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六甲山と瀬織津姫 69 源実朝

丹後・久美浜に鎮座する蛭児神社の祭神が、
水に流された神・蛭子ではないだろうことは、
よく考えてみれば分かることだった。

古来、その神は「日留居大明神」と称された。
その大明神を、四神ヶ岳の山頂にあった元宮から
遷移したのは、由緒によれば鎌倉右大臣・源実朝。
あの有名な和歌は、その遷宮を詠んだものだった。
〜神風や 朝日の宮の宮遷(うつ)し 
影のどかなる代にこそありけれ 〜

国家の祭祀としての遷宮だったことが偲ばれる。
棄てられた蛭子が祭神とは、どうも考えにくい。
19世紀に編まれた「丹哥府志(たんかふし)」も、
〜俗に蛭子と称するは誤なり〜 と記している。



神社近くの神戸(しど)という名の水門(右)。
消防署からレスキュー隊の訓練の声が聞こえる。
本当に古代要衝の地かと見紛う、のどかな入江。
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ところで、
当初の旅の目的地が久美浜・兜山だったのを、
蛭児神社へと変更したのには、理由があった。

沖縄から来た友人とレンタカーで六甲を出た朝、
9時ごろだったか、語り部から電話があった。
私たちは丹波篠山のサービスエリアで休憩中で、
名産の黒豆パンを食べていたが、語り部は言った。
(蛭児神社にまつわる神託の伝言は、以下要約)

☆神社の近くに神戸(しど)という場所がある。
(※調べると、「神戸(しど)の浦」は水門だった)
☆ヒルコ(神社)と同じ語源の地名が全国にある。
四国や九州のヒルマ、関東にも同名地があるようだ。
☆久美浜湊宮の古名・日間(ヒマ)も同じ意味。
☆神は、シジラという山から降りてきた。
☆神は、朝日の宮がある山からも降りてきた。

語り部の話が終わると、私はひとつだけ聞いた。
「ヒルコはアマミキヨと関係があるんですね?」
「あると思います」



というわけで、↓ 蛭児神社(拝殿)。
社務所に宮司さんがいらしたので、話を伺った。
「こちらのご祭神は南方から来た」と話が出たので、
「どれぐらい南方ですか? もしや沖縄?」と質問した。
宮司さんは呆気に取られるように苦笑して仰った。
「いや、そんなに南方ではないでしょう」
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古来、日留居大明神を祀る蛭神社の本殿裏から。
このとき午前11時31分。本殿は南面している。
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南面した社殿は、南のどこを向いているのか。
地図を見て、大明神古墳なのではと想像した。
由緒にも「付近散策名所」として大明神古墳が載る。
〜久美浜湾中央に突出した岬を大明神岬といい、
円形をした大きな古墳群で、四道将軍・丹波道主命
の古墳であるといい伝えられている。〜

またもや出てきた、歴史上のビッグネーム。
源実朝、当時の順徳天皇、丹波道主命(順不同)。
これらのビッグネームを繋ぐのは一体どんな事績か。

もしやこれかも‥と思うものが、ひとつある。
蛭児神社が四神ヶ岳(しじら)から遷移した年、
そして、源実朝があの和歌を詠んだ1211年とは、
伊勢外宮で第28回式年遷宮が行われた年だった。

外宮の祭神・豊受大神。その元伊勢の地である
この丹後で催行された「もうひとつの遷宮」には、
おそらく、何か特別な意味があると思うのだ。
はたして、日留居大明神と豊受大神との関係は?
とてつもなく深く隠された秘史がありそうである。


蛭児神社の正殿に向かって左(西)の鳥居の先に、
元の鎮座地・四神ヶ岳がある。ここは遥拝所という。
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隣接するのは廃校になった湊宮小学校跡。
順徳天皇は、鎌倉幕府倒幕のカドで佐渡へと
配流になったというが、なぜこの神社に関わるのか?
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さて、
私たちには、次なる参詣地(朝日の宮)があった。
現在は朝日神社という。宮司さんに見せていただいた
「熊野郡史」(大正12)に、幸い住所も載っていた。
湊村大字蒲井小字旭谷。現在の蒲井・旭地区にある。
祭神・宇賀之御霊命。目指すのはここ、間違いない。
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この社が琉球海人族の終着地なのか? またなぜ、
神は四神ヶ岳と朝日宮の2ヶ所に坐していたのか‥?




