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六甲山と瀬織津姫 97 スサノオの暗号

志賀島の港から真っ直ぐに伸びた志賀海神社の参道は、
早足で歩けば10分もかからないと思うが、摂社や句碑
など見所が多く、本殿に着くまでに倍の時間がかかった。


楼門では、十六菊の神紋で足が止まってウォッチング。
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大山津見神を祀るあの山之神 社が鎮座しているのは、
参道の最終アプローチ部分。楼門のすぐ前だった。

こちらでも、参拝してからスマホカメラを手に諸々観察。
大山津見神を、前回は「オコゼ好きな女神」と書いたが、
正直な話、あのときリアルに見ていた神像は男神だった。


日本書紀の一書には女神ともあり、一般に山の神は女性
だが、「鹿屋野姫を妃にした男神」「木花咲耶姫の父神」
と思いつつ、ここに山之神を祀られる意味を考えつつ、
傍に立つ神木スダジイ(写真左端)を、しげしげと見た。
(木の名前は分からなかったが、保存樹の説明板で確認…)
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スダジイ(椎)には、注連縄が巻かれていた。
神功皇后が、急逝した仲哀天皇の霊廟とした香椎宮の
 社名の由来となったのが、「香る椎の木」だったという。


椎が絡み付く左の木はイヌマキ(沖縄方言ではチャーギ)。
首里城の建材としても使われたというから耐久性は保証済み
だが、古くから神木ともされ、神壇に供える家も多いとか。
2本の神木が寄り添う姿からは、なぜか南方の匂いがした…。
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スダジイを見ていて、足名椎・手名椎の神を思った。
この2神になぜ「椎」の字が入っているかは
諸説あるようだが、それはさて置き、
出雲神話では、ふたりは大山祇神(大山津見神)の
子どもたちで、兄弟婚をした夫婦神として描かれる。
兄妹婚や、姉妹がひとりの男に嫁ぐ姉妹婚は南方の俗だ。

夫婦には8人の娘がいたが、八岐大蛇に年にひとり
ずつ人身御供に取られ、最後のひとりに残ったのが
末娘の奇稲田姫。姫は助けた素戔嗚尊の妻となった…。


この八岐大蛇の神話にそっくりな
物語を帯びた沖縄の祭りに、マータンコーがある。

津堅島で毎年旧暦11月14日に行われる伝統行事で、
 奇稲田姫や素戔嗚尊の名は出てこないが、口伝では、
古くは久高島でも同時に行われていたといい、日程が
イザイホー前日というのも、何やら深い意味を窺わせる。

祭りのなかでは省略されてしまったが、伝承の物語で、
大蛇退治のために用意された酒甕は7つ。それを7つの首
で飲み、酔っ払ったマータンコーは村人に刀で切られたが、
 尻尾を切るときに刃が欠け、代わりに剣が出てきたという。



私が見学した一昨年は、雨で体育館での催行だったが、
銅鑼を鳴らす人を先頭に、旗を持つ人やマータンコー
と呼ばれる7つの首の大蛇に飲ませる酒甕を担ぐ人が
続いて練り歩き、まさに八岐大蛇の神話を彷彿とさせた。
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祭りの後、「八岐大蛇みたいでした」と言ったら、
島のおばあは「ヤマトよりこっちが先ってよ」と笑った。

7つの首の蛇。尾を合わせると、八岐大蛇。
大山津見神は素戔嗚尊の義理の祖父にあたる神である。

そうすると、大山津見神にオコゼやアラカブを供える
と願いが叶うという山之神 神社の由緒は、素戔嗚尊と
 の関係をカモフラージュするための作為にも思えてくる。

八岐大蛇、八重垣、八尺瓊勾玉、8人の子ども、
八雲立つ、8の字で回る茅の輪くぐり、八坂神社…。
ざっと考えても、素戔嗚尊と「八」の縁は深いが、
志賀島神社の祭りも、「八」の数字を重視するという。

歩射祭の射手は8人、世話役も8人、準備は1月8日から、
的は藁8束、矢の数は6×8で48本、神酒を注ぐ橙は8個。
神に仕える巫女は8人、神幸祭では八乙女の舞を踊る。

