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六甲山と瀬織津姫 76 丹後のカヤノ姫

加耶と同じ「かや」を含む古代地名は各地にあった。

伯耆国の蚊帳郷、但馬国の賀陽郷、筑前国の加夜郷、
備前国の賀夜郷、大隅国の鹿屋郷、播磨国の賀野郷。
また出雲国や因幡国の大草郷の「草」も「かや」と読む。
すべて加耶から渡来した人々の居住地だったという説がある。

503年に新羅に併合された南部朝鮮の加耶(かや)。
その小国家群は、百済や新羅のように国家として、
ひとつにまとまることは最後までなかった。

加耶には、いつかの表記と読み方があった。
田中俊明著『古代の日本と加耶』より、以下要約。

☆加耶の最古の史料は広開土王碑(414年)で、
「任那加羅」とあり、「任那という加羅」の意味。
☆『三国史記』は主に加耶と記しているが、他にも、
伽耶・加良・伽落・駕洛とも表記している。
☆朝鮮音では「ka-rak」、日本音では「カラッ」。
加耶「ka-ya」は「ka-ra」の「r」音が転化したもの。
☆『日本書紀』では、主に加羅と表記している。
☆『梁書』の加羅、『隋書』の迦羅、あるいは
『続日本記』の賀羅も、みな加耶・加羅の異表記。

「かや」「から」を含む地名は、しかし、残念ながら、
摂津・丹波・丹後には見つけることはできなかった。

ただし‥
加悦谷(かやだに)なら丹後半島の付け根にあった。
加悦町も、町合併で与謝野町となる'06年まで存在した。
加悦谷の南北を流れる野田川は、天橋立の内海
(阿蘇海とは由緒の気になる名称だが‥)へと注ぐ。
川を遡れば、与謝野町字加悦に、蛭子山古墳がある。

この蛭子山古墳という名もまた意味深である。
水蛭子や、蝦夷や夷狄といった蔑称をつい連想する。

さて、
その蛭子山古墳は、網野銚子山古墳、神明山古墳と
並び称される丹後の三大古墳のひとつだが、
築造の歴史は最古で、4世紀中頃であるという。
丹後を初めて拓いた首長の陵墓だろうか。



蛭子山古墳。現在は与謝町古墳公園として整備
されているが、旧名は加悦町古墳公園といった。
※写真は、そのパンフレットより拝借。
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蛭子山古墳(現・与謝町明石)のある旧加悦町。
※地図画像は同じく古墳公園のパンフレットより拝借。
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ところで、加悦町には、四社の神社があった。
天満神社、二宮神社、一宮神社、七谷神社。
また、加悦町与謝に、驚くべき神社が鎮座する。

王子神社(上宮社と下宮社がある)。
455年、後の雄略天皇に殺された市辺押磐皇子の
遺児たち、億計(おけ)王子(後の仁賢天皇)と、
弘計(おけ)王子(後の顕宗天皇)を祀っている。
二王子は臣下の日下部蓮使主と共に丹波国与謝郡
へ逃亡して潜伏、難を逃れたと言われているが、
逃亡先は、当然のこと日下部氏の勢力範囲だった。

『日本書紀』には、まず潜伏した先として、
「丹波国余社郡」の名が見えるが、この場合の
丹波国は、和銅6(713)年に丹後国が分かれてから
の丹後であり、つまり浦島太郎伝説に出てくる与謝郡
のことであり、その浦島子は日下部首の先祖であった。

蛭子山古墳のある加悦は、日下部の根拠地だったわけだ。
宝貝の交易で朝鮮半島や大陸とを往来した豪族。
その故地は南九州で、母神は鹿野姫と書いてきたが、
丹後の加悦には、鹿屋姫を祀る神社もある。



