伊雑宮のある磯部は、古来、半農半漁の海人族の居住地だった。 この風土が沖縄開闢の地に似ていて、大いに興味をそそられる。 琉球の海人族は塩田もつくった。 沖縄南部の玉城には、マース(=塩)御嶽があるが、 伊雑ノ浦の飯浜(いいはま、いばま)にも製塩遺跡があり、 塩を平城京に納めていたことが、発掘された木簡から分かるという。 「飯浜」の由来は、倭姫一行に昼食を饗したという倭姫伝説による。 倭姫は巡行の最終地である磯部へ、海路を使って移動したらしい。 そんな磯部の産土(うぶすな)の神は、竜蛇だったに違いない。 倭姫一行を「奉迎して」伊雑宮を創建したとされるのは、 先住族の首長・伊佐波登美命(いざわとみのみこと)。 登美とは富族のこと。富族が崇めたのは龍蛇神である。 先祖代々祀る龍蛇神を放逐し、新たな神を歓迎するわけはない。 奉迎というより、朝廷に帰順して土地を明け渡したのが真実かもしれない。 さて、かつては伊雑の森まで流れていた神路川の源流に天岩戸がある。 天岩戸は、沖縄のクマヤー洞窟がそう呼ばれたように各地にあるが、 天岩戸とは水神信仰、龍神信仰の霊場である。 神路川の源流の天岩戸には、滝祭窟があり「水神さん」がいた。 伊勢志摩に先住した民が崇めた龍神、「滝祭大神」である。 また、泣沢女神・美都波女神・猿田彦神の三神が祀られていたとも。 ![]() 天岩戸は、現在の伊勢道路から山道を2㎞ほど歩くが、その分岐点に、 「罔象女大神(美都波女神)水神」と彫られた石の道標があったという。 みずはのめ。泣沢女神と同神である。 つまり天岩戸(鳥居の奥)は、瀬織津姫の坐す水穴だった。 「滝祭大神」の石柱は天岩戸の右に立っている。 ![]() その女神が伊雑宮の元神であることは、御師・西岡家に残る文書にも。 (以下、菊池典明氏著『エミシの国の女神』'00年、風琳堂刊より引用) 〜(西岡家文書には)伊雑宮の祭神として登場していた 「玉柱屋姫命」は瀬織津姫と同神であることが記されている。 その一対神である「大歳神」は猿田彦と同神であり、つまりは、 男神の太陽神=天照大神との二神が、伊雑宮の元々の神であった。〜 ![]() 瀬織津姫は、伊勢神宮内宮の後ろに坐す荒祭宮であるとも言われる。 つまり、伊勢神宮のある宇治山田の産土神も、天照大神と瀬織津姫だった。 ![]() ところで、天岩戸は伊勢神宮から伊雑宮への参詣道にあった。 全長約16㎞。険しい山道で車でも40分かかる。 伊勢志摩の境界にある逢阪峠付近には「家立の茶屋跡」があり、 猿田彦大神が家を建てたと伝説はいう。 「猿田彦の森」「高天原」という地名も残っている。 また逢阪峠は神路川(東)と、神宮の五十鈴川に合流する島路川(西)の分水嶺。 地形からも猿田彦(=天照大神)と罔象女大神(瀬織津姫)は、 伊勢志摩一円で崇められた一対神だったと分かる。
by utoutou
| 2014-10-10 18:25
| 伊勢
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|
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