の光に隠れることはない。
月は、満月の日にもっとも守護力が高まるとされ
イザイホーは満月の夜の月の出と同時に始まった…。



つらつら考えながら歩いていると、イザイホーの祭場
だった久高島の前に出た。このとき時刻は7時すぎ。
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正面右のシラタル宮に参拝しようと近づくと、
↓伊敷浜(右=東)方向から、朝日が強烈に射した。
イザイホーのあった冬至頃の日の出とほぼ同じ時刻。
神アシャギ奥の七ツ屋で、神女たちも朝日を見た。
東(あがり)に向かい朝拝を捧げていただろう。
月の女神・アカララキ(瀬織津姫)の守護のもと…。
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東に鎮座する太陽神こと東大主とは、
ヤマトに伝わる男神・天照大神のことだと私は思う。
そうすると…
この祭場の真北には、北極星こと天御中主神が
祀られていた…と、既に推理した()ので、祭場
には、太陽・月・星の三神が鎮座していたわけだ。
左の祭屋は、龍神の使い・イラブー海蛇の居場所だ。


龍神の御前庭(ウドゥンミャー)で、継承された
太陽と月と星と星(地球)を祀る古代からの信仰。
神女の持つ大扇には「紅の鳥」が描かれていたが、
「甦る不死鳥・八咫烏」への祈りを見る思いがする。


熊野本宮大社のHPに八咫烏の説明がある(要約)。
〜八咫とは、広くて大きいという意味。
烏は太陽の化身で三本の足があり、天地人を表す〜



新月の朝、伊敷浜でふと朝日に照らされる
御先(写真左の石)を撮った。歴史的な碑ではない。
「誰かが勝手に作っていった」と島人たちは言う。
御先は沖縄で「うさち」と読み「上古」の意味だが、
 熊野では「みさき」と読み、「烏」の別名という。
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神話では、
八咫烏は高皇産霊尊に命じられ熊野に降臨した。
そして、神武の東征を案内した天神の使いとされる。
熊野では御先(八咫烏)を「みさき神」とも呼ぶ。
いましみじみと、久高島の「御先」を思うのだ。
実は八咫烏の神籬として立てられたかもしれないと。

ところで、
記紀の「神武東征」には、熊野から大和へと案内
したという「導きの神」が、もうひとりいた。
神倉山に現れた高倉下。「饒速日命の子」とされる。
と、同時に、葛城に盤居した尾張氏の祖でもある。

八咫烏(賀茂建角津命)は賀茂氏の祖となったが、
同様に、「饒速日命の子」なのではないだろうか。

『先代旧事本紀』曰く、
尾張氏の祖・天香具山命(=高倉命)と、
鴨氏の祖・天神魂命は、いずれも饒速日命が大和へ
天降りしたの32人の防衛(さきもり)だった。


「饒速日命は、古代琉球天孫氏王朝の覇王だった」
と、語り部から聞いたのは、5年前のことだった。
まさかと思っていたが、自然と腑に落ちてくる。
つまりイザイホーは、饒速日命を崇める祭りだった。




by utoutou | 2016-10-23 10:13 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 61 八咫烏

六甲山の六は、八にフタをして封印したという暗号
かもしれないと考えたとき、八咫烏を思った。

神話によれば、八咫烏は神武東遷の折、
熊野の山中で立ち往生する一行の前に現れ、
大和の宇陀まで道案内をしたという大鳥。

もしや、その大きな烏が、「いついつ出やる」と
歌われた「籠の中の鳥」ではないだろうか…とも。
道案内をしたという話は、猿田彦大神を彷彿とさせる。
神武以前にいた地主神と考えて間違いないだろう。


熊野本宮大社では「導きの神」として祀られる。
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熊野速玉大社の摂社・八咫烏神社にも祀られている。
『古事記』では高木大神が遣わしたと記される。
『日本書紀』には、天照大神が遣わしたと。
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熊野速玉神社の摂社・八咫烏神社にも祀られている。
熊野三山では「熊野の守り神」として信仰される。
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八咫烏の案内で神武一行が着いたという
宇陀には八咫烏神社(奈良県宇陀市橿原)が鎮座する。
祭神が八咫烏大神で、亦の名を建角身命という。
建角身命は金鵄八咫烏(きんしやたがらす)とも
呼ばれるということは、記紀にも記されている。

