<   2017年 10月 ( 7 )   > この月の画像一覧

六甲山と瀬織津姫 141 橘寺の謎

聖徳太子の生誕地にあるという橘寺(奈良県明日香村)
は、その真像を知るのに外せない場所ではないか…。

元々は太子の祖父にあたる欽明天皇と、その第四皇子
・用明天皇の別宮が置かれていたというから、いわば
代々の天皇に所縁の地。そこの厩戸で、散策中だった
 間人皇后は厩戸皇子(572〜622年)を生んだという。


寺の建立自体は、皇子の生誕から数十年後になるが、
その寺がなぜ、「橘寺」と命名されるに至ったのか?
(※未参観のため、画像は4travel.jp 様より拝借)
a0300530_14105714.jpg




如意輪観音菩薩が祀られるという本堂前の幕にも橘紋が
見えており、古来、橘の木は植わっていたものだろう。
それゆえか、用明天皇の和風諡号は「橘豊日天皇」。

太子妃にも橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)がいた
というその名を法隆寺に隣接する中宮寺で聞いて以来、
「橘」が無性に気になった。もしやアマミキヨ関連かと。
その理由は後述するとして、天皇家にとって橘とは何か?

くだんの橘妃は、敏達天皇と推古天皇の第三皇子である
尾張皇子の娘という。皇女の名にもなぜ、橘の一字が?


私の参った神社では、誉田八幡宮(羽曳野市誉田)
の拝殿前で橘の樹を見た。主祭神は応神天皇である。
a0300530_15332907.jpg





「右近の橘」と、相対して右手に「左近の桜」があった。
京都御所・紫宸殿(ししんでん)に倣ったものか。
その元を辿ると、それは渡来人の秦河勝邸にあったといい、
またしても聖徳太子に辿り着いてしまうのである。
a0300530_15361703.jpg





誉田八幡宮で見た「たちばな」の家内安全御守り。
〜古来よりたちばなの花や実には神聖な場所を守る
力があるとされています。(後略)〜
古来、お正月に供える鏡餅に乗せるのは橘だった。
a0300530_16015193.jpg




ところで、「右近の橘」や鏡餅の由来とされるのは、
垂仁天皇が田道間守を常世の国へ遣わせたという故事。
非時の香菓(ときじくのかぐのみ)という不老不死の
霊薬を持ち帰らせたという話が記紀にあり、それが
「橘なり」と記されているが、どんな橘なのかは不明だ。

そもそもなぜ、田道間守は橘を探しに常世の国へまで
行ったのか。橘は上古から日本で自生する柑橘類である。
中国には漢時代から「橘井(きっせい)」の言葉がある
ほど薬効が認められていたが、橘はこの国にもあった。

そのことは、
廣瀬大社(奈良県北葛飾郡)の縁起にも見えている。
〜崇神天皇九年、廣瀬の川の里長に御信託があり、
沼地が一夜で陸地に変化し、橘が数多く生えたこと
が天皇に伝わり、この地に社殿を建て…(後略)〜

垂仁天皇は崇神天皇の次代であるから、田道間守は
別種の橘を探しに常世の国へと旅立ったことになる。

田道間守が十年かけて往復した常世の国とは琉球
ではなかったかと、私はかねてから考えていた。
 琉球には月橘(げっきつ)という橘が野生している。
現代の沖縄では石灰岩地帯の生垣や庭でも見かけるが、
分布範囲は東南アジア、中国南部、台湾、沖縄、奄美。


月夜に芳香を放つ常緑小高木の柑橘類で実は赤い。
別名「カラタチバナ」または「シルクジャスミン」。
沖縄の方言では、「ギキチャー」と呼ばれる。
(※画像は南城市「ガンラーの谷」ブログより拝借)
a0300530_17512050.jpg




月橘は霊力を発するとも言われ祭祀の供物になるほか、
薬草としては、胃腸カタル、腹痛、下痢に効くという。

その効用はヤマトの橘と大差ないように思われるが、
大きな特徴は、葉が3〜9枚ある「羽状複葉」ということ。
↓図の右上の「奇数羽状複葉」が、月橘の形状にあたる。
(※画像は「デジタル大辞典」より拝借)

a0300530_17545877.png


なんと、葉の付き方は「生命の樹」にそっくりだ。

エデンの園の中央に植えられていた生命の始まりの樹。
その実を食べると、神のごとき永遠の命を得られると
いう聖樹を、田道間守は持ち帰ったのではなかったか。
垂仁天皇の崩御には間に合わなかったけれども。

