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六甲山と瀬織津姫 152 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊〈4〉

ヤマトへ東征したと語り部の言うセーナナー
とは、饒速日尊の率いる船団に供奉した人々。
淀川を遡った後、「イカルガへ行った」と神託が
あったとのことだが、さて、これをどう紐解く…?

もちろん『日本書紀』などによれば、饒速日尊の
一行は、天磐船に乗り、現在磐座神社のある河内
 の河上に天降りた後、大和(奈良)に移ったというが、
その後、供奉衆はどこへ行ったかと神は問うている?

そもそも、
イカルガとはいったい全国のどこを指すのか。
まずは、法隆寺のある奈良県生駒郡斑鳩町が思い
 浮かぶが、イカルガは兵庫県や京都府などにある。

難題ではあったが、語り部からヒントになる話も。
「一族は、河内の河上から大和へ、そしてイカルガへ
行ったものの、再び戻って来たように視えます」
「饒速日尊のお供だった肩野物部氏は、移動したと?」
「河内に戻ったのは、大化の改新の前後のようです」
「なら、イカルガとは、聖徳太子の斑鳩の里ですね」
そのように、私には思われた。


10月8日(日)に拝観した法隆寺・夢殿(斑鳩町)。
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託宣にあったイカルガとは、斑鳩の里だろう。
饒速日尊が淀川を遡り河内の河上まで来た後に
大和へ南下したのだから、肩野物部氏も同伴して
生駒山地沿いに南下したと考えるのが自然だろう。
または、いったん大和へ行った後に斑鳩入りしたか…。



河内河上の位置は、↓「生駒山」の文字あたり。
南下すると斑鳩の里に近くが、そこは飛鳥への経路。
(NHK『歴史秘話ヒストリア 聖徳太子の棺』より拝借)
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では、「大化の改新」の頃にUターンしたとは?
大化の改新で天皇の宮は飛鳥から難波に移り、
政治の担い手は蘇我氏ら豪族から天皇へと転換した。
 物部氏は藤原勢力によって斑鳩を追われたのでは…。

そう言えば、語り部とはこんな会話もしていた。
「イカルガに、古い神社がありませんか?」
「それなら知っています。斑鳩神社がありますよ」


斑鳩神社(天満宮)のことは、法隆寺で知った。
私が訪れたのは偶然にも17年の秋祭りの日(本宮)。
夢殿(写真右奥)を見終えて歩いていると、南大門
と東大門の間を、5台の神輿が勇壮に往復していた。
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静謐な法隆寺の境内を、太鼓を激しく打ち鳴らして
神輿(布団太鼓)が練り歩く、斑鳩の地主神の秋祭り。
「大昔からのお祭り」と、担ぎ手の氏子さんも言った。
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法隆寺の鬼門(東北)に守護神として鎮座する
斑鳩天満宮(公式HPはなく『人文研究見聞録』で学習)。
主祭神は菅原道眞、創建はその後裔による。地主社に
伊香流我伊香志古男命(いかるがいかしおのみこと)を祀る。

地主神の名はイカルガ…。伊香に流れた我…?
そのとき、磐船神社の由緒で見た神名を思い出した。

肩野物部氏の祖として、次の名前が記されている。
饒速日命六世孫・伊香色雄命(いかがしこおのみこと)。
斑鳩の地主神・伊香流我と同じ「伊香」ではないか!?




by utoutou | 2017-12-28 17:31 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 151 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊〈3〉

琉球のセーナナー(海人七氏族)はイカルガへ行った」
語り部の言うことはいつも唐突だが、今回もまた…。

イカルガとは聖徳太子が法隆寺を創建した奈良の
「斑鳩の里」のことか、磐船神社の鎮座する哮ヶ峯なのか。
哮ヶ峯は「たけるがみね」と「いかるがみね」二通りの
読み方があるが、その理由は不明のようで謎めいている。


磐船神社(大阪府交野市私市)社務所の遠景。
社殿がないためか、社務所はどこか旅籠屋ふう。
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磐船神社の岩窟巡りを終え天の岩戸に出ると、
そこから先が哮ヶ峯(いかるがみね?)へ登る山道。
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磐船稲荷稲荷大明神。花崗岩地質のここは産鉄地か。
肩野物部の人々は、水田耕作を営んだという。
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さて、セーナナーについての口伝を、少しおさらい。
セーナナーとは、上古、沖縄本島の東に浮かぶ伊計島、
あるいはそこに連なる島々に住み、やがて船団を組んで
 ヤマトへと上ったと伝承される、「聖なる海人七氏族」。

