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神武の来た道 ⑱ 補陀落僧と英祖王

琉球に初めて漂着した補陀落僧は禅鑑という。
『琉球国由来記』に伝聞として記録がある。

〜英祖王の時代(1265〜74年)、葦造りの
軽舟に乗って、僧禅鑑は小那覇津に漂着した。
名前を語らず「補陀落僧」とのみ答えた。
英祖王は禅鑑の容姿を見て悦び、浦添城の西
に極楽寺を創建して禅鑑を住まわせた。〜



山号は補陀落山。その極楽寺遺跡は、
↓英祖が眠る浦添ようどれ(墓)の崖下に。
(昨年11月に撮影)
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浦添ようどれの上に立ち東シナ海を望むと、
宜野湾市の火力発電所の2本の煙突が見える。
ちょうど、この崖下に極楽寺はあったようだ。
尚円王の時代に再建され龍福寺と改称した。
神武の来た道 ⑱ 補陀落僧と英祖王_a0300530_07121678.jpg


その禅鑑は、はたしてどこから来たのか?
熊野、補陀落山寺の境内にある補陀落僧
の一覧にその名は見つからなかったが…。


禅鑑の出自について、沖縄の学者たちの
意見はいくつかに分かれている。
主なものはというと…
(1)熊野から来た補陀落僧である。
(2)東大寺から中国に渡った僧である。
(3)中国南宋から来た補陀落僧である。

南宋説は、浦添城の考古遺跡から、
中国製陶磁器破片や高麗瓦が出土している
のが、その根拠になっているようだ。
ただ遺された史料は限られており、
どの説もあくまで見解の域を出ない。

「てぃだこ(太陽の子)」と呼ばれた
英祖は、その出自が謎めいた古代王だ。
伊祖世主の子で英祖王統五代の初代となったが、
生母が太陽を見て孕んで生んだという。

いっぽう、
アマミキヨ直系のミントン家のある玉城
では、英祖は前身を玉城湧川按司といい、
伊祖世主の養子になったという口伝がある。
(以前の記事は こちらなど「天孫氏編」に)


いつも浦添ようどれに行くと目を見張るのは
↓浦添ようどれの石積み(今次の戦争で崩落)。
この墓を造ったのはミントン家にゆかりの人々
だという口伝もある。アマミキヨは石工だった?
神武の来た道 ⑱ 補陀落僧と英祖王_a0300530_07123339.jpg


英祖五代の玉城王が居城とした↓玉城城
の石積みもまた、非常に珍しい構造だが、
これを誰が造ったのかは明らかでない。
神武の来た道 ⑱ 補陀落僧と英祖王_a0300530_10241248.jpg


さて、熊野参詣の旅でもっとも記憶に残った
のは「穴師」の登場だった。

神武が熊野で出会った穴師たちを、
語り部は「天穂日命の末裔だ」と言った。
彼らは穴に住み、太陽と火を崇める産鉄族だ。
また石を積み、埴輪を造る技術集団でもある。

そしてまた、神武の出会った八咫烏の
末裔と言われる熊野三党の宇井氏とは、
玉城上門(いーじょー)の同族ではないかと。

この熊野編もそろそろいったん、一区切り。
折しも、この最終回を書いているとき、
語り部が連絡してきて、こう言った。

「天穂日命の一族は、熊野から出雲へと、
さらなる鉱脈を求めて移動したと思います。
そして、出雲の熊野大社の元を造ったと。
出雲の旧家に、神門という家がありますね」
調べると確かに、神門(かんど)家はある。

「実はミントングスクの裏は、古くから
神門原(かみじょーばる、上門原とも書く)
と、呼ばれていたのです」

そこには、浦添ようどれを造った石工たち
の墓があるとも言われていたという。
一歩一歩ずつ、英祖王と熊野の距離が縮まって
いると思うのは、私だけだろうか?

語り部はまた、こうも言った。
「天穂日命の一族は、熊野から出雲へ行く
途中で、いまの六甲山にいた時代がある…」

というわけで、「追跡」の舞台を
熊野から六甲へと移すときが来たようだ。




by utoutou | 2016-02-22 23:49 | 神社 | Trackback | Comments(0)
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