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東国三社 ② 鹿島神社、レイラインの意味

鹿島神宮。祭神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)。
創祀は、神武天皇紀元元年という。
『新鹿島神宮誌』にある由緒によれば、
〜神代の昔に、天照大御神の命令により、出雲の
大国主と国譲りの話し合いをし、その後、各地を歩かれ
て国の統一をはかり、未開の地・東国に入っては、
星神・香香背男(かかせお)を討って
国中を安定された。〜



境内から見る楼門。日本三大楼門のひとつ。
水戸徳川藩主の頼房卿による奉納という。
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さて、
星神を討って、中央集権国家の成立に貢献した
軍神・武甕槌神を祀るという、この鹿島神宮
の近くには、↓鎌足神社が鎮座しているが、
そこが藤原鎌足の生誕地との説があり、興味を惹かれた。

創建時期は不明というが、生誕の件は
藤原氏を描いた歴史物語『大鏡』(平安後期)に見える。
それを元にしてか、『新編常陸国誌』(江戸〜明治)
にも、鹿島で生誕したとの説が記載されている。

鹿島神宮の宮司だった東実氏の『鹿島神宮』によれば、
〜いつの頃か東国へやって来た中臣氏が、
鹿島神の神系と婚姻関係を結び、やがて鹿島神宮の
宮司となり、この神を崇めるようになったのだろう。〜
ということなので、鎌足生誕説の可能性は五分五分?

では、中臣(藤原)氏が婚姻関係を結んだという、
この地に先住した「鹿島神の神系」一族とは?

『新編鹿島神宮誌』には、こうある。
〜鹿島の地は神宮創設以前には、那賀国造の部内
だったが、いつの時代にか中臣連に与えられた。〜

那賀国造(ながこくぞう)…。
那珂国造、仲常磐、仲国造(なかのくにのみやつこ)とも。
古来、仲国(茨城県水戸市周辺)を支配したと言われる。

国造本紀(先代旧事本紀)には、
成務天皇(13代)の時代に伊豫国造と同祖である
建借馬命(たけかしまのみこと)を国造に定めた
ことに始まると記されている。

そして、
神武天皇の第一皇子・神八井耳命の後裔の
多氏が、国造を世襲したという(水戸市史)。
水戸市のある愛宕山古墳の被葬者は、
仲国造の初代・建借馬命と言われているとも。

つまり、この鹿島に先住した
多氏一族が奉じていたのは、タケカシマノ命。
タケミカヅチではなかった。そして、
鹿島の神と藤原氏とは本来、関係がなかったようだ。
藤原氏は、記紀に載る武甕槌神を祭神としたわけか。

吉田大洋氏の著『謎の出雲帝国』によれば、
多氏の系譜は以下のようになるという。

コトシロヌシ---ヒメタタライスズ姫+神武天皇---
カムヤイミミノ命---タテカシマノ命(那珂国造祖)
---多氏---太安麻呂

まさに出雲神族の系譜。事代主を遡れば、大国主、
そしてクナトの神に行き着く。

そこで、鹿島神宮本殿の向きに気がついた。
鹿島神宮の本殿は複雑な「向き」をしている。
建物は参道に対して横向き=北向きに建つが、
さらに神座は北向きでなく、東を向いている。

鹿島神宮の宮司だった東実氏は述べた。
〜その配置と内部構造は出雲大社の内陣と共通する。〜



確かに、出雲大社は、
神座が建物の南向きでなく、西を向く。
祖先が同じなら、社殿も同じ形式になるのは当然だ。
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鹿島神宮の神体は東向き、出雲大社の神体は西向き。
このことは何を意味しているのか。

語り部に意見を聞くと、驚きの回答が返ってきた。
「それが真のレイラインなのでしょうね」
「なるほど…。横1本に繋がりますね。そして、
真ん中あたりに健御名方が逃げた諏訪が位置する…」
語りも言った。
「陽の沈む出雲の日御崎(西)、陽の昇る鹿島(東)。
レイラインで繫ぐことに意味があったと思います」

太陽のレイライン。その意図は…
出雲の国獲りに次ぐ、もうひとつの国獲り?
後の藤原氏が大和朝廷で権勢を誇ることになる
その原点を知る思いがする。



そう言えば、古来、
鹿島神宮では、現在の鳥居と反対(東)が参道入口。
御手洗池(みたらしいけ)で潔斎のうえ参拝したという。
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御手洗池から急な坂道を歩くと、現在の奥宮。
その南の鹿島山に、↓地中に埋まる要石があるが、
それは巨石で水戸黄門が
7日7晩掘っても掘りきれず諦めたという。
真ん中が凹んでおり、いまは参詣客が1円玉を投げ入れる。
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要石の前には鳥居が立ち、案内版にはこうある。
〜要石
神世の昔、香島の大神が座とされた万葉集
にいう石の御座とも、或は古代における大神
奉斎の座位として磐座とも伝えられる霊石である。
(中略)信仰上からは、伊勢の神宮の本殿床下の
心御柱的存在である。〜
要石は、タテカシマノ命の磐座だったようだ。
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奥宮から要石の間には、武甕槌神の像もある。
大鯰(なまず)を踏んでいる図が、これでもかと、
出雲神族を封殺しているように見えてしまう…。
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by utoutou | 2015-11-19 13:19 | 神社 | Trackback | Comments(2)
Commented by at 2015-11-19 19:07
utoutoさん、こんにちは!東国三社、興味深いです!東北旅行の初めに鹿島神宮行って私も拝殿の向きが不思議だなーと思いました。そしてタケミカヅチの神様は本当は何者なんだろうと色々と本を読むうちにうーんと唸ってしまいます。初めての東北旅行で鹽竈神社行った時にutoutoさんと同じような気持ちになりました!レイライン(≧∇≦)吉野裕子さんの本を読んで鹿島神宮と出雲大社は日本列島の本島の東と西を結ぶ最も長い線でその線のちょうど真ん中に位置するのが熱田神宮だと。開いた口が塞がらず、目からウロコで、古代の人達は一体何を考えてたんだろうとドキドキしてしまいます。鹿島神宮行って面白かったのは鹿島から都に鹿を連れて行って、江戸川区あたりで死んだ鹿の骨を埋めたから鹿骨という場所ができたと。江戸川区育ちなのでなるほどーと頷いてしまいましたが、なぜ鹿なんだろーとも疑問に思いました。古代はミステリーが多くて楽しいですねー(≧▽≦)ノ
Commented by utoutou at 2015-11-20 08:24
> 寅さん
こんにちは。東国三社、謎めいた匂いがプンプンしますね。
タケミカヅチは藤原氏が氏神として半ば奪取した神では?と感じた経緯はプログに少し書きましたが、もっと辿れば、塩竈神社との関連ででした。
塩竈神社の由緒には「タケミカヅチとフツヌシは東北地方を平定した後、東国に帰った」
とあるのに対して、鹿島神宮の由緒では「タケミカツチの墳墓が当地にないことから、東北に
止まったのでは?」といった異説が展開されていて、整合性に欠けると感じました。

レイラインは古代の人々の視野視界の広さの証ですよね。
吉野裕子さんは古代の「蛇」は世界的な範囲で信仰されていたと書きましたね。
そうすると、日本列島の東西を貫くレイラインの規模など、むしろ小さく感じられます。

鹿骨という地名は知りませんでしたけど、ある神社の社家の方から聞いた「藤原氏は鹿まで春日神社に連れて行った」という話を思い出しました。
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