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六甲山と瀬織津姫 82 和布刈神事(めかりしんじ)

旧暦正月(1/28)の午前2時半に始まる
和布刈神社(北九州市門司区)の和布刈神事を見た。


今年も例年通り、元旦の干潮時に行われた。
例年と言っても、1300年も続く新年の予祝行事という。
神職3人が海に入り、ワカメを刈り採って神前に供えた。
和布は万物に先んじて芽を出し自然に繁盛するので
幸福を招くと、境内に書いてあった。元旦ならなおさらだ。
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和布刈神社は、もともと早鞆の瀬戸(関門海峡)の岬
の磐座だったらしいが、いまは関門橋が頭上を横切る。

東京を旧暦大晦日の始発便で出発し午後2時に着いた。
和布刈神事の半日前。ちょうど満潮で波は荒々しかった。
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和布刈神社までの道中、そこに参る動機らしき
 ものを、以下のようにつらつら書いた(前回の続き)。

☆☆☆

持統6(692)年、伊勢・志摩に行幸した持統は、
伊雑宮の坐す磯部で「倭姫旧跡の封印」とでもいうような
「開かずの門」を建てて行った。その伝聞は『倭姫の真実
に書いたが、あの3年前、私は思った。持統は「丹後の姫」
のシャーマン気質が、よほど疎ましかったのだなと。

しかし、いま、持統の伊勢行幸に関する「謎」を改めて
思うとき、その奥底に見え隠れする策略にも似た思惑
に行き当たる。持統は「丹後」を抹殺したかった?

持統行幸の「謎」とは、ざっと次のような点だ。

☆伊勢行幸なのに、伊勢神宮へは参らなかった。
☆伊勢行幸なのに、近江・美濃・尾張・三河など
から呼んだ随行団に、帰朝後、大胆な調役免除をした。
☆高官(三輪氏)に反対されたのに、行幸を強行した。
☆行幸なのに、天照大神御杖代の旧跡を封印した。
☆行幸なのに、宮廷歌人の柿本人麻呂は随行させなかった。
☆伊勢行幸なのに、三河へも足を伸ばしたらしい。

こうして「謎」を並べると、恩赦や調役免除は、
行幸を目撃した者への口封じだったのかもしれない
と思えてくるが、やはり三河でも何かを封印したのか?

三河は養蚕に関係のある安曇族や、秦氏や、物部氏の
居住地であり…‥つまり、「伽耶」からの渡来民の、
さらには「新羅」からの渡来民の一大勢力拠点だった。

いっぽう、持統の実父である天智天皇は親「百済」派だ。
天皇となった父娘に重用された藤原鎌足と不比等父子
もまた、百済からの渡来人だったと考えられている。

天智と天武は兄弟ではなかったともよく言われるが、
兄弟に仕立てたのは、持統と不比等だったのだろう。
『日本書紀』に記される天武と持統の夫婦愛もしかり…。
持統の天皇即位には、壬申の乱に勝った天武亡き後、
天智系(百済系)の復活という目論見があったと思う。

そこで思い出すのは、持統が詠んだあの歌。

春過ぎて 夏来たるらし白妙の 衣干したり 天の香具山
(万葉集巻1、小倉百人一首)

天香具山は、ご存じ大和三山のひとつ。
持統が藤原不比等とともに建てた藤原京からは
東南の位置に見えたはずだったが、その
藤原京に都を遷したのは、伊勢行幸の2年後、
持統8(694)年のことだった。よって
この和歌は、それ以降の作と考えるのが自然だ。

その3年後、持統は孫の軽王(文武天皇)に譲位して
上皇となった。天香具山に干された白妙は、孫の即位式
となる践祚大嘗祭の神衣だったのではないだろうか。
持統は神衣を纏う天照大神に自身を重ねた。
 夏、天香具山に翻った白妙は、冬、我が衣になるのだ。

何日か前、語り部が言った。

「私が若い頃、神女おばあが、こう言ったのです。
御天母親加那志(うてぃんははうやがなしー)は、
御星親加那志(みふしうやがなしー)ともいって、
星々(北斗七星)を産むお母さんなんだよと。
後に瀬織津姫とか、弁財天と呼ばれる女神です。
御天父親加那志(うてぃんちちおやがなしー)は、
ヤマトで天御中主神と呼ばれる太一のことです」

太陽と月と星々。ヤマトでは、太陽信仰のもと
掻き消された月星への信仰は、琉球では生きていた。


ところで、
『人麻呂の暗号』(1989年)で著者の藤村由香氏は、
持統時代の柿本人麻呂の万葉集歌に新解釈を加えた。

くしろ着く 手節の崎に今日もかも 大宮人の玉藻刈るらむ
↓ ↓ 
かんざしを着けた女たちを今日もまた
大宮人たちは刈る。まるで玉藻を刈るように。

持統のお供らは、女たちを玉藻を刈るように刈った
事実を人麻呂は告発したのだと、藤村氏は読んだ。

持統が「女たちを刈った」理由はここではさておき、
玉藻を刈るとは、和布刈(ワカメ採り)のことである。
玉藻は月の引力がつくる干潮のときに刈るものだ。
新月で月は見えない代わりに、星々は大きく輝く。

天照大神に自身をなぞらえても、月星と共に生きる
女たちを抹殺しても、月星そのものは消えないのにと、
人麻呂は言いたかったのではないか。
そして、流罪となってしまったのかもしれない。

☆☆☆

午前3時、本殿ではワカメを奉納する神事が始まった。
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by utoutou | 2017-01-29 08:51 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)
Commented by カイト at 2017-02-27 22:05 x
持統天皇が呪詛の使い手だったというのは本当だと思いますか?
Commented by utoutou at 2017-03-01 13:15
> カイトさん
こんにちは。呪詛というか、陰陽五行や易を駆使した呪術の使い手だったと思います。天武天皇や草壁皇子の死、その埋葬の仕方など、事々に呪術の様相が込められているようです。31回に及ぶ吉野行幸は、吉野が午(南)の方向で象意が「天」なので天との合一を計ってのことだろうと、吉野裕子さんも著書『持統天皇』で書いておられました。  
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