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7つの首の蛇 2⃣ 鷲が運んだ稲

大前の殿(うふめーのとぅん)。
受水走水(うきんじゅはいんじゅ)から
徒歩10分ほどの高所(南城市玉城百名)にある。
かつては「五穀豊穣の宮」と呼ばれた。


戦後、安里家の神女が建造したという。
安里とは、稲作の祖・アマスのアマミツと
共に稲作を成功させた功労者。
もう一人の功労者が大前(うふめー)である。
7つの首の蛇 2⃣ 鷲が運んだ稲_a0300530_16433313.jpg



「大前の殿」内部。五穀神を祀る。
「大穂米之屯」で「うふめーのとぅん」。
鳥居が建てられたのは戦後のことで、
「親田御願」の祈願経路には入っていない。
7つの首の蛇 2⃣ 鷲が運んだ稲_a0300530_1532354.jpg





さて、沖縄の稲作は約700年前に始まったという。
アマミツを含む3名が稲作に成功したきっかけは、
中国へ渡った伊波按司(現・石川市)。
稲穂を持ち出そうとして果たせず、
鶴にくわえさせて飛ばしたところ、
嵐(あまべー)に遭い、この地に落下したと。

ただし、どうにも解せないのが時代だ。
この鶴伝説は、本当に
稲作の伝来と発祥を伝えているのだろうか。

シロミキヨの高天原」を書いて以来、
どうにも釈然としなかった。この地に残る
「高天原」「高皇産霊命」「御稲御倉」などの
神話的な言い伝えを思えば、稲作の伝来が
わずか700年前というのは、
どうも時代混同の感が否めないと思う。

神女おばあたちの言い残した話が甦る。
「稲穂の最初は鷲、後から鶴が飛んで来た」

鷲がくわえた稲穂という、
もうひとつの伝来伝説があった…。

鷲の伝説はミントングスクにも伝わっており、
紅型で人間国宝となった鎌倉芳太郎氏が記録している。
(『鎌倉芳太郎ノート』大正15(1926)年) 

〜『ミフーダ』ト称シ往昔アマンチュ、シルミチュ
の神初めて『ワシ』ノ持チ来リタル/稲穂ヲマキテ
作リアゲタル所ナリト云フ〜
〜「ワシ」ノ稲穂ヲ持チ来タリテ死シタル
オカー(ルビ:サチバルヌオカー)アリ〜

柳田國男氏の『海上の道』にも。
〜それでアマミキョは天に祷(いの)って、
鷲をニライカナイに遣って求めさせたところ、
三百日目に三穂をくわえて戻って来た。
初めてその種子を蒔いた田を三穂田と謂う〜

その鷲を、神女たちは「ゆがき鷲」と呼んだ。
夜明け鷲。琉球の夜明けは鷲から始まったと。


「7つの首の蛇」の伝説を思い出したのは、
 「大前の殿」に祀られた↓この絵を見たときのこと。

7つの首の蛇 2⃣ 鷲が運んだ稲_a0300530_15273210.jpg



その前日、私は久高島で川巡りをしていた。
島の西海岸には7つの川泉がある。そして、古来、
玉城と同じ「7つの首の蛇」伝説があったという。

そして、「大前の殿」へ。
頭を垂れる稲穂は以前も見ていたが、
稲穂を数えると、1、2、3…7本ある。
ふと思った。「7つの首」とは、
稲作を営んだ古代(龍神)族のことでは…?

by utoutou | 2015-04-16 17:11 | 龍蛇神 | Trackback | Comments(0)
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