私には月橘(ギキチャー)が古事記で最初に登場する
天地創造の神=天御中主神に思えてならない。
橘寺で生まれた聖徳太子は、天御中主神の末裔か…?


by utoutou | 2017-10-30 13:28 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 140 聖徳太子〈その10〉

聖徳太子の膳妃の出自が分かったところで、太子とその母
・間人皇后を探りたいと思っていたが、それはさておき…。
 沖縄へ行ったので、「てだ御川(うっかー)」を訪れた。


南城市知念。斎場御嶽から国道331号線を車で8分
ほど北上した地名岬に位置する御嶽。沖縄本島の東海岸、
太平洋に平たい久高島と、目を転じると斎場御嶽を望める。
(沖縄県は)台風21号一過の午後、海も空も澄んでいた。
a0300530_15485393.jpg





「てだ御川」と、案内板が立っている。
〜「テダ」とは太陽を意味する言葉で、ここでは琉球
国王を指します。国王が麦の初穂祭に久高島を参拝する
途中、この地で豊かに湧き出る水をいただき休息をとり
ました。そして海上の無事を祈ったのです。テダ御川は
東御廻りの聖地として今でも人々から崇められています〜
(※東御廻りとは…南城市のサイト
a0300530_15485788.jpg




訪れたのは、他でもない聖徳太子が頭にあったからだ。
語り部はかつてこの地で聖徳太子の姿を霊視したという。
太子らしき貴人が船から降り、上陸したのを視たと。
まさか…と何年も思ってきたが、今回はふと足が向いた。


案内板の立つ駐車場に車を置いて、300mほど歩く。
透明度の高い珊瑚礁湖は、人気の撮影スポットらしい。
いつの台風で飛んできたのか、巨岩が道を塞いでいる。
a0300530_15490231.jpg





巨岩の横を通り過ぎるとき、最初は
下部に




ぽっかりと開いた大穴に目が行ったが、
すぐに、その上に浮き出ている「牛の顔」に気がついた。
龍の頭のようでもあるが、どう見てもこれは「牛の頭」。
a0300530_15490872.jpg





「牛の頭」と言えば、最近参った四天王寺の「牛王尊」。
東大門の近くにあり、「石神堂」とも呼ばれている。
内部には牛型の石(石神)が祀ってあるというが、一説に、
その石神とはスサノオの本地「牛頭天王」の秘仏だという。
琉球の神女古伝ではスサノオを「天王ガナシー」と呼ぶが、
四天王寺で参って以来、この祠が妙に気になっていた。
石神は、太子の真像を探る手掛かりになるのではないかと。
a0300530_15492698.jpg




天王尊と牛頭天王と、てだ御川に置かれた「牛頭の石」。
不思議な巡り合わせを思いつつ進むと、拝所の前に出た。
琉球国王にゆかりの御嶽と伝わるが、上古に遡る歴史が
あることは、「東廻り」という神事からも容易に知れる。
ここは琉球の始祖・アマミキヨが住んだという聖地のひとつ。
a0300530_15534140.jpg




原付自転車を停め、海を見つめていた男性が走り去った
 ところで拝所の周囲を観察し、改めてutoutou(礼拝)。

そして目を開けると、驚いて引っくり返りそうになった。
石碑に、「平成2年2月22日改修」と刻まれている。
2月22日は聖徳太子の命日とされる日である。
これは偶然の一致か暗号か、はたまたメッセージか…?

   


by utoutou | 2017-10-26 12:08 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 139 聖徳太子〈その9〉

太子と共に太子廟に眠る膳妃(かしわでのきさき)
は、膳傾子(かしわでのかたぶこ)という豪族の姫。

4人いたという聖徳太子の妃のなかで、膳妃こと
膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)だけが、太子と
合祀されたのは、寵愛を得たという理由だけなのか?
また逝去の時期が近かったという理由だけなのか?
それを探るために、叡福寺の印象を振り返ってみる。