天満神社(与謝野町加悦)の摂社・吾野神社には、
吾野廻姫命(かやのひめのみこと)が祀られている。
※写真は、同じく神社拾遺さまサイトから拝借。

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梅本政幸著『丹後路の史跡めぐり』には、
「加悦町」の語源が二通り、紹介されている(要約)。
☆朝鮮の任那の中に加耶(かや)という国があった。
☆加悦の安良(やすら)は昔、安羅と書かれたが、
任那の中に安羅(あら)という町があった。
現在の咸安(かんあん)である。
☆吾野神社に祀られるのが萱野媛(かやのひめ)
であるところから、この加悦谷盆地に
その名がつけられたとも考えられる。


萱野姫とは鹿野姫のことであり、
かぐや姫であり、後に瀬織津姫と呼ばれる姫たちである。





by utoutou | 2016-12-30 14:23 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(4)

六甲山と瀬織津姫 75 明刀銭は語る

朝鮮半島の伽耶が丹後と琉球を繋ぐキーか‥。
そう思ったのは、丹後・久美浜の海岸近くから、
琉球と同じあるモノが出土したと知ったからだった。

旭神社の鎮座する久美浜蒲井・旭地区から東へ10㎞。
箱石浜海水浴場近くの箱石浜遺跡(遺物包含地)から
中国の明刀銭(めいとうせん)が2枚出たという。

【明刀銭】とは‥※「琉球コンパクト辞典」より
〜中国の戦国時代(紀元前403〜221年)、燕の国で
流通した貨幣。表面に〈明〉の字があることから、
そう呼ばれる。1923(大正12)年、那覇市城岳の
貝塚から日本で初めて発見された。〜


↓明刀銭。画像はコインの散歩道さまから拝借。
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明刀銭が出た丹後久美浜・箱石遺跡については、
諸々の資料によると、以下のような概要だ(要約)。

☆明治時代に新王朝(8〜22年)の貨泉が出た。
☆縄文・弥生土器、銅やじり、土師器なども出た。
☆青銅製の明刀銭も2枚(長さ14㎝)出ており、
現在は神谷神社に保管されている。
☆現在は砂州になっているが古代は河口で、大陸と
交易した港が存在していたと考えられる。
☆大和系の土器も出土。瀬戸内海との交流もあったか。


明刀銭は、琉球と丹後と大陸をまたぐ何らかの
交易があったことを表しているわけだが、この
刀型の通貨は、いったい誰が何の交易で使った痕跡か。


「琉球産の宝貝交易の担い手は隼人だった」と言う
 森浩一氏は、『海から知る考古学入門』にこう記した。
(要約)
☆燕の領域は華北の東部、東北の南部、朝鮮半島
の北東部で、その範囲内で明刀銭が分布している。
☆城岳の明刀銭は朝鮮半島北西部の西海岸から
南下、さらに倭人伝ルートを通って九州に渡り、
南島の島々を経由して沖縄本島にもたらされたか。
☆「貝の交易の道」では、隼人の役割が大きかった。



こちらは、
那覇の史跡旧跡案内にも載る城岳公園からの景観。
沖縄県庁の白く大きな建物が見える('14年撮影)。
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城岳は現在は公園として整備されているが、戦前まで
は鬱蒼とした松林で、那覇港を眺望する景勝地だった。
このあたりの旧名は、真和志間切古波蔵村といった。



「琉球八景」を描いた葛飾北斎もこの地を「城嶽霊泉」
と題して、汪樋川から流れ出る湧水を描いている。
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北斎の絵に描かれる拝所の跡だろうか。
公園の一角に建っている拝所に、「600年前、
貢船の舟子たちが建立」とあったのを覚えている。
今では想像もつかないが、この地は内海の湾口だった。
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隼人族と言えば、摂津や丹波や丹後や但馬にいた
日下部氏のこと。言うまでもなく海部で、和邇氏の同族
であり、大陸から来たアマミキヨだろうと書いてきたが、
その人々は漢民族に夷狄として追われ、海に消えた。
その中に伽耶に留まり、琉球や丹後に流れた人々もいた
のではないかと、私は常々考えていたのだった。






by utoutou | 2016-12-23 21:44 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 74 漂着した豊玉姫神