その建角身命は、京都・下鴨神社の祭神。
つまり、八咫烏ということになる。
建角身命(八咫烏)の娘・玉依姫も合祀されている。

いっぽう、上賀茂神社の祭神は、
賀茂別雷大神(かもわけいかずちのみこと)。
玉依姫が川で拾った丹塗りの矢を寝床に置くと懐妊、
生んだのが賀茂別雷大神だと、『丹後国風土記』に。
つまり賀茂別雷大神は建角身命(八咫烏)の孫である。

この賀茂別雷大神こそは、籠神社の祭神・火明命
の異名同神だと、籠神社の極秘伝にあるという。
そのことは以前にも書いた(記事は、こちら)。

改めて、天火明命の亦名を振り返ってみる。
天照国照火明命櫛甕玉饒速日命
分解すると、天照国照(男神・天照大神)
・火明命・櫛甕玉(大物主神)そして、饒速日命。

「この神名に、海部の神魂を継ぐ神々が集約されている」
と語り部は言うが、はたして八咫烏は隠れているか?


神の島・久高島が、しきりと思い出された。
島の南に、火島(ふしま)と呼ばれる離れ小島がある。
島の名前は「甦る不死鳥」を表していると、
語り部は言った。火の鳥・フェニックス…。
イザイホーの神女たちが持つ大扇(ンチャティオージ)
に鳳凰(ビンヌトゥイ、紅の鳥)として描かれている。
(記事はこちら)。



↓10/5(水)、久高島を離れるフェリーから。
中央に写るのが火島(ふしま)。イラブーも獲れる。
いまは徳仁港の防波堤に挟まれ護岸の一部になっている。
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by utoutou | 2016-10-19 10:40 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 60 聖徳太子

丹後一周に行った日の早朝、京都の
頂法寺 六角堂(中京区六角堂通)に参拝した。
6世紀末に聖徳太子が開基した古刹は、
京都駅から地下鉄で3駅・烏丸御池から徒歩3分。

六甲山にもその名を残す聖徳太子の足跡を
京都で偲んでから、丹後へ向かおうと思った。

六甲山の甲山・神呪寺を創建した如意尼は、
幼名を厳子(いつこ)といい、籠神社・祝部の娘
だったが、10歳でここ六角堂に入り如意輪に帰依。
20歳のとき、まだ皇太子だった後の淳和天皇に
見初められて、第四妃として迎えられたという。



六角堂は、都会的ビル街の一角にあった。
6時半。お香が漂うなか参拝客が足早に往来する。
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山号は紫雲山。
用命天皇2(587)年の建立。
聖徳太子が大阪四天王寺建立のための用材を求め
この地に来たときに夢告を受け、杉の大樹で六稜
の堂を建てて、自らの護持仏をここに安置した。
本邦初の伽藍だったため、頂法寺と名付けた。
本尊は、如意輪観世音菩薩。
太子はその守護を小野妹子に命じた。
妹子は入道して「太子沐浴の池」の傍らを住坊とし、
その名を池坊とした。以来、子孫が住職を務める。
華道・池坊発祥の地でもある。(※境内の由緒より)
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本堂の東北に位置する、太子堂と太子沐浴の池。
枯山水の面影をとどめ、なぜか白鳥が遊んでいる。
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太子堂の中央に、太子作と伝えられるという
南無仏の像(聖徳太子2歳の像)を祀る。
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山門近くに、不動明王の立像。
大日如来に一心に祈れば、災厄をはね除け、また
苦しみの身代わりに願いを叶えてくださる…と文言が。
大日如来・不動明王…怒りの形相のなかに弁財天を
ふと感じたのは、寝不足のせいだけでもないと思う。
聖徳太子は神仏習合を隠れ蓑に弁財天をはじめ、古来の
神々を護った。如意尼が念持したのも弁財天と伝わる。
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ところで、
創建由緒にある聖徳太子の護持仏は、幼い頃、
淡路島の海で拾った唐櫃に入っていたものという。
それは一寸八分(5.5cm)の黄金の如意輪観音で、
やがて六角堂の本尊になったが、2百年余り経った
9世紀、厳子姫(如意尼、後の真井御前)が現れる。