沖縄本島東方に南北に浮かぶ久高島から伊計島までの
七島(北斗七星に例えられた)にいたと伝わることから
 そう呼ばれたが、明確に「七氏族」というよりも、整数の
  「七」を冠して「何部族かの海人たち」といった意味という。

それにしてもセーナナーが饒速日尊の船団であるらしい
 とは…少なからず驚くと同時に、なるほどなあと思う。 

「饒速日尊は久高島にいた」という神女おばあの口伝
(記事はこちら)を思い出しても、さもありなんと…。

また、久高島第一の祭祀場・外間殿に置かれた
いわゆる御賽銭箱「百甕(むむはめー)」について、
語り部が言ったこと(記事はこちら)も紐解けてくる。

「百甕とは、甕の字のついたヒコと、
百の字のついたヒメ、その一対神のことだと思う」と、
語ったその2柱の神とは、ヤマトの三輪山に住まう蛇神
・大物主神と、その妻・倭迹々日百襲姫命が当てはまる。
すると、琉球は大物主神の原郷ということになるか。

大物主神とは饒速日命のことだと、大神神社に参拝
の後に書いていたが(記事はこちら)、その亦名は
倭大物主櫛甕玉(やまとおおものぬしくしみかたま)命。
「甕」の一字が含まれている。

あるいは、天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日命。
その神名は『出雲国造神賀詞』にのみ見えているが、
やはり「甕」の一字が含まれている。


新たなる課題「セーナナーはイカルガへ行った」。
この秋に大阪・難波のあべのハルカスの16階(庭園)
から撮影した生駒山地の↓遠景写真を改めて見る。

生駒山は中央の山頂、その北麓(左)に磐座神社が鎮座。
いっぽう斑鳩の里は南(右方向)に位置。その距離18㎞。
どちらかに、あるいは両方にセーナナーの痕跡があるらしい。
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by utoutou | 2017-12-23 13:00 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 150 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊〈2〉

饒速日命が天降りたという磐船神社の天の磐船石。
その写真を初めて見たときから、何かの姿に似ている
と感じていた。真正面からは船というより丸い小山の
ように見える巨大な磐座を、饒速日命の末裔たちはなぜ
 御神体として、古代から連綿と崇め続けてきたのか…。

何はともあれ、天の磐船石の奥に広がる岩窟に入った。

社務所でサインした申込書には、コースを巡る時間の目安
として自己申告する二択(30分、45分)のチェック枠
があったので前者に入れたが、同行してくれた神社の若い
人に聞くと「6分あれば廻れます」と言った。速い…。
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石窟巡り中の写真撮影は禁止のため、社務所にて配布
している「コース解説」プリントで振り返る。
(※実際の写真一覧はA4サイズ紙だが、5分割した)。


左から ①天の磐船石 ②岩窟入口 ③第一の橋。
川を渡った先は登りか下りか見当がつかず、ひるむ。
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左から ④押上岩 ⑤岩の下へ入る ⑥見えない滝。
岩と岩の間を潜るか岩を登るかは矢印で示されるが、
その先は真っ暗闇で、見えないことへの恐怖を感じる。
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左から ⑦生まれ変わりの穴へ ⑧足から降りる
⑨空の見える場所。⑧がコースの最難関箇所のようだった。
狭所恐怖症の人は、ここでリタイアしてしまうらしい。
私は頭から入ろうとして、「足から!!」と一喝されたが、
足場なく深さも分からない。運を天に任せて滑り落ちる。
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左から ⑩崖を登る 龍神様の祠
参道より岩窟を覗く。この解説書があるのを知らず、
コースを予習しなかった私は、⑪の暗さに打ちのめされ、
初めてこの挑戦を後悔したが、実は出口直前だった。
もっとも深い闇を経て見た光は、まさに太陽神だ。
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天の岩戸 大岩大神(同祖神)白福大神(々)。
岩窟を廻り、登り詰め、光に映える磐座と対面した。
長く感じられた所要時間は、時計では10分だった。
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同行の若い人と別れて、「天の岩戸」をゆっくり拝観。
天の磐船石の上部に位置しているらしく、参拝客の声
が聞こえるが、岩窟を通らなければここへは来られない。
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天の岩戸、大岩大神などを順拝して、社務所の方向へ
歩いてこの神像に出会い、「そうだったのか!」と納得。
一対の龍神が、修行の終了を祝すように鎮座している。
饒速日命(天照大神)と瀬織津姫=龍蛇族のヒコヒメだ。
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ここでようやく、あの天の磐船石が何の形に似ているか
について気づかされた。それは、とぐろを巻いた蛇神…。
吉野裕子氏が『蛇』で「鏡餅の原型」と記したその形だ。

