伊雑宮から北へ徒歩5分、 磯部の千田寺(ちだじ)跡にできた「倭姫旧蹟地」。 真新しく整備されていて史蹟との印象薄く、撮った画像は2枚。 うち1枚がこちら、公園の隅にあった「庚申堂」。 「伊佐波登美命」と真新しい立て看板が立っていた。 ![]() このあたり(千田寺跡)に、古来3つの鳥居が立っていた。 『郷土史・天の岩戸いそべ史話』('84年)によれば、祭神は… 中央の鳥居に大己貴(おおなむち)大神、右の鳥居に少彦名大神、 左の鳥居には、國貴社・久延彦大神が祀られていた。 江戸時代刊行の『先代旧事大成経』に載った ↓「二社三宮図」にも、実は「二社」の記述がある。 (下のイラストは後年の作画) 二社とは伊雑宮を間に、磯部大歳社(佐美長神社)と杵築大社(千田寺)。 ![]() 千田寺は、古くは、なんと杵築大社と呼ばれた。 正式名は「杵築宮御光大神宮」。 皇大神宮別宮・伊雑宮にゆかり深い 「倭姫旧蹟地」に「出雲」とは、驚くばかり。 明治に入るまで出雲大社は 杵築大社と呼ばれたが、この伊勢にも同名の社が…。 さて、昨年来行われた、千田寺跡=杵築大社跡の整備。 ならば、出雲の痕跡か遺物がザクザクと出土したかと思いきや、 そもそも遺物発掘計画はなく、一気に重機を入れての着工だったと聞く。 「鏡楠」旧跡も大正12年以来90年ぶりの発掘もできたろうに重機で地ならし。 これは新たな弾圧ともいうべき「事件」かと思うのは、私だけではないだろう。 ところで…。 杵築大社の祭神・大己貴=大国主大神。 出雲大社の奥宮・素鷲社(そがのやしろ)の祭神は、 その父である素鷲鳴尊(スサノオ)。 ということは、この旧蹟地のどこかにスサノオが祀られている? 資料を探すと 『磯部村上之郷古蹟取調書』(大正13年)に、その名があった。 (筆者の現代語訳) 〜この地は古来、倭姫旧蹟地と称せられる旧蹟で、 続く(西の方上)地陣を「神森」と呼び、 素戔男尊を祀る宮地がある。 明治改正の際、当時の村役人が前後の考えもなく 全部伐採、現在は畑地に変更してしまった。〜 スサノオの痕跡も失われていたとは…。 ついでに、調べると、 千田寺にはすこぶるビッグな由来がある。 曰く、寺に聖徳太子も来たと。 『志摩磯部 千田寺勅賜門再建勧進帳』(文政3年)。 要約すると…。 1)倭姫が、真鶴が稲穂を落とした故事に基づき 五穀成就の御神楽を奏じた。 2)用明天皇の皇子・聖徳太子が来て、 神池に感歎し、殿堂を数多く建立した。 この山全体を無量山と号し、 寺を千田寺と名づけ、倭姫の古事を残し、 太子自ら三歳の御姿を彫刻して、 別殿に納めた。 3)持統天皇がこの話を聞いて、この地に行幸※ 数日にわたり御輿を止め、新たに勅賜門を建立した。 その跡は現存している。 毎年元朝より7日まではこの門が開くので、 多くの庶民は参詣して神池の 霊水を戴いて太子を拝する。 (※持統天皇6年の伊勢行幸を指す) 持統天皇から下賜された豪壮な勅使門。 大正時代の撮影。 6本の柱があったが写真に門扉は写っておらず、 門自体もやがて焼失した。 ![]() 豪壮な勅賜門に、村人たちがつけた別称は 「不開門(あかずのもん)」という。 このブログを読み、 磯部在住の方(匿名)が送ってくれた手紙に そう書いてある。 「正月7日しか門が開かないので、 磯部では不開門(あかずのもん)と呼ぶ」と。 持統天皇による千田寺封印。 磯部に建てた開かずの門は、 持統天皇による出雲潰しだったと、私は思う。
by utoutou
| 2014-10-24 23:07
| 伊勢
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