垣花の御嶽に初めて行ったときから、しばらく解けない謎があった。
古来この御嶽は玉城にあったのに、なぜ垣花という名がついたのか。 実は垣花という集落は、垣花の御嶽から約1㎞離れた北に現在もある。 こちらも古い土地で垣花城跡はじめ、遺跡、製鉄所遺跡、ミントン門中墓などが集中している。 ならばなおさらのこと、なぜ、垣花の御嶽だけ、ポツンと垣花から離れているのか。 位置関係を、駐留当時のCSG(混成サービスグループ)基地の写真で眺めてみる。 基地北西にあったゲート(現在のゴルフ場正門)近辺からの風景だが、 正面奥の右手、麦わら帽子型の山が玉城城、写真のほぼ中央の小高い山が、垣花の御嶽の一帯、 そのすぐ右に旧玉城一区という集落が、戦前まであった。 垣花城跡はそこから目を左に転じ、写真の左端から外れてしまうあたりにある。 ※写真下のキャプションは『玉城村誌』に掲載のもの。(『玉城村誌』(1977年、玉城村役場編より) ![]() さて、写真の左方向にある垣花城跡は、一説に600年以上前の築城。 垣花城跡の案内板(昭和36年建立)の説明によれば……。 この城跡は、一の郭と二の郭からなり、垂直に近い野面積みの城壁を有している。場内の最も高い所 に経つと、太平洋を眼下に、南の低地に百名、仲村渠の各集落、北に垣花を眺望することが出来る。 城の歴史については記録や伝承がなく不明である。ふたつの郭には、それぞれ小面積の平場が確認 され、現在ではアワダン、クロヨナ、ツゲモドキ等の熱帯樹が繁茂している。一の郭の奥には御嶽 があり『琉球国由来記』によると神名は「アフイハナテルツカサノ御イベ」と記されている。 しかし、神名が手がかりとなって分かったことは、この案内板が間違っている?ということだった。 琉球王府が編纂した地誌『琉球国由来記』(1713年)と『琉球国旧記』(1731年)いずれにも 「垣花之嶽 アフイハナテルツカサノ御イベ」が「玉城村」にあると記され、垣花村の項にはない。 また、同じ玉城村の項に併記される御嶽は、垣花の御嶽の近くにある中森の御嶽。 ふたつの地誌は、玉城にあるこれらの御嶽が王府時代以前から存在したことを示している。 神名のアフイハナテルツカサとは、 (最高神を迎えるための)日傘(あふり)をさす神女」のこと。 いっぽう、中森の御嶽の神名は「国之根ウラウシナダルワノ御イベ」。 こちらは「浦を保護する首長の神霊」の意味で、いかにも至高の御嶽を思わせる神名。 ちなみにウラウシは浦襲(うらおそい)と同義で、浦添(うらそえ)の語源という。 垣花城跡本丸。 こうした琉球石灰岩を野面積みにした城壁が各所に残る。その右が一の郭。 城内にある御嶽は『由来記』『旧記』によれば、照城之嶽と照城小嶽。 ![]() 日本名水百選・垣花樋川(ひーじゃー)。かつての生活用水を得る場はいま、癒しの場として人気。 ![]() 垣花樋川脇の坂道を行くと、弥生時代後期のゴホウラの貝輪が出土した垣花遺跡がある。 沖縄以南の南島でしか獲れないゴホウラ貝だが、この貝輪は『魏志倭人伝』で不弥国 に比定される飯塚市の遺跡から出た立岩型貝輪と同型の、半加工品と判明している。 それは制作途中だったのか、誰かが運び込んだのか、落として行ったのか。 いずれにしても、邪馬台国の時代から、ここ垣花と北九州の間になんらかの交易があった という歴史を示している。そんな垣花集落の人々が崇める聖地が、垣花の御嶽だったか。 一説には三山分立前に垣花城を築城したというミントン按司もまた、垣花の御嶽を遥拝したか。 ところで、そもそも「垣花」の意味とは? CIAによる封印が作為的だったか地理的な要因によったかを解く鍵は、その言霊に隠されていると思う。
by utoutou
| 2013-12-15 15:05
| 御嶽
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