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沖縄の天女伝説 ⑪ 銘苅は古代産鉄地だった

那覇市・安里八幡宮の境内から、その南に位置する
国際通り方面を振り返る。この安里八幡宮が
往古、河口(海)だったことは、こちらに書いた。
第一尚氏王朝最後の王・尚徳は、この地から喜界島討征に出航、
戦勝して凱旋したことが、八幡宮建立の由来になった。

ゆいれーる牧志駅に隣接するホテルから
朝の散歩に出て安里八幡宮に来たのは2年半前の
ことだったが、かなりの急坂だったのを覚えている。

安里八幡宮の北側、現在は新都心のおもろまち駅
となっているあたりは、かつて天久台地と呼ばれ、
今次の大戦時、シュガーローフの戦いの激戦地となった。
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現代にも語り継がれる天女伝説の舞台
・シグルクガーを含む銘苅地区は、戦後、米軍に接収され、
1953(昭和28)年に全面返還されるまで、
金網に囲まれた軍用地(牧港ハウジング)だった。 

1992(平成4)年以降、那覇新都心整備事業と
天久公園整備事業が開始されたのに伴い実施された
大掛かりな調査により、おもろまちには縄文時代晩期から
グスク時代にかけての、21もの遺跡があることが判明した。


その一部には、銘苅家と天女について推察するのに
重要な手がかりとなる、遺構と遺物が眠っていた。


↓こちらは、戦争前、昭和18年の銘苅地図。
『銘苅古墓群・重要遺跡確認調査報告書』
(2007年、那覇市教育委員会文化財課編)から拝借。

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上の地図を拡大して加工したのが↓こちら。
三ヶ所に青の下線を付けた。
●青線を付けた、いちばん上が、銘苅子の墓
●真ん中が、銘苅子が天女と出会ったシグルクガー
●いちばん下が、伊是名殿内の墓(古墓遺跡、
詳しくは、文化庁データベースを参照)
※下に黒くうねるのが銘苅川、上のうねりは安謝川。
右の線路は、戦前まで走っていたという軽便鉄道。
沖縄の天女伝説 ⑪ 銘苅は古代産鉄地だった_a0300530_12153657.png

上の地図中、さらに那覇市
教育委員会発行の遺跡発掘報告書を参照して、
産鉄地だったことを伺わせる遺構・遺物が出た遺跡
に赤の数字を付けた。上から、
1⃣ 銘苅港川遺跡
 2⃣ 安謝東原南遺跡
3⃣ 銘苅原南遺跡

ちなみに4⃣は、銘苅原古墓群遺跡(北地区)で、
銘苅子の墓のごく近くから湧川家代々の墓が発掘された。
(湧川殿内が銘苅家の家督を継いだ記事は★こちら

天女伝説の舞台シグルクガーを挟んで南北に
3ヶ所もの「鍛冶関連」の遺構・遺物が出たのである。


思えば、ヤマトタケルのシリーズで、久高島の外間殿や
大里西原の元家で鍛冶神(カニマンガナシー)を祀っている
  ことを記し、沖縄でも古代産鉄が盛んだったのではと推察したが、  
天女と産鉄地についての深い関係が、
こうして思わぬところで現われ出るとは…。

ヤマトでは、天女の羽衣伝説のある土地は産鉄地だった。
天女は農耕の女神であると同時に、古代産鉄の母神である。
たとえば籠神社のある京都・丹波の地では、その神名は、
豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)といった。
※『丹後国風土記』逸文より。

銘苅周辺の遺跡三ヶ所から出た鍛冶関連の遺構・遺物とは、
炉跡、ふいごの羽口、そして焼土だった。
詳しくは次回に…。



by utoutou | 2015-09-17 18:49 | 天女伝説 | Trackback | Comments(2)
Commented by at 2015-09-17 21:48 x
utoutouさん、こんばんわ!銘苅、古代産鉄遺跡ですかー(≧∇≦)興味深いですね。知念半島にばかり目が行ってましたが、新都心も色々ありますね。このブログでカニマン御嶽を知ってから、興味を駆られて、私も原料はどこだ?と色々調べて湖沼鉄に行き当たりました。そして考え抜いた結果、6月にレンタカーで大里や首里を巡ってみて、玉城、大里の製鉄技術者は舟に乗って国場川を下って慢湖や那覇の沼地に湖沼鉄を取りに行ってたんじゃないかと妄想しました。製鉄地に天女!確かにです!大里のカニマン御嶽もすぐそばに天女の井戸チチンガーがありますもんね(≧∇≦)
Commented by utoutou at 2015-09-19 21:31
> 寅さん
こんばんは。返信がすっかり遅くなりまして、すみません。
そうなんです、那覇市内がこんなに大事になる日が来るとは。
大里や首里を車で巡ったのですか〜すごい!! お気持ち分かります。笑

どんな鉄材かはさておき、製鉄技能集団が渡来したのなら、ズバリ鉄が生る土地に入植したのでは?と思ったりしています。でも、それをどのような方法で嗅ぎ分けたのか?…が、目下の疑問です。同じノウハウで本土へも東進(北進?)していったとも思うので。

チチンガーも思い出しますね。久高島から天久まで、東西軸を引けそうな位置であることも興味をそそられます。



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