そもそも、神功皇后が三韓遠征から凱旋した際、
対馬の海神神社に祀った旗は、8本だった
というから、何やら暗号めいてくる。

海神…ヤマト神話のスサノオは海を統べる神だった。
志賀海神社は菊紋、に真のスサノオを隠している?

by utoutou | 2017-03-23 13:02 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 96 女神はオコゼが好き

真砂の話をしていたときだったか、語り部に聞かれた。
「玄界島というのが、志賀島の近くにありますか?」
「はい、下馬ヶ浜から綺麗に見えましたよ」
沖津宮を見た帰り際に、「玄界灘の記念に」と撮った
1枚がこちら。↓道々調べて、玄界島という名だと知った。
志賀島の北西に浮かんでいる。その距離10㎞ほどか。
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語り部のインスピレーションは、アマミキヨ追跡
の大きなヒントであると同時に、こちらにとっては、
「裏取り」というミッションを告げる(笑)もの…。

調べ物が苦手な語り部からの質問は続いた。
「昔は、久島とか、月海島とも呼ばれていましたか?」
「調べてみます…」
「月読命を祀る若宮神社はありますか?」
「へぇ、調べてみます…」
「猫がたくさんいますか?」
「猫ですか、調べてみます…」


ようこそ玄界島へ」というご当地のサイトを見ると、
語り部の話は、すべてドンピシャの大当たりだった。

玄界島は、古くは久島、さらに月海島と呼ばれており、
若宮神社の祭神は月読命、また国内有数の猫の島だという。
2005年に起きた福岡西方沖地震では、真砂土が
土砂崩れを起こしての被害が相当あったことも分かった。

語り部からの話は、いったい何を示唆をしているのか?
キーワードはどうも、「隼人」のようだと、私は考えた。



志賀海神社の摂社に ↓ 「山之神 社」がある。
祭神は大山津見神。木花咲耶姫や山幸・海幸の父神だ。
隼人族の地元・鹿児島では「鉱山の神」として崇められる。
そう言えば、薩摩隼人は砂鉄を採り産鉄技術を有していた。
 隼人・海人族・真砂・産鉄・大山祇神と、一線に繋がった。
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「山之神 社」の説明板には、冒頭、次のようにあった。
 
〜御神徳 えんむすび・夫婦円満・開運
おこぜ や あらかぶ を供えると、その顔立ちの悪さを
見て滑稽に思われ、快く願いを叶えてくれる(後略)〜

まさしく大山祇神社と同じだ。愛媛の大三島にある
大山祇神社にも、オコゼを奉納する風習があると聞いた。
山の神は醜女なので自分より醜い魚を見ると喜ぶのだと。

さて、興味深いことに玄界島で月読命を祀る若宮神社
にも同じ風習がある。以下、玄界島のサイトより引用。

〜若宮神社
若宮神社の神様は女性の神様で、その姿はみにくく、
綺麗な女性や綺麗な魚を嫌い、オコゼという
醜い魚を祭ります。若宮神社の始まりは島の海岸
に流れ着いた神様・月読命を 〜(後略)

月読命とは、隼人族(後の日下部氏族)の祖神である。
丹後与謝郡筒川の浦嶋神社の祭神は、浦島子(太郎)
と、月読命と、(瀬織津姫と言われる)祓戸大神である。


月読命と大山祇神が、オコゼ好きな女神だったとは…。
そう言えば、海の底から出てきた安曇磯良は、
醜く鬼のような顔をしたオコゼに例えられたという。

月読命と大山祇神がオコゼ(安曇磯良)を喜ぶのは、
海神を崇めて止まない証だと言っているかのようだ。
また、安曇族と隼人族は同族であるということも…。

安曇磯良の祀られている関門海峡の和布刈神社は、
江戸時代まで速人社・隼人社・早鞆明神と呼ばれた。


伝説や物語も、かなり似ている。
志賀明神とも呼ばれた安曇磯良は、金の亀に乗って現れ、
龍神から賜った潮干珠・潮満珠を神功皇后に授けた。
浦島太郎も亀に乗って龍宮城に行き、
龍宮乙姫から貰ったた玉(珠)手箱を持って帰ってきた。