時あたかも同族の浦島太郎が龍宮から帰還した頃。
乙姫様からもらった玉手箱は、如意尼の元へ渡った。
そして、空海の手で神呪寺の如意輪観音像に隠された。
あるいは、隠し場所は六甲比命神社かもしれない。

隠されたのは如意宝珠(沖縄では「ぬぶし玉」)
と思われるが、なぜ隠す必要があったのか。
史実でないとしても、なぜ伝承は生まれたのか。

流転の如意宝珠…その発端は聖徳太子だった。
聖徳太子といえば『先代旧事本紀』の編纂者。
蘇我馬子、秦河勝、小野妹子とともに「六家」の
秘伝を集め古来の「神の道」を記録に残そうとした。

六家とは、
物部、忌部、卜部、出雲、三輪、吾道をいう。
天皇家を併せて七家、北斗七星を成すという。
(※後藤隆著『先代旧事本紀大成経』参照)

六家、六甲、六角堂…籠神社の籠目紋は六芒星。
出雲大社の神紋・亀甲紋も六角だが、それは、
龍蛇神とするセグロウミヘビの鱗が六角だからだ。
久高島で獲れるイラブーウミヘビの鱗も六角。
「六」は龍蛇族(古代海人族)の聖数なのだろう。


と、ここで、「六」に隠された意味に気がついた。
六は八をフタで封印していることの暗号ではないか。
「八」こそが、海人族の祀る本来の神だったのでは…。

60回目にして、六甲の核心に近づいたかもしれない。









by utoutou | 2016-10-15 12:36 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(6)

六甲山と瀬織津姫 59 帰れなかった天女

豊玉・玉依はワニの姫…と感慨に耽る間もなく、
「和奈佐比古命を追えばワニ船の海路が分かる」
と、語り部は言った。神託の翻訳である。
神託はいつも言葉やイメージでやって来る。
今回はおそらく「ワナサヒコ」と「大海をゆく船」。

「ワナサヒコはワニ船の船長ですか?」
私が訊くと、語り部は言った。
「王・首長でしょう。後の日下部、日置、安曇、
忌部、物部、出雲、阿智…みな海部と同族です」


伊計島 ↓セーナナー(海人七氏族)の御嶽に
祀られる人々だろう(今年7月の記事はこちらに)。
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その本拠地は「7つの首の蛇」伝承と、祭祀用の
ワニ船が残る久高島だと、私は思った。
語り部の話は続く。
「志賀島、玄界灘、宇佐、伊予、六甲、福知山へ、
または、豊後水道、阿波、六甲、丹後、出雲へ、
次第に分かれて行ったように視えます。
 ところで、阿波に大里八幡神社はありますか?」

調べると、トップヒットに徳島県海陽町観光協会
「大里八幡神社秋祭り」がきた。来る10/16(日)、
7台の関船やだんじりが宮入する祭りがあると。
古くは「川越し(船曳き神事)」であったらしい。

関船とは中世以降の水軍が繰った軍船だから、
祭り自体の歴史は古代までは溯らないか…。

と思いきや、和奈佐は海陽町の古名だった。
大里八幡神社(海部郡海南町大里)の前身社は
 和奈佐意富曽神社(わなさおうそじんじゃ)だと、
『阿府志』(18C末)の記録にもあった。


それにしても大里とは…。斎場御嶽を東に望み、
神代から続く拝所・天代大世があり、源為朝や
天孫氏王朝や、大陸のワニ族の流れを汲むらしい
 沖縄の集落と同じ地名。とても偶然とは思えない。
(記事は→ こちらや、こちらに)


ともあれ、徳島県にある和奈佐意富曽神社の
祭神は、誉田別神、天照大神、天児屋根神。
天児屋根神の亦名は、春日権現・春日大明神。
春日権現は藤原氏の氏神というのが一般的だが、
元は春日・和邇(同族)の祖神という説は根強い。


