「蛇」と蛇の神事がつなぐ沖縄と出雲。
イザイホーに秘められた古儀をたどると、 縄文に生きた人々の動径が見えてくるようだ。 出雲の神在祭(かみありさい)は、神官たちが浜でウミヘビを出迎え、 神前奉納してから始まる。イザイホーの「イラブー小屋」も、 御殿庭(うどぅんみゃー)に神殿として在った。 出雲の竜蛇信仰は、海人の信仰を抜きにしては考えられないと、 谷川健一氏は記した。 倭の水人たちは、毎日水に住んでは(潜っては) アワビやサザエを採り、魚を突いた。 そのとき出会うセグロウミヘビを竜蛇神としてあがめ、祀った。 その名残りが今日、出雲大社や佐太神社をはじめとする 出雲に見られる竜蛇信仰ではなかったかと思われる。 ただしセグロウミヘビは熱帯の海域にしか産しないから、 それを竜蛇神として祀ったというのは、倭の水人の原郷が南方に あったことの記憶が残存していたことを示唆している。 (谷川健一著『古代海人の世界』1995年、小学館) 安曇(あずみ)とは、後に朝廷の水軍となる海部(あまべ) を統率した古代豪族。多くの学者がまさしくその「海部、安曇が アマミキヨである」と言っていたことを思い出す。 アマミキヨが沖縄に定住して開拓したのであると。 久高島のイラブーガマと徳仁港。古来よりその右方向に フシマ(小島=湖礁)があり、龍神が棲んでいたと伝わる。 では「アマミキヨは出雲の神である」のかというと、 伝承はそう一直線にはつながらない。「蒲葵」(クバ)。 クバつながりで言えば「アマミキヨは大和(族)である」のだ。 蒲葵。沖縄以外の地方では蒲葵(ビロウ)とも呼ばれる。 蛇に似た幹肌と、高木であること、常緑樹であることから 生命の根源である男根の擬きとして、古代から神であり聖木とされた。 その蒲葵でイザイホーの祭屋はことごとく葺かれたが、 古来、天皇の即位礼「践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)」で 「御禊(みそぎ)」が行われる百子帳(ひゃくしちょう、仮屋)も、 蒲葵の葉(あるいは檳榔)で覆われた。 (吉野裕子氏著『蛇 日本の蛇信仰』(1999年、講談社)。 これが、百子帳(吉野裕子著『扇』1970年、学生社』より)。 『大嘗会御禊記』(1301年)に残る記録からの想像図。 天皇の祭りで、東方は常に尊重された。 陰陽五行にのっとり、その南北軸を尊重した のが、イザイホーに見る新儀の部分だと吉野氏は述べた。 イザイホウは十二年回りの午年の子月に行われる。 そこでこの祭りは子月卯日(ねつきうのひ)に始まり、 午日(うのまのひ)に終わる日本の大嘗祭と同じく、 子午線(しごせん)上の祭りとして捉えられる。 子月は冬至を含む旧十一月、その象意は北、水、女である。 それに対して午月(うのまつき)は夏至を含む旧五月、 その象意は南、火、男とする。(中略) 蛇と太陽信仰は密な関係を持つが、イザイホウの中には、 太陽の運行にもとづく東西軸と、陰陽五行による子午線、 つまり南北軸が交差している。 東西軸は古い祭式、南北軸は改革後の新しい祭りの形式を示す ものであって、一つの祭りの中における二つの軸の交差は 前述のように大嘗祭におけるそれとまったく等質なのである。 (『蒲葵と蛇と北斗七星と』沖縄タイムス、1979年) イザイホーと践祚大嘗祭は、ともに十二支における陰陽を踏まえ、 旧歴11月、子月の中卯日に始まり、午の日に終わる四日間の秘祭。 現在でも、島でイザイホーを口にすることはタブーだ。 私がそれとなく聞くと、あるおばあは眉をひそめて言った。 「止めておきなさいね、そんなこと聞くと倒されるよ」 「倒されるの!?」 おばあは首を横に振るだけだったが、 口にしてはいけない、罰が当たるよ、という意味だったか。 そんな時期、私が「語り部」と呼ぶ現代の神人・宮里聡さんに出会った。
by utoutou
| 2013-09-07 10:36
| イザイホー
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