叡福寺南大門。
聖徳廟の扁額が掛かるこの門に立ったときから、
磯長墓へのアプローチが始まっているように思えた。
叡福寺は622年、太子廟を守護する目的で推古天皇が
建立したというが、その123年後の745年、聖武天皇が
伽藍を建立したと伝わる。123年後とは何やらゴロがよい。
a0300530_08292691.jpg




境内に進むと、左手に金堂と多宝塔が建っている。
「三骨一廟」の太子廟に対応するように、お堂には
如意輪観世音菩薩、愛染明王、不動明王と三体の仏像。
a0300530_08465285.jpg





「三骨一廟」ゆえか、太子廟では「三」が妙に気になる。
    屋根が「三重」。香炉紋が琉球王朝と同じ「左三つ巴」。   
a0300530_07015294.jpg





三つ巴とは一般に、三者が入り乱れての対立を指す。
または古代には、鼎(かなえ、三つ足の祭器)を指す
   場合もあったとか。それは王位の象徴でもあるという。  
 
 そこから推理するに、太子廟の「三骨一廟」とは、
「三豪族の合葬」を意味するのではないかと思った。
皇后・太子・妃は「三氏」の象徴的存在ではないのかと。
    
 語り部も、「再生を願っての葬り方だと思う」と言う。
 逆に考えれば「三氏」は封印されたということになるが、
では、その三氏とは、いったいどのような古族なのか…?


ところで、叡福寺の前日は奈良の「斑鳩の里」に
行き、法隆寺や中宮寺(↓)に参ったが、斑鳩には膳妃の
数代前の先祖には膳斑鳩(かしわでのいかるが)がいた。
a0300530_10172036.jpg




若かりし日の太子は、膳妃と斑鳩で出会ったという。
つまり膳姫は、斑鳩の里を代々支配する首長の姫だった。
その地に太子の斑鳩宮が、またやがて法隆寺が建てられた。
膳氏は、もしかすると何やら強大な家系なのである。

斑鳩は、海外使節の着く難波津と、当時の政治文化
の中心だった飛鳥のちょうど中間地点にあたる。
大和川の水運を考えても、斑鳩に拠点を置くことは、
太子が力を注いだ隋との外交政策にとっても有利だった。

いっぽう、斑鳩の地名はイカル(鳥)にちなむらしい。
別名は「三光鳥」、「日〜月〜星」と鳴くのだという。
日月星の三光を崇めるのは、渡来海人族の信仰だった。

そんな話をすると、語り部は意外なことを言った。
「膳氏と聞くと、埴札(はにふだ)が見えます」

埴札とは、『先代旧事本紀大成経』の編著のために
太子が集めた海人族六家の家伝が記されていた赤土の札。
埴輪と同じ材質で作った、古代の「記録板」である。

埴輪を作る赤土は、赤土山古墳がある大和の和邇下、
現在の天理市櫟本あたりで採取されことは、近くに
赤土山古墳があることでも分かるが、そこに膳氏も蟠踞
していたならば、当地の和邇氏と同族だったことになる。

膳妃とは、大和の大地主の姫だった。そして、
大和川の航行安全を司る瀬織津姫だったかもしれない。



by utoutou | 2017-10-21 10:42 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 138 聖徳太子〈その8〉

10/13(金)夜、NHK『歴史秘話ヒストリア』で放送
 の『聖徳太子の棺 伝説のその先へ』を偶然観て驚いた。

数日前に訪れた叡福寺(大阪府南河内郡太子町)を映す
VTRに井上あさひアナがいた。(↓テレビ画面を撮影)
a0300530_10132048.png





私が訪れた日の叡福寺(聖徳皇太子磯長御廟)。
晴天だったが、町の循環バスから降り立ったのは唯一人。
a0300530_10140080.jpg





山号でもある磯長山(しながさん)に太子の墓がある。
直径50m余の丸い古墳だと↓オンエアで全貌を知った。
a0300530_10141978.jpg




叡福寺境内から石段を登り、二天門を通ると太子廟がある。
宮内庁による案内板(推古天皇皇太子聖徳太子 磯長墓)も。
左に菊紋、手前に賽銭箱とお香立て。お線香は200円だった。
a0300530_10143302.jpg





墳丘の高さは19mとか。地形に沿うように御廟が立つ。
二重の結界石が聖域を取り巻いている。内側は空海作とか。
御廟正面の扉から10m石段を上がると横穴式石室とか。
a0300530_10144143.jpg





