『琉球祖先宝鑑』('33年、琉球史料研究会) は、歴史研究家・慶留間知徳氏の著。 琉球の歴史上の人物三百数十名を列記して、 その出自・居所・葬所などを克明に記した人名録。 沖縄の神事や門中などを知るひとつの手がかり として、多くの門中の元家に保管されている。 巻末に載る氏姓集は、首里王府系図座の資料から 編集したもので、系統を尋ねる貴重な書とされる。 戦前まで、各地の門中で「元家はミントン」と 伝えていたという話はよく聞くが、それは ミントン家の始祖アマミキヨ・シロミキヨの子孫が 各地に発展したのが現在の沖縄だという古伝による。 さて、「天女神加那志、 玉骨は久手堅村の後方波御嶽の内に埋葬」と 『琉球祖先宝鑑』に記されていることは、 何度か読んだのに気がつかないことだった。 その女神が初代・聞得大君の母神だったとは、 「囲む会」で語り部が偶然、口にするまで…。 (※波御嶽とは、文脈から才波(斎場)御嶽と考えられる) 斎場御嶽の風葬墓とはナーワンダーグスクを指す。 斎場御嶽の奥宮である。昭和以前には 参拝できたといい、さらに遡り、 琉球第二尚氏王朝三代の尚真王の時代までは、 そのナーワンダーが第一の御嶽であったため、その真下に 位置する寄満で王と聞得大君が戦勝祈願したとの記録がある。 語り部が聞いた民間伝承では、当時まで、 聞得大君の即位式はこの寄満で行われたというのだ。 (琉球王朝の記録では、大庫理で行われたとされる) ↓寄満からナーワンダーグスク(右上)を仰ぐ(13時)。 この寄満、そして大庫理、三庫理といった斎場御嶽の 主だった祭場は、ナーワンダーグスクから東へ一直線に 並んでおり、その東方に久高島が浮かぶといった位置関係。 これを見ても、ナーワンダーグスクの重要性が伺われる。 ![]() ナーワンダーグスクに折よく登った1年前の レポートは、こちらのシリーズで。 天女神加那志は、アマミキヨ四世という。 そこになぜいままで気づかなかったかのか。 ↓『琉球祖先宝鑑』の1P目に以下のアマミキヨ系図があるが…。 ![]() 私はこれを『中山世鑑』(1650年編纂)の琉球神話…… 「安摩美姑(アマミキヨ)・志仁礼久(シロミキヨ) の間に、三男二女が生まれた。 長男は国王のはじめとなって天孫と称した。 次男は按司のはじめ、 三男は百姓のはじめ、長女は大君のはじめ、 次女はノロのはじめになった」 と、同じ内容なのだろうと思い込んでいた。 ところが、語り部の話をきっかけに『琉球祖先宝鑑』を 改めて読んでみると、実は上の図は略図で、 一世の阿摩美姑と天帝子の間の 二代がカットされていたことが分かった。 天帝子は上の図から見える二世ではなく 四世で、その妃が天女神加那志だった。 天帝子・天女神加那志の子である三男二女のうち、 長女が初代の聞得大君になったとされているわけだ。 ちなみに、その系図部分を抜粋すると…。 一世の志礼仁久と安摩美姑には、 13人の子がいた。 二世の天美人加那と巣出美人加那志には、 10名の子がいた。 三世の天太子大神加那志と竜宮女大神加那志には、 20人の子がいた。 以上三世は本島開発前の御世也(ママ) そして、 四世の天帝子加那志と天女神加那志には、 5人の子がいた。 一万七千八百二年(ママ) ![]()
by utoutou
| 2015-08-24 15:33
| 天女伝説
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|
![]() by utoutou
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