「龍神の珠」がもたらす霊力は、まさに人智を超えていた。
 海人族(海神族)は、それを生み出す術を知っていたか。

その謎解きは次回以降に進めるとして、つくづく思う。
和布刈神事で刈られたワカメも海神の賜物なのだった。
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by utoutou | 2017-03-21 11:22 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 95 海神のレガリア

志賀海神社の拝殿前には御潮井(おしおい)という
 清め砂が備えられていて、「さすが龍の都」と思う。

イザナギが禊をして神々を生んだという聖なる海
を住処とする海神(綿津見神)に礼拝するためには、
身に沁みこんだ俗世の穢れを祓わなくてはならない。



御潮井の横には、清めの作法も記されていた。
〜御砂を体の左・右・左と振り清め、二拝、二拍手、
一礼にてご拝礼ください〜
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志賀海神社へ来てから3度目の禊になる。まず
通りから鳥居へと上がる石段の下で清め砂による禊を。
楼門から入ったところで、手水舎で水で手と口を清めを。
そして、こちらに着いてから、神前の禊を行なった。
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御潮井は持ち帰りもOKと、楼門の横に書いてあった。
地元ではそれをテポ(籠)に入れて家々の戸口に備え、
外出の際に体に振り清めて災難除けとする風習がある
 そうだ。田畑の虫除けや、敷地の清浄を保つにも用いる。

筑前一帯では、神社に
最寄りの海岸の真砂を「御潮井」と尊ぶのだそうだ。

真砂土(まさど)は各地の土砂災害ニュースで耳にする
が、真砂土や真砂は、花崗岩が風化してできたものだ。
ここ志賀島の地質が花崗岩であるならば、
 境内のあちらこちらで花崗岩に出会ったのも当然か。




参道の脇に立つ、福岡県県有形文化財の
石造宝筐印塔(いしぞうほうきょういんとう)は、
仏典を納めた石塔。貞和3(1347)年の建立。
「花崗岩を用い、高さ334.5m」と、説明板にあった。
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そして、遥拝所の亀石も花崗岩で造られている。
神宮皇后が三韓出兵に際して、無事の帰還を祈願して
神楽を奏でると、黄金雌雄の亀に乗った志賀明神と
勝馬明神が現れて干珠・満珠を授け航路を守ったという。
一対の亀石は金色ではなかったが、本殿を向いていた。
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思い出しつつ、ある素朴な疑問が湧いてくる。
神功伝説に現れる一対の亀は、なぜ「黄金」なのか。


志賀島の真砂は、磁石にくっつくのだと聞いた。
真砂は磁鉄鉱が含まれる産鉄の材料だが、
砂金のことでもある。その砂金から、古代の民は
黄金を採取した副産物として鉄を得たのだという。

つまり「黄金の亀」には、安曇族に
関するメタファーが込められているのではないか。

安曇族が大陸から渡来した産鉄民であったこと、
もしかすると安曇族は、砂金から黄金を採取したか、
高度な錬金技術を持っていたかもしれないこと。

それゆえ、漢の首都まで航海できる航海術と、
倭国代表として金印を授かる経済力を有していたこと。

それゆえ、神は「黄金の亀」に乗って出現した?
 真砂が、だんだんと海神のレガリアに思えてきた。





by utoutou | 2017-03-18 12:03 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 94 秘められた北斗七星

志賀島は神々の島、そして多くの神話が生まれた舞台。
その悠久の歴史を下ればこそ、金印を授かった
「漢委奴国王」が生まれたと思うのだが、それはさておき…。
綿津見神三社元宮のある島の最北では、地名が
神話の名残りをとどめていて、時の止まる思いがした。