伊雑宮の周辺に残る龍宮伝説によれば、
海女が持ち帰った玉手箱の中には蚊帳が入っていた。
「かや」とは「萱」の暗喩だと語り部は言ったが、
私は「伽耶」なのではないだろうかと、思った。

六甲から丹後・久美浜へ行った日帰り旅の最後に、
福島神社(京丹後市久美浜町蒲井)に参拝した。


旭神社から車で1分、蒲井漁港に隣接して鎮座。
各地の弁財天と同様に、水際に祀られている。
鳥居奥、石階段の上はさらに急勾配でまさに御嶽。
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歴史を感じさせる石灯籠に、こう刻まれていた。
〜 安政六年 未 八月 氏子中 〜

社名は港にいた漁師さんに聞いた。祭神についても。
「豊玉姫だね。安産の神様で人気がある」と言う。
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ところが、『熊野郡史』によれば、
福島神社の在所はここではなく、近くの
八坂神社(祭神・素戔嗚命)の摂社となっている。
合祀されたのは元禄時代以前。祭神は豊玉毘古命。
つまり、豊玉毘売命だけが勧請されずに残ったのか?

謎めいた由緒だが、次の一文にも胸が騒いだ。
〜創立その他の由緒明ならず、福島神社は壱岐国より
漂流し来れるものといひ傳ふ。明治四十三年四月
小字福島より八坂神社に合併せり。〜

壱岐から漂流してきた神!? 行ったことはない
が、私は壱岐で有名な月読神社を思い浮かべた。



興味深いのは、月読神社HPで見た全景のイラストが、
こちらの福島神社とそっくりだったことだ。もしや、
丹後に来た海人が、故郷・壱岐を偲び祖神を祀ったのか。
↓こちら全景とは言い難い写真だが‥かなり似ている。
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さて、往古、壱岐に
月読神社を創建したのは任那帰りの人だったという。
任那とは3〜6世紀半ばに朝鮮半島にあった
小国家群、伽耶(加羅諸国)の別名である。

壱岐・月読神社の由緒は、次の通り(要約)。
〜顕宗天皇3年(487年)阿閉臣事代という官吏が、
任那へと出向いた際に神託があった。
「月の神を祀れ、そうすれば良いことがある」と。
奏上を受けた朝廷は、壱岐の県主(壱岐氏)に命じて、
月読神社から分霊させ、京都に祀らせた。〜
(※『日本書記』にも同様のくだりがある)


壱岐氏は、綿津見神を祖神とする安曇氏と同族。
豊玉姫には、壱岐氏が祀った月神の神格も備えている。
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月の神ならば、こちらに祀られる豊玉姫が
「安産の女神」として拝されるのは当然のことだ。
出産つまり生命の萌芽と誕生は、月の引力に依る。
「萱の国」の鹿屋野姫が酒の神・発酵の神であるように、
豊玉姫は生命を司る女神、そして鵜草葺不合命の母神。
いっぽう、父神は彦火火出見命。
日向伝説の海幸・山幸物語で名高い山幸彦のことだ。


福島神社の前から四神ヶ嶽(シジラ、中央)を望む。
その頂上には、古来、日留居大明神が祀られていた。
ヒコ(日御子)とヒメ(日巫女)が向き合っている。
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さて、縄文人は月信仰だった。
時代は下って、日下部首の浦島太郎も月信仰だった。
浦島神社は、相殿に月読命と祓戸大神を祀る。

いっぽう、沖縄には
「朝神・夕神(朝カン、夕カン)」という風習がある。
朝に夕に、祖霊・祖神へutoutou(礼拝)する。
それは、朝神(日神)と夕神(月神)への祈りだ。

神の島・久高島の祭りイザイホーが、冬至の
頃の満月の夜の月の出(大潮の時刻)に始まり、
4日目の朝の潮が引く時刻に終わるのも、
月神に五穀豊穣と子孫繁栄を願ってのことだった。