御廟の正面に「三骨一廟」を表す彫刻が掲げられていた。
聖徳太子、妃、母である皇后、3人が葬られている。
622年に相次いで逝去。死因は伝染病か暗殺かと言われる。
a0300530_10145846.jpg





↓番組でCG再現された玄室。室内に3つの棺が並ぶ。
一番奥に見えるのは、母・穴穂部間人皇后の石棺、
前列左には妃の膳大郎女を、右に聖徳太子の棺を安置。
太子と妃の棺は絹を貼合した乾漆で作られたが、制作には
1年かかかったので、「太子は2度葬られた」ことになる。
a0300530_10193857.jpg





その謎解きを、猪熊兼勝氏が語っておられた。
  没後、太子を見直す動きが生まれ、棺は作られたのだと。  
その後も蘇我入鹿暗殺に始まる大化の改新、そして
壬申の乱と混乱は続き、多くの人命が失われたとき、
「聖徳太子」の名が生まれ、国を再生するシンボルとなったと。

棺の材質である乾漆は最高級の絹だったという。いっぽう
斉明天皇と藤原鎌足のは麻製で、その違いが太子信仰を
物語っている…など、まさに秘話満載のヒストリアだった。


ところで、太子妃4人のうち
この膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)だけが、なぜ
こうして太子と母との三骨で同葬されることになったのか?
 再生のシンボルなら、太子だけのほうが相応しいのでは? 

番組を観終えて、そんな素朴な疑問が湧いたとき、
思い至ったのは「磯長(しなが)の里」という地名だ。

ここ河内国磯長は渡来氏族・息長氏の支配地だったようだ。
膳大郎女は膳(かしわで)氏の姫だが、もしや息長氏系か。

ともあれ、磯長=息長。
また、同町に鎮座する科長(しなが)神社の「科長」も
同様で、すべて「息を長く吹き続ける」という意味という。
科長神社には、息長垂比売(神功皇后)の生誕伝承もある。

また、龍田大社(奈良県生駒郡)の祭神・志那都比古神
志那都比命の「志那」も、「息が長い」との意味という。
風神や「息が長い」神徳から連想されるのは古代産鉄だ。

「聖徳太子」には、息長氏が隠れているのではないか。
 さらに息長氏には、沖縄が隠されているかもしれない。
 「息長と沖縄は同義」とする説があり、発音も似ている。
















by utoutou | 2017-10-16 15:46 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 137 聖徳太子〈その7〉

四天王寺に呼ばれているのか、機会あって再び大阪へ。
四天王寺の西側に立つ石鳥居の前に立ってみた。
昨日10月10日、大阪の日の出は5時59分だった。
その10分前、五重塔の東南方向から太陽が昇ってきた。
 秋分の日の朝日は石鳥居のど真ん中から昇ったはずだ。


秋分と夏至、二至の日の出を表す東西軸と、
写真左から右への南北軸が、金堂の前でクロスする。
南北軸とは、例えば六甲山では天御中主神ラインと思う。
a0300530_07553586.jpg




先日、四天王寺七宮を巡って「北斗七星」を見たが、
それは同時に、「北極星(天御中主神、琉球では、
にぬふぁー星と呼ぶ)信仰を示していると感じられた。

七宮では「鎮宅さん」とか「豊受大神」など、
神名は違えど、天御中主神が祀られていたからだった。

ところで、「七」という整数は、聖徳太子が編纂した
という先代旧事本紀に見える「六家+天皇家=七家」を
示していると語り部は言った。(※関連記事は

その六家とは「甲羅を持つ6匹の亀」と確信したのは、
やはり先日、四天王寺で、何度もの亀に遭遇したからだ。



昨日10月10日、
日の出の時刻(5時59分)の四天王寺・六時礼讃堂。
五重塔や金堂のある中心伽藍の北に位置している。
a0300530_07562626.jpg




六時礼讃堂前にある亀池。昨日の朝の水面はとても静かだったが。
a0300530_07563830.jpg




同じ亀池を、先日は午後2時にやはり石橋の上から覗いていた。
おびただしい数の亀が鯉(?)と一緒に戯れて泳いでいた。
外来種のカメが繁殖してしまい寺側は困惑しているらしいが、
古来、亀池という名だったからには「亀」は暗号だろうか。
a0300530_07565597.jpg