こちら下馬の浜(げばのはま)。
現在は下馬の浜海水浴場。そこに休暇村志賀島もある。
カメラの背後、右に沖津宮、左に中津宮が鎮座。
神功皇后が三韓出兵の際に志賀島を訪れ、
この浜で馬を降りたことにちなんだ地名だという。
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沖津宮と仲津宮に挟まれた海は、神遊瀬(大戸・小戸)。
『筑前国続風土記付録』(1798年)によれば、
沖津宮に向かって左を小戸、右を大戸と呼んだようだ。
神遊瀬(しんゆうのせ)に浮かぶ島々には洞穴があったか。
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『筑前国続風土記付録』に掲載された地図。
上が沖津宮、下が仲津宮、右下の山が「表津宮趾」。
三社を繋いでいた砂州と砂浜(入江)を彷彿とさせる。
左ほぼ中央に、神遊瀬の別名・御手洗の名も見えるが、
それはここが記紀曰く黄泉の国から戻ったイザナギが禊祓
すると綿津見三神が出現したアワギが原に比定されるため。
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こちら、舞能ヶ浜(まいのうがはま)。
志賀海神社に保存された神功皇后出兵絵巻によれば、
安曇磯良を海の国から召し出そうと7日7晩に渡って
神楽を奏した浜という由来があるという。
やがて、志賀大明神(安曇磯良)が奉賽するとともに
  馬がいなないたので、勝馬という字名がついたと伝わる。 
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さて、この周辺のどこかに「北斗七星が隠れている」
と語り部は言ったが、とりあえずこの海で行われる
神事はないかと、youtubeで「歩射祭り」を観て驚いた。


志賀海神社で1月に行われる厄疫退散と五穀豊穣と
豊漁を予祝いする恒例神事が歩射祭りだが、その
前日、新参の射手(いてし)として祭祀組織に加入する
ことになる若者たちが、胴結(どい、藁製の的)を運ぶ。
そのときの「胴結舞(どいまい)」で、先頭で胴結を
背負う若者が、杓文字で顔を隠したているのである。
(※下2点の写真は、志賀島歴史研究会ブログから拝借)
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ここに北斗七星が隠れていた…。杓文字は、
琉球の祭具でもある杓子(にぶとぅい)と同義。
広辞苑には、次のように記されている。
杓文子 ;(杓子の女房詞)飯や汁などをすくう道具。〜

にぶとぅい星とは、ウチナーグチで北斗七星のこと。
久高島のイザイホーでは、にぶとぅい(神職)が、
新加入なった神女に、にぶとぅい(杓子)で神酒を注ぐ。

男女の違いこそあれ、一定の年齢になったとき
島の祭祀組織に加入する通過儀礼のなかに秘められた
北斗七星は、共通する星辰信仰を思わずにいられない。

琉球王朝時代まで残った「天御中主神と7人の日巫女
は、北斗七星(巫女7人)と、輔星アルコル(弁財天)
 とで8人の巫女が天御中主神に奉じた形態を偲ばせるが、 
歩射祭りの新参射手も8人。しかも、その若者たちが
禊祓いをする場所は、天御中主神を祀る沖津宮である。



若者たちは、さらに海に潜ってガラ藻を採り、沖津宮
 の神前に供えて、古参から橙の盃に神酒を受けるという。
いわば「ガラ藻神事」は、「和布刈神事」にも相当する。
いずれも安曇族の奉斎する神社での古い正月神事だ。
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琉球には、海藻を神前に供える神事はないが、
イラブー海蛇が龍神の使いに例えられたのは、海の底
 の神聖なる海藻や生物を摂り入れるからだとも言われる。
 その結晶が、龍神がくわえていたとされる宝珠だと…。











by utoutou | 2017-03-15 21:28 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 93 オリオン座の三ツ星

志賀島の北、玄界灘に浮かぶ沖津宮と、志賀島の
最北の岬に鎮座する仲津宮を、真っ直ぐに結ぶと、
その延長線上というか、南に、もう一宮ある…。
沖津宮と仲津宮を交互に見つつ、確信に近い思いを抱いた。


綿津見三神とは住吉三神の異称であり、
 海人族の航海を導くオリオン三星の神格化したものだった。 
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古来、星信仰が盛んだった沖縄では、オリオン三星は、
「黄金三星(くがにみつぶし」と呼ばれ崇められた。
また、八重山では「立明星」とも呼ばれていたという。 

その明星は、琉球王朝時代、君真物(キンマモン)
と呼ばれ、国王の守護神だった(※『琉球神道記』)。
つまり、オリオン座の三ツ星は琉球国の守護神とされた。


また『中山世鑑』(1650年)には、こう記されている。
「キンマモンは、海底の宮を住家とする」。つまり、
星神とは海神・龍神であり、逆もまた真なりとすれば、
   天御中主神と表津綿津見神を祀る ↓ 沖津宮は龍宮でもある。  
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さて、志賀島の地図を見てみると、
沖津宮と仲津宮を結ぶ線の延長戦上に宇賀神社がある。


