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琉球玉依姫〈12〉織姫は洞窟に

時が少し経ってしまったが、天久は不思議な土地
だと思いつつ歩いた。天久(アメク)はアミクと
 発音される。アマミキヨの転訛だと語り部は言う。

海人族(アマミキヨ)が渡来して、縄文の貝塚人
と融合したようだが、どこかから来たアマミキヨ
のほうが、村名として残ったのはなぜなのだろう?

アマミキヨが新しい技術を携え、何度かに分かれて
 渡来してきたということだろうか。定住した一族は、
4〜5世紀頃、それまでの住まいだった海岸沿いの
洞窟を脱し天久台地の頂上部に移動、新しくマキョ
(村)を作った。7〜8世紀から焼畑農業を営んだ村
のありようは、17世紀初頭に起きた薩摩侵攻で崩壊
 するまで続いたと『アミク村の歴史と民俗』は記す。

村の悠久の歴史を留める「アミクの森」を望む
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上の写真は那覇泊8号岸壁(若狭バース)に停泊
していた海上保安庁の測量船・光洋の甲板から
(↓赤の矢印方向に)撮ったものだが、天久で
ぜひ参りたかった御嶽は、台地の中央に位置する
坂中樋川(ふぃらなかなかひーじゃー、赤印)。
※↑リンクは Googl map。観光サイトはこちら
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村ガー(川泉)だった坂中樋川へ登る小路は、
県道58号線に平行するように走っている。
葬祭会館のビルなどが並ぶ通り、マンションの角
から入ると、すぐに樋川が着く。雨後ということも
 あってかとても静か。58号線の喧騒も聞こえない。
 崖に埋め込まれように「天龍」の御嶽(写真中央)。
ここは豊富な水量を誇る湧泉であり、古来の海岸線
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「マージナルな天久の崖」と新城和博氏がその著
『ぼくの那覇待ち放浪記』で書いた「境界」だ。
自宅に帰り本を開くと、次のような記述があった。
〜陸と海、中心と辺境、現在と過去、いろんな
意味で区切られているこのあたり〜 が天久だ
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崖の横から山上に登ると風葬跡があり、一帯
は苧山(うーやま)と呼ばれる苧麻畑だったと
伝わる。宮古上布の素材としてよく知られる苧麻
(からむし)が、自生か栽培かは分からないが、
風葬跡と苧山。まさに「境界の地」なのである
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「上は足場が悪いので、雨の後は登れないんです」
 と語り部が言うので、ついこの場で質問をする。

「前にも聞きましたけど、乙樽(おとぅだる)は
 村いちばんの旧家の娘で、家の敷地だって千坪
 もあったというのに、わざわざ風葬の地の洞窟
  に籠って機織りしていたというのはなぜですか?」

  語り部は「だからですよ」と微笑しながら言う。
「湿気だと思います。機織は乾燥が大敵ですよね。
 糸が切れてしまってうまくいかない。しかも…」
 「しかも?」「それが飛衣なら、なおさらのこと」

  飛衣(とびんす)とは羽衣の沖縄方言。つまり、
  天女が飛ぶときにまとう羽のように繊細な衣だ。
  それを、中玉依姫こと大主乙樽は洞窟で織った、
   聞得大君のために…と、語り部は言うのだった。
つづく。






# by utoutou | 2024-03-07 09:51 | 最終章 | Trackback | Comments(0)