畏れ多くもミントングスク神域の上に立ち、久高島を遠望遥拝して、私は初めてあることに気がついた。
振り向いたその先には、おおよその方角ではあるけれども、玉城城が鎮座していたのである。 考えてみれば当然のことだった。 玉城城の一の郭に開いた穴に、久高島から昇った夏至の朝日が射すのだ。 その玉城城はアマミキヨが造った。ミントングスクは住居跡とされる。 このふたつが、久高島に昇った「太陽の道」と無関係であるはずがなかった。 ミントングスクは、下の日の出入り図で言えば青線の上に位置する。 ![]() 実はミントングスクの神域内にも香炉が4つある。 階段を上がった登り口の右にある久高島への遥拝所(おとーし)にひとつ。 そこから真っ直ぐに進むと突き当たりガジュマルの木の下にある火の神(太陽霊)にふたつ目。 左の崖際にある遥拝所に3つ目。そしてアマミチュー・シルミチューの墓所の拝所に4つ目。 これら4つの香炉に囲まれる祭祀空間が、ミントングスク神域中の神域である。 現在でも、この4つの香炉で拝礼する(四方拝)のが、正しい参拝の仕方だという。 下の写真は火の神だが、ひとり瞑目していたとき、ふとまた気がついた。 久高島への遥拝所が東に向いていることは当然として、この火の神は対極の西に配置されている。 つまり、アマミキヨが初めて整えた住居であり祭祀場であったミントングスクも、 まぎれもなく東西軸に貫かれた「太陽の神殿」なのだった。 ![]() 玉城城の一の郭に沈む冬至の夕陽 ![]() 久高島。本島を望む西海岸にある、島で最高位の御嶽・フボー御嶽。 立入り禁止のため参拝者は御嶽の入口で拝礼するが、傍らに立てられた御嶽内マップを見ると、 入ってすぐ左にふたつの拝所が並んでいる。 ひとつは首里への遥拝をするワカリカサ、もうひとつは玉城への遥拝をするティリリカサ。 ![]() 首里城と玉城城への遥拝は、つまり「夏至の日の入り」と「冬至の日の入り」への遥拝を意味したと思う。 首里城に「西のアザナ」(物見台)があり王が日没を拝したように、 ここは神の島の「西(夕陽)の遥拝所」だったのではないか。 「古代日本の太陽信仰は朝日・夕日信仰」だったと著したのは、歴史家の大和岩雄氏だ。 「古代日本人の太陽信仰・日神祭祀の太陽神・日神といえば、天照大神」だが、 それは「王権によって作られた日神像」で「そのまま引用して、太陽・日神信仰を論じても、 古代日本人の心意も信仰も見えてこない。 高天原 → 葦原中国 という垂直思考は、『記』『紀』を作った支配者の統治思想であって、 われわれの祖先、権力者でない人々は、太陽の賛美は天上に輝く太陽でなく、 朝日さす 夕日かがやく 朝日・夕日であった」(『神と人の古代学』2012年、大和書房) 古儀の太陽信仰が東(あがり)と西(いり)を崇めることだったのは、 琉球第二尚氏王朝三代・尚真王の時代に始まったとされる久高島の祭り・イザイホー (島の30歳から41歳までの女性たちが神女になる就任儀礼)が物語っている。 イザイホーの祭祀場・御殿庭(うどぅんみゃー)の祭屋は東西軸に並ぶ。 中央、イザイホーでは蒲葵(クバ)で覆われたという神殿(神アシャギ)を駆け抜けた女性たちが 3日3晩籠る「七ツ屋」(仮屋)は、北斗七星に例えられていたと思う。 4日目、神女となって厳かに円舞に臨む女たちが抱く大扇には、太陽と月が描かれていた。 儀式がすべて終わると神女たちは整列し、大扇を両手で捧げ持って4回拝礼する。 その隊列は東に向いていた。(『神々の古層5 主婦が神になる刻[イザイホー・久高島]』参照)
by utoutou
| 2013-08-21 22:07
| ミントングスク
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