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浦添城の英祖王はアマミキヨ

冬至日に久高島の朝日を望む場所に、
浦添城を築城したのは英祖王(在位1260〜1299年)だった。

築城者については、英祖王統初代の王であるこの英祖とする説、
次の察度王統時代に築かれたという説などがあり、
実証は困難だと長く言われてきたが、
城跡と周辺遺跡を浦添市が発掘調査(96〜04年)した結果、
英祖王による築城が確実となった。
遺跡・遺構の年代測定や文献資料を総合すると、
浦添ようどれの造営は1273年と特定できたという。
(前掲の安里進著『琉球の王権とグスク』より)

琉球王統略系譜
『浦添の歴史を探る』
(NPO法人うらおそい歴史ガイド友の会編集制作)より引用。
浦添城の英祖王はアマミキヨ_a0300530_10365135.jpg



では、英祖王とはどのような人物か?
歴史は義本王から王位を譲られ英祖王統を開いた王と伝えるが、
その出自は謎めいており、
ジンギスカンや豊臣秀吉伝説にも似た「日輪伝説」がある。

曰く伊祖城主だった父・恵祖世主(えそのよのぬし)には子がなく、
母が「日輪が懐に入る夢を見て身ごもり、英祖が生まれた」
(『中山正譜』)。そのため「天日之子」(太陽の子、てだこ)
や「英祖日子」(えそのてだこ)と呼ばれた。

また『おもろさうし』(琉球王府時代の歌謡集)には、
英祖の父・伊祖按司歴代の居城だった伊祖城について、
興味深い表現がある。
   
〜えぞえぞのいしぐすく あまみきよが 
たくだる(作った)ぐすく(第15-15)〜   

「えぞ」は「伊祖」の意味。
伊祖按司は琉球の始祖アマミキヨの末裔であるという。
ならば、その子である英祖王もまたアマミキヨの末裔。
神の島・久高島を拝していたのもうなづける。
久高島は陽の昇る東方(あがりかた)に位置し、
琉球の始祖アマミキヨが天降りして種をまいた五穀発祥の聖地。
(『中山世鑑』『琉球国由来記』『琉球国旧記』)

英祖王にとって、
また東西軸を重視した城(ぐすく)を築城した按司たちにとって、
久高島はいわば故地。民俗学者の谷川健一氏は
「アマミキヨには二通りある」のだと記している。

鉄器をもたらしたアマミキョは「今来」(いまき)のアマミキョで、
それ以前、日本本土から南島に渡来したアマミキョは「古渡り」
(こわたり)のアマミキョであった。
(1995年発刊、小学館『古代海人の世界』より)


谷川氏はまた「浦添の伊祖の石の城は、
アマミキョが工匠として造った城である」とも記した。
鍛冶技術や鉄器と共に渡来した人々が今来、
つまり最近のアマミキヨ。
そして五穀をもたらした古渡り、
つまり古代に渡来したアマミキヨもいたのだと。
谷川説は、いずれも出発地は日本本土としている。

そして、私は「三通り目」と考えられる、
「鍛冶技術と五穀を携え、外地から渡来したアマミキヨ」
の説話に出会うことになる。

ここヤハラヅカサ(南城市玉城百名)の海岸に渡来した
アマミキヨは稲をもたらした。
海中に立つ尖った石がアマミキヨが最初の上陸地点。
満潮になると海に没する。
浦添城の英祖王はアマミキヨ_a0300530_16284197.jpg
by utoutou | 2013-08-15 23:35 | 城(ぐすく) | Trackback | Comments(2)
Commented by trkm5436 at 2016-06-15 11:11
初めましてm(_ _)m先祖のルーツを探して、こちらのブログに辿り着きましたm(_ _)m

たくさん、勉強になる事が書かれており、凄く興味のあるブログでしたので、コメントしましたm(_ _)m(*^_^*)

Commented by utoutou at 2016-06-16 12:57
> trkm5436さん
こんにちは。コメントありがとうございます。そう言えば、久高島のあるおばあさんが「あんたも、ご先祖様を辿って来たの?」とおっしゃったとき、「いえ、そうじゃなくて…」と言ったのですが、沖縄は日本人の原郷だと考えるようになったいまは、あのおばあの言った意味が分かる気がします☆
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