どうやら、岩窟の小さな「穴を潜り抜ける」ことは、
「蛇の脱皮」を疑似体験して蛇神に近づく行為だったか。
岩を縫って進む動作も、蛇(イラブー)の生態に近い。

沖縄久高島のイザイホーで歌われる神歌(てぃるる)
には、「てぃりないぬ」という言葉が出てくるが、
それは久高島の方言で「再生の」という意味。
本島では、蛇が脱皮するように生まれ変わることを
「すでなりの」と言う(※記事はこちらに)。


古の琉球では、祭りを神と人が一体となることを、
神遊び(かみあしびー)と呼んだが、この地に渡来した
肩野物部の一族も、こうして龍蛇神を崇め、龍蛇族への
加入儀礼に替えて磐座群を祀ったのではなかったか…。


帰りに社務所で、「修行終了」の御札を頂戴した。
透明な袋入りのまま、壁や柱に貼ってもよいそうだ。
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御札に添えられたプリントに、次の説明があった。
〜 磐座神社の岩窟はご神体天の磐船の磐座に連なる
無数の巨石群が天野川を覆い尽くし、その隙間を
行場として人々が修行を修めてきた場所で、古く平安
時代以来、修行道生駒北嶺の霊場とされ…(後略)〜

饒速日命の天の磐船と、命の供奉衆たちを祀る聖地が、
  ここ河内国河上の哮ヶ峯(いかるがのみね)だった。  

それにしてもなぜ、ここを「イカルガ」と呼ぶのか。
少し前、語り部は謎めいたことを言ったものだ。
琉球のセーナナー(海人七氏族)はイカルガへ行った」

気づいて、すかさず、語り部に電話を入れた。
「饒速日命の天磐船は、セーナナーのことですか?」
「そうなりますね」
  そうだったのか…。
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by utoutou | 2017-12-18 04:28 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 149 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊〈1〉

律令制成立前後、機内三国を治めた凡河内氏。その
祖は天御影命、始祖は天津彦根命。天穂日命もいる。
一族に二始祖神が存在する謎について語り部は言った。

「天津彦根命と天穂日命はともに古代の玉城と久高島に
 いたアマミキヨで、双子だったように私には視えます」

霊能力のない私は、いつもながら「まさか」と思った
が、あれこれと調べていて、似た所見に出会った。

本居宣長が『古事記伝』に記している(要約)。

〜『新撰姓氏録』に「土師宿禰は天穂日十二世の後}と、
また「凡河内寸忌は天穂日命十三世孫の後」とある
が、伝えが混乱したのは遠祖が兄弟だったためだ 〜

つまり、天津彦根命と天穂日命は兄弟だったのだと。
しかし、そんな神代の系譜を検討する術はあるのか?


などと戸惑った12月最初の週末、東京から日帰りで
大阪へ行き、磐船神社(大阪府交野市私市)に参拝。
祭神は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。

凡河内直などの祖・天御影命は、河内川上の
哮ヶ峯(いかるがのみね)に天降った饒速日命に
供奉した防衛32人の一人と『先代旧事本紀』は記す。
その哮ヶ峯に、一度足を踏み入れたいと思っていた。

後に神武天皇に帰順した饒速日命は、それゆえ
紛れもなく初代王だったわけで、その降臨地へイザ。
それで何が分かるのかは予想もつかなかったが、
極めてハードと噂の「石窟巡り」にも初挑戦したい。
 転落事故で閉鎖されてから3年、最近再開したという。


新大阪から交野市へは電車で50分。
交野(かたの)市の地名は、「肩野物部」に依る。
饒速日命の降臨に兵杖を帯びて供奉した25人の一人。
最寄駅は私市だが、レンタカー店は交野市駅前のみ。
車で20分走ると哮ヶ峯の麓に着いた。登山客多し。
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御神体は巨大な天の磐船石。なぜこの地に降臨した?
という問いへの答えを、神社の由緒はこう記している。
〜太古、淀川は枚方(シラノカタ津)付近まで入江と
なっており、大和に入るには当時、哮ヶ峯の麓を
流れる天野川を遡りつつ大和に入るのが至便だった
と考えられます 〜 
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神体の巨岩を横から。まさに磐船の舳先のようだ。
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饒速日命一行が遡ったという、神社近くの天野川。
生駒山を水源に交野市と枚方市を北流して淀川に注ぐ。
肩野物部氏はこの川の流域で米作りを始めたらしい。
物部の里らしく、星田妙見など星にちなむ聖地も点在。
交野市は「七夕伝説発祥の地」となっている。
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天野川トンネルのある「磐船狭」は錦秋の彩り。
河岸の公園は週末の散歩を楽しむ人でいっぱい。
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ところで、
河岸の道路は観光客の車が並び、神社に参拝する
トレッキングのグループも多かったが、岩窟巡りする
 人は決して多くはない。聞くところ参拝客の1割程度。