神女たちが祭場に駆け込んで3晩にわたる大祭の幕は
切って落とされるが、最初の儀式は「夕神遊び」。
夕神とは月のことで、つまりイザイホーとは、
神女たちが月の神威を授かる祭りでもあった。

ところで、伽耶にいた人々は月信仰だったか?
その点、語り部は常々言っていたものだった。
「沖縄方言のウートートーは、トトの神…
エジプト神話の月の神が語源なのだと思います」

アマミキヨ族は、ユーラシア大陸を東へと渡り来て、
さらに朝鮮半島から海を渡り琉球の島々に着いたか
と、「大陸渡来のワニはアマミキヨ?」に書いたこと
があったが、その最後の集団が伽耶にいた人々で、
 一部は丹後へも渡来したのだろうと、私は思う‥。 









by utoutou | 2016-12-17 21:33 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 73 浦島太郎の玉手箱

六甲・丹後・琉球の関係を解く鍵が伊勢にある
とは、考えもしなかった展開だが、ともかく
伊雑宮にまつわる竜宮伝説を紐解くことになった。

「答は竜宮伝説の玉手箱にある」と、語り部は言う。


そこでまず注目したのは「伊雑宮の穂落とし伝説」。
亀に乗った浦島太郎が鶴になって空に飛んでいった
という結末が『御伽草子』(室町時代)にあるが、
 もしやその舞台は伊雑宮だったのではないか‥。
と思ったが、そんな話は探しても見つからなかった。
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次に注目したのは、『龍宮へ行った海女』。
(※鳥羽市HPを参照)
〜阿児町の安乗(あのり)に住む海女が竜宮へ行った。
持ち帰った玉手箱には蚊帳が入っていたが、不幸
が続くので伊雑宮に納めた〜という、謎めいた伝説。



地図は伊勢志摩国立公園HPより拝借。右上の
湾口が安乗、的矢湾を西へ進むと伊雑宮のある磯部。
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そう言えば、私が2年前に的矢湾を訪れたとき、
語り部は「的矢はヤマトのこと」だと言っていた。
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さて、
その蚊帳(かや)とは、いったい何を意味するのか?
私は、伽耶(かや)の暗喩ではないかと考えた。
浦島太郎(日下部の首)に代表される海人族は、
3〜6世紀に朝鮮半島にいたとされる伽耶
(加羅諸国)と、深い関係があるのではないかと。

理由はいくつかあるが、それについては次に回し、
まずは、語り部の見立てを書き留めておこうと思う。

その答えは、「蚊帳は萱だ」というものだった。
萱、茅‥いずれも「かや」=ススキである。
それを聞いたとき、私はすぐに久高島を思った。

久高島ではクバ・アザカ・ススキを三種の神木と呼ぶ。

男根や蛇に見立てられるクバは、太陽神の依り代、
お月見に供えるススキは、月神の依り代、
葉が十字に対生するアザカは、地主神の依り代と
私は考えているが、ススキはアマミキヨの神木
でもあるといい、次のような開闢伝説がある。

〜天帝の命で天下ったアマミキヨは、久高島の
北端のカベール岬にシマグシナーを突き立てた。〜
「グシナー」とは、真萱(まかや)のことである。


また萱は、大和神話で語られる鹿屋野姫に通じる。
昨年、5回にわたって記事にしたことがあった
(富士山本宮浅間神社シリーズはこちら)が、
鹿屋野姫は、木花咲耶姫の母神。

『日本書紀』では鹿屋野比売神(かやのひめかみ)
『古事記』では野椎神(のづちのかみ)と呼ばれる。
 月の神、草の神、酒の神であり、かぐや姫説もある。

丹後の浦島神社には、月讀命が祀られているが
由緒は、領主・日下部氏は月讀命の子孫だと記す。
つまり、浦島太郎は月神・鹿屋野姫の末裔と考えられる。

「萱と言えば、神武天皇の父は
鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズ)ですよね。
そして、彦火火出見尊(山幸彦)と豊玉姫の子」
私が聞くと、語り部は言った。
「どちらも、琉球開闢の地・玉城と久高島に
いた神々だと、私は見ています」