前回掲載した地図に新たに番号を加えてみた。
8.神遊瀬(大戸・小戸) 9. 表津宮 10.宇賀神社
沖津宮と仲津宮と宇賀神社がほぼ一直線に並び、
まさにオリオン三星を地上に遷し祀ったかのようだ。
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宇賀神社は御霊(ごりょう)神社とも呼ばれ、
いまは休暇村志賀島の敷地内に鎮座している。
(※休暇村の園内地図に赤色で矢印を加筆)以下は説明。


御霊神社
〜休暇村前の海岸に立つ仲津宮・沖津宮とほぼ3社が
直線上に並んでいることからも、綿津見三神を祀る
元宮三社とも言われ、静かな森の中にひっそり
立っている神社は神秘的(後略)〜
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しかし、ここで大きな疑問が湧く。宇賀神社が
綿津見三社の元宮なら、表津宮は三社に入らないのか。
 
沖津宮と仲津宮と表津宮跡を繋げると、
仲津宮を真ん中にして鍵型に曲がった形となり、整列する
オリオン三星とは程遠い配置ということになってしまう。

ここは、語り部のインスピレーションに頼ろう
と尋ねると、答えは相変わらず明快だった。

「鍵の型…。それは釣り針をかたどった配置でしょう。
  山幸彦は、失くした釣り針を探しに龍宮へ行った。
ここは龍の都、釣り針は安曇族の象徴ですからね。
ところで、沖津宮の近くの岩場には何があるのですか?」

「岩場ですか…。地図によると、そこは
神遊瀬(大戸・小戸)という所らしいですけど」
「そこに北斗七星やシリウスが隠されているようです」


天御中主神に、オリオン三星に、北斗七星も。さて、
この小島のどこに新たな星神が隠されているのだろうか。
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by utoutou | 2017-03-12 21:04 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 92 志賀島の最北へ

旅の終わりは子ぬ方(にぬふぁ。沖縄では「北」)へ。
志賀島の最北には表津綿津見神と天御中主神
(北極星、子ぬ方星)が祀られる沖津宮が鎮座している。

島の方の車で、雨のなか北部の休暇村志賀島まで
送っていただき、お礼を言って別れ、海鮮丼を食した後、
まずは仲津宮へと急いだ。余談になるが、旧正月で週末
だったせいか、休暇村のメインレストランは地元名士に
 よる盛大な貸切パーティーの最中で、ランチ客は宴会場へ。

その「金印の間」から、駐車場と金印海道を挟んで、
玄界灘と海水浴場と、砂浜を散歩するカップルが見えた。
 やがて雨は上がり、空を覆う雲は勢いよく流れていった。


ランチの後、休暇村から北へ7分ほど探し歩いて、
仲津宮に着く頃には、思いもよらないドピーカンに
空を仰ぐと、鳥居に掛かる「勝馬宮」の社号が見えた。
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鳥居の横に案内板が立っている。
鳥居の先は勝馬宮こと仲津宮境内、そして仲津宮古墳。
このときはまだ、古墳の全容を知らなかったが…。
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森の中の古い参道をしばらく進むと、拝殿に出た。
祭神のことは志賀海神社の由緒で分かってはいたものの、
こちらに案内板はない。島の東北? を向くかたちで参拝した。
左(西)の方向から、玄界灘の潮騒が聞こえてくるようだ。
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神社の前庭のスペースに、御嶽というか神籬があった。
沖縄の御嶽と同じで神名は知れない。先の仲津宮古墳
の案内地図から想像すると、ここが古墳つまりお墓の跡か。
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改めて、鳥居脇にあった案内板(を撮った写真)を見る。