阿波には和奈佐比古命の痕跡があった。
出雲にも和奈佐神社があった。その
祭神は、阿波枳閇(あわきへ)和奈佐比古命。
「阿波から来た和奈佐比古命」という意味という。



そして、丹後にも和奈佐比古命の痕跡がある。
先日訪れた、比沼麻奈為(ひぬまない)神社。
京都府京丹後市峰山町久次)。
丹後の豪族・和邇氏の健振熊宿禰が率いる海部水軍
の本拠地だった久美浜(兜山)から、車で30分。
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鳥居の左手には、豊受宮の社号碑が立つ。
『延喜式』の「比沼麻奈為神社(丹後国丹波郡)」
に比定される社のひとつ。つまり、伊勢大神宮の
外宮・豊受大神宮の「元伊勢」と言われ、
『止由気宮儀式帳』の「比治真名井」であり、
『倭姫命世紀』の「与佐郡小見比治之魚井原」でもある。
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また、丹後の「羽衣伝説」の舞台でもある。
〜8人の天女が比治山の真奈井で水浴びをして
いると、和奈佐という老夫婦が来て羽衣を隠し、
帰れなかった天女を子としたが、家が富むと、
  今度は「汝は我が子ではない」と追い出した。
天女は悲しみ、最後に辿り着いた奈具の村の
奈具の社で豊宇賀能売命として祀られた〜
(※『丹後国風土記』逸文、要約)

  和奈佐の老夫婦はひどい人物に描かれるが、
 天女物語が、先住神を追い出した天津神が、
 正当性を主張した逸話と考えれば納得がいく。

その天女こと豊宇賀能売命は、伊勢外宮に
移されて、天照大神の御饌津神である
 豊受大神になったと『止由気宮儀式帳』は記す。

天女伝説について、私はこう思う。
雄略22年、豊受大神(天御中主神=北極星)
は、天照大神に請われ7人の天女(北斗七星)
とともに、御饌津神として伊勢へと遷座した。
北斗七星の舗星とも、また天祖とも考えられる
 和奈佐の天女・豊宇賀能売命は天に帰れなかった。
 天は新生の皇祖・天照大神に奪われていたからだ。



静かな聖域・丹後の比治麻奈為神社。
その西際に、奉納を記念する立石が並ぶ。
右端に最高額「金壱千萬圓」とあって驚いた。
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by utoutou | 2016-10-12 16:17 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(8)

六甲山と瀬織津姫 58 豊玉姫たちの船

兄を霊的に守護する姉妹を「おなり神」という。
では海神の娘とされる豊玉姫・玉依姫も、
兄弟(えけり)のおなり神だったのだろうか?
沖縄で会った語り部にそのことを訊ねると…。

「おなり神でしょう。兄は豊玉彦だと思います」
「豊玉彦は綿津見の神…つまり父神ですよね?」
「はい、歴史が豊玉彦を父としたのだと思います。
本当は豊玉姫・玉依姫の兄ではなかったかと…」

玉依姫は鵜草葺不合命の妃となり神武らを生んだ。
『古事記』では、豊玉姫は神武を生むと海の国へ帰る
が、育ての親として玉依姫を遣わした。

もしや豊玉姫は、おなり神として、
海の国にいる兄・豊玉彦の元へと帰っていったのか?
なんだか姫たちが急にリアルに感じられてきた。

「で、姫たちはどうやって海を往来したのですか?」
綿津見の国(和邇氏の原郷)は久高島だろうと、
私たちは、かねてから話していたのだった。
「ワニの船ですよ。あのイラブーが舳先に乗った」
「あ、私の見たものはワニの船だったのですね…」


久高島のある旧家に↓木の船が祀られているのを
知ったのは半年前だったが、その意味が紐解けず、
ただ写真を保存していた。それがワニの船だったとは…。
舳先にイラブー海蛇が、また船尾(左)に太陽らしい
丸い彫刻がある。裏面には薄く三日月の跡がある。
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さらに聞いた。
「豊玉彦が兄なら、本当の父・綿津見神は誰ですか?」
「大綿津見神の子・猿田彦(穂高見神)でしょうね。
猿田彦は、ワニ(和邇)の王だったと思います」