すると、浦島太郎の行った龍宮とは琉球に‥
とりわけ玉城・久高島にあったということになる。



アマミキヨがシマグシナー(真萱)を立てたという
神話の舞台、久高島の聖地・カベール岬。
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by utoutou | 2016-12-13 22:06 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 72 住吉大神の港

「朝日長者が誰かをもっと紐解くには、伊勢
 志摩の浦島太郎・竜宮伝説がヒントになります」
と語り部が言った、そのキーマン・朝日長者。

語り部がなぜこうも朝日長者にこだわるのか‥。
話が伊勢に飛ぶ前に、その意図を私なりに考えた。

朝日長者は、第13代成務天皇の時代に栄えた人。
〜三枚畑の真ん中に黄金千枚縄千束〜と、
長者ぶりを歌われだが、その屋敷跡が今も残る。


旭神社に最寄りの広場には、観光案内板が立つ。
空き地のようだが屋敷跡。旧蹟中の旧蹟である。
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案内板(写真右)を後方から撮る。海が目の前。
港の中に、江戸時代の千石船の船繋ぎ石がある。
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朝日浦や蒲井の湊は、往古から海運が盛んだった。
江戸時代は千石船の港で、20隻の廻船と船大工がいたと。
同じ久美浜で朝日浦から東へ約10㎞離れた長柄には
幕府領の倉庫があり、そこから小船で朝日浦に着いた
年貢米は、千石船に積み替えられてから江戸に運ばれた。
ここ朝日浦は、風待ちの港として発達したのだった。

旭神社の祭神・宇迦之御霊命は朝日長者の氏神
と由緒にあるが、それは住吉大神の亦名でもある。
古来この地で、住吉系の海人族が活躍していたらしい。

私たちが見た旭神社の小祠に乗った「船玉神」は、
住吉大神の信仰を物語る痕跡だったのだろう。

先日参った蛭児神社や、浦嶋神社には、
境内に、江戸時代の千石船の模型が保存されている。

逆に考えれば、絶壁が続く丹後半島の海岸で、付け根
にある朝日・蒲井の港、蛭児神社のある湊宮、また、
丹後半島を北東にぐるり半周して浦嶋神社のある伊根町、
この3港だけが、千石船の停泊する港として機能した。

いっぽう、久美浜湾など深く入り込んだ潟湖に繋がる
河口は大和への交易ルートとなり、古墳が作られた。


廻船が往来した朝日浦。右の電信柱あたりが屋敷跡。
山の向こうに旭神社が鎮座する。左は無人らしい小島。
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前置きがすっかり長くなってしまったが‥、
丹後から遠く離れた伊勢志摩にもあるという
浦嶋太郎や竜宮伝説を探すのは、難しくなかった。
語り部は、こうも言っていたものだった。

「志摩の阿児町の安乗(あのり)岬の伝説。
浦嶋太郎や海女が竜宮から持ち帰ったという玉手箱
の中に入っていたものが、ヒントになるはずです」
「その玉手箱は伊雑宮に納められたと思いますが、
 中に入っていたものが、朝日長者と関係しています」

さて、伊勢志摩の竜宮伝説に曰く、
玉手箱に入っていたものとは、蚊帳(かや)だった。

蚊帳‥かや‥それがはたして何を意味するのか。
そして、なぜ伊雑宮に納められたと伝わるのか。

ぐるぐると考え尽くした半日後、語り部に連絡した。
「蚊帳は、カヤの比喩なんじゃないかと思います。
朝日長者は朝鮮半島の伽耶から渡来した人では?」

語り部は言った。
「ただ、もうひとつ答がある‥。そして、
どちらも、古代の琉球に関係があると思います」

















by utoutou | 2016-12-10 09:17 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 71 またもや浦島太郎

