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六甲山と瀬織津姫 121 猿田彦が隠れている

神功皇后への託宣により長田神社(神戸市長田)に
祀られた事代主命は「出雲の事代主命」と決まっている
と思ういっぽう、語り部の「長田神社には出雲の事代主命と
 は違う神が視える」との見立てが気になり、咀嚼してみた。


まず、「そう言えば…」と思い当たったのが、長田神社
境内の西側に鎮座する蛭子社(左)と出雲大社(右)。
出雲「国譲り物語」の事代主命が七福神の一神として祀られる。
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二社の間に立つ大楠を背景に、満面の笑みを浮かべる
福神としての大黒さまと恵比寿さま。蛭子社の案内板に
以下の説明があった。
〜御神徳 開運招福・商売繁盛長田大神で
大黒さんの第一子の神「えびす・ひるこの神」と称え、
釣竿を持ち釣竿を持ち鯛を抱えた姿で福を招き授ける神。
七福神の一神と仰がれる 〜 ※'14年4月に撮影。
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確かに語り部の言うように、出雲の事代主命が恵比寿さま
として祀られているのだから、長田神社の本殿に祀られる
事代主命には別の神像…もっと本来的で、秘された神像が
ありそうだと悶々とすること数日、「そうだった…」と、改めて
思い出したのが、昨年の当ブログ記事「三輪山は古代の大和」。
出雲は出雲でも、大和地方にあった出雲の話である。

大神神社(奈良県桜井市)の摂社・狭井神社の北(
三輪山の東部)には、古来、出雲という名の地域があり、
出雲神族の神々・サイノカミ三神(クナト神・猿田彦大神
・幸姫命)が祀られていたという伝承を紹介したところ、
語り部はこう言ったのだった。
「サイノカミや狭井神社のサイとは、斉のことである」

そんな経緯で、私は書いた。
〜古代出雲とは、島根県の出雲だけを指すのではない。
その領土は、中国雲南省、タイ・ベトナムとの国境
から朝鮮半島・日本列島を含む広大なものだったと。
それが斉、言い換えれば「倭」である。〜と。

「倭」をさらに言い換えると、「夷(えびす)」である。
中華思想の視点から大陸の辺境に住む夷狄(いてき、異民族)
と蔑称で呼ばれた東夷、北狄、四戎、南蛮といった人々。
その「夷」の国の頂点に立っていた大王とは、猿田彦神だった。

『日本書紀』には、三輪山の事代主命についての一書がある。
〜事代主命が八尋熊鰐となって、勢夜陀多良比売に通って
できた娘が、神武天皇の妃になった媛踏鞴五十鈴姫 〜だと。

その神の亦の名こそは、後に我が国で「えびすさん」へ
と呼称が変化していくことになる事代主神こと猿田彦大神。
沖縄久高島では、「ニライ大主」と呼ばれた龍神。
そしてまた、大綿津見神でありアマミキヨである。


そしていま、ようやく思いがけない気づきに至った。
廣田神社(西宮市大社町)の摂社だった ↓ 西宮神社が
「えびす宮」と呼ばれる理由は、
猿田彦神こと事代主命が隠れているからなのではないか。
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by utoutou | 2017-07-30 12:40 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 120 神功皇后の新羅遠征

契丹古伝』は、新羅は熊襲が興した国だと記している。
それで分かったのが、記紀にある神功皇后の新羅遠征の段。
香椎宮にいて、熊襲征伐についての神意を仰ぐ仲哀天皇に、
神がかった神功皇后の伝えた内容が、これまで腑に落ちなかった。

『古事記』では、天皇が熊襲征伐について是非を問うた
その意図を、まるで無視するかのように唐突な神託が下る。
「西の方に国がある。金銀をはじめとして目を輝かせるような
数々の珍しい宝物がある。私はいま、おまえにその国を与え
       ようと思う」などと、新羅への遠征を進言するのである。       

それに比べると、『日本書紀』はもう少し筋が通っている。
神は「熊襲の国は戦うには足りない」と神は告げ、新羅には
金銀財宝が豊富にあることを伝え、自身の手厚い祭祀を要求し、
「ならば熊襲も新羅も血を流すことなく服従するだろう」と宣った。

(九州にある)熊襲の国か、(半島にある)新羅の国か…。
あたかも二択問題の答えのような神託を不自然に思っていた
のだったが、新羅が熊襲の興した国ならば納得はできる。
三韓征伐は史実か否かという点はさて置き、ともかく、
富のあるほうの熊襲(新羅)を撃てと、神は説いたことになる。