こちらも、亀。
四天王寺でも人気のスポットという亀井不動尊(左)。
亀井堂(右)には次々と「お経木流し」する人が訪れる。
a0300530_07571647.jpg




そして、こちらも亀。
四天王寺の鬼門方向(境内北東)に位置する大弁財天
の池にも、たくさんの亀が群れているのを見て驚いた。
亦名も亀遊嶋弁財天。亀が遊ぶ嶋、何やら意味シンだ。
a0300530_09400435.jpg





思えば、あの日の午前に、元四天王寺と言われる
玉造稲荷神社(大阪市中央区)にも参った(記事は後日)。
境内摂社の厳島神社にも亀池があり、亀が休んでいた。
a0300530_11215070.jpg





なぜ亀なのか…?
そこで思い当たったのは、明日香村のキトラ古墳である。
石室の北壁(玄武)に描かれていたのは、亀蛇だった。
「亀と蛇」は、渡来海人族の北極星=天御中主神を表すか。
それはまた、聖徳太子の出自を暗示しているかもしれない。

by utoutou | 2017-10-11 12:37 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 136 聖徳太子〈その6〉

四天王寺を守護鎮守するという七宮を巡り歩いた。
四天王寺七宮が、七寺でなく、なぜ神社かについては
諸説あるようだが、ともかく聖徳太子による建立で、
四天王寺と共に創建されたと神社の由緒が伝えている。

七宮を巡り終えて登ったあべのハルカス展望台からは、
こう見えた(上が北、中央が四天王寺、赤線は加工)。
a0300530_07271717.jpg



地図上では北斗七星に見えなくもないが、はたして…?
七宮のうち③⑥⑦は、明治時代①大江神社に合祀された。

①大江神社 ②堀越神社 ③土塔神社 ④河堀稲生神社
⑤久保神社 ⑥小儀神社 ⑦上之宮神社
a0300530_06402808.png




①大江神社(天王寺区夕陽丘町)
祭神/豊受大神 素戔嗚尊 欽明天皇 大己貴命 少彦名命

由緒要約〜かつての天王寺北村の産土神であり主祭神
として豊受大神(稲荷神と同一神)を祀る。
明治期に合祀した祭神は、(小儀と土塔の素戔嗚尊、
上之宮の欽明天皇、大己貴命、少彦名命)〜
a0300530_08132299.jpg




旧鳥居。私が立っている背後(南)には柵があり通行不可
だが、かつてはこちらからの参拝が正式だったのかも。
a0300530_08132522.jpg





②堀越神社(天王寺区茶臼山町)
祭神/崇峻天皇 小手姫皇后 峰子皇子 錦代皇女

由緒要約 〜 時の摂政・聖徳太子が叔父の崇峻天皇を
偲び、風光明媚な茶臼山に四天王寺と同時に建立した 〜
a0300530_08222330.jpg





由緒にもあるように茶臼山古墳と天王寺公園に隣接、
四天王寺南交差点にも至近。境内を横切る通行人多し。


大上神仙鎮宅霊符尊神(通称・ちんたくさん)。
神木の威容と、四天王寺を拝む配置に度肝を抜かれた。

由緒要約 〜 霊符の元祖の神。前漢時代に始まった節分
や七夕などの星祭りはこの神のお祭り。旧暦の七夕には、
星霊の力で復活再生を願う。「鎮宅さん」はまさに家宅を
鎮め、玄武を神の依代にする 〜 つまり天御中主神が祭神? 
a0300530_08363701.jpg





③河堀稲生神社(天王寺区大道)
祭神/宇賀魂大神 崇峻天皇 素戔嗚尊

由緒要約 〜 景行天皇の時代、夏目入穂の孫である
逆輪井が神地を賜り稲生の神を奉斎。後に聖徳太子が、
四天王寺創建のとき社殿を建て、崇峻天皇を祀った 〜
a0300530_08524343.jpg