by utoutou | 2016-11-27 21:28 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 68 丹後のヒルコ大明神

瀬戸内海を眼下に見下ろしての六甲山磐座巡り旅。
最終日には、日本海を目指すことになった。

神戸で合流した沖縄在住の友人女性と共に。
海神(綿津見神)を崇める家系に育った彼女は、
ちょうど海神族の足跡を訪ねる一人旅の途中で、 
福岡の志賀海神社の参拝後、六甲にやって来た。
志賀海神社の沖津宮には天御中主神が祀られている
という話から、「それなら丹後へ⁉︎」と話が展開。
 古代の国名で言えば、筑紫〜讃岐あるいは阿波〜
淡路〜播磨〜摂津〜丹波〜丹後へ?
私たちは、海神族の移動ルートを思い描いた。
 

六甲から車で3時間、まず参ったのはこちら。
蛭児神社(ひるこじんじゃ)。
京都府京丹後市久美浜町湊宮にある。この季節、
蟹が旨い観光地*小天橋(しょうてんきょう)にある。
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祭神、火遠理命(彦穂穂出見命)と豊玉毘売命。
いわゆる海幸山幸の神話に由緒するという。
いっぽう、この地ならではの由来がある。
(以下、抜粋)
〜蛭児神社は古来、日留居大明神と唱え尊崇されて
きた社で、海上安全、豊漁祈念、海運厄除
御神徳の高い運開きの神様として広く信仰され〜
日留居(ひるこ)大神。始めて知る神名だ。


境内には寛政年間に活躍した千石船の模型も収蔵。
古来、日本海交易の要衝の地だったことが伺われる。
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場所は↓こちら(赤星を付けて加工した)
社務所に貼ってあったMAPを拝借。
丹後では、天橋立を東橋立、小天橋を西橋立と呼ぶ。
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13世紀まで、蛭子神社が鎮座していたという
四神ケ嶽(しじら)山を遥拝する磐座があった。
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摂社の稲荷神社。
祭神は倉稲魂命。18世紀に山城国から勧請。
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摂社の大川神社。
祭神は、五元五柱神、保食神、大己貴神、
少彦名神、埴安姫神、大土御祖神。
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晴天にも恵まれ、清々しい気に溢れた古社だった
が、参った日から何か違和感が拭えなかった。
社殿からも、由緒からも「蛭子」が感じられなかった。
記紀神話の国産みにおいて、 イザナキとイザナミから
生まれ、不具な子だったために葦舟で流された蛭児‥。

海人族はともかく、琉球とは関係なさそうだし‥と、
なかば落胆していたが、今日ようやく合点がいった。
日留居(大明神)には、実は二通りの読み方がある。
ヒルコとヒルイ。思うに、ヒルイは昼に居る神=日神。
その意味のヒルコ大明神ならば、沖縄と大いに関連する。
ヒルコとヒルメ‥‥琉球では、ウミキとウミナイ。
この地には、海神族の兄妹始祖神話が潜んでいるようだ。

by utoutou | 2016-11-23 05:37 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 67 「1万3千年前」の北極星?

昭和時代の初期に六甲山の磐座を踏破した
古事記研究家の荒深道斉(あらふかみちなり)氏
は、磐座を描いた多くのスケッチを描いたが、
三国岩については、他に比べて「よほど古い」との
感想を残した。「2万6千年前」とは特定しなかったが、
あの「天文図」から他の磐座とは一線を画したらしい。


三国岩の翌日、ご案内いたいた山男さん一行と
は別れて、六甲比命神社の磐座を再訪した。
そして、拝殿奥の神殿その横面を、改めて見上げた。
三国岩と同じくハンバーガー型に巨石を積み上げてある。
が、見た目の印象は、三国岩のそれとは大きく異なる。
1枚1枚の巨石が直線的で、どこか洗練されているような。
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↓こちら前回紹介した三国岩(再掲)。
積んだ巨石はそれぞれに曲線的で、素朴で柔らかな印象。
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石を加工した痕跡を感じる磐座と、そうでない磐座。
その違いはいったい何を物語るのか‥。調べると、
文明史家の原田実氏が興味深い記事を著している。
(『謎の巨石文明と古代日本』'96年、新人物往来社)
タイトルは「巨石文明の起源と瀬戸内海誕生の謎」。