『國史畫帖 大和桜』より「三韓征伐の図』。
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神託に従わなかった仲哀天皇に、神は冷酷に告げた。
「汝は国を保てないであろう」(日本書紀)
「おまえはさっさと黄泉の国へ行くがよい」(古事記)


天皇を死に至らしめた神とは、他でもない瀬織津姫。
新羅遠征から凱旋帰還した神功皇后によって、
↓廣田神社(西宮市大社町)に祀られることになった
 撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(天照大御神荒魂)である。
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そんなあれこれを考えると、
天照大御神荒御魂は、国を外難から守護するだけではない、
というか相反する神徳を併せ持っていることが分かる。

熊襲と新羅を服属させたいなら我をよく祀れと宣り、
それに背いた仲哀天皇に祟り、ついに死に至らしめた神、
その託宣神・撞賢木厳御魂天疎向津媛命とは、
熊襲と新羅の民が崇めた女神ということになるのだろう。
もっと言えば、アジアの南原にいた先住民・クマソの崇めた神。

瀬織津姫を私たちはいま、「蝦夷の国の女神」と呼ぶが、
元を正せば、大陸の「夷(えびす)の国の女神」だった。

新羅遠征から凱旋した神功皇后は、その神を手厚く祀った。
あるいは、記紀編纂者は手厚く祀る神話を作り上げた。
なぜなら女神は藤原不比等にとっての祟り神だったからだ。



ところで、新羅遠征をめぐっては、他にも「祟り神」がいた。
『日本書紀』に「祟る所の神」として記されているのは…
「日向国の橘小門の水底にいて、水葉も稚に出で居る神、
名は表筒男、中筒男、底筒男の神…」↓住吉神社の三神である。
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そして、「尾田の吾田節の淡郡に居る神…」。一説には、
生田神社(神戸市中央区)に祀られる稚日女命と言われる。

もう一柱が、「天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神」。
長田神社(神戸市長田区)に祀られる出雲の事代主神らしい。

事代主神については、国獲り神話に登場する出雲の神が何故?
と、かねがね思っていたが、語り部は意味深に言った。
「どうも、出雲の事代主とは違う神という気がします。
 そもそも、長田神社の元宮はどこにあったのでしょう?」






by utoutou | 2017-07-22 14:43 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 119 新羅王は琉球で生まれた

400年前に新羅から来たという難破船が接岸したため、
その名がついた奥武島の聖地・御新羅(ミシラギ)。
「難破船はどこへ向かおうとしていたのか?」という問い
に対して、難破船の伝承は答えてくれることはないが、
古来、朝鮮半島と琉球を往来する海路はあったようだ。



奥武島観音堂から至近の距離に、タカラ城(グスク)
という創祀年代がまったく不明の御嶽がある。
語り部によれば、「タカラ=多加羅」。つまり、加羅諸国
の人々が渡来した痕跡ではないかという。※'17年2月撮影。
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集落の一角に埋もれるようにあるタカラ城の御嶽。
威部(いび)の傍の表示には「Takaragusuku Tomb(墓)」
と英字も。それ以上の解説は『奥武島誌』にも記載がないため、
逆に、琉球と新羅の間にあるかもしれない秘史に興味が湧く。
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ところで、「新羅第四代の王・脱解(57〜87年)は琉球
で生まれた」と記したのは『契丹古伝』訳者の浜名寛祐氏。
脱解王の話は、その著の第十八章「五原以前の支那原住種族」
にある「クマソ」を、「脱解」の項の前段として捉えている。

(要約)
☆(大陸の)五原にいた先住民のうち南原のクマソは
 新羅三姓(朴金昔)の祖。卵生神話があり鳥人と呼ばれる。
☆先住民はよく服順したが、クマソは従わなかった。
☆クマソは難波…つまり琉球の那覇を経て、大隈国の
宇豆、筑紫を通り、遂に辰藩(=新羅)に侵入した。

新羅はクマソの興した国であるというのだ。そして、
『三国史記 新羅本紀』を引き、脱解の生誕へと訳文を繋いだ。

〜 脱解は多婆那国の所生なり。
その国は倭国の東北一千里にあり。〜

この一文を解して、脱解王の所生を次のように記した。

(要約)
☆『三国史』に云う脱解の生まれた「多婆那国」を、日本の学者
は、丹波や但馬や肥後の玉名と解しているが、古代を契丹古伝
の如く大観すれば、それは台湾を含めた琉球でなくてはならない。
☆「倭」は我が日本だけでなく、遠く東シナ海にも存在した。
☆「倭の東北一千里」とは、「委の東北一千里」のことである。
「委」は「越」の古名なので、「多婆那国」とは琉球のことである。