旭神社は、丹後半島の北西部、久美浜湾のさらに
西に位置する旭港を見下ろすように、鎮座している。
西へ進めば城崎方面、東は蒲井(かまい)海水浴場だ。

ここ京丹後市久美浜町の蒲井・旭地区は、30年間に
わたる久美浜原発誘致への反対闘争の舞台だったが、
住民側が勝って誘致話は撤退。景観は守られた。
おそらく古代海人族が行き交った、この港と共に。


いまは静かな佇まいを見せる村社・旭神社。
『熊野郡史』(大正12)には、「無格社」とある。
その時代で既に「崇敬者 16人」と記されている。
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集落の丘の上に建つ切妻造りの社殿は古く、
拝殿の鈴を鳴らすと頭に白い粉が降りかかった。
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由緒には、「朝日長者」との関連だけが窺える。
〜往古 朝日長者の氏神と傳ふるのみにて、
勧請其の他の由緒詳ならず。〜

この地に所縁があるらしい対偶神ヒルメ・ヒルコ
について、このところ思いを巡らせていたが、
この地にまつわる神々は、朝日長者とその一族の
 信仰に繋がるのだろうと、次第に考えるようになった。

氏神の宇迦之御霊命、摂社・金比羅社の大物主神、
そして、この地からも蛭児神社に遷座したらしい
 日留居大明神(太陽神・ヒルコと思われる)も‥。

語り部は、この旭と四神ケ嶽(シジラ)には、
ヒルコ・ヒルメが「ダブルで祀られている」と言う。
その意味は、視えない私には未だに分からないが、
日神を奉じる海人氏族同士の婚姻が、少なくとも
2度にわたって行われたのだろうことは、想像がつく。
つまり、朝日長者は、時代を超えてふたりいた?


朝日長者で名の残るのは、味鎌麿。第13代
成務帝(異母兄弟にヤマトタケル)期の人という。
       
その長者ぶりは、次の童謡で知ることができる。
〜 朝日さす夕日てるてる三枚畠の真ん中に
黄金千枚縄千束 〜

次のような、エピソードも残る。
〜金鶏塚と称するものがあり
長者の宝物金の鶏埋めていたという〜  
(※いずれも『『丹哥府志』(江戸時代後期)より)


味鎌麿の名が含む「鎌」の字と、この地形からは、
朝日長者=産鉄長者といった推理が成り立つ。
古代産鉄の炉「たたら」は、主に急斜面に造られた。
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摂社・金比羅神社(写真右)から南を見る。
社殿の向こうに旭岳と呼ばれる急峻な山が迫る。
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江戸時代の旭港は、廻船の停泊地だったという。
御城米を江戸や難波に送る船積み場所だったとも。
味鎌麿の時代から続いた米どころだったのか。
文字通り朝日と夕日を望むことができる景観も特徴。
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朝日夕日の両方が見える土地は、全国でそう多くない
が、各地の「朝日夕日伝説」の主役は産鉄長者である。
もはや古代産鉄のバイブル書とも言える真弓真常氏の
 著『古代の鉄と神々』に、朝日夕日伝説の解説がある。

(要約)
☆朝日さす夕日輝く地とは、財宝ならぬ鉄の在り処。
☆その地は、主にスズ鉄(褐鉄鉱)を産する。
☆その地では、農耕栽培と太陽神祭祀が行われた。
☆その地には、山間の僻地で海人族が住んでいた。
☆その地には、日置姓の家が多かった例がある。

そんな折、語り部から連絡があった。
「朝日長者についてもっと知りたいなら、
伊勢志摩の浦島太郎伝説に、多分ヒントがあります」

久々に、浦島太郎‥!? 
彼は日下部の首、丹後国与謝郡の日置の里の人だった。




by utoutou | 2016-12-06 19:48 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 70 宇迦之御霊命