仲津宮古墳
〜この古墳は、7世紀ごろ(古墳時代)に造られた
もので、勝馬(かつま)を基地とした海人集団の首長の墓
と考えられています。この古墳は円墳で、円丘の径7m、
高さ1.5mの大きさをもち仲津宮の前庭に位置しています。
 埋葬はまず、長さ約3.8m、幅約2.8mの長方形の縦穴を掘り、
その中に平たい石を用いて、4段以上に組み石室を造り
(縦穴系石室)、少なくとも5体の埋葬が行われ(※中略)…
石室の床面には、須恵器の浅底のお椀のようなもの(坏身、
坏蓋)、須恵器の壺、鉄鏃、鉄矛、刀子、鉄斧などの鉄器、
表面に銀をはった金属製の耳環、ガラス製管玉、小玉
などが埋葬されていました。1997年3月 福岡市教育委員会〜


そう、安曇族は産鉄の民だった…と思ったりしていると、
拝所の左手に坂道があるのに気がついた。道は↓石段
 に繋がっていた。※写真は降りてから振り向いて撮影した。
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仲津宮の森を降り切るとそこは海。小島が浮かんでいた。
島の地図で見た沖津宮に違いないと、近づくとやはり…。
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満潮で渡れないが、100mほど先に沖津宮が鎮座。
小島の中央に鳥居が立ち、山上へ登る石段が見える。
海神と星神を併せ祀る志賀海神社の摂社・沖津宮だ。
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それにしても、仲津宮が古墳とは知らなかった。
岩に腰掛けて、スマホで福岡市文化財情報を検索…。

仲津宮古墳が発見されたのは平成6(1994)年のこと。
その後、発掘された古墳はまた埋め戻されたという。

古墳は「勝馬を基地とした海人集団の首長の墓」と
案内板でも見たが、首長とは誰だったのか。紀元前に
渡来した安曇族の、そして「漢委奴国王」の末裔か? と
 思うところを、単に「海人集団」とは。謎めいている…。

残り時間がなかった。このとき13時。バスで港へ戻り、
14時のフェリーで志賀島を離れて、東京へ帰るのだ。


また来よう…と、立ち上がり、振り返って驚いた。
沖津宮を正面に見た位置の真後ろに、仲津宮の山が。
つまり、沖津宮と仲津宮は真っすぐに向き合っている。
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いや、向き合っているのではない。もしや古代には、
沖津宮と仲津宮、そして表津宮(の元宮)は、ここ勝馬の地
で北から南へ、黄金三星(オリオン三星)のように一直線に
 配祀されていたのではないか…。このときは、そう思った。


by utoutou | 2017-03-09 12:45 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 91 金印「漢委奴国王」

志賀島は金印の島。
この日、博多から電車とバスを乗り継いで志賀島へ。
海の中道という砂嘴を通って志賀橋を渡る頃には、
車窓から「金印」の2文字が目についてきた。
金印くん(島キャラ)、金印ドッグ(ホットドッグ)、
降りたところは、金印海道(金印公園がある海岸通り)。


港へと歩いてみると、旅客船ターミナルビルの
外壁には見上げるほど巨大な金印のオブジェがドーン。
なぜか金色ではなく、赤黒のツートンカラー。
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↑ 国宝金印『漢委奴国王』
1784年、現在の福岡市東区志賀島より出土した。永らく
旧福岡藩主黒田家に保管されていたが、その後福岡市に
寄贈された。現在は福岡市博物館で展示されている。金印
の鈕(紐をとおす部分)は蛇の形で、印面には漢委奴国王
(漢の委(倭)の奴の国王」と彫られている。中国の歴史
『後漢書』に「建武中元2年(57)倭の奴国奉貢朝賀す。
光武(後漢の皇帝光武帝)賜うに印綬を似てす。」とある。
弥生時代に福岡平野にあった奴国は、当時の日本列島では
最も栄えていた国の一つで、後漢王朝に使節を派遣し、
光武帝から贈られたのがこの金印である。印面の一辺の
長さは2.347㎝で漢字時代の1寸にほぼ等しい。この金印
 は、2千年前の日本と中国との交流を証明するものである。




2千年前の判子か…と、オブジェに向かってシミジミ。
確かに↓彫刻とは逆字だ。写真は福岡博物館より拝借。
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港のあたりをブラつくと、さらに「金印」と出会った。
博多港と志賀島を結ぶフェリーは「きんいん号」で、
金印マラソンや、金印カレーもあることを知った。
志賀島神社の授与品に金印ストラップを発見したり…。

