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首里森の御嶽は残った〈9〉首里はじまりの御嶽

王府の高級神女・首里三平等(みひら、三地区)
の大あむしられたちが、首里城内外の御嶽を巡拝
した神行事・百人御物参(ももそおものまいり)
には、あかす森御嶽と国中御嶽という、城外の
  御嶽も含まれていたという(他には弁が嶽も)。

あかす森御嶽と国中御嶽は、
「首里城が建築される以前からあった」と、
 伊從勉氏が著書『琉球祭祀空間の研究』で述べて
   いる。「両者は同じ丘の稜線上にある」 とも。   
 
その「同じ丘」が首里・上の毛(いーぬもー)
だとは、先日、偶然訪れるまで知らなかった。

首里城の北の龍譚通りを弁が嶽に向かって歩いて
いたとき、ふと寄ってみたのが上の毛だった。
「毛」とは広場のことだが、写真右の門から入り、
坂道を登ると、そこは首里城への散策コース。
首里城火災の直後(11月初旬)でも通行できた。
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 上の毛の案内板。緑ゾーンの左端が現在地。
 10分公園内を歩くと首里城(橙色)に着く。
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地図下部の「上の毛エリア」の部分を読み、
そうだったかと、ここで足が止まった訳を思う。

(以下、全文)
〜 首里城と連続する石灰岩台地の東端に位置する
上の毛については、往時の利用形態がほとんど
知られていない。上の毛は、首里城が王城として
整備される以前は、”グスク”として存在していたが、
城の整備が始まった段階で、その細長い丘陵を城郭内
に取り込むには、利用・管理上に難があり、除かれた
と考えられる。ただ、丘陵からの敵の攻めに対して
城の構えが弱いので、東端の”カタノハシ”には出城が
あったのではないか。さらに城内の”東のアザナ”から
弁ヶ嶽方向を監視できるよう台地上の樹林を伐採し、
松林を整備したのではないかと推察される。〜


首里城の建築前からもちろんあった、首里の丘…。
かつて、語り部から何度となく聞いていた、
「首里天孫氏の造った御嶽」、そして、
「首里発祥の地」とは、この上の毛のことだったか。

語り部が神女おばあたちから聞いた話はこうだ。

「国(首里)のはじまり・あーけーじゅの御嶽
(※トンボ=蜻蛉=あけず、という意味)には、
天女が舞い降りたという伝えがあった。その近くの
洞穴(ガマ)は、うみないの御嶽(※王妃の意味)
 と呼ばれた。祀った一族は、首里天孫氏と呼ばれる
 アマミキヨの末裔。くんゆりの御嶽(※国はじまり)
を造ってから、首里森御嶽と真玉森御嶽を造った」

伝承の嶽々はいま、首里城公園の下に埋もれて
いることから、「首里のどこかだろう」と大雑把
 に解釈していたが、これほど首里城に地続きとは。
 

首里天孫氏とは誰か? に、思いを巡らせつつ、
首里城・東のアザナへのコースをぶらぶら歩く。
このエリアに、あかす森御嶽と国中御嶽がある。
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城壁付近には規制線が張られ、ガードマンが立って
いて近づけなかった。ここが行き止まり地点の景色。
北側に浦添方面の景色が広がり、風が渡っていた。
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首里城公園によると12/12から立入可能になった
模様だか、こちら、近寄れなかった国中城の御嶽。
(国中御嶽の正式名。写真は首里あるきから拝借)
首里城・東のアザナの城壁の手前にある。ここに、
 察度王(在位1349年〜)が守護神を祀ったという。
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首里城を築城したのは第一尚氏王朝初代の尚巴志王と
 いうのが定説だが、もっと古く察度王代とも言われる。
 察度の頃(1392年)、高楼(高世層理殿、高よさうり)
が建造されたと、『琉球国由来記』に記されている。


察度王統初代王の察度王(1321〜1395年)
については、「天女は誰?」に書いたことがある。
民間伝承によれば、察度の父・奥間大親は、
アマミキヨ八世、母は天女。そうすると、
 察度の守護神とは、首里天孫氏だったのだろうか?

 ここから首里の古代が紐解けていきそうな気配…。

# by utoutou | 2019-12-11 19:08 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)