蛭児(ヒルコ)神社で、いささか驚いたもう一件。
蛭児神社の遷宮について勅諚を発した源実朝が、
その様子を句に詠んだちょうど1211(建暦元)年
の10月、鴨長明が鎌倉に下り実朝に謁見したと、
『吾妻鏡』(1300年頃)は記している。

下鴨神社社家を出自とする鴨長明の『方丈記』は、
写本を丹波町の大福光寺が所蔵していたともいう。

そんなわけで、
丹後に縁深い長明(当時66歳)と実朝(19歳)が、
伊勢外宮の遷宮に当たるこの年、何を話したか。
豊受大神の鎮座した元伊勢・丹後を話題にしない
わけがないと思うのだが、どうだろうか‥。

また、下鴨神社「糺(ただす)の森」の語源は、
丹波道主命の正名・丹波比古多多須美知能宇斯王
が由来だと籠神社の秘伝にある。その道主命の
古墳と伝わる大明神古墳のあるこの地・湊宮を、
長明は当然のこと熟知していたはずだ‥などと
妄想を膨らませるいっぽう、往古は京の都の
表玄関であったろう丹後久美浜・湊宮の栄枯を
ここ数日、思わずにはいられなかった。


さて、実朝の詠んだ「朝日の宮の宮遷し〜」の
朝日の宮とはこの蛭児神社のことと由緒は記すが、
湊宮の西隣り蒲井・旭地区にも「旭神社」がある。
人の気のない海の近くの集落の崖上に坐している。
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『熊野郡史』(大12)に、以下の記述がある。
〜無社格 旭神社 湊村大字蒲井小字旭谷
祭神 宇迦之御霊命
往古 朝日長者の氏神と傳ふるのみにて、
勧請その他の由緒詳ならず。

境内神社 金比羅神社
祭神 大物主命
由緒 不詳 〜


旭谷の地名通り、海岸からは谷合のような立地
に旭神社はあった。集落のまさに上方に鎮座する。
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社殿裏に、いまは旭漁港という小港を見下ろす。
境内で鹿が静かに遊んでいた(写真の中央)。
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社殿の一段上の丘に金比羅神社がある。
社号標ではそう読めたが「神様の気配はないね」
「空っぽ?」と、沖縄から来た友人と言い合った。
もし語り部の視る通り、この旭神社から蛭児神社
へと、日留居大明神が遷移したというのなら、
この実感は当たりと言うことになるのだが‥。
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境内は、3段階の丘といった構造になっている。
金比羅神社のさらに高台にも小祠(写真左)がある。
港の番所かとも思うが、辺りに尋ねる人もいない。
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スマホで撮った ↓ その屋根の画像を拡大して、
私たちは声を上げた。「あら、これは船玉!?」と。
船玉神とは海人族が祀った航海安全の守護神。
琉球では「ウミナイの御霊力(おしじ)」という。
ウミナイとは、王府時代で言えば聞得大君のこと。
ヤマト言葉なら、さしずめ「オオヒルメの船玉」か。
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大綿津見神を崇める安曇族の裔という彼女は言った。
「来てよかった、これで旅の目的は果たしました」
ここが先祖が辿った長旅の終着地と感得したらしい。

宇迦之御霊(魂)命‥ウカノミタマノカミとは、
古代琉球を旅立った海人七氏族のことだと
何度か書いてきたが、この地で思った。その
御霊(魂)とは、船玉の神を指していたのではと。


丘の上の祠前から東の海を見ると、すぐそこ
に四神之嶽(シジラ、写真右)が聳えていた。
山上に日留居大明神の本宮が座していたという。
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そして日留居大明神はこの旭の山にも坐していた
と、語り部は視ている。ダブル・ヒルコか?
そして、ふたりのヒルメも彼には視えるという‥。



by utoutou | 2016-12-01 23:50 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(6)