琉球第二尚氏王朝時代の初期のころ(1465〜87年)、天久宮の社殿を建てた「銘苅村の銘苅の翁」を 『天久宮由緒』は、「唯人ならず」と記したが、どのように「唯人でない」のかは記していない。 が、その意味を知りたいと、しばし悩ましい日々を送った挙げ句、とんでもない名門家だということを知った。 まず、ストーリーが似ているためどうにもややこしい、沖縄の天女物語を振り返ってみる。 時代の新しい順から、天女伝説・その1「天久宮」の巻。 「銘苅の翁」は女人(弁財天)と出会い、 天女伝説・その2「銘苅川」の巻。
銘苅子は銘苅川で天女と出会って結婚。 生まれた娘が尚真王夫人となり、 佐司笠按司加那志を生む(『中山世譜』ほか)。記事は こちら
天女伝説・その3(森の川)の巻。天女と出会って結婚した奥間大親は、 一男一女をもうけるが、その子はやがて察度王になる。 「昇天した天女」とは銘苅家の女である(口伝)。記事は こちら
天久宮境内にある弁財天。銘苅の翁は、女人が弁財天であるとの神託を受けた。 そして、きょう遂に(笑)合点がいった。天久宮を建てた「銘苅の翁」と、銘苅川で天女と出会った銘苅子は、時代は異なるが、どちらも、同じ安謝村銘苅の銘苅家の人物だったのである。 『琉球国由来記』「第十二 真和志間切」に、〜旧跡 銘苅子祠堂 安謝村〜という項目があるが、本文に、それは「銘苅翁子」旧跡だとある。意訳すれば、天久権現勧請由来、聖現寺縁起に見える銘苅翁の家だと。続いて、あの銘苅子の伝説が綴られるのである。 〜往昔、銘苅原の井川で銘苅子が手足を洗っていると、天女が現れて…結婚…その娘が尚真王夫人になる〜と。
天久宮の由緒にある通り、「天久野」で法師と女人に出会った「銘苅の翁」の足取りを(現代のものではあるが)那覇市の地図と照らし合わせてみると…。
ルート検索サイト NAVITIME から地図を拝借。銘苅川の「天女の御嶽」(検索では佐川急便営業所と入力)が、緑色で示された径路の右端。また緑径路の左端が、天久宮(検索では泊高校と入力)。その距離は1.7㎞。タクシー料金は730円と出た。往時の天久宮は現在から少し北にあったと言われるが、徒歩数分の違い。銘苅家から天久宮までは、徒歩30 分? 銘苅の翁は、天久まで歩いて行ったのだろう。つまり、天久宮を建立した翁が「唯人ならず」と記されたのは、古来この地の大地主だったからか?
くだんの『琉球国由来記』真和志間切安謝村の項には、この銘苅子祠堂の祭祀を司るのは、〜長じて佐司笠按司加那志となった銘苅子の外孫の嫁ぎ先・向姓美里王子朝易、湧川親雲上朝略外鼻の祖也〜とある。 いっぽう、銘苅家の祖・向姓美里王子朝易は、 『士族門中家譜』(比嘉朝進著、2005年、球陽出版)にも、「首里士族 向氏(しょううじ)・湧川殿内」の項に記されており、『由来記』の記載と合致する。〜一世・越来王子朝理。 二世・見里王子朝易。〜妻は尚真王の娘。〜と。 尚真王の娘婿が銘苅家の家督を守ったということか。
琉球王朝に深い血縁を持つ銘苅家。その古代より繫がる系譜とは、いったい…。
天久宮の拝殿内部。神社としての祭神は熊野三神となっている。
by utoutou
| 2015-09-17 18:25
| 天女伝説
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琉球の始祖と伝わるアマミキヨとは誰か。その痕跡を追う旅ログ。南城市玉城で出会った語り部と共に謎解きする、古代琉球の神々の事々。写真・文章を転載の場合はご一報お願いしますm(._.)m
by utoutou
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