だからなのか。久高島には魚根家(イン二ヤー)
という拝所があり「猿田彦の下駄」が祀られている。
※記事はこちら↓ 

 
和邇とは後に大和豪族となる一族、古代、
ヤマトへ移動した集団もいると、語り部は視ている。

何やらこれまでに気づいたことの点と点が
繋がれて、目に見える線になっていく予感がする。



実は久高島に「龍宮」と呼ばれる大きなガマ(洞窟)
がある。鍾乳洞で深さ10mほど、奥行20mほど。
拝所は1.5mほどの高さ、十畳ほどの広さがあるが、
さらに奥行きがあるという話も。わずかに水が滴る。
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地底から青いエネルギーが絶え間なく昇り立つ。
「この龍宮には青龍が住んでいる」と語る神人もいる。
語り部は「(龍神の使い)イラブーに見える」という。
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洞窟(龍宮)の↓出入り口から地底へは急勾配。
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ところで、御先(うさち)の世(上古)に、
ワニの船がヤマトへと移動した痕跡はあるのか?

すると、語り部から逆に驚くべき質問があった。
「和奈佐比古(わなさひこ)とはどういう神ですか?」

「和奈佐」ならば、丹後だ。
天女を助けたのは和奈佐翁と和奈佐老女。
なんと、先日の丹後半島の旅で、最後に参った
比沼麻奈為神社と大いに関係のある神なのだった…。



和奈佐彦・和名佐姫は久高島から丹後へ?
↓台風18号一過の5日、久高島北端のカベール岬。
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by utoutou | 2016-10-08 12:03 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 57 おなり神の滅亡

丹後半島の神社巡り。竹野(斎宮)神社の
次は熊野神社(京丹後市久美浜町)へと急いだ。
 国道178号を小1時間、西へ走り、久美浜湾を目指す。
  伊邪那美命を祀る熊野神社が兜山の頂上に鎮座する。


ところが、直近で右折する交差点を逃し、結局、
日本海側へ抜ける周回道路に入ってしまったらしい。
やがてどんどん下るので車を止め、振り向くと↓兜山。
標高約191.7m、熊野神社の御神体山とされる。
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古くは甲山、神山と呼ばれたらしい。
山名が同じなら、その姿も六甲山の東端に建つ
神呪寺の神体山・甲山とそっくりなので驚いた。
↓こちら鷲林寺方面から遠望した六甲山の甲山。
その相似は何か謎を秘めているように感じる…。
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残念ながら熊野神社参拝は断念したが、
熊野神社の由緒は次の通り(要約)。
(※京丹後市教育委員会)
☆社名は熊野郡の名称の由来になった。
☆『日本三代実録』の「868年」に記事がある。
☆甲山は神山が転じたもの。もとは山全体が信仰
の対称になっており、祭祀遺跡も多い。
☆勧請したのは丹波道主命と川上麻須郎である
と江戸時代の地誌『丹後旧事記』に記録がある。
(丹波道主命は川上麻須郎の娘を娶った)


丹波道主命は開化天皇の孫(=日子坐王の皇子)。
『日本書紀』崇神天皇の条に、四道将軍として
丹波に派遣されたと記される。また垂仁天皇の
皇后・狭穂姫命の亡き後、その遺言に従って、
日葉酢姫ら5人の娘を後宮として喚上した。

 后妃が交替するドラマに、どんな理由があったのか?

記紀は、その前段に、狭穂姫の兄・狭穂彦が
 謀反を起こしたが失敗、兄と妹は絶命したと伝える。

丹波道主命の姫たちが指名された理由について、
川上順子氏は著書『古事記と女性祭祀者伝承』
(JP出版)で、次のように分析している(要約)。
☆崇神・垂仁天皇の時代に、皇后の出自が皇統譜
に繋がる皇孫であることが強調され始めた。
☆しかし、母「族」は問題にされなくなった。
☆狭穂姫の死で、ヒコヒメ制は消滅した。

ヒコヒメ制の消滅とは、「おなり神」の消滅を
 意味すると私は思う。おなり神とは琉球の古い信仰で、
妹(おなり、うない)が、兄(えけり)を
霊的に守護することをいう。


