『名草戸畔(なぐさとべ) 古代紀国の女王伝説』 (なかひらまい・著)に、名草戸畔の末裔で、 宇賀部神社(海南市)の宮司家出身である 小野田寛郎氏の聞き書きが載っている。 それを読んで驚いたのは、口伝の内容が、 『日本書紀』の記述と相反することだった。 『日本書記』には、次のようにある。 〜旧暦6月23日、神武軍が名草邑に着いた。 そこで名草戸畔という女賊を誅された。〜 いっぽう、小野田口伝によれば、 名草戸畔は神武に殺されてはいない。 〜「ナグサトベは合戦で戦死しているんです」 「神武軍は(名草軍に)撃退されたから、 しようがないから(迂回して=紀ノ川をのぼら ないで)熊野に入ったんです」〜 従わない豪族を誅伐して、熊野から大和への道 を駆け上がったと信じられてきた神武東征だが、 ご当地では異説が語り継がれてきたのだった。 ↓橿原神宮で見た神武東遷図(最後半のみ)。 地図中(4)は長髄彦との戦いで後退した草香邑。 南下して名草邑へ着くが、以降わざわざ迂回して 海路で再上陸を試みたのは、名草戸畔軍に撃退された からだというのが、初公開された小野田家の秘伝だ。 ちなみに、(5)は熊野灘(6)神倉山(7)玉置山 (8)宇陀 (9)吉野(10)丹生(11)國見丘。 勝浦から熊野古道(国道42号線)を新宮方面へ 車を走らせると、「神武東征上陸地」の看板に 遭遇した。「荒坂の津」(現・三輪崎)。 『日本書記』はこの地で、神武はもうひとり女首長 「丹敷戸畔(にしきとべ)を誅した」と記す。 熊野古道から見渡す、神武が航行した熊野灘。 「荒坂の津」付近に車を停めて撮影(正午すぎ)。 和歌山観光情報さんのサイト 名草戸畔の遺体を祀るという三社 (宇賀部神社、杉尾神社、千種神社)情報が見られる。
by utoutou
| 2016-03-08 10:08
| 神社
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Comments(2)
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kisaragi-14
at 2016-03-17 15:55
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ご無沙汰しております。
名草戸畔についておたずねしてから、是非かの地を訪れてみたいと思いながらも、実現できていないのですが、存在はますます気になっているところです。身体を3分断してまでもその地を守るという凄まじさに驚くと同時に、尊敬の念も大きくなります。そして、古代は深く、今へ脈々と繋がっているのですね。
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utoutou at 2016-03-19 11:42
> kisaragi-14さん
こんにちは。紀北へは、私も改めて行きたいと思っています。これまでオカルト的な解釈で恐れられてきた「名草戸畔の遺体を3つに分けて埋めた」という伝承は、なかひらまいさんが「ハイヌヴェレ神話と似ている」と書いたことで、評価が一変したのではないでしょうか。 なかひらさんはユング心理学からのアプローチで「女神の身体は地球を表し、穀物はそこから生命が芽生えるといった、ダイナミックな世界観を表しているように思える」と書いていますね。 沖縄のミントングスクに残っている伝承にも、「大昔は人が亡くなったら遺体を分けて食べた」という話があります。その血肉を受け入れて一体になることが、神への信仰心だったのではと思います。私たちの祖先はそうやって魂を繫いできたのでしょうね。
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by utoutou
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