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ヤマトタケル ⑪ 弟橘媛の入水 〜 走水神社

駿河から上総へ、浦賀水道を渡ろうとするも
暴風雨に遭い立ち往生したヤマトタケルのため、
身を投じて海を鎮めたという弟橘媛。

以前から、弟橘媛は「人柱」だったのだ
ろうと思っていたが、初めて参った走水神社
は、ヤマトタケルとオトタチバナヒメという
主祭神の「夫婦愛」物語に彩られていた。


こちら絶世の美女だったという弟橘媛
のレリーフが目を引く「舵の碑」。
その献身を讃え、また浦賀水道の安全を願って
昭和50年の国際婦人年に建立されたという。
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弟橘媛レリーフのアップ。
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↓ こちらの記念碑(右)も弟橘媛の美談を偲ぶ。
左の碑は、ヤマトタケルに料理を供した記念の包丁塚。
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社殿の奥にも「弟橘媛命の記念碑」があった。
弟橘媛が身投げする間際に詠んだ歌を
竹田宮昌子内親王が御書したものという。

その歌は、『古事記』に見えている。
〜 さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の
火中に立ちて 問ひし君はも 〜
(※「さねさし」は「相模」の枕詞)

現代語に訳すと、
「相模の小野で戦があったとき、
炎の中で、私の名前を呼んだ君よ…」
これを見ると、この地で何らかの抗争が、
姫の身投げの前段にあったことが窺える。
 

その舞台「相模の小野」とは、一説に
弟橘媛の祖父・橘モトヒコが賜っていた国。
現在の大山安夫利神社のある伊勢原市とも、
小野神社のある厚木市とも言われる。

そして、弟橘媛の父は、
「穂積氏忍山宿禰(オシヤマスクネ)」
であると『日本書記』に見えるので、
歌の意味は 〜 貴方と私の家が敵味方に別れても、
炎の中から私を呼んでくれたね 〜といったところ。
何やらロミオとジュリエット的な展開。


ところで、
母の放橘(ハナタチバナ)媛は再婚だった。
その前夫(=弟橘媛の実父)は田道間守
(タジマモリ)であると『ホツマツタエ』に。

田道間守とは、ご存知、垂仁天皇の勅命
により、不老長寿の仙薬と言われた
非時香木実(ときじくのかぐのこのみ)
を探しに常世の国に行った忠臣。
新羅から渡来した天日槍
(アメノヒボコ)の玄孫とも伝わる。

ようやく見つけて帰ったときに天皇は
すでに亡く、嘆き悲しんだ田道間守も死んだ
と、記紀は伝える。つまり殉死したと…。

思えば、ヤマトタケルは垂仁天皇の孫。
田道間守と弟橘媛は、二代にわたり皇家に殉じた。

ちなみに、天日槍とは、
新たな産鉄技術を日本にもたらした人物。
穂積氏とは、物部氏の正統とされる古代産鉄族。 
田道間守父娘の殉死は、ヤマトタケルが、
新旧の渡来産鉄氏族を治めたことを示す説話だと思う。

ではなぜ、ヤマトタケルは総統に成功したか。
火打袋と草薙の剣を持っていたからだ。
それは、いわば水戸黄門の印籠だった。



走水の漁港から神社(集落の中央)を見る。
背後の山は観音崎公園、散策する観光客も多い。
波止場を左へ進むと、媛が身投げした岬に出る。
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港の突端。媛が身を投げた「御所ヶ崎」。古来この地に
祀られていた弟橘媛は、明治末期に走水神社に合祀された。
訪れた日は真夏日だったが、人影はまばらだった。
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by utoutou | 2015-06-03 21:07 | ヤマトタケル | Trackback | Comments(0)
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