後に出家して如意尼となる真名井御前 の出自であるかもしれない日下部氏とは、 どのような古代豪族だったのか。 記紀には、5世紀の事績に登場する。 皇位争いで雄略天皇に殺された 履中天皇(400〜405年)の子・市辺押盤皇子 の幼い皇子であるオケとヲケ兄弟を連れて、 丹波国余社郡に避難したのが、日下部連使主 と、その子である吾田彦だった、と。 また『播磨風土記』には、二皇子は播磨 に身を隠していたとの伝承が残っている。 丹波と播磨、どちらがいったい正しいのか。 丹波国について、籠神社HPはこう語る。 〜但波国(丹波国)とは、 713年に丹後国が建国されるまで 当地方が属していた国のことである。 飛鳥時代頃まで現在の丹後・丹波地方 (京都府中部・北部・兵庫県の一部)は、 「たにわ」の国と呼ばれ、〜 そうだったのかと、眼から鱗が落ちた。 丹後と播磨と摂津は、古代、同国だった? その三国は明らかに隣接している。 (↓こちらの地図も籠神社HPから拝借) ![]() さて、 あの有名な浦島太郎の童話も、日下部氏 のアイデンティティーを示す大きな要素だ。 12世紀末の歴史書『水鏡』に、それが見える。 〜浦島太郎は、天長2年、龍宮城から玉手箱 を持ち帰った。その箱を開けると中から 紫雲が昇り、たちまち老人となり、 うまく歩けないほどだった。〜(要約) 帰ってきた天長2年とは、825年である。 いっぽう、行ったのは478年。 なぜなら、 『日本書紀』雄略天皇22年に、こうあるからだ。 〜秋7月に、丹波の国の余社郡の菅川の人、 瑞の江の浦島子、船の乗り釣りす。〜 こそが、「日下部氏の祖」だとしている。
またもや日下部氏…。そう言えば、 現在の六甲山が位置する摂津郡に日下部氏が 献金した、つまり首長だったのは766年。 真名井御前が生きた時代と、ほぼ同時代である。 真名井御前と浦島太郎が、日下部氏の同族 ならば、現実に出会う機会を得ていたのでは? ということで、以下に↓年表を整理してみる。 802年 後の真名井御前(厳子)誕生。 812年 10歳。京都・真言宗の頂法寺で修行。 822年 20歳。大伴親王の妃に。 823年 大伴親王が即位、淳和天皇に。 825年 浦島の子(浦島太郎)が竜宮城より帰る。 826年 真名井御前、神呪寺を建立。 空海を師として修行。 830年 28歳。空海が如意輪観音像を彫る。 831年 神呪寺の本堂が完成。如意尼となる。 834年 33歳、入定。 835年 空海が死去(62歳)。 ![]() ![]()
by utoutou
| 2016-04-13 01:35
| 瀬織津姫
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