単独での岩窟入りは禁止ということで、事前連絡して
 同行をお願いしていたが、その難易度は予想を超えた。

社務所で入山申し込みを済ませて持ち物をすべて預け、
白い襷を渡されたまでは、そんな大仰な…と思ったが、
同行してくれる神社の方は、私の靴を見て言った。

「その靴では危険ですよ」と。
私は、履いていた平底のブーツを指差した。
「沖縄の磐座や洞穴をこれで歩いてきたので大丈夫です」

ところが、まったく大丈夫ではなかったのである。
岩底を流れる天野川が、岩々の肌を濡らしていた。
琉球石灰岩は凸凹があって手足を引っかけやすいが、
ここでは巨岩の岩肌のほとんどすべてが、修験の人々
 の手で磨耗したのか、ツルツルして掴み所がなかった。



岩窟内部は撮影禁止なので、外から岩窟を見る。
例えば右にあるような岩に登り、左下に見えるような
小穴を潜り抜ける。進路は矢印で示されるが超ハード。
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進むも地獄、戻るも地獄の河内国河上哮ヶ峯岩窟。
 なんとか生還した岩窟巡りの様子は、次回に…。





by utoutou | 2017-12-14 11:54 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 148 みんな瀬織津姫

摂津・河内・泉州という畿内三国を治めたという古代
豪族・凡河内氏(おうしかわちうじ)の祖を遡れば天御影命に、
さらに始祖は、天照大神と素戔嗚尊の誓約で生まれたという
天津彦根命に至るが、その系譜は記紀に見えている。

天津彦根命について、『古事記』は多くの氏族の祖と記し、
筆頭に凡河内国造(おうしこうちのみやつこ)を、また
数番目に山背国造(やましろのみやつこ)を挙げる。

凡河内氏は4世紀から摂津(兵庫県東南部)を支配した
が、8世紀頃から朝廷に服属して、国造に任命されたようだ。

ちなみに、河内国魂神社(=五毛の天神、神戸市灘区)
は、凡河内氏が河内から遷移させたものと言われ、神社
の森は「御影の森」と呼ばれ、御影町の名も祖神に由来。
また、会下山(兵庫区)にはその氏寺があったという。

さて、
国造というステータスは律令制成立の前後で変化した。
直木孝次郎氏は『古代難波とその周辺』に次のように記す。

〜律令制下の国造はそれ以前の国造と違い、国造に
任命された国の祭祀を掌握する権利しか持たないが、
律令制以前の国造から選ばれるのが普通だった。〜

つまり、凡河内氏は摂津(六甲山周辺)の祭祀を司った。
そうだったのか…と、いまようやく理解できるのが、
六甲山で神々を斎き祀った姫たちのプロフィールである。


廣田神社(西宮市大社町)に、天照大神の神託によって
撞榊木厳御魂天疎向津姫(天照大神荒御魂)を祀ったのは、
山背根子の娘の葉山姫だった。 山背氏は凡河内氏の
同祖同族である。↓境内の斎殿神社は葉山姫を祀る。
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長田神社(神戸市長田区)に、事代主命を祀ったのは、
葉山姫の妹の長姫。こちらも天津彦根命の末裔である。
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では、生田神社(神戸市中央区)に稚日女命を祀った
海上五十茅はどうかと調べると、文字通り海上国造の姫。
海上氏は伊勢津彦の後裔といい、祖神を猿田彦大神とする。
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その伊勢津彦は出雲神で、亦の名は天櫛玉命、出雲建子命。
出雲の祖は、こちらも天照大神と素戔嗚尊の誓約で
生まれたとされる天穂日命だが、実は、凡河内氏には3系譜が
あり、その1系統に当たっているのである。

海上五十茅も凡河内国造の末裔ならば、六甲山で司祭
した姫たちは、みな天津彦根命と天御影命の神裔である。

天御影命の一対神は、日牟礼八幡宮で見たように
息長大姫大目命(=アカル姫、瀬織津姫)と考えられる。


天御影命と天津彦根命の神名が出てきたあのとき、
語り部はいみじくも言ったものだ。
「これから瀬織津姫の名がバンバン出てきますよ」と。
確かに、みんな瀬織津姫の系譜の姫たちである。