以下、要約。

☆ビュルム氷河期が終わり、ムー大陸が沈没した
1万2千年前、水位の上昇で日本の陸地も沈んだが、
瀬戸内(平原)も例外ではなく、海に沈んだ。
☆明石沖には、おびただしい数のゾウの化石が眠る。
☆瀬戸内の海底から60万点の石器も出土している。
☆2万数千年前、瀬戸内技法によりナイフ型の
新型石器が大量生産されるようになり、各地に流通した。
☆当時から、巨石崇拝は盛んだったと考えられる。

原田氏は、六甲の磐座群に言及はしていないが、
私は妄想した。もしや六甲比命の磐座は、その
ナイフ型の石器を使って造られた磐座ではなかったかと。
時期は、新型石器が登場した2万数千年前以降、
瀬戸内平原が沈んだと言われる1万2千年前までか‥。

思えば、1万3千年前の北極星は琴座α星のベガ。
瀬織津姫は、時代はぐっと下るが、天白信仰では
七夕の織姫=琴座のベガにも例えられたのだった。
1万3千年前の北極星は、女神だったのかもしれない‥。


などと考えつつ、後世多くの修験僧が向津姫の神威
を感得したという六甲比命大善神の磐座に向かったが、
磐座造成の時期を示すような刻印は見当たらなかった。
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それにしても、旧石器時代の定義は激変している。
沖縄県南城市のサキタリ洞遺跡から出土した釣り針が
世界最古、2万3千年前のものと判明したという
ニュースに、ほんの2ヶ月前に接したばかりだった。


釣り針は、海幸山幸の物語を借りるまでもなく、
古代海人族の象徴だった。その筆頭とも言える
安曇族は海を渉るとき、釣り針を北斗七星に
見立てた日月星辰の幟旗を船に掲げていたという。
ちなみに、沖縄では北斗七星を「にぶとぅいぶし」
とか、「柄杓星(ひしゃくぼし)」と呼ぶ。
(※↓イラストは東洋医学史研究会さまのHPから拝借)
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そう言えば、安曇氏ゆかりの志賀海神社
(福岡市東区志賀島)の沖津宮には、
天御中主神が綿津見三神とともに祀られている。
綿津見三神が主祭神だが、元は逆だったか? と思う。





































by utoutou | 2016-11-18 12:03 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 66 「2万6千年前」の北極星

六甲山に点在する磐座の中でも有名な三国岩。
(神戸市による六甲山磐座MAPはこちら
観光名所らしく↓磐座名の表示も立っている。

近くの案内板には、名前の由来も示されていた。
〜この三国岩は六甲山の分水嶺であり、かつては
武庫、菟原、有馬三郡の境界点でもありました。
神戸市森林整備事務所 〜


が、一説には、2万6千年前に造られた磐座という。
縦6m横5mほどの大きさ。巨大とは言えないが、
まるでビツグマッグのように人工的に積み重ねられた
 岩には、古代人の星信仰が如実に刻まれているのだと。


縁あって案内してくれた山男サンは言った。
「いちばん上に見える穴は北極星と言われています」
南面する磐座の最上層、中央右にポッカリ穴が見える。
磐座には、瀬戸内海から隆起した岩を使用したそうで、
全体に小穴が無数にあるが、その穴は際立って大きい。
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画像を拡大すると、このような形状の穴だった。
周りが三角形型の線刻で取り囲まれたおり、
あたかも、北極星はこの方向と示しているようだ。
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その穴が、なぜ「2万6千年前の北極星」なのか?
ヒントは、磐座上に刻まれた↓「天体図」にあった。
岩上で「不思議な穴だな」と思い撮った1枚の画像。
なんとこれが、星座の子熊座を表しているという。
確かに、北斗七星に似た子熊座を伏せたような形だ。
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小熊座の尾の先(写真右上)に磐座正面の北極星が‥。
逆に正面から北極星を見ると「小熊座」を指している。
そう発見したのは、NPO古代遺跡研究所を主宰した
故・中島和子(よりこ)氏。三国岩に登った翌朝に、
ネットでその指摘に出会い、私は度肝を抜かれた。
(※論文『六甲山・三国岩の磐座』はこちら


