どれだけ古い墓なんだろう。古木が立岩に絡み付き、一体化している。
高さ3m以上。どこか妖艶。血が通っているかのような生々しさが迫る。 一種の崖葬墓。昨秋、初めて参ったときは背筋がゾクッとした。 南城市の琉球ゴルフ倶楽部内にあるこれは、英祖王統三代・英慈王の墓。 歴史書にも教科書にも載らない、地元でもほとんど忘れられた王墓である。 忘れるなと言っているような。命は繫がっていると。そんな気配があった。 やはり、この墓の存在は重要。 「てだこ」(太陽の子)こと中山王・英祖が、実は本島南部玉城の出身で、 恵祖世主とは養子縁組みしたのでは? との口伝を支える、いわば傍証。 英慈王(1309〜13年)は在位5年。初代・英祖王と同じく本島の西海岸を 見下ろす浦添城を居城としたが、永遠の眠りについたのは、この東方だった。 さて、こちらの王陵に眠るのは、英慈王が最初ではないと、語り部は言う。 玉城にある古い墓の特徴は、イリク(新旧の混合墓)。だから元々の主がいた。 その祖先とは明東(ミントン)天孫氏。 逆を辿れば、天孫氏(=アマミキヨ)の墓に入った英慈王もアマミキヨ。 当然その祖父・英祖王はミントングスクに定住したアマミキヨの末裔。 今来のミントン・アマミキヨである(といっても700年以上前だが)。 ↓明治初期に流通した「長浜系図」(琉球三山王各世流系旧案録)を見てみる。 祖神・阿摩弥姑(アマミキヨ)と志仁礼久(シネリキヨ)の その次代に、明東(ミントン)天孫氏(=玉城天孫氏)の名がある。 左ページ赤線(筆者による)部分には、具体的な伝承が記されていた。 明東(ミントン)天孫氏の在所は玉城・上江州口(いーじゅぐち)の南にある 竹山の中の石厨子の入った墓であると。つまり、英慈王の墓(↑)だ。 そして墓を守っているのは、玉城の上之畠(いーのあたい)であるとも。 屋号・上の畠は「上の当(いーのあたい)」と同音同義。 語り部が出会った神女のウメおばあ(こちらを参照)の家である。 英祖王が築いたという浦添ようどれ(=王墓、ようどれとは夕凪の意味)の西室。 二代目・大成王の墓は玉城城に。五代目までの墓がすべて玉城にあるのが不思議。 ゴルフ場内の英慈王墓への道。 上江州口(いーじゅぐち)は戦前まで竹林で、 ウメおばあたちはこの墓を「竹山(だきやま)のアジシー(古墓)」と呼んでいた。 一般には「天孫氏ウッカー」。この名前でなら、ツアーガイド本で見たことがある。
by utoutou
| 2015-08-26 14:18
| 天孫氏
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by utoutou カテゴリ
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