「新羅人が九州に渡って熊襲になった」との説はあるが、
  浜名説はその逆で、南原にいた熊襲が新羅入りしたという。
「では、南原とはどこか?」には詳しい言及はないのだが…。



富山県作成の「逆さ地図」を真似て、Googleマップ
を(アバウトだが)↓ 逆さ地図にしてみると、
大陸と日本列島と琉球列島の位置関係がよく分かる。

繋がった眉毛のような日本列島と奄美・琉球諸島は、
あたかも東シナ海という内海の淵に立地しているようだ。

赤い矢印が沖縄本島。朝鮮半島東南部にあった新羅を、
例えば南方に向け船出すると、常に島々が見えるという。
船乗りの視界から初めて陸地が見えなくなるのが、沖縄本島を
離れてからだそうだ。本島南端の喜屋武岬の近海を離れると、
次に視界に入る宮古諸島までの距離は、約200mile(320㎞)。

南進北進を問わず、船乗りの航海術が試される海域と聞く。
黒潮やその反流や季節風に抗しきれなければ、「内海」から
太平洋へと押し流されて、奥武島や玉城に漂着することになる。
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奥武島の橋にかかるモニュメントのハーリー船。
古代人は、刳り船か葦舟かで大陸と島々とを往来していた。
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by utoutou | 2017-07-17 10:55 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 118 奥武島の御新羅(ミシラギ)

玉城城とレイラインの話は、思えば4年前に始めた
当ブログの初回に、「太陽の道と貝の道」として書いた。
アマミキヨが築いたという玉城城とレイラインの関係が
分かれば、琉球の歴史の一端は紐解けるか…と考えていた。

先月の沖縄旅でも玉城城に登り、一の郭の前に立って
玉城台地(現在は琉球ゴルフ倶楽部のコース)を見渡した。


カメラ視線の真っ直ぐ先から、夏至の太陽が昇るという。
↓稜線を描く山の麓に、玉城の神女オバアが「琉球最古に近い」
と言った「垣花の御嶽」が、またその1㎞先に垣花城址がある。
夏至の朝日は2点の「垣花」を貫いて玉城城の一の郭に届く。
それはまた、垣花城(照城之嶽)と玉城城という2点の
「アガル御イベ・ツレル御イベ(=東方の御嶽)」を繋ぐ。
語り部は、「アカル姫はアガルイの御嶽にいる」と言った。


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さて、
垣花城跡〜垣花御嶽〜玉城城を通る「アカル姫のレイライン」。
その先(西南の先端)は、奥武島(南城市玉城奥武)である。
奥武島から撮った写真の東北に、5㎞離れた玉城城の城壁が写る。
奥武島(南)と玉城(北)を結ぶ橋(60m)の奥武島側から撮影。
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ミシラギは、漢字で表記すると「御新羅(みしらぎ)」。
標識に 〜観音堂由来の難破船を繋いだ岩〜 と、短い
説明があるように、奥武観音堂ができるきっかけとなった
400年前の難破船伝承の残る地で、以来、拝所となっている。


「新羅から来た船」は、難破して奥武島に辿り着いた後、
↓防波堤の右端近くの岩に船を繋ぎ、避難していたという。
一帯は志堅原(しけんばる)集落。船乗りたちは、滞在中に
使った川泉に「仁川」と命名。現在も「じんがー」と呼ばれる。
集落の人々の協力で船の修復も終わり、やがて帰国した一行は、
その恩に報い、琉球王府を通じて純金の観音像を贈ってきた。
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「新羅」から到来した観音様を安置する奥武島観音堂。
ハーリー(海神祭)前日、航海安全などを祈願するのが恒例。
コンクリート製の鳥居には三日月の彫刻。'17年2月の撮影。
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「新羅」製の観音像は高さ24㎝ほどの大きさだったという。
蓮の上に乗り、左手に糸玉、右手に糸巻きを持っていた。
それが今次の戦乱で失われてしまったため、終戦後、
京都から取り寄せたのが ↓こちら。陶製の楊柳観音という。
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『奥武島誌』('11年、奥武区自治会発行)は、しかし、
「漂着船は新羅から来た」という伝承には、やや懐疑的だ。
その理由とは…。以下、記事を要約。

☆漂着した年代(※1615年頃)は古老たちの推測であり、
漂着船の国籍(中国か韓国か?)を含めて調査研究が必要。
☆ミシラギとの関連が伝わる「新羅」は、西暦356年から
朝鮮半島東部にあった国で、935年に滅亡しているため、
「新羅から来た」にしては、時代的に700年ほどズレがある。