論文には、こう記されている。(要約)
歳差運動により北極星となる星は一定ではない。
☆歳差円の周期は、2万6千年。
☆現在の北極星は、子熊座のα星(※ポラリス)。
☆その対極には、琴座のベガがあるので、
今から1万3千年後にはベガが北極星になり、さらに
その3千年後には白鳥座のデネブが北極星となる。
☆縄文古代人は、どの星が北極星かを知っていて、
磐座を造った時期や年代を示した。つまり‥
☆三国岩は「一周期前=2万6千年前」の磐座である。

ただし、中島氏はこの三国岩周辺を、
北極星信仰に加えて太陽崇拝の磐座と見ていた。


実は、三国岩から西北へ、
数百mほど分け入った私有地に謎の磐座がある。
東を向いており、その前に祭祀場があることから、
中島氏はこれを「アマテラス」の磐座に見立てた。
磐座の右端には彫り物があり、朝陽に現れるという。
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左右や裏に回ると明らかに組み石の部分もあり、
シロート目にも人工の磐座だと分かったが、
横から見た不思議だったのは、一番目と二番目の岩
の間に↓ 20㎝ほどの幅の空間があることだった。
くっつけてもよさそうなものを、なぜ微妙に空けたのか。
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帰宅してから画像をしげしげと見つめた。あのとき
何げなく置いた方向磁石(百均物で正確ではないが)
の先は北を示している。※↓赤線加工は筆者による。
さらに、両岩間の中央線と思しき赤線を引いて見た。
我ながら、ひえーっと奇声が出た。その内角を
分度器で測ると23.4度。地軸の傾きと同じであった。
※この点は中島氏のではなく、筆者の個人的意見です。
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別荘とレストラン跡、そして古代の祭祀場跡。
別荘が建つ前は累々と岩が立ち並んでいたという。
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地軸の傾きも知っていたかもしれない縄文古代人は、
六甲山に、北極星と太陽を神と崇めた痕跡を残した。
ふと、丹後籠神社の奥社・真名井神社の核を成す
あの古代祭祀場を思い出した。
海部の社には、天御中主神と天照大神が並んでいる。





by utoutou | 2016-11-12 20:56 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 65 山頂の古代祭祀場

天御中主神を祀る巨大な石塔がそそり立つ
播磨富士こと高御位山(たかみくらいやま)の頂上。
登ったこのとき、時刻は15時半。好天に恵まれて、
瀬戸内海と上島(神島)を遠望することができた。
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振り向けば ↓天御中主神は北の方向に祀られている。
同じ山頂には大己貴命と少彦名命が祀られる
高御位神社も鎮座しているが、こちら↓高御位神宮。
代々の熊野別当職を務める九鬼家に伝わる
『九鬼(くかみ)文書』の「大中臣家秘録二因る神社記
抜録略』には、高御位宮の祭神として、
〜天地中柱主尊「天御中主大神」〜との神名が載る。
往古より神稜は、ここ山頂岩盤の西北にあったと。
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『九鬼文書』は、この神稜には「鬼門八神」が
鎮座しているとも記している。八神とは、
天照座大神、月夜見尊、素戔男尊、大国主尊、
豊受姫命、埴山姫命、岩烈(裂)命、根烈(裂)命。
(三浦一郎著『九鬼文書の研究』より)
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三浦氏は、昭和14(1939年)に、九鬼家当主だった
九鬼隆治氏から秘伝の古文献の研究を委嘱され、2年後
くだんの書を刊行したが、折しも太平洋戦争勃発の直前。
やがて終戦前になると、官憲の弾圧で発禁焼却処分に。
記紀神話より大きく遡る神代史が問題視されたようだ。

何しろ「神史略」の冒頭はこうはじまるのだから。
〜皇紀二萬五百餘年 天御中主神ヲ始祖トス〜


ところで、三浦氏の研究は、
山頂の祭祀場にも及んでいて興味深い(以下要約)。
☆高御位山の頂上には、禊巌、祭詞巌、典儀巌
なる三つの人工的な祭祀巌が集まっている。
☆それらは一体となり三つの様相を現している。
☆神々の御寶を蔵したという場所は、
禊巌の突出した鼻端にあり、覗くだけでも危ない。


