六甲山と瀬織津姫 133 聖徳太子〈その3〉

『日本書紀』に記されず、『随書』倭国伝に「倭王」
とある阿毎多利思比孤(アメノタリシヒコ)とは誰? 
について諸説紛々とするなか、断然に多いのが、
用明天皇、その皇子・聖徳太子、蘇我馬子、の三説。

私も推古天皇の摂政だった聖徳太子だろうと考える。
語り部も「聖徳太子の名は、阿毎多利思比孤から四文字
頂いた」(天降りした皇子の意味)と言うので同意見か。

私がそう思う理由は、改めて読んだ「十七条憲法」だ。
冒頭の「和なるを以て尊しとし」や「篤く三宝を敬え」
は、仏教的平和憲法というより君主の訓示のように骨太。
むしろ、なぜ天皇にならなかったかを不思議に思う。

さて、聖徳太子は法隆寺など七寺の建立に関わった。
四天王寺(大阪府天王寺区)は推古天皇元(593)年、
 聖徳太子が摂政となったのと同時期に着工された。



高さ39mの五重の塔。最上階からの眺めは絶景らしい。
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その絶景の西側に国際港・難波津があった。建立の目的
は物部守屋討伐の戦勝祈願と言われ、結果勝利したが、
東南アジアに国威を示すのが最大の目的だったのでは。

難波津のの丘の上のお寺…。外交使節船が出入するには
最適の立地だったわけで、建立は国家的な事業だった。
当時は中国大陸が統一され隋(518〜618年)が成立する
     いっぽう、半島も新羅・百済・高句麗が覇権争い中だった。    
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そんななか、『隋書』倭国伝に阿毎多利思比孤が現れる。
その倭王が600年に遺使し、607年には国書を出したと。
このときはまだ日本という国号はなく、外交というより
朝貢・冊封だったわけだが、国書の内容は超強気だった。
「日出処の天子、日没処天子に致す。つつが無しや」と。

これには隋の煬帝が激怒したというが、「日出る処」と
 「天子」とでは、後者が許せなかったのだとの学説がある。 
 天子の称号を、倭王ごときが名乗るとは何事かと。

加えて思うに、国書に寛大だったのには、煬帝が案外
「日出る処」を認知していた可能性があるのではないか。

聖徳太子がその名で呼ばれるのは後世で、『日本書紀』
では、「厩戸皇子」「厩戸豊聡耳皇子」の名で記される。

 馬小屋で生まれたイエス・キリストを彷彿とさせるが、
皇后の実家・蘇我氏が景教徒だったからとも考えられる。
 叔父の蘇我馬子は、「我は蘇る馬小屋の子」と読める。 

いっぽう、隋が成った6世紀、東回りのキリスト教である
 景教の聖書は、隋の都・大興(後に長安)に届いていた。
とすれば、煬帝がそれを知っていた可能性は大いにある。
「景」とは、中国語で「日の光の信仰」という意味という。

聖徳太子と景教の関係について、語り部の意見は明快だ。

「古代ユダヤ12支族の光の民は、イスラエルを脱出し、
東へ東へと進んで、この大陸の東の島々へやって来た。
その末裔である聖徳太子は、太陽の王として崇められた。
 聖徳太子に赤い琥珀でできたマニ宝珠がついて回るのも、
太陽の王に例えられたからだと思いますし、救世主である
  イエスの再臨を告げたベツレヘムの赤い星を思わせます」 


聖徳太子は仏教の奥に景教を秘していたのだったか…。
四天王寺西門で見た転法輪(てんほうりん)を思い出す。
これを回してお釈迦様の教えを後世に伝えるというが、
何だかベツレヘムの赤い星(八芒星)にも見えてきた。
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ちょうど今日22日は、聖徳太子の月命日という。
またお彼岸の明日、9月23日(土)の日没の頃、
この西門から日の沈む西方浄土に向かって礼拝する
「日想観(にっそうかん)」という行事が行われる。
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# by utoutou | 2017-09-22 16:23 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)