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「太陽の子」英祖王 出生の秘密

武蔵国一之宮小野神社(東京都多摩市)と、百草八幡宮(同・日野市)
について前回書いたが(こちら)、
もし小野神社が、百草山から現在地に遷座したとすればどんな理由か。

百草山には鎌倉幕府の御願寺・真慈悲寺があり、1026年、源頼義・義家
父子が奥州征伐の途中に訪れた際、両社にも参り勝運を祈願したという。

それはさておき、源氏といえば琉球開闢の地・玉城とも縁がある。
源頼義が小野神社に参拝したその年から、やや下って1156年、
保元の乱に敗れた源為朝が琉球に逃れ、大里按司の妹を娶った。

生まれた子が天孫氏25代王を滅ぼした逆臣を討ち、琉球王家の始祖
舜天となった伝説は『中山世鑑』や『おもろさうし』に見えている。

為朝は妻子を残し本土に帰ったが、王統三代は浦添城を居城に栄えた。
が、三代目・義本が即位した1249年以降、大飢饉があり疫病が蔓延。
玉城城の頂の「天つづ雨つづの御嶽」で祈願するも、災厄は収まらず。

義本は自らの不徳を恥じ、摂政・英祖に王位を譲って姿を消したという。
そして1260年、玉城天孫氏こと英祖王統5代90年の時代が幕を開けた。


玉城城にある「天つづ雨つづの御嶽」から夏至の朝日が入る門を見る。
「雨粒天次」とも書く。御嶽の神名は「アガル御イベツレル御イベ」。
後の琉球王朝でも、歴代王がこの至聖所で雨乞いし五穀豊穣を祈願した。
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天つづ雨つづの御嶽から奥武島方向を望む。標高180m。雲に手が届くと
言われたこの御嶽には、現在も県内各地から御願する人々が訪れる。
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英祖王は「太陽の子(てぃだこ)」あるいは「太陽の王」と呼ばれた。
伊祖城城主・恵祖世主(えそよのぬし)の子であると史書が語るのは、
その妻が、太陽(日輪)を飲み込む夢を見て妊娠したという伝説による。

ところが、興味深いことに、玉城には英祖王の出生に関する異説がある。
曰く、英祖こと玉城湧川按司を産んだ、その母は、
玉城百名にあった屋号・上門(いーじょー)家の娘だったという。
上門家は語り部の宮里聡さんが口伝を受けた神女ウメさんの母方の実家。
その伝によれば、英祖は恵祖世主の元に養子入りしたことになる……。

さらに驚くべきことに、義本の后は、英祖の姉か妹だったというのだ。
つまり義本と英祖は義理の兄弟。玉城・上門家を舞台にした姻戚関係が、
英祖が義本の摂政を司り、王位を受け継ぐことになった背景にあると。

上門家は、ミントン家、そして久高島の元家とも深い関係にあった。
600年続いた久高島からの「玉城参り」ルートに、上門家も入っていた。
戦前、子どもだったウメさんは、久高土産として配られる麦飯のおにぎり
(みらんばい)を「いつも楽しみにしていた」と、語り部は聞いたという。

こちらも上門家と所縁がある「大城城(うふぐすくぐすく)」跡。
鳥越憲三郎氏は各地を調査して著した『琉球の宗教史の研究』('65 年)で、
この大城城について「村人さえもすでに忘れていた古い城址」と記した。
百名集落の中にあり目立たないが、木が伐採された日に全容が窺えた。
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by utoutou | 2014-01-22 12:49 | 玉城 | Trackback | Comments(0)
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