私はこう推理する。難破船に乗っていた一行は、
自ら「新羅人の末裔」と名乗っていたのではないだろうか。
いっぽう、400年前の奥武島の人々は、そもそも、
新羅に対して親しみの感情を抱いていたのではなかったか。

各地のレイラインには日置族の関与があったと言われる。
玉城城のレイラインも然りで、その存在があったと考える。

日置族の本拠は南薩摩。熊襲・隼人と故地を一にする。
『契丹古伝』を和訳した浜名寛祐氏は、こう記している。
「新羅は熊襲が興した国である」。そして、
「新羅第四代の王・脱解(だっかい)は琉球で生まれた」と。

古来、琉球と深い関係があり、もしその伝承が残っていたと
 するなら、「新羅」をめぐる年代のズレは問題にならないし、
 新羅に、わざわざ「御(み)」を冠した拝所名もうなずける。





by utoutou | 2017-07-13 12:57 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 117 アカル姫のレイライン

久高島八月祭り(テーラーガーミ)で男たちが集落をお祓い
しつつ歌う神歌『赤椀の世直し(ゆのーし)』。世直しとは
神に神酒(ウンサク)を供えるための木のお椀を指すというが、
歌詞にあるその世直しの出所が、私には長年の謎だった。
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〜サウルカラクダユル ヘイ(サウルから下った)
アカワンヌユナワシ ヘイ(赤碗の世直し)
ヤマトカラクダユル ヘイ(ヤマトから下った)
クルワンヌユナワシ ヘイ(黒碗の世直し)〜
(※全歌詞と祭りのレポートは こちら に)

さあ、世直し(酒椀)に神酒を注いでお供えしよう…と。
その世直しが下された元とは、久高島に渡来した先祖の故郷
らしいが、「サウル」と「大和」とは一体どこのことか?

祭りで歌った経験のあるオジイは言った。
「ソウルは中国、ヤマトは大和(本土)のことだよ」と。

ところが、この度、語り部が視た世直しは違った。
「いま初めて視ました。赤椀は赤い琥珀でできている。
琥珀だから、光線によって黒椀にも見えたわけですよ」

一瞬、息を飲んだほど、意外な話だ。
「赤椀と黒椀の2種類があるわけじゃなかったのか…」
語り部も、自ら霊視したものに少し興奮しているようだ。
「渡来の歴史を隠して神を祀っていたのでしょうね…」


赤い琥珀で作られた、世直し。
そう聞いて思い出すのは、何年か前に観た
『草原の王朝〜契丹〜美しき3人のブリンセス』展である。
印象に残った遺物に、複数の赤い琥珀の装身具があった。


↓ 図録から11世紀前半の王の首飾り写真を拝借。
解説文によれば、龍や魚や蓮華を浮った珠を繋いだもの。
赤琥珀を好む傾向は「中原」の民、つまり漢民族にはなく、
それを珍重するのは契丹の王族の特徴ということだ。  
また、赤琥珀は契丹領内の産物とも考えられるらしい。
この材質で作られたのが、赤椀の世直しか…。

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世直しがいつ琉球にもたらさせたものかは分からないが、
赤や朱は古代人にとって神聖な色だったという。特に
中原の周縁に住む倭人にとっては。漢民族から東夷など
と呼ばれた、ユーラシア大陸の先住民たちの立てた国は、
契丹古伝によれば東大神族(しうから)。その民は赤を珍重した。

いっぽう、アカル姫は太陽を思わせる赤い瑪瑙玉の化身。
その母は昼寝して陽光にホトを射されて妊み、赤玉を生んだ。

それを思えば、赤椀はアカル姫の象徴として相応しい。
アカル姫が東大神族の流れにいるならば、あの神歌の
「ヤマト」とは、東大神族=倭(やまと)とも受け取れる。

「ところで…」と、語り部は言った。
「アカル姫の霊は東方(あがるい)の御嶽にいるようです。
久高島のアカララキ以外にも、同じ名の御嶽はありますか?」

しばらく考えて、「あーっ」と思いついたのが玉城城である。
玉城城の城内にある「天つぎ雨つぎ」(※由来記では雨粒天次)。
「その神名は、アガル御イベ・ツレル御イベといいます。
地元では、アガルイの御嶽と呼ばれることもある」