初めての登拝だった私には、どこがどの祭祀の場か
分からず仕舞いだったのだが、
↓磐座の手前にある御水址(みもひし)は分かった。
古代人が神にお供えする水を溜めた穴らしい。
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古代祭祀遺跡は、山頂の大磐座の上にあるようで、
祓禊址(みそぎし)や盃状穴址も遺っているという。
いずれも岩盤をじかにくり抜いた祭祀用の遺構。
大己貴命や少彦名神といった神名もつかない風や
    光の神々を、姫巫女たちが降ろし崇めた痕跡だろう。   


さて、山頂でも、また下界に戻ってからも、
気になって仕方なかったのは↓こちらの小祠。
天頂の磐座に寄り添うように在った朱塗りの摂社だ。
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中央に宇迦之御魂神(ウカノミタマ)、
右に佐田彦神、左に大宮能売神が祀られている。
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宇迦之御魂は、沖縄久高島や伊計島にいたと
 伝承される「7つの首の蛇(古代海人族七氏)」だ。
おそらくその中には、九鬼家と同族である忌部や卜部も
含まれていたはずで、彼らが、天御中主神を奉じて
 海を越え陸を越え川を越え、この地に渡来したのかと、
海に向かって、そのルートを妄想したことだった。

宇迦之御魂を導いたのは佐田彦神(猿田彦神)。
大宮能売神(おおみやのめかみ)は、天鈿女命の
亦名と言われるが、宮中八神のの一柱として、また
造酒司(みきつかさ)としても奉斎されたという。

神酒(噛み酒)造りは琉球や南九州の古代習俗。
久高島の神女たちも、噛み酒を醸して神に捧げた。

そして、大宮能売姫を祀るもっとも古い神社は、
京丹後市大宮町にある大宮売神社なのだという。
郷名は周枳(すき)。丹後二宮で籠神社からも近い。
やはり海神族の北上を思わずにはいられなかった。






by utoutou | 2016-11-08 09:53 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(4)

六甲山と瀬織津姫 64 高御位山

山頂に高御位(たかみくらい)神社が鎮座する
高御位山(兵庫県加古川市志方町)に登った。
標高は304mだが、播磨平野に突き出た山容から
播磨富士とも称される。「徒歩20分で登れる
ハイキングコース」らしいが、35分もかかった。



山頂というか岩頭の先端に「天乃御柱天壇」と
刻まれる真新しい石塔。天之御中主神の神廟か?
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鳥居の南(右)は絶壁。写真の下に写る方位盤に
よれば、眼下に高砂市、瀬戸内海の西に上島が、
東に淡路島が、正面65㎞先に大鳴門橋を遠望する。
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天壇から岩頭を見ると登山グループの姿があった。
徒歩数分の距離なのに、目の錯覚か遠くに見える。
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凝灰岩からなる岩頭が、夕陽に映えて神秘めく。
写真中央右の塔に「高御位大神御降臨之座」と。
志方町に残る古文書(天明4年、1985年)は、
「神代に大己貴命と少彦名命が初めて降臨し給いし山。
大己貴命を高御位大明神と尊號し奉る」と記している。
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山頂奥の天壇に天御中主神が祀られるいっぽう、
本殿には大己貴命と、少彦名命が祀られている。
 併祀というよりは、トリプルスタンダードな気配‥。
「高御位山」に海神系・国津神系・天津神系が三つ巴?
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大己貴命を高御位大明神とした経緯について、
くだんの古文書からは、次のように読めると
高御位神社運営委刊『聖峰たかみくら』は記す。
〜大和朝廷は、大同2(802年)に勅命を発して、
大己貴命と少彦名命の降臨儀式を岩頭で執行した。
そのとき、高御位山の尊称がついたと考えられる〜
つまり、それ以前の祭神は、天之御中主神だった?
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古文書『九鬼文書』によれば、高御位山とは
第5代孝昭天皇の時代に天之御中主神の霊を
鎮めた神山であるという。

神代から縄文から弥生へ‥‥大和朝廷以前の悠久
の歴史が、この霊峰には潜んでいる。
染まりゆく空で、龍神が怒りの火を吹いたように
見えたのは偶然ではなかったのかも‥。つづく。
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by utoutou | 2016-11-04 21:33 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)