倭姫がなぜ持統天皇に疎んじられたのか について考えてみた。 倭姫が優れた巫女だったことは『倭姫命世記』に見えている。 「伊勢の度会国に入り、神服織社を建てて太神の御服を織らせた」 とか、 「八尋の機屋を建て、天棚機姫の子孫・八千々姫命に、 天照大神の衣装を織らせた」などと、ある。 倭姫は織姫であり、古来の神祀りをする日巫女だった。 また20ヶ所以上ある巡幸の地は、 古代海人族に由縁のある土地ばかり。倭姫は、 自らと出自を同じくする先住民の聖地を巡拝して機を織り、 天照(男)大神と交信するという神事を続けたのだ思う。 そして、伊勢の地に天照(女)大神を鎮座させるという、 新しい世のための「岩戸開き」を果たしたのだろう。 そう考えると、皇大神宮内宮の相殿に祀られるのが、 天万栲幡千千姫命(機織姫)と 岩戸を開いた天手力男神であることが、頷ける。 伝承によれば、倭姫命は↓五十鈴川の水で裳裾の汚れを洗ったという。 そのため、五十鈴川は御裳濯川(みもすそがわ)と呼ばれるようになった。 さて、倭姫が開いた新しい世とは、他でもない、 天武天皇崩御の後、持統天皇が藤原不比等とともに目指した中央集権国家。 天皇を神格化するには、血脈を代々伝える「天孫降臨神話」が必要だった。 だからこそ先住族の痕跡は、持統によって封印される宿命にあった。 9月に参ったときも参拝客が絶えなかった皇祖神を祀る皇大神宮の内宮。 その先住族の代表格が、倭姫に繫がる血脈だった。 1992年に発表されて間もなく国宝となった『海部氏勘注系図』 からは、同族とみられる古代豪族をいくつか見ることができる。 安曇氏、伊福部氏、尾張氏、葛城氏、そして和邇氏。 この和邇氏が倭姫に繫がるシャーマンの血脈である。 倭姫から遡って、垂仁天皇、丹波道主王、日子坐王。 崇神天皇の弟であるこの日子坐王は母も妃も和邇氏の娘。 いわば、和邇氏と皇室の交わる要に立つ人物だ。 『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』(籠神社社務所発行)より拝借。 和邇氏については、以前書いたものを再掲してみる。 和爾氏が天皇の后を9人も出したとの記述があるのは、岸俊夫氏の 『ワニ氏に関する基礎的考察』という論文だが、縄文時代におけるワニ氏 について詳しいのは、宇佐神宮宮司家嫡男で宇佐国造57世の宇佐公康氏著 『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』(1990年、木耳社)だ。以下まとめ。 ・和邇族は、後期石器時代に朝鮮半島から日本列島に渡来した。 ・邪馬台国の時代以前から大陸と交流して繁栄していた。 ・今から2400年前の縄文時代晩期、すでに大和地方に定着していた。 ・奈良県天理市櫟本町和邇を本拠とし、部族による村から氏族による大集落を 形成していた。族長は孝昭天皇。山城・近江・尾張へと次々に進出した。 ・和邇一族の墓所である東大寺山古墳群から、後漢・霊帝時代の大刀が出た。 ・海洋民族で、カヌーのようなワニ舟で海岸から上陸。土地を開拓した。 ・古代の漁労や海運を業とした「海氏」「海部」のもっとも古い祖先で、その 祖神はワニ神という海神で水の神である。 ・紀元前3世紀から、数千年続けてきた漁労・採集を稲作・農耕に転換。 農具・武器・刀をつくり、神に捧げる神酒を盛る土器をつくった。 和邇氏とは海人族でもっとも古い時代に渡来した「古代倭」。 この血脈を、持統と藤原不比等は根絶したかったのだ。
by utoutou
| 2014-11-01 20:36
| 伊勢
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