六甲山と瀬織津姫 155 イカルガの里

「斑鳩の里」といえば聖徳太子、だが、
斑鳩の呼称が聖徳太子が法隆寺を建てたときに
ついたのか、それ以前からあったのかは不明だ。

斑鳩の語源には、ふた通りの有力説があるという。
この地に多い鵤(イカル)が「日月星〜」と鳴くので
 里名となったという説がまずある(記事はこちら)。

もうひとつは、斑鳩の地主神・伊香留我志古男命に
 由来するとの説(記事はこちら)。一体どちらなのか ?

ただ、「セーナナーはイカルガへ行った」との語り部
のヒントによれば、もっと明快な結論に至りそうだが。
例えば、「饒速日命の一行は斑鳩を本拠にした」とか。
琉球の海人族が饒速日命と渡来したというのならば、
そうなるはずだと思うのだ…。


斑鳩の里・法隆寺。大和平野を一望する矢田丘陵
南東麓に位置。南(手前)より東院へと進む東西軸。
「日出処の天子」と自称した太子ならではの配置か。
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そこで、斑鳩の立地という点から再考してみた。

『日本書紀』によれば、推古13年(605年)に
聖徳太子は斑鳩宮に移住したが、その2年前の
推古11年(603年)、推古天皇が小墾田宮に移住。
ふたつの宮は、ほぼ同時期に造営された。

法隆寺が完成したのは、推古15年(607年)。
遣隋使の小野妹子が派遣されたのも、その607年。
翌年、妹子は裴世清(はいせいせい)を伴って帰国。

つまり、ふたつの新宮は、来るべき隋の使節団の
「視線」を強く意識して設計したものではなかったか。 
斑鳩の里も、法隆寺の伽藍や斑鳩宮の配置を含めて、
 倭国の仏教文化をアピールすべく建てられたのではないか。

ことに斑鳩は、難波と大和を結ぶ水路の中間地点に位置。
 大和川を遡ると、次第に視界に飛び込んで来る景観は、
 隋人の倭国に対する印象を大きく左右したことだろう。


↓こちら、法隆寺の五重塔(奥)と金堂。
法隆寺も現在は聖徳宗総本山斑鳩寺の異称がある。
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太子の斑鳩宮は焼失しており威容を偲ぶべくもないが、
さらに国賓に好印象を与えたのは「斑鳩」という地名
だったかもしれない。斑鳩とは山東省済南市の西にある
 街で、隋の長安から黄河を下るときに遠望できたという。
 「斑鳩」は、来賓に歓迎の意を評する演出ではなかったか。

さて、聖徳太子の第二夫人である膳妃の出自・膳氏は
 斑鳩の支配者だったといい、膳斑鳩という祖先がいる。

膳斑鳩の名は、『日本書紀』の雄略8年に
〜 觀膳臣斑鳩【斑鳩、此伝 伊柯屢餓(原文)〜
任那が新羅を救援するため派遣した高官だったと。

では、その雄略8年(473年)から、斑鳩という
 固有名詞があったかというと、そうではないらしい。

 原文の【 】内は訓注を示しているわけで、
「此伝(ここは…と云う)」は、漢文で言い表せない
 語句に付けた訓読み。つまり、書紀の編集者は当時の
 日本人に漢文表記の「斑鳩」は通じないと知っていた。
 そしてまた、膳「伊柯屢餓」の名前に隠された意味も。

  伊香色雄と同様に、そこには「イカ」が潜んでいた。
 膳氏の始祖は大彦命。後元天皇と鬱色謎命の第一王子。
母・鬱色謎命は、伊香色雄らの父・大綜麻杵命の姉。
 つまり、大彦命は伊香色雄の従兄弟、饒速日命の末裔だった。

  イカルガとは物部氏と関係氏族の拠点である、と思う。
  里はもっと広大だったかも知れず、三室山が2箇所に
  あるのも頷ける。三室山とは、御諸山(三輪山)と同義
だったのではないだろうか。つづく…。


南(大和川の方向)から撮った法隆寺・五重塔。
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# by utoutou | 2018-01-15 13:41 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)