本殿の南に摂社(八幡宮、桜樹大神)が並んでいる。
祭神に天皇を祀り、「四天王寺七宮一の宮」だった。
a0300530_08523249.jpg





④久保神社(天王寺区勝山)
祭神/天照皇大神 速素戔男尊 伊邪那岐尊
伊邪那美尊 宇賀御霊尊

由緒要約 〜 旧久保村の産土神であり、また四天王寺の
守護鎮守の神として創建された天王寺七宮のひとつ 〜
a0300530_09130727.jpg




伊勢神宮遥拝所。神社創建より後世に築かれたか?
四天王寺の東大門にも伊勢神宮遥拝所があった。
a0300530_09132995.jpg




摂社・願成就宮。傍に説明板が立っていた。
〜 聖徳太子の深く信仰あらせ給い御願の成就を遂げ給う
により願成就宮と称え、今に庶民の信仰たえず霊験
あらたかなりと伝えられております 〜
a0300530_09133898.jpg



なんと、ここにも…と、お宮の前で思わず佇んだ。
四天王寺境内にある「守屋祠」の別名も願成就宮である。
「守屋の霊が願いを成就してくれるご利益スポット」と
同じ社名を持つこちらも「守屋祠」ならば、当然のこと
祭祀するのは、物部守屋の末裔ということになろうか。

そして、七宮に祀られる聖徳太子の叔父・崇峻天皇、
欽明天皇、天御中主神、豊受大神、素戔男尊など、
記紀成立以前から崇められた神々は、何を物語るのか…?
あるいは、聖徳太子は誰かという問いに答えてくれるか…?


七宮巡って16時33分、あべのハルカス展望台からの西、
淡路島(左)、明石大橋(中央)、六甲山(右)を遠望。
六甲山が、まるで対岸に横たわっているように見える。
甲羅を持つ6亀+1=7。ピンと何かが閃いた。
a0300530_13553841.jpg


















by utoutou | 2017-10-06 21:39 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 135 聖徳太子〈その5〉

四天王寺境内の東端に置かれた謎めいた小祠を
休憩所で頂戴した境内地図プリントで見ているとき、
ロビー中央に祀られている聖徳太子摂政像が光った。


午後1時。光源は太子像の上にあった。光を注がれ、
お香の煙が身体を包むベールのようにたゆたう。
四天王寺は文字通り寺だが、聖徳太子が神に見えた。
a0300530_14474926.jpg





四天王寺は、物部守屋と蘇我馬子の抗争で
蘇我氏についた聖徳太子が、戦勝を機に、
四天王を安置するため建立したというのが由緒だが、
平安時代からは救世観音菩薩を本尊としている。

 救世観音菩薩は聖徳太子の写し身と言われる。実際、
 境内の随所で太子信仰のメッカらしい煌めきを感じた。
  何かを覆い隠すための煌めきに感じられなくもないが。
   

さて、謎めいた祠が何であるかは、すぐに分かった。
それは知る人ぞ知る、守屋祠(もりやのほこら)。

祠に近い境内南東に立つ唐門にその↓案内図はあった。
(※画像はレイアウトして、赤丸を加筆しています)
聖霊殿(太子殿)奥殿の奥=真東の端に守屋祠はある。
a0300530_14481011.jpg





毎月22日には参拝できると、公式サイト内の記事
あったが、残念ながら普段は立ち入り禁止とのこと。
↓左端の八角の屋根が奥殿で、その右に位置している。
a0300530_14484263.jpg





太子殿奥殿の前に、左甚五郎が彫刻を施したという
「太子殿猫の門」があるが、これまた意味シンな印象。
a0300530_14484668.png




眠り猫のように眠れと鎮魂しているのか…と思う
いっぽう、眠りから覚めるなよと封印するようにも?
a0300530_14485044.jpg




太子殿の右側の施錠された弊越しに守屋祠を探す。
しだれ柳の奥に、朱塗りの小祠がチラリと見えた。
a0300530_14485931.jpg




 ところで、四天王寺の山号は荒稜山(あらはかさん)。
旧地名は荒墓邑で、近くに茶臼山古墳(被葬者不明)
があるところから、この地も古墳だったと思われる。

語り部に意見を聞くと、こうアドバイスされた。
「元々は、ここに磐座があったように見えますね。
四天王寺の近くには、神社が7つありませんか?」

調べると、寺を北斗七星の形に取り巻く七宮がある。
そこに、四天王寺建立の真相を知る手掛かりがある?

なぜなら、物部氏が奉斎したのは日月星の三位一体。
それは記紀において抹殺された、いわゆる星信仰。
つまり、四天王寺の真の建立者は物部なのか?
あるいは、聖徳太子自身が物部だったのか…?


by utoutou | 2017-10-03 13:38 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)