島の北部、志賀島国民休暇村には「金印の湯」があり、
その館内で私が海鮮丼を食べた宴会場は「金印の間」。

休暇村へは、おばさまがご親切に車で送ってくれた。


港近くの金印海道を歩きつつ、金印公園場所を訊ねる
と、「歩いては無理、待ってて、車持ってくるから」と。
突然雨も降ってきたので、ご好意に甘えることにした。
「金印公園は工事中だから」と、一気に休暇村まで。
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車の中で、幸運にも志賀港の今昔を聞くことができた。
おばさまは弘漁港(地図の4)から志賀港(地図の1)
の近くへ嫁いだのだという。「いまはね、夜になると、
家の前の海を、外国の豪華客船みたいな船が横切って、
そりゃあ綺麗ですよ。子ども時代には、こんな素敵な
ナイトクルーズ船を見られるなんて夢にも思わなかった
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※志賀海神社で頂戴した地図に、番号を振った。
1.志賀島漁港・旅客船ターミナル 2.金印公園
3.叶ヶ浜  4.弘漁港 5.志賀海国民休暇村 
6.志賀海神社・中津宮 7.志賀海神社・沖津宮


やがて車は金印公園前を通過、おばさまは言った。
  「右が甚兵衛さんが金印を見つけた所(地図の2)。  
“かねのはま”の“かねのみさき‘’から出たんだって
  

おばさまと別れた後で調べると、福岡博物館サイトに
〜(金印出土地の)叶崎(かねのさき)は叶浜(かねのはま)
の突き出た部分と考えられる〜と、確かにあった。


かねのさき…どこかで聞いたことがあったなと
考えていたら、志賀海神社の境内に立つ万葉歌碑に、
鐘の岬(かねのみさき)とあったことを思い出した。
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〜ちはやぶる
鐘の岬を過ぎぬとも われは忘れじ 志賀の皇神〜
原文は下記。
〜千磐破 金之三崎 過鞆 吾者不忘 牡鹿之須賣神〜
波の荒い「かねのみさき」を過ぎても、志賀の神様の
ご加護は忘れません…そう訳すと、ピタリ当てはまる。


ここ志賀島漁港から見えるのは静かな内海。古来、
↓能古島(のこのしま)とに挟まれた天然の良港だ。
金印の出た叶崎は、ここから右(北)へ車で3分。
   そこは、波の荒い外海へ出る寸前の国際港だった?    
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そして、叶崎では、内航船(小さな丸木船)から
外航船へと、荷物の積み直しをしたのでは?
そして荷札か何かに「倭奴国王」の印を押したのでは。

 そう考えるヒントは、丹波・久美浜の朝日の港
古来、大陸との交易を担った安雲や住吉族は
 その港で外航船⇆内航船の荷物を積み替えていた

さて、この金印から約170年後の1954年、
志賀島と同型の金印『滇王の印』が、中国雲南省の
石寨山(せきさいざん)古墳群から出土したことは書いた。
同じ古墳から、琉球産らしき宝貝を入れた青銅製の
貯貝器も多数出土したということも『琉球産の宝貝』に。

後漢の光武帝が委奴国王に金印を授けた弥生時代、
沖縄〜志賀島〜(黄河沿いの)洛陽〜丹波を
外航船と内航船を繰って交易した海人に安雲族もいたか。

ちなみに倭と滇、ふたつの金印に共通するのは蛇鈕。
漢の皇帝は、朝貢する国の王に駱駝や羊など象徴的な
を冠した金印を与えたというが、両国の場合は蛇だった。
琉球もまた「龍(蛇)の国」、安雲と同族だったと思う。






by utoutou | 2017-03-05 14:00 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 90 志賀海神社

ブラタモリ神戸で話が途切れたが、九州旅の
最後に志賀海神社(福岡市東区志賀島)へ行った。

和布刈神社〜宗像大社〜そして、こちら志賀海神社。
玄界灘の主だった海人族にゆかりの神社を巡る旅。
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宗像神社では、
拝殿に掛かる『神勅』を、複雑な思いで見た。
「汝三神 宜しく 道中に降居して
  天孫を助け奉り 天孫に祭かれよ」
これが、天照大神から宗像三女神への『神勅』という。

「天孫を助け奉り 天孫に祭かれよ」の一文から、
大和朝廷のルーツだったはずの海人族の神々が、
          やがて、天孫への帰属を余儀なくされた歴史が窺える。         
いや海人族こそが天孫と考えれば、新天孫への帰属か?

