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伊雑宮と猿田彦〈11〉猿田彦の正体、倭姫の旅

的矢の港で、トンビが大きな弧を描いて飛んでいた。
トンビに油揚げか…と、ふと思ったのだったが、
後で、近隣のMAPを見て笑った。
的矢の中央に赤の鳥居マーク、そして「お稲荷」とある。
偶然のシンクロ? 散歩したときには気がつかなかった。


近くのホテルで餌付けしているらしいトンビ。
スマホ撮影だと分かりにくいが、肉眼でははっきりと。
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的矢には八幡山もあり、お稲荷さんに縁が深いようだ。
↓ 相差(おうさつ)の三吉稲荷大明神、
そして、神宮外宮の横の豊川茜稲荷など、
伊勢志摩地方には、実に秦氏の痕跡が点々としている。
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点と点をつなぐキーが、猿田彦。
↑ 三吉稲荷大明神を末社に置く神明神社も、
明治以前は、猿田彦大神を祭神としていたが、
明治に入って急速に進められた神社合祀により、
あえなくその姿をかき消された。

こうして猿田彦神のひもろぎを思うと、
天照大神の御杖代・倭姫命の巡幸コースが気になった。


天照大神を祀る土地を探して、伊勢国に到着するまで、
倭姫命は16ヶ所を歩いたと『倭姫命世紀』に。
籠神社HPから拝借した地図 ↓の7〜25がそれ。
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もしや倭姫命は、猿田彦が治めた土地を歩いたのか。
倭姫命が古代豪族・和邇氏の系譜であることは既述した。
ならば、倭姫命と猿田彦は同族なのか。

和邇氏は天足彦国押人命を祖とするが、
後裔には、春日臣・大宅臣・粟田臣・小野臣・柿本臣
などに加え、伊勢飯高君・壱師君がいると『古事記』に。

伊勢飯高君、壱師君とは…倭姫命の巡幸地の主である。
飯高宮の神山神社、壱師の阿射加神社、
いずれも祭神は猿田彦。よってやはり、
猿田彦は、和邇氏の祖神の一柱であると考えられる。

倭姫命の巡幸コースも、海部氏、息長氏、尾張氏
と、和邇氏と関係の深い豪族の地にあった。また
美濃、三河は、和邇氏の勢力が強かった土地と言われる。


「猿田彦命は綿津見神の子・
宇都志日金析命(うつしひがなさくのみこと)、
穂高見命とも同神である」と、新説を著したのは宝賀寿男氏。
『和珥氏 中国江南から来た海神族の流れ』(12年、青垣出版)にて。

海神族、和邇氏の系譜には
海部氏、安曇氏もいる。アマミキヨの語源である。
私はミントングスクの神面に残るアマミキヨを
猿田彦と同一視してきたが、どうも当たっていたようだ。

和邇は沖縄玉城の「和名」を本拠地としていた。
その古代天孫氏王朝から、黒潮に乗って伊勢へ
東遷した初代の首長が猿田彦だったと思う。
磯部(海部)の本拠として建てた神祀りの宮は、伊雑宮。

北上して、尾張、近江、美濃、丹後を治めたのが、
いわば先着の王、国津神の猿田彦。
猿田彦はやがて日神として祀られた。
当然、新たなる皇祖神・天照大神の御杖代という重責は、
その末裔にあたる皇女が担わなくてはならなかった。

すべての巡幸地は東経135〜6度の子午線ゾーンにある。
現在の日本標準時をも示す、いわばヤマトのヘソ。
その嶽々を廻り、祖霊を祀り、鎮魂の祈りを捧げて、
新しき皇祖神・天照大神を奉った。
それが「倭姫命、巡幸の物語」の真実だったと思う。

by utoutou | 2014-12-16 20:28 | 伊勢 | Trackback | Comments(0)
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