という訳で、翌日さっそく玉城城(南城市玉城)に登った。
この日は珍しく一の郭までに2組の見学客とすれ違った。
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一の郭の丸い穴から城跡に入ると火の神(写真右)がある。
夏至の朝日は一の郭を通り、この香炉を射すと伝わる。
石積みの中が「天つぎ雨つぎ」こと「アガルイの御嶽」だ。
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いつものように一の郭から琉球ゴルフ倶楽部を見通す。
夏至の朝日を見ようと登ったときは、あいにくの雨だった
…などと思い出していると、ふと、あることに気がついた。
あの山の先に、垣花城(かきのはなぐすく)の城跡がある。
城内の御嶽も、やはり「アガルイの御嶽」という。
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垣花は、古くは和名垣花と呼ばれたという。
和名とは、大陸から渡来して大和古代豪族となる和邇氏の
根拠地だったろうと、語り部がかねてから言う集落である。

玉城城と垣花城にある同じ神名の「アガルイの御嶽」。
2ヶ所は、まさしく夏至の朝日のレイライン上にある。
つまり「アカル姫のレイライン」なのか…?













by utoutou | 2017-07-09 12:57 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 116 アカル姫の御嶽

アカル姫。
『古事記』応神天皇記には、「天之日矛の妻」「新羅から来て
難波の比売小許社に坐す阿加流比命」と、記されている。

『日本書紀』垂仁天皇記には、「都我阿羅斯等
(つぬがあらしと)が追った童女」「難波の比売語許社、
そして豊国・国前郡の比売語曽神社の神になった」と
記されていることから、この童女もアカル姫と見られるが、
記紀どちらにしても、古伝としての記述である。

そのアカル姫について、語り部は言った。
「久高島のアカララキに祀られる女神と、神像が一致する」と。
また、アカル姫は「琉球の玉を持っている女神」であるとも。
それは如意宝珠や「三種の神器」の勾玉にも匹敵する神宝。
太陽の化身として、至高の霊力を発する玉であったらしい。


久高島の西海岸に位置するアカララキの御嶽(写真左)
島西南のユーラヌマ浜に位置する(↓ 6月27日に撮影)
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アカララキ(=アカル姫)は転生再生を司る女神。
イザイホーの際には祭場に移動して、島の女性たちが
神女として生まれ変わるのを見守ったと考えられる。 
(以前の記事は こちらこちらに)

アカララキに祀られる女神の名は、伏せられてきた。
その理由が渡来の女神だったからなのだとすれば、
イザイホーが長く秘祭とされ続けた理由もそこにある。

天皇の践祚大嘗祭の原型とも言われるイザイホー。
その祭場に祀られたアカララキが渡来の女神では、
都合が悪かったということだろうか。

しかし、アカル姫は決して渡来の女神ではない。
崇めたのは、ユーラシア大陸を治めたと考えられる
古代王朝・東大東族(しうから)民。倭人と呼ばれた人々は、
琉球・日本・大陸の間を、潮流に乗って行き来した海人族だ。



琉球には歴史がないと言われて久しいが、そうした古伝
は、琉球王朝時代まで密かに継承されてきたらしい。
  アカララキは「君の泊(ちみんとぅまい)」と呼ばれた港に位置。
「君」とは聞得大君の意味で、その船はここに着岸したという。
降り立ったその足で、いの一番に参詣したのがアカララキだ。
↓ 斎場御嶽と海峡を挟んで向き合う「東方の御嶽」でもある。
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「アカル姫は、東方(あがるい)の御嶽にいる」
と、語り部は言った。
私には初めて聞く御嶽の名だったが、「暁の御嶽」
と言われるアカララキには、そんな古名もあったのだろう。
琉球では、太陽の昇る方向を東方(あがるい)と、
また太陽神を「東方大主(あがるい・うふぬし)」と呼ぶ。


太陽神を祀り、そして自らも祀られるアカル姫の御嶽。
御嶽の中央に置かれた小祠の中には、小さな神体石が、
いま水平線から昇って再生する朝日のように祀られている。
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さて、
夏にアカララキを起点として行なわれる久高島の男祭り
テーラーガーミ」を見て書いたのは3年近く前だったが、
アカル姫を知ったいま、訂正しなくてはならないことがある。
男たちがお祓いのために手にする「日の丸」の扇子。それを
近年の祭具なのだろうと考えたが、これがアカル姫の「赤い玉」
を象徴しているとすれば、近年からであろうはずはなかった。
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そして、「赤玉」がアカル姫が持つ神宝だったなら、
これまで腑に落ちなかった神歌(ティルル)の謎も解ける。
テーラーガーミで男たちが歌う『赤椀の世直し』の一説だ。

〜ソウルから下たる赤椀の世直し〜(※世直し=祭具)

なぜ赤椀(酒杯)はソウルから下ったのか…の答えは、それを
もたらしたのがソウル(新羅)から帰ったアカル姫だったからだ。
「赤椀の材質は、赤琥珀(レッドアンバー)でできている」
と、語り部は霊視している。





by utoutou | 2017-07-05 11:52 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)