琉球王朝で最高位の神女として、国家安泰と
琉球王を守護した聞得大君も王の姉妹か王女だった。
(↓首里城。台風18号襲来前の10/1に撮影)
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神の島・久高島の↓久高殿で行われた古祭
イザイホーも、おなり神が誕生する儀式だったし、
いまも「おなり神信仰」は生きている(10/1に撮影)
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兄に殉じた垂仁皇后・狭穂姫は「妹なる皇后」
だったと、川上氏は著書で述べている。対して、
後宮の日葉酢姫らは「ポスト妹なる皇后」だったと。

私は思う。
このときヤマトの「おなり神」信仰は滅亡した。
が、琉球では現代まで絶えることなく脈々と続いた。

『日本書紀』では、垂仁天皇の条を境に、
「丹後の姫」に関する事績は次第に消えていく。

王権の成立過程で進んだ「妃選びと祭祀」の変更
は、裏返せば、海人族とその原郷だったろう琉球の
 切り離しに他ならなかったのかもしれないとも思う。




by utoutou | 2016-10-05 08:43 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(4)

六甲山と瀬織津姫 56 シャーマンの血脈

斎宮神社(いつきのみやじんじゃ)の祭神
である竹野媛が『魏志倭人伝』に登場する台与
とすれば、叔母にあたるらしい卑弥呼は、
竹野媛の父・丹波大県主の由碁理(ゆごり、
建諸隅命)または、母の姉妹ということに。
いずれにしても、シャーマン一族を祀る神社だ。



社殿の前で「あら…」と、その彫刻に驚いた。
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葡萄(ぶどう)と栗鼠(りす)が左右対称に。
同じ文様を、首里城正殿で見たことがあった。
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首里城正殿2階にある御差床(うさすか、
琉球王の玉座)の乗る壇を、ぐるり取り巻く12枚の
羽目板に「葡萄と栗鼠」が鮮やかに彫刻されている。
丹後の旅から既に2週間、きょうから沖縄に
いるので、首里城までひとっ走りして撮影してきた。
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「葡萄と栗鼠」は桃山〜江戸時代にかけ流行した
デザインで、発祥は中国との説が主流だが、
ペルシャとか古代ユダヤといった説もあるようだ。
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「葡萄と栗鼠」は多産・多幸を示す意匠で、
子孫繁栄を叶えてくれる至高の吉祥文様。
葡萄の育たない沖縄でも王家が盛んに用いて、
漆器や調度品などにもあしらわれていた。

それにしても日本海を望む丹後の斎宮神社で、
琉球に出会うとは、海は広いが世界は狭いものだ。



首里城正殿に行ったので、そう言えばと思い、
やはり正殿2階・東南の一角にある
「おせんみこちゃ」をしっかり覗いてきた。
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東南の隅に位置する王の拝礼室・おせんみこちゃ。
その東端の神壇に金の香炉(火之神)がある。
古くは「おみちもん(御三つもの)」と呼ばれ、
3つの霊石を指したと言われている。

三神とは太陽・月・星だと、語り部はかつて、
ナーワンダーグスクで言っていたが(記事はこちら
http://mintun.exblog.jp/20232380/)
私も六甲山〜丹後〜沖縄へと旅するいま、
「この火之神も太陽・月・星の三神だ」と確信した。


撞賢木厳之御魂天疎向津姫命について語り部は
言う。「本当の向津姫とは、3つのヒを束ねて
操ることのできる日巫女(斎宮)のことです。また
太陽の陽(ヒ)燃える火(ヒ)水の霊(ヒ)とは
三法宝珠=撞賢木厳之御魂を指すのだと思います」

私はこう考えた。撞(=月)、賢木(=太陽)
厳之御魂(=水の星・地球と星々)。そうした
あらゆる自然神の霊力を呼び集め、齋き祀る神女
だけが撞賢木厳之御魂・天疎向津姫と呼ばれたのだ。

丹後海部の竹野姫も、シャーマン・卑弥呼も、
琉球の聞得大君も、真名井御前こと如意尼も、
そうした霊力(しじ)高い神の子だったはずだ。
「倭国」の血脈を継ぐ日巫女たちだったと思う。













by utoutou | 2016-10-03 06:45 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)