もちろん、それぞれの神社の由緒に名を残す神功皇后も、
天津彦根命と息長水依姫を父方の祖とする。
みんな瀬織津姫であり、みんな天津彦根命に繋がるが、
この神こそがアマミキヨだと、語り部は言う。






by utoutou | 2017-12-09 17:19 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 147 辛国息長大姫大目命

「いよいよ、ここまで来ましたね」
近江の天御影命(あめのみかげのみこと)に辿り着いた
とき、語り部はそう言った。

いよいよか…。私自身も「隠された琉球の珠探し」が
終わる日が近いように感じるのは、同時に息長という古代
豪族の…それも息長大姫大目命に辿り着いたことが大きい。

息長がつく姫と言えば、息長帯姫命(神功皇后)や
その父方の先祖・息長水依姫命が有名だが、その系図の
上位に在るのが、近江の日牟礼八幡宮に地主神として
秘祭されてきた瀬織津姫こと、息長大姫大目命である。

ちなみに、天御影命も日牟礼八幡宮に降臨したと伝わる
が、天照大神の子と日本書紀が記す天津彦根命の孫
・天御影命の妹(※『百家系図』による)とされる。つまり、
天御影命と息長大姫大目命は兄と妹(おなり神)の関係だ。

その息長大姫大目命とは、
新羅の皇子・天之日矛の妻となったと神話が語る赤留姫
のことで、帰国後に難波などでヒメコソ神として祀られた。


帰国後にも、同じ息長大姫大目命として祀ったのが、
香春(かわら)神社(福岡県田川郡香春町)である。
昨日12月5日は所用で福岡にいたので一走り参って来た。
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【縣社 香春神社御由緒(略)】
〜祭神 及び創立
第一座 辛国息長大姫大目命
神代ニ唐ノ経営渡ラセ給ヒ崇神天皇ノ御代ニ御帰国
香春一ノ岳ニ鎮リ給フ 〜

※第二座、第三座についてなど詳細は後日に。
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太陽が西に傾くなか、しみじみと由緒を見上げた。
辛国息長大姫大目命の「辛国」こそは、
古代の朝鮮半島とヤマトと琉球との関係を物語る接点だ。

辛国とは「加羅の国」と解釈しているが、加羅や新羅、
あるいは百済や高句麗など、朝鮮半島からの渡来人を
語る歴史において琉球は常に除外され、語られずにきたが、
久高島のアカララキに祀られるのが(我々の私見では)
アカル姫こと辛国息長大姫大目命と分かった以上、
渡来人たちは南下して琉球にもやって来たことを物語る。


さて、では天御影命もまた大海を往還していたかというと、
「そうではないと思う」と、語り部は言った。
「むしろ、海人族で継承された大王の尊称だろう」と。

確かに、その神名が固有名詞でなく「太陽神霊を継ぐ大王」
といった意味の尊称ということは、例えば『海部勘注系図』
にその神名を冠する名前が、6柱も登場することで知れる。
筆頭は、四世孫の倭宿弥(やまとのすくね)命で、
「亦名 天御影命」との注釈が記されている。


と、ここまで書いて、ポンと思い出すことがあった。
六甲山の麓に鎮座する弓弦羽神社(ゆずるは神社)である。
昨年の秋、六甲山の磐座巡りをした日の最初に訪れていた。

地名は、神戸市東灘区御影。御影石の産地である。
祭神の熊野大神ということで八咫烏にちなみ、
サッカーポールのオブジェも御影石で造られている。
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御影の地名は、↓ 弓弦羽神社に伝わる故事にも表れている。
神功皇后が新羅遠征から帰還、この地で弓矢甲冑を納めた
 折、この里の泉に姿を写したことから「御影」と呼ぶと。
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しかし、はたして、それは本来の言い伝えだろうか…。
神功皇后の父方の祖は、天御影命であった。

そして、御影(現在の兵庫県東南部)や六甲山を
含む摂津国、そして河内国、泉州国といった畿内三国で
勢力を張り、大阪湾(茅渟の海)を掌握するようになるのは、
天御影命の末裔である凡河内(おうしこうち)氏であった。
ゆえに、「御影」の地名がついたのではなかったか…。

ならば、当然、六甲山で凡河内氏が崇めた女神とは、
息長大姫大目命こと瀬織津姫ということになる。

 凡河内氏の勢力は4世紀頃から強まり、5、6世紀には
 国造となるが、律令制が完成する8世紀には衰退して
  いったというから、時代は瀬織津姫のそれと一致している。


by utoutou | 2017-12-06 21:23 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)