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沖縄の天女伝説 ⑳ 大国家と三保の浜

天女降臨の舞台は、銘苅川や森の川だけではない。
本島南部・南風原町宮城(みやぐすく)にある
御宿川(うすくがー)もそのひとつで、
大国家(でーこくやー)という旧家の近くにある
川泉に、羽衣伝説が残っている。

大国家は、ぜひ一度、訪れたいところだった。
そもそも大国家という屋号を冠したこの旧家は、
大国主の末裔であるという伝承があり、その当主は、
大国大主(うふくにうふすー)と呼ばれたという。

それを語り部に聞いたとき、沖縄=出雲だと思った。


ところが、いまは屋敷の跡形もなく、
↓拝所(写真右)は、鉄扉が錆び付いていて開かない。
語り部曰く、神壇には「大国さま」が祀られている。
覗くと、確かにそのような立ち姿が暗闇に浮かんでいた。
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さて、大国家の大国子(でーこくしー)が、
この地の天女伝説の主人公である。今から300年前、
大国子は御宿川で髪を洗う女性に出会った。
そこで、木枝に掛かっていた衣を高倉に隠し…やがて結婚。
子宝に恵まれ暮らしていたが…家族別離のときが訪れる。
おおむね天女は飛衣を得て昇天するストーリーだが、
この地に伝わる天女伝説は結末が違う。
東へ山ひとつ越した与那原で姿を消したというのだ。
(但し、『琉球国由来記』では、
「昇天せず死ぬ。御嶽内に葬る」となっている)



南風原町宮城の御宿川(うすくがー)。
看板の左下が天女の川泉。水は湧いてはいない模様。
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天女の消えた場所が、与那原与原の久場塘(くばどう)。
宮城から東へ車で10分、与那原交差点を西原方面に500m。
住宅街の駐車場内にひっそりと、しかし堂々と。
沖縄の天女伝説 ⑳ 大国家と三保の浜_a0300530_16032810.jpg


「なぜ、天女はここで消えたとなっているのですか?」
語り部に聞くと、理由はあっさりと判明した。
「昔は、大国家がこの与那原にあったからですよ」
「あらら、南風原の天女伝説は、この与那原が元で?」
「一山越えて、移住したと伝わっています。ほら…」


語り部が指差した先、
拝所の小祠の左半分に、次のように刻まれていた。
〜南風原村宮城区拝所
一九五五年四月五日建立〜
この久場塘拝所は宮城のものであると明記されている。
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では、大国家が移住したのは、いつ頃だろうか。
南風原の天女伝説は300年前の話だというが、
『琉球国由来記』にも、大里間切宮城の項に、
「一ツ瀬アマオレヅカサ」という天女由来の御嶽が見えるので、
『〜由来記』成立(1713年)以前には、大国家は宮城にいた?

いっぽう、これまた驚いたことには、
察度王(1321〜95年)の息子である崎山里主が
南風原の大国家へ養子に入ったとの伝承がある。

逆に言えば、
天女一族と王族との縁組みは琉球王朝時代の
はるか以前から行われていたということになる。

察度は、奥間大親と森の川の天女から生まれたので、
崎山里主は、天女の孫にあたる。
  その王子が、大国主の末裔家に養子に入った…
  つまり、大国家はどれほど大きい家だったか。
   いまは寂れてしまったが、過去の栄華が偲ばれる。  
大国家も銘苅家と同様、古代海人族の流れだった。


ところで、
この地の天女も後の聞得大君と深く関わる。
天女が消えたのは久場塘だが、舞い降りたのは、
歩いて10分ほどの距離にある「浜の御殿」(うどぅん)。
後に琉球王朝の王族が順拝する東御廻りの拝所となった。



天女が出産したときに、↓ 親川(うぇーがー)の
湧水を産湯に使ったという古伝承があることから、
聞得大君は、就任式「お新下り」のときは、
この親川の泉で水撫で(うびなでぃ)をしたという。
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親川には、聖なる神名が付いている。
「与那原よなわしのあまおれ川、
君がおべい主がおべい、川御すじがなし」
(琉球王府編纂『お新下日記』による)

意訳すると、次のような意味になろうか。
「世直し(豊穣)のため天女が舞い降りた川泉、
 聞得大君のための、霊力(しじ)高い水の神」
聞得大君はこの霊力により国王のオナリ神となった。

この川御すじ加那志(神)こそ、各地の天女伝説で見た
弁財天であり、ヤマトの信仰で言えば瀬織津姫であり、
市杵島姫命であり、語り部によれば菊理姫でもあり、
そして、三穂津姫である。

この与那原は近年、再開発が進んでいるが、
往古は、御殿山や親川の側を通る国道329号線まで海岸
が迫り「与那古浜」「三保の浜」と呼ばれたという。
「そして、立派な松林があったそうです」と、語り部。

大国家と三保の浜と松原と羽衣伝説。この地の
天女伝説を辿ると、出雲神話の原風景とそっくりに
感じられる「いにしえの与那原」に行き着いた。
なんとも不思議…。



埋め立てが進み現在の海岸線は、西原きらきらビーチ。
地域には野外コンサート場や観光施設建設の予定もある。
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by utoutou | 2015-10-24 19:53 | 天女伝説 | Trackback | Comments(4)
Commented at 2015-10-26 01:16 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by utoutou at 2015-10-26 18:09
> 徹平さん
お久しぶりです。もうすっかり秋になってしまいました。笑
朝鮮の民族衣装ですか…。その色が白なら、ノロや神女の神衣装と似ていますね。
王家の娘…銘苅が古代王家だった可能性は大いにありますね。
そうなると、銘苅=ワニ氏となり、ワニ氏の娘ということになるでしょうか。
ちょうど次回、そのことを書こうとしていたところですが、
そう言えば、玉城にも昔、「三保の松原」があったそうです。天空の茶屋の近くに。
機会があれば、またぜひ語り部と天女談義をしてみてくださいね。
Commented at 2017-12-09 00:25 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by utoutou at 2017-12-12 02:51
> okumaさん
初めまして。天女伝説に興味を持ったのは、全国各地のその伝説が古代産鉄地に残っているということが大きかったと思います。天女は産鉄の母神。古代の沖縄で鉄生産が行われていたかどうかについて歴史は語りませんが、天女伝説が残っている以上、鉄で農機具を作り稲作をした海人族がいたのだろうなと、まず考えました。古代産鉄の材料になるスズ(褐鉄鉱)は茅や葦の生える湿地帯にできるそうですが、沖縄の島々にはその土壌や環境は整っています。
「御先(うさち)カニマンガナシー(鍛治神)」や「ヒーフチャー(火吹き男)」という言葉や、天女を娶った銘苅子(メカルシー)の伝説も、古代産鉄が行われたことを匂わせています。
福岡県の門司港に和布刈(めかり)神社がありますが、お祀りしたのは銘苅子と同じ一族ではないでしょうか。「天女は銘苅の娘」という沖縄の古い言い伝えは、各地の天女の素性を言い当てています。安曇、宗像、出雲、日下部など海人族が崇めた女神・瀬織津姫のことだと思います。
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