記紀が成立する以前、筑紫を舞台にして起きた
朝鮮半島諸国との交易や交流、あるいは動乱や内乱。
そして、大和朝廷が頼りにした海人族の盛衰を思った。


さて、
「海神の総本社・龍の都」と呼ばれる志賀海神社。
一の鳥居の朝10時。宗像大社と違ってとても静か。
港から参道を10分歩いたが、出会う人はいなかった。
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鳥居左手の樹々の下、石神がひっそり祀られていた。
近づくと猿田彦命と刻字があり、あっ…と思う。
猿田彦の下駄』にも書いたが、沖縄久高島では、
魚根家(イン二ヤーと読む、ヤマトでは和邇氏)の始祖
あり、龍宮神(海神)と考えられているのが猿田彦神だ。
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南国を思わせる樹々が生い茂る参道を進みつつ、思う。
猿田彦大神とは海神(綿津見神)の子・宇都志日金
であり穂高見神と記紀などに見えるが、つまり志賀海神社
 に綿津見三神を祀る安曇氏は、アマミキヨと同族である。
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「アマミキヨとは、アマべ・アマミ・アズミが語源」
と古来伝わるが、こうして安曇氏の本拠・志賀海神社
に来ると、猿田彦命を介して、その系統が確信できる。


志賀海神社、本殿拝殿。
祭神は、左殿 仲津綿津見神(相殿 神功皇后)
     中殿 底津綿津見神(相殿 玉依姫命)
     右殿 表津綿津見神(相殿 応神天皇)
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古来、綿津見三神を奉斎してきた神裔・安曇族は、
志賀島を一大拠点として国内・大陸との交流を広く
行い、経済的・文化的に高い氏族。その交易の足跡が、
長野県安曇、滋賀県安曇川、兵庫、対馬などに、また
「しか」「あつみ」の地名に多く見られると由緒に。

神名ならば、和布刈神社にも祀られていた安曇磯良、
そして、アマミキヨということになるか。



↓ 本殿の右の海側にある、亀石遥拝所。
その由緒にも安曇磯良が登場する。以下要約。

〜その昔、神功皇后が三韓へ出兵される際、正面対岸の
打昇浜にある亀ヶ浜にある亀ヶ池・亀栖池の辺りで、
安曇磯良丸が凱旋を祈願して、七日七夜、神楽を奏でた。
すると黄金雌雄の亀に乗った志賀明神と勝馬明神が出現。
神功皇后へ干珠満珠の玉を授け、船の舵と航路を守り導いた。
黄金雌雄の亀は後に石となって現れたので、社前に納めた〜
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安曇とは、海津見神(あまつみ)の転訛で、
琉球稲作の祖と伝わる「天祖(アマス)のアマミツ」
は、安曇磯良のことだと、語り部は常々言っている。


その安曇磯良は、
本殿の山側の摂社・今宮神社の祀られているが、
こちらの主祭神は、宇都志日金命(=猿田彦神)。
そして住吉三神、安曇磯良をはじめとする安曇諸神。
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今宮神社の由緒には、こう記されている。以下要約。
☆安曇連等は綿津見の神の子・宇都志日金命の子孫。
☆綿津見神を宮司として奉職するのは、代々安曇家。
☆神功皇后三韓出兵の際に出現した安曇磯良丸命は、
ここ龍宮より干珠・満珠を借り賜って海上指揮に支えた。

これを読み、あることを思い出して、ひとり唸った。
本来の龍宮は久高島あたりにあると、語り部は言う。
つまり干珠・満珠とは、実は「琉球の珠」なのだと。
そして、それは本来3個の珠から成っていたのではと。

「琉球の珠」は3個あった…。難題が甦り、
というより、難しすぎるため聞かなかったことに
していた難題も、こうして志賀海神社に来たからには、
そうそう無視してはいられないと、ひとり苦笑した。



by utoutou | 2017-03-01 10:41 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)